第二回 アウグスティヌス 「告白」 1
今日は。これから3回にわたって、アウグスティヌスのお話をしたいと思います。
初めに、彼が生きた時代を見てみましょう。
アウグスティヌスは354年に、北アフリカのタガステ(現在 アルジェリアのスーク・アフラース)に生まれました。北アフリカというと現在ではイスラム文化圏に属していますが、当時は違いました。ローマの支配は北アフリカにもおよび、地中海はローマ領に囲まれた「私たちの海」mare
nostrumと呼ばれました。彼が生まれたタガステから150キロほど離れたかカルタゴは、ポエニ戦争で滅ぼされたものの、再建されて、当時のローマでも有数の大都会でした。
アウグスティヌスが生きた時代は、ローマ帝国末期の大混乱の時期でした。
彼の各年齢にローマ史ではどのようなことが起こったかを列挙してみましょう。
21歳 375年 ゲルマン民族の大移動開始
41歳 395年 テオドシウス帝が没。ローマは東西に分裂。
以後、ローマは二度と統一されることはありませんでした。
56歳 410年 アラーリックの率いる西ゴート族がローマを略奪
roma aeterna(永遠のローマ)と呼ばれたローマ市が略奪を
うけたことは衝撃でした。西ローマの滅亡は476年とされますが、
精神的には、ローマはこの年に滅亡したともいわれます。
75歳 430年 ヒッポの司教であったアウグスティヌスは75歳で亡くなりましたが、
その時ヒッポの町はゲルマン民族の一派であったヴァンダル族に包囲
されていました。アウグスティヌスの死後、ヒッポの町は陥落し、
ローマ文化の陽がまた一つ消えました。
この様なローマ帝国末期の混乱期がアウグスティヌスの生きた時代でした。
キリスト教の歴史からみると、アウグスティヌスは教父と呼ばれます。もともとキリスト教は貧しい人々の間で生まれた宗教であり、思想でも哲学でもありませんでした。しかし、キリスト教が人々の間に広まり、ある程度の勢力になってくると、批判を受ける機会も多くなってきました。そのような批判に対して、キリスト教を守るためにもギリシア哲学を使いながら、キリスト教の教義を確立していった人々を教父と言います。そのような教父のなかで、アウグスティヌスは「最大の教父」評価されています。しかし、僕たちがここでアウグスティヌスを取り上げるのは、教父としてのアウグスティヌスではなく、「告白」の著者としてのアウグスティヌスを取り上げてみたいからです。
アウグスティヌスは初めからキリスト教徒ではありませんでした。彼はさまざまの精神的遍歴をへて回心を体験してキリスト教徒になり、後にはキリスト教の司祭になりました。そして日曜日ごとに教会で人々をまえにキリスト教のお話をしました。そのおり、信者たちのなかから、アウグスティヌスが昔はキリスト教徒ではなかったのに、どの様にしてキリスト教徒となったのか、そのことを私たちに聴かせて欲しいとの希望がありました。その要請に応じて、アウグスティヌスが筆をとったのが「告白」という作品です。したがって、「告白」はアウグスティヌスによる自伝です。しかし、それは単なる自伝ではなく、彼がキリスト教徒になるまでの歩みに焦点が合わされた自伝といえます。キリスト教は宗教ですから、理性では全て解明できないものだと思います。しかし、キリスト教とは何かはわからなくとも、人間に現れたキリスト教、つまり人間がどの様にキリスト教を了解したかということはある程度はわかると思います。まして、アウグスティヌスほどの人物が自分自身の過去を顧みて、自分がどのようにしてキリスト教に入ることができたのだろうか、キリスト教とは何だったのだろうと問いかけた「告白」という作品を読み解くことは、キリスト教の本質的な部分に触れることになるのではないか。古来、実に多くの人々がアウグスティヌスの告白を論じてきたのは、そのような想いからではなかったでしょうか。ここでのお話も、その様な試みの一つでありたいと思っています。
母モニカ
