第2回 人間はポリス的動物
~古代ギリシア人の世界~
これからしばらくの間、古代ギリシアの哲学の紹介をしたいと思います。その前提として、古代ギリシアの世界がどのようなものであったのかという歴史的背景を、最低限度はふまえておきたいと思います。歴史が嫌いな人は、すこし不満かもしれませんが、「歴史を知らない人をインテリとは呼べない」という言葉があります。(僕が今つくりました)。世界史の時間ではありませんから、ギリシアの歴史について、常識的なことはわきまえていると思う人は、今回の話は不要です。第3回に進んで下さい。
ギリシア人は、BC2000年頃から、地中海世界に進出を始めました。その後、ギリシア人たちがどのような活動を展開したかは、はっきりしません。ホメロスによって伝えられた伝説や神話は、何らかの歴史的事実にもとづいているでしょう。とにかく、BC8世紀ころに、ギリシア本土だけでなく、地中海沿岸に、ポリスと呼ばれる独特の都市国家が多く成立しました。古代ギリシア人にとって、このポリスこそ、人間にとってなくてはならないものであり、古代ギリシアを理解するには、このポリスを知ることが不可欠といえるでしょう。
一般に、ポリスにはその中心にアクロポリス(高いポリスという意味)と呼ばれる小高い丘があり、そこにはポリスの守護神を祭る神殿がありました。アテネの場合は、女神アテーナが守護神であり、アテーナを祭る神殿がありました。アクロポリスは、ポリスにとっての精神的な中心であり、戦いの時は、最後の砦でもありました。アクロポリスの麓には、アゴラと呼ばれる広場があり、市民の生活に欠かせない市場や公共の建造物が並んでいました。ソクラテスが人々と対話を行ったのも、多くはこのアゴラにおいてでした。また、ポリスは外的の侵入に備えて、城壁で囲われていました。このように、多くのポリスは、アクロポリス、アゴラ、城壁を備えていましたが、唯一の例外はスパルタでした。スパルタには城壁はありません。市民自身の軍事的力を自負していたスパルタにとっては、「人は城」と考えた武田信玄と同じく、兵士こそ、もっとも堅固な城壁と考えていたためでしょう。古代ギリシア最大の学者であったアリストテレスによると、このようなポリスは、ギリシア本土では158、植民地をいれると、1000ほどあったということです。また、理想のポリスとは、一箇所に集まって、一人の雄弁家の演説が届く程度とされました。実際、アクロポリスの頂上に立てば、そのポリスの領域ばかりではなく、隣のポリスすら、間近に見られる程度でした。市民権保有者数が2000人を超えるのは稀でした。その意味では、アテネとスパルタは例外的な巨大ポリスでした。ポリスの精神は、自由、自治、自給自足でしたが、自給自足を達成することは、難しかったようです。このポリスを担ったのは、自由人の成年男子であり、彼らはホプリテース(重装歩兵)としてポリス防衛の要となりました。
このようなポリスの精神が確立するきっかけとなったのは、BC5C.前半のペルシア戦争でした。ヘロドトスは、この戦争を「自由と奴隷」の戦いとして描写しました。当時のペルシアは、東方の大帝国でした。ギリシア人が「ペルシア大王の生活」と言う時、それは何不自由のない、この上もなく贅沢な生活、という意味であり、ペルシア帝国は、ギリシアをしのぐ経済力を誇っていました。しかし、ペルシアでは、自由人はペルシア大王ただ一人であり、後はすべて奴隷である。それに対して、ギリシア人は、貧しいかもしれないが、自由人である。したがって、この戦いは、奴隷と自由の戦いである。もし、この戦いに敗れれば、ギリシアの兵士ばかりか、彼らの夫人も子どもたちも、奴隷に落とされる。その意味では、この戦いは自由のための戦いである。このような意識のもとに、ペルシア戦争は戦われました。この戦いでは、アテネもスパルタも協力して戦い、数々の伝説的な戦いが展開されました。アテネの重装歩兵は、マラトンでペルシア軍と激突し、ペルシア軍の侵入を阻止しました。その結果を固唾を呑んで待っていたアテネの市民たちに、伝令は、42.195キロを走り続けて、アテネの勝利を告げ、息絶えたということです。オリンピックのマラソン競技の始まりとなった、マラトンの戦いです。その10年後、装備を整えたペルシア軍は、再びギリシアへと侵入を試みました。ペルシアの大軍の侵入をふせぐために、テルモピュライの天険で防戦したスパルタ王レオニダスは、部下の300名の兵士とともに、壮絶な死を遂げました。“旅人よ、ラケダイモン(スパルタ)人に伝えよ、ここに、彼らの命に従いてわれら眠ると”シモニデスの詩(と考えられている)に歌われたテルモピュライの戦いです。ペルシア軍は侵入を続け、ついに、アテネもペルシア軍の手に落ちました。アクロポリスの神殿も炎上しました。しかし、アテネの命運を船の戦いに賭けるとのテミストクレスの提案を受けて、戦うことのできるアテネの男たちは、船に乗り込みました。サラミス海峡でペルシアの軍船に対して、アテネの市民は勇敢に、また、戦略的に秩序だって戦い、ペルシア海軍に打撃を与えました。世に言うサラミスの海戦(BC480年)です。このような戦いを経て、ギリシアは独立を守り、ペルシアを撃退することに成功しました。
ペルシア戦争の勝利の後、アテネを中心に、ギリシアのデモクラティア(民主制)が開花しました。元来、ギリシアのポリスは戦う市民の共同体という性格をもっていました。ペルシア戦争以前、戦いの主流は、ホプラと呼ばれる盾を自前で用意して、ホプリテース(重装歩兵)として、軍列に参加する市民でした。彼らは祖国の防衛者として、政治的発言力をもっていました。しかし、ペルシア戦争では、武具を自分で調達できない無産市民も、三段櫂船のこぎ手として、サラミスの海戦の重要なメンバーとなりました。そのためペルシア戦争後は、無産市民の発言力が増大しました。このような事情を背景に、戦後のアテネでは、ペリクレスを指導者として、支配するものと支配されるものの差をなくす、徹底した民主制が実現していきました。ギリシアの古典文化は、このアテネの繁栄の上に開花することになります。