アウグティヌスは354年 北アフリカのタガステで、母モニカのもとで生まれました。父は異教徒でしたが、モニカは敬虔なキリスト教徒で、アウグスティヌスが幼い頃から、聖書の話、キリストの話を子守唄がわりにアウグスティヌスに聞かせました。アウグスティヌスはそのことを、「私は生まれ落ちるとすぐに、母の乳房からキリストを吸い込んだ。」と表現しています。モニカの影響は絶大で、小さい頃激しい胃痛になった彼が、幼心にキリスト教の洗礼を受けたいとモニカに言ったそうです。もっとも、長じるにしたがって、アウグスティヌスはキリスト教から離れていきました。しかし、自分が本当に苦しい時に、キリストにすがろうとするようなメンタリティーはモニカの影響と言えるでしょう。
6歳から初等教育を受けましたが、「告白」ではそのころのことにはあまり触れていません。学校にはあまり良い思い出はなかったようで、先生は厳しかった、鞭でたたかれたなどと回想しています
13歳で、アウグスティヌスは両親のもとを離れてマダウラへ行き、中等教育をうけることになります。彼の家庭は決して裕福ではありませんでしたが、息子の将来のために中等教育を受けさせることができるほどの資産はあったのでしょう。
彼はそこで様々な文学作品に出合います。特にヴェルギリウスのアエネイスを愛読しました。文学少年であった彼は、当時を振り返って「当時の私は、愛することと愛されることamare
et amari 以外の何も望まなかった」と表現しています。
その後、経済的に続かなくなり、アウグスティヌスは故郷のタガステにもどり、一年間休学となります。アウグスティヌスは言及していませんが、おそらく成績も群を抜いていたと思われます。勉強の道がとざされたアウグスティヌスの生活はみだれました。仲間と一緒にいろいろと悪いことをした。近くの家の李を盗んだ。それが欲しかったからではなくて、盗むこと自体が面白くて盗みをしたと告白しています。
16歳のアウグスティヌスに転機がおとずれます。彼の同郷の篤志家であるロマニアヌスが彼の才能を惜しんで高等教育をうけるための援助をしてくれたのです。学びの場は当時北アフリカで最大の都市カルタゴ。そこでアウグスティヌスは修辞学を学びました。修辞学とは、美しい文章を綴ったり、説得力のある話をしたりする技術です。丁度一昔前の教養のある日本人が、漢文などの古典の言葉を引用して、気の利いた文章を綴ったように、美しい文章、説得力ある話を展開することをめざしたものでした。古代ギリシアでは弁論術が政治に参加するために必要な道具でした。それと同じように、家庭的にも裕福といえなかったアウグスティヌスにとって修辞学は世に出るための必修の学問だったのでしょう。修辞学を学んだことは彼に大きな影響をあたえました。しかし、それ以上に大きなことは、ローマでも有数の大都会に彼がやってきたことです。13歳のときから、「私は愛することと愛されること以外の何も望まなかった」と告白しているアウグスティヌスにとって、カルタゴはあまりに魅力的、誘惑的な都会でした。歓楽街もにぎわっていたでしょう。「私はカルタゴへ、欲望が煮えたぎっているサルタゴ(大釜)へとやってきた」と当時をふりかえっています。18歳で同棲生活に入り、19歳でアデオダトゥスという息子がうまれることになります。アウグスティヌスは当時を振り返って多くの罪を犯した、と告白しています。
しかし、客観的にみると、彼は決して放蕩生活をしていたとは思えません。後に修辞学の教師として身をたてることになる彼は、学問についても努力していたのだと思います。ただ、カルタゴに出てきて、一人の女性とであって恋におちた。社会的・身分的に結婚はできなかった。のちに母モニカによって引き離されたとき、その女性は「二度と男の人とは合わない」と言って彼のもとを去っていきました。アウグスティヌスは私の心臓は破れ血が流れるようだったと、当時を振り返っています。アウグスティヌスの放蕩ぶりを強調しすぎることは問題でしょう。
真の幸福を求めて
アウグスティヌスは19歳の時に、キケロの「ホルテンシウス」という作品にであいます。アウグスティヌスがこの作品を読んだのは、キケロがラテン語の形成に大きな影響を与えた人物であり、修辞学の学生としてはその文章は必修であったためでしょう。この作品自体は現在では散逸してしまって直接読むことはできませんが、大方の内容はわかっています。ギリシアではプラトン、アリストテレス以来の伝統で若者を哲学(知への愛)へといざなう「プロトゥレプティコス」という伝統がありました。キケロの作品はそのようなギリシア哲学の伝統を踏まえてたものでした。アウグスティヌスはキケロのこの作品によって刺激をうけ、幸福になるためには、むなしい欲望を捨てて知恵を求めようと心に決めました。アウグスティヌスの精神の遍歴はここから始まります。