ギリシア人はポリスの枠を越えて、同じ民族として領域国家をつくることは、決してしませんでした。ポリス同士は、絶えず争いをくり返しました。しかし、そのような彼らにも、ギリシア人としての同胞意識がなかったわけではありません。彼らはギリシア語を話すという点で、共通の民族という意識はありました。彼らは自らをヘレネス(ヘラスに住む者たち)と呼び、周辺の民族をバルバロイ(わけの分からない言葉をババババとしゃべる人々)と呼びました。オリンポスの神々に対して、彼らは共通の信仰をもっていました。またオリンポスの12神の頂点に立つゼウス大神の聖域であるオリンピアでは、4年に一度、ポリスの名誉をかけて、競技会がもよおされました。この競技の期間中は、ポリスは戦争中であっても、いったんは休戦をしたと言われています。また、デルポイのアポロン神殿の神託も大切なもので、デルポイは共通の信仰の地として、多くのギリシア人がその神託を伺いに、デルポイを訪れました。このデルポイのアポロン神殿の神託は、ソクラテスの運命を変え、その結果、哲学の方向性に、決定的な影響を与えることになります。
ペルシア戦争の後、アテネを中心に全盛を誇ったギリシアのポリスは、BC5世紀末のペロポネソス戦争を経て、衰退へ向かいます。この戦争は、ギリシア世界の覇権をめぐるアテネとスパルタとの争いから、多数のポリスを巻き込む戦争となりました。歴史家のトゥキュディデスは、この戦いをその初めから克明に記述しています。この戦いは、全ギリシアを二分する戦いとなりました。長く続いたこの戦いの中で、ポリスは衰退していきます。海軍の力とペイラエイウスという港を確保しているアテネは、陸軍でまさるスパルタに対抗して、市民を城壁内に集める籠城作戦をとりました。しかし、その結果、城壁内で疫病が流行します。ペリクレスも疫病の犠牲となりました。このような中で、人々の精神は荒廃していきました。アテネの政治も混迷をきわめ、衆愚政治は、人々の心の荒廃をさらに助長する結果となりました。また、戦いに勝つために、ポリスの中には、ペルシアとも手を結ぼうとするものも現れ、ポリスが理想としてきた自由、自治の精神は失われていきました。このように、ポリスが衰退していく中で、ギリシアの北方のマケドニアが、不気味に勢力を拡大していきました。
マケドニアは、ギリシア語を話すギリシア人の国でしたが、ポリスを形成せず、王政を残した国でした。ポリスに住むギリシア人の中には、マケドニアのことを、ポリスも形成することのないバルバロイとみなすものが多くありました。マケドニアにどのように接するかでは、ギリシア人の間に意見の相違がありました。一つはイソクラテスに代表される考えで、ギリシア人同士の争いをやめて、マケドニアのもとにギリシア人が結集して、昔からギリシアに干渉を続けてきたペルシアを討つために、協力しようとするものでした。イソクラテスは、マケドニアの王のフィリポスに書簡を送り、ギリシアの統一とペルシア遠征を促しました。一方、デモステネスは、マケドニアをポリスの独立を危うくする敵とみなしました。歴史を振り返ってみると、イソクラテスが主張したように、ギリシアはマケドニアのもとに統合されて、アレキサンダー大王のもとに、ギリシア軍が東方遠征を行い、宿敵のペルシアを滅ぼしました。その限りでは、イソクラテスのほうが、歴史を見る眼があったといえるのでしょう。しかし、ポリス本来のありかたを考えるなら、自主独立を旨として、最後まで領域国家を形成しなかったギリシア人にとっては、マケドニアの下につくよりは、ポリスの独立を守ろうとしたデモステネスの考えの方が、より共感をいだかせるのもであったでしょう。BC338年、アテネ・テーベ連合軍はマケドニアの軍と激突しました。いわゆるカイロネイアの戦いです。この戦いに勝利したマケドニア軍によって、ギリシア世界に和平がもたらされました。そしてマケドニアによって統合されたギリシア軍は、アレキサンダーの指揮のもと、東方遠征を行うことになります。かくしてポリス中心の古典ギリシアの世界は終焉を迎え、以後はギリシア文化が東方へ広がり、ヘレニズム時代へと移行することになります。
最後に、古代ギリシアについての雑談を一つ。
僕は古代ギリシアの文化が好きで、暇があれば、そんな関係の本を読むことがよくあります。たまたま銀座の教文館で Sue Blundellさんのお書きになった Women in Classical Athens (古典時代のアテネの女性たち)という本をみつけました。印象的な内容だったので、引きこまれるように読んでしまいました。書き始めも印象的で、次のような内容の文章からはじまります。