アウグスティヌスが初めに向かったのは聖書でした。幸福になるための知恵というときに、すぐ聖書を思い浮かべたことも、モニカの影響でしょうか。しかし、彼は聖書にはすぐに失望してしまいます。一つには、修辞学を学んでいたアウグスティヌスにとって、キケロの格調高いラテン語に対して聖書のラテン語があまりに粗雑であったということです。「キケロのラテン語が大人の言葉だとすると、聖書のラテン語は言葉を覚え始めたばかりの幼児のたどたどしい言葉だった」と彼は書いています。しかし、それ以上にアウグスティヌスにとっては旧約聖書がネックとなりました。アウグスティヌスには、旧約聖書には疑問に思うこと、わからないことが多くありました。そこで彼は当時北アフリカある勢力になっていたマニ教に足を踏み入れていきました。このマニ教にアウグスティヌスは20歳から9年間とどまることになります。マニ教についてはわからないことが多いのですが、アウグスティヌスほどの人物を9年間もとどめていたマニ教とは何だろうかを、次回に考えてみたいと思います。
やがてマニ教に関しては疑問に思うことも多く出てきましたが、マニ教と完全に決別することはできませんでした。そのころから、アウグスティヌスは多くの本を読み始めます。最後には占星術にまで手をだしました。しかし、いくら本を読んでも、自分が18歳の時から求めてきた幸福になるための知恵に巡り合いませんでした。やがてアウグスティヌスはギリシアの懐疑学派に出合います。懐疑学派によると、人間の知識の源泉は感覚にある。しかし、感覚は人によって異なり、感覚に由来する知識は誤謬のもととなる。例えば、水の入ったコップに箸が入っているとすると、箸は曲がって見えます。しかし、「箸が曲がっている」と判断するとそれは誤りなります。そもそも人間の苦しみは人と人との意見の違いが争いを生み、その結果心の平安が乱されることになります。心の苦悩を避けるためには、判断を中止しよう。懐疑学派はそのように考えました。懐疑学派との出会いは、アウグスティヌスに深い動揺を与えました。人間は確実な知識を得ることはできない。まして彼が19歳の時のキケロとの出会いから目指した「人間を幸福にする知恵」など絶望的だと彼は思ったでしょう。キリスト教に改宗したのちに、アウグスティヌスは「アカデミア派論駁」という作品で、懐疑学派を批判しています。懐疑学派が言うことを認めて、人間は判断をすると誤るとしてみよう。しかし、判断をして誤るとするならば、そう判断して誤っている私が存在することは確かだ。「誤るとするなら、私は存在する」si
fallor sum。このことは確かだ。少なくとも人間は確実な知識はも存在しないというのは誤りだ、と主張しました。
ミラノへ アンブロシウスのもとへ
アウグスティヌスが30歳の時、彼はミラノの大学の修辞学の教授としてミラノに赴きました。母のモニカも息子を追ってミラノにやってきました。ミラノの修辞学の教授となったことで、彼は社会的にも大きなキャリアを歩みはじめるはずでした。しかし、そうはなりませんでした。彼の運命を大きく変えたのは、ミラノでキリスト教の司教であったアンブロシウスとの出会いです。修辞学の教授としてミラノに赴任したアウグスティヌスに、当時ミラノの司教をしていたアンブロシウスの評判が耳に入りました。「ミラノの司教のアンブロシウスは説教がうまい」。説教がうまいと聞くと、修辞学の教授であったアウグスティヌスは放っておけません。アンブロシウスとは一体どんな人物だろうか。もしかしたらどのようにして人々をごまかしているのだろうかと思ったかもしれません。アウグスティヌスは言わば敵情視察のように、毎日曜日、アンブロシウスが話をする教会に通い始めました。しかし、「ミイラとりがミイラになった」とでもいうのでしょうか。アウグスティヌスは次第にアンブロシウスが語る話の内容に引き込まれていきます。アンブロシウスは人々に、アウグスティヌスがわからなかった旧約聖書の話をしました。旧約聖書は文字通り受け止めるのではなく、その中に意味が込められている。日曜日ごとに、アンブロシウスは人々の前で、旧約聖書に込められた意味を解きほぐしていきました。アンブロシウスとの出会いによって、アウグスティヌスはキリスト教に対する誤解が解けていきました。もともと小さい頃の大病のおり、キリスト教の洗礼を望むほどモニカから影響を受けた彼でした。キリスト教への思いが急速に高まってきました。