紀元前447年に、アテネの中枢を支配していた聖なる丘の上で、聖なる丘とは勿論アクロポリスのことですね、ペルシア戦争の際に破壊されそのままに放置されていた神殿の建設が始められた。神殿が完成すると、その内陣には、高さ12メートルを超える女神の像が安置された。この神殿は、後にこの女神(パルテノス)にちなんで、「乙女の部屋」つまりパルテノ―ンと呼ばれるようになります。この女神アーテナは、全てのアテネの人々の崇拝の対象であった。しかし、女神が見下ろすアクロポリスの下に広がるアテネの社会では、女神への崇拝にもかかわらず、女たちは「結婚をして子どもを産む」ということ以外には、いかなる社会的役割もまた権利も与えられずに生活を送っていた。ペリクレスの言葉も印象的です。「女たちの最も偉大なる栄光は、いかなる場合でも、男たちの噂にのぼらないこと。それが、称賛であれ、非難であれ。」実際、男の子ならば6歳になると公の教育や訓練を受けることができるのに、女の子は家の中にとどめ置かれました。またほとんどの女性は14歳から18歳の間に結婚を強いられます。当時アテネで男性が結婚をするのは、大抵30歳頃であったので、ほとんどの女性は10歳以上年の離れた見ず知らずのおじさんのもとに嫁がされるというのが大部分のケースでした。それ故、結婚のセレモニーというのは、喜びよりも,悲しみや不安を基調とするものでした。とりわけ、花嫁が花婿の家へ向かう行進は、まさに死者を墓場へと送る葬送の行進と酷似しているということが指摘されます。著者自身女性として、古代のアテネに生きた女性たちへの愛情を心に秘めながらも、淡々と叙述しているところが印象的でした。
この本が印象的だったことは、その描写だけではなく、そこに描かれた女性達の境遇を思うと、いろいろなことを考えさせられるからです。
僕たち人間は、人によって様々の人生を歩むことになります。幸福な一生もあれば、悔いの残る生涯もあるでしょう。しかし、大きな目で見ると、ある社会の中で、人間が生まれてから死ぬまで、どのような人生を過ごすかということに関しては、ある流れというか、ライフサイクルのようなものがあるのだと思います。有名なものは、儒教の開祖である孔子様の言葉からくるものでしょう。晩年の円熟した境地にたっした孔子が、自己の過去を振り返って語る場面が「論語」の中にでてきます。「われ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして迷わず、五十にして天命を知り、六十にして耳したがい、七十にして己の欲するところに従って矩を越えず」という有名な言葉です。この孔子の言葉から、人間の年齢を表す言葉ができます。15歳を志学、30歳を而立、40歳を不惑 等々 ですね。「私はもう不惑の年になりました」というのは、「私ももう40歳になりました」という意味ですね。しかし、それは、単なる40歳ではなく、「不惑」という言葉が生きています。30代までは、人生に迷い悩んでもそれほど批判されることはありません。しかし、40を過ぎても中心がいつもブレたり、何かに心を奪われて判断力を失っていると、その年齢にふさわしいものを身につけていないと、ヒンシュクをかうことになります。つまり、孔子の年齢を表す言葉は、その年齢に身につけるべき内容をも意味しているわけです。
僕は昔から、この孔子の論語のこの箇所に疑問を持っていました。孔子さまは、何故、15歳の自分を振り返った後で、一足飛びに30歳まで行ってしまったのだろう。通常、僕たちの感覚では、20歳とか、世界基準では18歳が、子どもから大人への変わり目として意味をもつと考えます。しかしその後、色々な経験を重ねて、今では僕は、孔子様の考えには意味があるのだと思うようになりました。やはり、人間は30歳ころが一つの区切りになるのだろうと思います。僕自身のことを考えても、20代には悩みや迷いがいっぱいでした。30をすぎても、また年齢をかなり重ねた現在だって、悩みや迷いはなくなりません。でも「自分は、このように生きていくか」との決意というか、人生に対するスタンスのようなものができあがってきたのは、30歳を過ぎた頃からでした。それでは何故、18歳や20歳が大人になる年齢とされるのでしょうか。それは単純なことです。そのころに肉体的に大人と同じように成長するということ。つまり兵役を課することができるように、或いは他の労役や税を課すことが出来るようになるという理由からでしょう。だから、人間が一人前になるのは、やはり、少なくとも30年という年月が必要なのだと思います。
何が言いたいのかというと、そのような人間が人間となっていく本当に大切な時期を、古代アテネに生きた女性達は、何の教育も受けることができずに、あらゆる可能性が奪われるという状況におかれていたということです。僕は長年女子校に勤めていたので、特に強く感じるのかもしれません。皆さんは、そのような厳しい状況に置かれていません。皆さんは、好きなときに、好きなことを勉強することができます。自分は何になろうかということも、そのためには何を学んだらよいかとも、考えることができます。しかし、そのような状況は、実は、歴史的にはまれなことでした。ごく限られた人々にのみあたえられたものでした。過去の人たちは、いや、現代だって、貧しい国々の子どもたちは、学校に行きたいという望みですら、実現の可能性が極めて少ない状況、つまり、古典ギリシア時代のアテネの女性たちと似た状況に置かれています。勿論、皆さんにも悩みはあるでしょう。しかし、もし、皆さんにあたえられている状況が奪われたら、皆さんの悩みは無くなるか、又は、形をかえたものとなるでしょう。だから、皆さんのおかれた状況は、本当に貴重なものです。頑張って勉強して下さい。勉強をするということは、数学や英語や社会を理解して自分のものにするということだけではありません。自分自身に問いかけることです。私は何だろうか、今の私でいいのだろうか。又は、自分は今何をしたらいいのだろうか。そして、その答をもとめて考え、また信頼できる友人の意見に耳を傾け、考えることです。また、過去の人たちはどのように考えたのだろうかと、本を読み、問いかけることです。一度しかない皆さんの人生です。どうか、スケールの小さい勉強ではなく、大きな勉強をして下さい。
大分脱線をしてしまいました。しかし、前回言ったように、「考える葦」として、これから一緒に、過去の思想かの足跡を追って考えてみたいと思ったので、あえて脱線をしました。次回からはギリシアの哲学のお話になります。
第3回 フィロソフィアのアルケーを求めて
~神話から哲学へ~
「光は東方より」 エクス オリエンテ ルクスex oriente lux というローマの諺があります。オリエントとは、ラテン語のorior
つまり(陽が)昇る と言う動詞の現在分詞からつくられた言葉で、太陽の昇る方向(東)という意味です。つまり、光は太陽が昇る東から輝くという意味です。地中海を征服したローマですが、高度に洗練されたギリシア文化に驚き、そこから多くのことを学びました。そのことをex
oriente luxと表現したのです。つまり、日が昇る方向である東は、ローマ人にとっては、ギリシアを意味していました。しかし、考古学の成果が上がるにしたがって、ギリシアよりもさらに東側のエジプト、メソポタミア地方の文明の詳細が明らかに、ギリシア文化も、これらの人類最古の文明からの影響を受けていることが分かってきました。今では(古代)オリエントと言えば、メソポタミア・エジプトを中心とした中東の地域をさしています。
この章では、ギリシアにおける哲学の始まりのお話をしたいと思っています。ギリシア哲学というと、ソクラテス、プラトン、アリストテレスという人たちが活躍したアテネが中心と思い勝ちです。しかし、最初に哲学を始めた人々は、ギリシア本土の人々ではありませんでした。哲学の始まりはタレースからと言われますが、彼はミレトスの出身です。ミレトスは、今の小アジア半島であるアナトリアの西、エーゲ海沿岸の都市です。アナトリアは古代オリエントの中心ともいえるエジプト、メソポタミアとも交流があり、ミレトスはギリシア人によってイオニア地方に建設された諸都市の中で指導的な役割を果たし、通商も盛んな都市でした。それ故、イオニア地方は、当時のギリシア世界の先進地域でした。タレースは日食を予言したと言われます。オリエントで発達した天文学を身につけていたのでしょう。哲学は紀元前6世紀にミレトスのタレースから始まったといわれます。この章では、そのことにつて考えてみたいと思っています。
ところでこの写真を見てください(画像は著作権の問題もあり省略します)。世界遺産となっている法隆寺の百済観音です。この観音像を観ると、口元に微笑を浮かべているのがわかります。この微笑を“アルカイック・スマイル”といいます。“古式の微笑”
と言うのでしょうか。このアルカイック・スマイルは、ギリシアと関係があります。ギリシア史でペリクレス時代の前5世紀後半以降を、古典期といいますが、それ以前をアルカイック期と呼びます。このアルカイック期の彫刻のクーロス(青年像)やコレー〔少女像〕は、口元に微笑をたたえているものがありますが、この微笑をアルカイック・スマイルといいます。やがてアレキサンダーによってギリシア文化が東方に広まり、ヘレニズム時代が開幕しますが、この時期に、ギリシア文化はインドの仏教と接することになります。その結果、ギリシア彫刻と仏教が融合して仏像が誕生しました。やがて仏教が広まり、中国からさらに朝鮮を経て日本に伝播すると、仏像も日本にやってきました。その仏像は、口元に微笑をたたえています。仏像の微笑みと、ギリシアのアルカイック期の微笑が、直接関係あるとはいえないかもしれません。ギリシア古典期の彫刻には、この微笑はすでに消えていますし、インド西北部まで伝わったギリシア美術は、古典期というよりはヘレニズム期のものです。仏像の微笑は、菩薩や仏の衆生に対する慈悲の心を表しているのでしょう。でもとにかく、仏の像を刻むことがなかったインドに仏像が誕生したのは、ギリシア彫刻の影響があったことは否めないと思います。仏像の意味については、いずれ紹介したいと思います。今、この観音像を紹介したのは、ギリシア彫刻と仏像の関係を考えるのではなく、アルカイックという言葉に注目したかったからです。
アルカイックは、ギリシア語のアルケーという言葉から派生したものです。このアルケーという言葉は覚えてください。ギリシア哲学には深い関りのある言葉です。このアルケーという言葉は、“始め”という意味です。新約聖書のヨハネの福音書は、“始めに言葉があった。”で始まりますが、この“始め”はアルケーという言葉です。そこからアルケーは“ものの始まり”“始源”という意味になります。そこからさらに
archaic は“始源の”、“古い”という意味になります。archaeology は“考古学”になります。また、そこから、アルケーは“原理”という意味にもなります。英語の
principle という語も同じです。もともとは始まりという意味が、原理という意味になりました。アルケーという言葉は、“始まり”であるとともに、“根本原理”を意味します。
前置きが長くなりました。この章では、ギリシア哲学のアルケーを、皆さんと一緒に考えてみたいのです。つまり“哲学の始まり”を考えることを通じて、そもそも哲学とはなんだろうかということ、つまり、哲学の“原理”を考えてみたいと思っています。
本題に入る前に、予備知識をいくつか。
哲学とはギリシア語で ピロソピアphilosophia (英語のphilosophy) と言います。Philo とは“愛する”という意味です。フィラデルフィアphiladelphia
は兄弟(adelphos)愛、フィロロジーphilology は、言葉(ロゴス)を愛するという意味から、言語学を意味します。面白いのは philodendron
という言葉です。初めてこの言葉に出会ったとき、なんだろうといぶかしく思いました。dendron はギリシア語で“木”ということはわかるのですが、辞書で引いてみたら、なるほどと思いました。木に巻きつくツルをもつ、ツタ科の植物を意味していました。sophia