同じころ、アウグスティヌスは「プラトン派の書物」に触れます。プラトン派といっても、プラトンの作品自体ではなくプロティノスの作品のラテン語訳を通じてですが、当時の人々はそれをプラトン派の人々(platonici)の本と呼んでいました。ミラノに来て初めて、アウグスティヌスは、ラテン語だけでなく、ギリシア語にも精通し、ギリシア語の文献を読むことのできる知識人たちに出合うことになりました。アンブロシウスもそのような知識人の一人でした。
アウグスティヌスは「プラトン派の書物」から二つのことを学びました。一つは、内面への道とでもいえるでしょう。永遠にとどまることのない変化する事物の中に、つまり自己の外に、幸福をもとめていくことによって、自分が分散し自己を見失うなということです。「外へ行くな、汝自らの内へ帰れ。内なる人間の中に、真理は住みたもう。(noli
foras ire, in te impsum redi. In interiore homine habitat veritas」「変化することをまぬがれないmutabiles事物」を追い求め自己を見失うな。自分自身のうちに戻れ。そしてそれすらも頼りにならない(可変的mutabilis)であることを思い知ったら、自己自身をも超越せよ。アウグスティヌスのいわゆる「内面の道」です。
プラトンから学んだあと一つは、プラトンの「イデア」の哲学に見られる精神的存在の発見です。アウグスティヌスは「プラトン派の書物」に促されて自己の内面へ沈潜し、精神の目でのみ見ることのできる不変の光を見た、と告白しています。
プラトン派の書に促されて、自己の内面に向かい、光を見たと告白したアウグスティヌスは、キリスト教が分かったと言っています。これはどういうことでしょうか、しかし、そのことだけで彼はキリスト教に入ることができませんでした。次回にこのことについて考えてみたいと思います。
回心
キリスト教についての疑問もなくなり、アウグスティヌスは母モニカを通じて幼いころから親しんできたキリスト教に急速に接近していきました。キリスト教の神に対する疑念はなくなり、知的には納得したはずでした。しかし、「知っている」ということと「それを生きる」ということは違います。当時のキリスト教では、洗礼を受けることは大ごとで、一旦受洗したならば、二度と罪を犯すことはいけないという考えもあったようです。だから、人々のなかには洗礼を受けることを引きのばす人も少なくなかったようです。特に「告白」の中でアウグスティヌスも触れているように、性的な欲望を捨てきれないとの思いも、彼の決断を躊躇させる要因としてありました。しかしそれ以上に、心のもっと深いところで、キリスト教に飛び込むことで自分自身が失われるような不安があっただろうと思います。激しい精神的葛藤のを経て、ミラノの郊外の友人の別荘で、劇的な回心を体験します。アウグスティヌス、32歳の時でした。
回心の後、彼はミラノの修辞学の職を病気を理由に辞し、受洗のための準備をし、尊敬するアンブロシウスから洗礼をうけました。その後、帰国を決意しますが、その途中で、オスティアという港町で母モニカが亡くなりました。モニカの死をめぐる「告白」の第9巻末は印象深い美しい描写です。母モニカの生涯に触れつ描かれたこの部分は、母モニカと父パトリキウス魂の平安を願う彼の祈りであり、父母にささげるレクイエムです。モニカの死をもって「告白」の自伝的部分は終わります。
以後は、静かに祈りと思索の中で生活をおくるつもりでした。しかし、37歳の時に、彼は強い要請をうけて司祭となりました。その後の彼は、司祭としての生活を送りながら、さまざまの問題にあたり、またキリスト教を守るために、さまざまの論争にかかわることとなります。その結果キリスト教の教父として揺るぎのない地位をきずくことになりました。430年、彼は司教をしていたヒッポの町で75歳で生涯を終えました。
次回から2回に分けて、マニ教、プラトン派、回心の三つのテーマを考えることで、アウグスティヌスにとってキリスト教は何であったのか考えてみたいと思います。