は知恵を意味します。上智大学は英語では sophia university と言います。つまり、philosophia とは知恵を愛する、知りたいという心、愛智を意味します。
ギリシア人の学問性について。ギリシア人は自由な市民として、労働の多くは奴隷にさせていました。彼らは、余暇をスコレーと呼び、自由人の証として大切にし、また余暇(スコレー)を持てることを誇りとしていました。ちなみにスコレーとは、英語の学校(スクール)の語源になります。暇人でないと学校にいけないというのでしょうか。ギリシア人は、自由人としてスコレーを使って、実用を離れた知的好奇心を満たそうとしました。例えば
、geometry (幾何学)という言葉があります。geo とは大地、metry は測る、つまり geometry とは、測地術を意味していました。エジプトやメソポタミア文明、つまりオリエント文明には、ピラミッドやジグラットのような正確な測地術にもとづく建造物があります。しかし、ギリシア人は測地術をオリエントから学びながら、実用を離れて、純粋の図形を対象とする幾何学をつくりだしました。このような点に、実用を離れて学問を好んだギリシア人の学問性が現れていると言われます。
本題に入ります。
哲学は紀元前6世紀に、古代ギリシアのタレースから始まったと言われます。
そもそも哲学の祖をタレースとするのは、アリストテレスの説です。アリストテレスは、哲学の始まりについて、タレースからとしています。一方で、アリストテレスは「哲学は驚きから始まった」と言っています。僕は、倫理の授業で教壇に立つときに、よく思うことがあります。僕たち人間の一生は、高々100年に満たない短いものです。人類の歴史と比べると、ほんの瞬間にすぎないでしょう。まして、地球の歴史、宇宙の歴史から考えると、本当に微々たる瞬間です。僕たちは、本当にわずかの瞬間を生きています。そして、教室ですわって授業を受けている生徒の皆さんも、ほんの瞬間を生きているはずです。でも、途方もない時の流れの瞬間を生きている僕たちの“瞬間”が重なって
、今ここに、同じ時を共有して生きていること、これは僕にとっては本当に不思議なこと、“存在することが不思議”という意味で“ありがたいこと”です。本当に不思議だと思います。この本当に不思議だと思う驚きが、“これは一体何だろう”と問う哲学の始まりだというのです。そして、古代ギリシアの人々にとって、不思議に思い、また驚きの対象となったのは、自然でした。大自然は不思議です。広大な宇宙。北極星を中心に展開する星々の雄大な運行。時には自然は、人間にとって脅威となります。激しい嵐になれば、人間は嵐が過ぎ去るまで、じっと耐えるしかありません。でも自然は、人間にさまざまの恵みをもたらしてくれます。この大自然の神秘、不思議が、ギリシア人にとってはどうしても知りたいことでした。
それでは自然に対する驚きがあれば、それで哲学といえるか、といえばそうではありません。大体、人間が生きている以上、さまざまのことに驚くことは当然のことでしょう。まして、人間の力を越えた自然、宇宙への驚きと、それを知りたいという気持ちは、哲学に限らず、またギリシア人に限らず、どの地域でも人間は持ち続けてきました。“神話”とは、このような人間の自然に対する驚きと、その驚くべき対象を知りたいという人間の心が作り出したものだといえます。ギリシアには、ホメロスやヘシオドスによって伝えられたギリシア神話があります。例えば、大海原が荒れれば、それは海神のポセイドンの仕業、雷鳴はゼウス大神の怒りと、神話は語ります。神話に登場する多くの神は、自然の力を神格化したものといえます。
神話も、自然に対する驚きから、それを知りたいと思う気持ちから、成り立ったものです。それでは、神話と哲学とはどこが違うのでしょうか。哲学の始まりと言われるタレースの言葉を見てみましょう。彼は「万物のアルケーは水」と言いました。タレースは決して唯物論者ではありません。彼は一方では「万物は神々に満ちている」と言っています。でも、この神秘的な自然を解明するときに、タレースは、ゼウスやポセイドンのような神々を持ち出しませんでした。神々は、人間にとって知ることのできないもの、僕たちにとって隠された分からないもの、信じるか信じないか、どちらかでしか近づきえないものです。それに対して、タレースは「万物のアルケーは水」と言いました。“万物”“アルケー(始まり、根源etc.)”“水”、それぞれは、誰もが了解できる言葉(ロゴス)です。確かに、タレースの言葉は、今の自然科学から考えると、間違いでしょう。しかし、神々を用いずに自然について語ったタレースの態度は、今までのギリシア神話にはない新しさがありました。神話は、言わば閉鎖的です。信じるか信じないかのどちらかになります。それに対して哲学は、確かに新しい何かをもたらしました。例えば、“雷鳴”という不思議を、神話は“ゼウス大神の怒り”(ホメロス)と表現しましたが、それに対して哲学は“風による雲の破裂”(アナクシマンドロス)と表現しました(注)。この両者の違いをよく考えてみてください。ホメロスの答えは、もう決定です。それは信じるかどうかの問題になってしまいます。でもアナクシマンドロスの答えは、風、雲、破裂、どの言葉をとっても、僕たちに了解できるものです。いや、そうではなく別の原因があるのではないか、とすぐに批判が生じるでしょう。神話は言わば閉鎖的であるのに対して、哲学は開放的です。だから、もし誰かが、ギリシア神話とは何かと尋ねたら、恐らく答えは、ギリシア神話とはホメロスやヘシオドスによって伝えられたものとなるでしょう。それに対して、ギリシア哲学とは何かと問われて、それはタレースの万物のアルケーは水だ、と答える人はいないでしょう。恐らく多くの人は、ソクラテス、プラトン、またはアリストテレスの哲学がギリシア哲学を代表するものと言うでしょう。タレースに始まった哲学は、誰にも了解できる言葉を介することで、多くの批判者や後継者を生みだし、発展することになります。
僕たちは色々な疑問にぶつかるとき、それをなんらか理解(了解)したいと思います。そして、その理解の仕方を吟味するとき、もしその答えが見たこともない、または証明することのできない、または信仰の対象にしかなりえないものを使ったものであるなら、それは神話的な理解と言えるでしょう。とにかく、紀元前6世紀のギリシアでは、今までにない
philosophia という人間の知的営みが始まりました。philosophia はやがて、大きな発展を遂げてソクラテス、プラトン、アリストテレスのような、現在の僕たちのものの考え方にまで影響を残す哲学者が現れます。タレースに始まる自然についてのギリシアの哲学がどのような発展をとげるかは、次の話になります。
注:波哲学講座 哲学16 哲学の歴史Ⅰ 服部英次郎 藤沢令夫編 83頁参照
第4回 問いは問いを呼ぶ
~自然哲学の展開~
今回は、前回お話をしたギリシアの自然哲学について、その後の発展をお話したいと思います。今回は若干知識的なお話になってしまうと思いますが、ギリシアで生まれた哲学の関心が、いかに変化・発展して、人間に対する関心へと移行していったかをお話しするつもりです。
アリストテレスの説によると、最初に哲学を始めた人々は、自然の不思議を目前にして、一体、自然はどのようなものから成り立っているか、というように素材の形でアルケーを求めました。タレースは、それを水といい、続くアナクシマンドロスは、ト=アペイロンと言いました。ト=アペイロンとは「無限なもの」、「無限定なもの」という意味です。自然の森羅万象が、一つの具体的なものから生ずるとは考えにくい。水から火が生じると考えるのは変です。だから、万物がそこから生じ、そこへと戻る“それ”は、具体的な性質をもったものと言うよりは、無限定な素材のようなものの方、が合理的と考えたようです。続くアナクシメネスはそれを空気と言いました(注1)。彼の考えは、タレースと同じように、特定のあるもの(空気)から万物が生じると考える限りでは、アナクシマンドロスのト=アペイロンよりも、退歩していると思えるかもしれません。しかし、例えば、手のひらを口の前に持ってきて、フーッと強く息を吹いてみて下さい。その後で、今度は同じように手のひらにそっと口を広げてハーッと息を当ててみて下さい。感触として、後者の息は前者の息よりも暖かく感じるでしょう。(実際に温度計で測れば、両者の温度は同じだそうですが)このようなことから、アナクシメネスは空気が濃縮されると温度が下がり、水、土へと変化し、希薄になれば温度が上がり、火にもなっていく。そのように考えることで、一つのアルケーからさまざまのものが生じてくることが、空気をアルケーと考えることによって、より理解しやすくなると考えたためでしょう。
一旦自然についての解明が始まると、その後、さまざまの思想が現れて、さまざまの学説が表明されることになりました。ミレトス学派のように、万物のアルケーを素材に求めるだけでなく、新たな視点が登場します。何人かの思想家を紹介しましょう。
ピュタゴラス。この人は哲学者というよりは宗教団体の教祖ともいう人物であり、ピュタゴラス学派の代表でもありました。彼は魂の不死を考え、輪廻を認めていたようです。
この学派が哲学の世界に新たにもたらしたものは“数”という概念でした。例えば、ピンと張られた弦をはじくと、音が出ます。弦のある部分を押さえると、音は高くなるでしょう。しかし、この弦を押さえる位置を調べてみると、1対3とか1対4とか正確な比率の位置を押さえると、正しい音階が生じることが分かります。このようなことから、ピュタゴラス学派では、音楽は“数”に支配されていると考えました。そればかりではありません。あらゆるものが“数”に支配されて、“数”は音楽と関係がある。それ故、天上では、地上に生きる人間たちには聞こえないが、北極星を中心にした星々が、妙なる音楽を奏でながら、運行していると考えられました。そういえば、昔、渋谷にあった五島プラネタリウムでは土曜日の夕方に「星と音楽の夕べ」と題して、リクライニングの椅子に寝転び星々を眺めながら、美しいクラシック音楽を聴くことができる企画がありました。今はもう閉館になってしまい残念です。もっともあの「星と音楽の夕べ」で聴いた音楽は、オーケストラによるクラシックが主でしたが、ピュタゴラス学派の考えた星の音楽は、オルフェウスの琴の調べのようなものだったでしょう。とにかく、ピュタゴラス学派は、従来の素材としてのアルケーという考えかたとは異なる“数”という新しい概念をもたらしました。ギリシア語でコスモスとは世界、宇宙という意味ですが、コスモスは一方で“秩序”という意味があります。宇宙に秩序をあたえるものこそ、“数”という新たな概念でした。このような考えは、やがてプラトンにも影響をあたえることになるでしょう。
クセノパネスは激しい調子で、ホメロスやヘシオドスによって伝えられたギリシア神話を批判しました。
エチオピア人は 自分たちの神々が獅子鼻で色黒であるといい、
トラキア人は碧眼で髪が赤いと言っている。(注2)
だがもし 牛や馬、ライオンが手を持っていたら、
あるいはまた 手によって描き、人間同様の作品を造ることができたなら、
馬は馬に、牛は牛ににた
神々の形姿描き、彼らそれぞれがもつ形姿と
同様な(身体)を造ることだろう。
これらのクセノパネスの言葉は面白いですね。僕が昔キリスト教に関心を抱き、初めてキリスト教の教会を訪れたとき、聖堂の内部におかれた像に出会って、「あ、外人だ」と感じました。そして、キリスト教は外国人の宗教なのだと思ったことが思い起こされます。
彼ら(ホメロスとヘシオドス)は 神々のあらんかぎりの無法な仕業を
語った、すなわち盗むこと、密通すること、互いに騙しあうこと。
クセノパネスは、ギリシア神話に登場する神々が、ありとあらゆる悪徳を行なうことを批判して、次のように断言しました。
一なる神、神々と人間どものうち、最も偉大にして、
その姿においても、心においても、死すべき身のものどもにいささかも似ず。
ヘラクレイトス。「万物は流転する」という言葉で有名な彼は、「人は同じ川に二度と入ることはできない」といい、全てが変化生成していると説きました。しかし、その変化のうちにある調和をあたえるものへの知恵こそ、重要であると考えたようです。
ミレトスから始まったギリシアの自然哲学にとって、新たな局面をもたらしたのが、エレア学派でした。この学派は、パルメニデスを祖としますが、“あるものはあくまであり、ないものはあくまでない”として、真にあるものは“不生不滅、唯一不可分、不変不動”であるとしました。“あるもの”は無から生ずることはなく、“何か”から生じたなら、それは“あるもの”から生じたのである。また、“あるもの”は無になることはありえない。それ故“あるもの”は不生不滅である。“あるもの”と“あるもの”が分けられるとするなら、それは“ないもの”によってであり、それは不可能である。それ故、“あるもの”は不可分である。“あるもの”が動くとするなら、それは“あらぬもの”の間であり、それは理に合わない。それ故、“あるもの”は不変不動である。このようにして、パルメニデスは、日常の自明な事実としての雑多な変化する世界を、虚妄として退けました。
パルメニデスの説を、弟子のゼノンはある種の背理法によって補強し、変化する雑多な世界が虚妄であることを証明しました。「アキレスは亀に追いつけない」という論理もその一つです。アキレス(正しくはアキレウス)は、トロイ戦争におけるギリシア軍の英雄です。彼の母親は、子どもが不死となることを願って、冥界の川に彼を浸し、それ故、アキレスは不死となりました。しかしその時、母親が彼の踵を握っていたため、踵の部分のみが水に浸りませんでした。そのため、最後にその部分を矢で射られて、アキレスは落命したと、ホメロスは伝えています。アキレス腱の由来ですね。とにかく、アキレスは足が速いことで有名でした。そのアキレスが、足の遅い亀に追いつくことができないというのです。アキレスが亀に追いつくためには、少なくとも、アキレスは亀がいる地点まで行かなくてはならない。しかし、その間に亀はどんなに遅くとも、少しは先に進んでいる。アキレスが、亀のいた地点から先にいる亀に追いつくためには、その地点まで行かなくてはならないが、アキレスがそこに到達するときには、亀はどんなに遅くとも、少しは先に進んでいる。これは無限に繰り返されるために、アキレスは亀に追いつけない、という論です。現実にはアキレスは亀に追いつくことは明瞭な事実です。それはいかに現実の世界、雑多な変化する世界が虚妄であることを示しているというのです。
エレア学派の論理、日常の自明の世界を虚妄の世界としたことは、ギリシアの思想界に衝撃をもたらしました。現に眼に見えるこの世界は虚妄の世界であり、真実の世界ではない。ロゴス(理性)によってとらえられた世界こそ、真の世界であるとの考えは、後のプラトンの哲学にも、大きな影響をあたえることになります。そればかりではありません。現実の世界、僕たちに現れる(現象する)世界は、真実の世界であろうかという問いかけは、よく考えてみると、僕たちにとっては、一度はぶつかる問題ではないでしょうか。近世哲学においても、繰り返し、このような問いかけは現れてくでしょう。
エレア学派の後、“あるもの”の不生不滅を受けて、雑多な世界の説明を試みたのが多元論でした。エンペドクレスは、地水火風の四元素を不変としつつも、愛と憎によって四元素が結合し離反することによって、雑多な世界が生成を理解しようとしました。またアナクサゴラスは、例えば、肉を食べてそれが髪の毛になるのではなく、肉の中に含まれる髪の毛の元素が吸収されて髪の毛になると考えた。この世界には無数の種類の元素がある。この無数の元素に秩序をあたえているものが知性(ヌース)であるとしました。アナクサゴラス自身は、このヌースの考えを発展させませんでしたが、物質的な原理ではなく、いわば精神的な原理が世界に秩序をあたえるとの考えは、ソクラテスやプラトンにもヒントをあたえることになります。
やがてデモクリトスが登場します。彼はこの世界を、これ以上分割できないアトムの離合集散によって成り立っていると考えました。アトムは無味無臭の微小の原子であり、味や臭い、美しいと、あるいは醜いと感じることも、全ては人間が感じることで、真実の世界は、物質であるアトムの衝突、集合、分離などの機械的運動によって成立していると考えました。
以上、タレースからデモクリトスまで、古代ギリシアの自然哲学の展開を見てきました。雑学的な知識をならべてしまったかも知れません。でも本当に言いたいことはこれからです。
今一度、前回の授業のことを思い出してください。前回、哲学(philosophia)の始まりについて、次のように話しました。哲学の始まりは“驚き”であり、古代ギリシア人にとっての不思議、どうしても知りたいと思う神秘ともいえるものは、自然であった。万物のアルケーは水と言ったタレースも、一方で、“万物は神々に満ちている”と言ったそうです。しかし、自然の解明が進み、デモクリトスにいたっては、自然は単なる物質(アトム)に過ぎないと、考えられるにいたりました。僕の好きなアウグスティヌスが、「告白」という作品の中で、次のようなことを言っています。“人々は大自然の神秘や不思議を、驚きをもって語る。広大な星辰、大海原、等々。しかし、そのように大自然の不思議さを語る時、実際の眼で目撃していなくとも、人々の心(記憶)の中に、自然の広大さが収められている。ちっぽけな人間の心に、そのような誇大な宇宙(の記憶)があるということ、このことは実に不思議である。そして人間が、自然の偉大さを感嘆するのに、当の人間の不思議さを感じないことこそ、実に不思議なことである。”このような意味のことをアウグスティヌスは語っています。哲学が不思議なことへの驚きであり、そのような不思議を知りたいと願うものであるからこそ、デモクリトスにいたるまでの哲学の歩みの中で、哲学はやがて、興味の関心を人間へと移してくることも、自然の成り行きでした。次回から、ギリシア哲学の中心となるアテネのソクラテスやプラトンを視野に入れたお話に入りたいと思います。
注1:空気を万物のアルケーとしたことからは、色々なことを考えさせられます。アナクシメネスは次のように言っています。「空気である私たちの魂が、私たちをしっかりと掌握しているのと同じように、気息と空気が世界(コスモス)全体を包み囲んでいる。」これはとても面白い言葉だと思います。空気は魂であり、かつ気息と言われます。魂はギリシア語でプシューケー(psyche)といい、気息はプネウマ(pneuma)といいますが、ギリシア哲学においては、プシューケーは肉体に生命を与える命そのものですし、息と関係ある言葉だと思います。またプネウマは、息であり、霊であり、風をも意味しています。「風はどこから来てどこへ行くのかしらない」という聖書の言葉の風も、聖霊の霊も、プネウマという言葉です。また、古代インドのウパニシャド哲学においても、我(アートマン)は宇宙の最高原理であるブラフマンと一体(一如)とされますが、我という言葉のアートマンは本来、「息」を意味しています。僕は素人で的外れかも知れませんが、日本語の古い時代の「イキ」という言葉は、息であり、生きるであり、その両者を含んだ意味ではなかったでしょうか。魂、命、気息の親近性は人類にとって共通の原始時代からの遺産(?)のようなものに思えます。
注2:以下、講談社「ソクラテス以前の哲学者」廣川洋一氏の訳による。
第5回 知識は誇る 戦争 そしてモラルの崩壊 ~自然から人間へ~
第6回 アリストファネスとソクラテス ~喜劇作家が見たソクラテス~
以上の二編はトゥキュディデスやアリストファネスの作品からの引用が多く、著作権の問題もあるので差し控えます。
第7回 ダイモンに憑かれて
~ソクラテスの生涯~
ここに掲げた彫刻(省略)は、ソクラテスをあらわしたものと言われています。決して美男子とは言えなかったソクラテスの像を見ながら、ソクラテスのことをお話したいと思います。雑談ですが、昔、ぼくが教職についた頃に、大先輩にあたる教頭先生から、倫理の授業について、言われたことがあります。「孔子という人がいたということを知るだけで、実はすごいことなのだ。」その当時の僕は、倫理の授業は歴史の授業と違うのだから、孔子が生きたということは当たり前で、問題は、孔子が何を考え、どう生きたかを、僕たちがどう受け止めるかということだ、と思っていました。でも、ソクラテスのことを思うと、ソクラテスという人物が生きたということを知るだけでも、意味があるのではと思うようになりました。
それにしても、ソクラテスという人は不思議な人です。ソクラテスについて確実に知ることが出来るのは、BC.399年にアテネの法律にしたがって処刑されたということだけだ、と言う人もいます。それにしては、ソクラテスについて膨大な著作がありますし、多少とも哲学史の知識がある人なら、誰もが、何らかのソクラテス像をもっていて、ソクラテスについて飽きることなく語ろうとします。でも、ソクラテスという独特のキャラクターをもった一人の人物が、紀元前5世紀の後半のアテネに現れ、人々と対話をし、最期に、悠然と毒杯を仰いで死んで言ったことを通じて、つまり、ソクラテスという人物そのものによって、哲学は大きなターニングポイントを向かえたことは、確かです。人生をいかに生きるべきか。このような問が、人間に課せられた深刻な問として、哲学という知的な営みの対象となったのは、ソクラテスからではないでしょうか。
ソクラテスは、イエスや仏陀と同じように、自らは何の記録も残しませんでした。もしかしたら、先ほど言ったように、ソクラテスについて僕たちが確実に知っていることは、ソクラテスが、最期に、当時のアテネの法律にしたがって処刑された、ということだけかも知れません。ソクラテスについては、無数の本が書かれましたが、ソクラテスの記録を残した人の中で、実際にソクラテスを自分の目で見た人は、3人しかいません。だから、ソクラテスを知る資料としては、この3人の記録が直接の手がかりになります。一人は、アリストファネス。彼がソクラテスを題材とした「雲」という喜劇作品を、僕たちは前回見ました。もう一人は、クセノフォン。彼の「ソクラテスの思い出」ほか、若干の作品です。そして三人目がプラトンです。プラトンはソクラテスを主人公にした「対話篇」を多く残しました。これらの作品は、それぞれ、ソクラテス像という点で異なっています。特に、アリストファネスの「雲」に登場するソクラテスと、プラトンの「対話篇」のソクラテスとは、全く異なる、というよりは、矛盾したものになっています。アリストファネスに登場するソクラテスは、自然学者のようであり、またソフィストのようです。でも、プラトンに登場するソクラテスは、そのようなソフィストを批判しているソクラテスです。この矛盾は、もしかしたら、アリストファネスの描写するソクラテスが若い時代のソクラテスで、プラトンのそれは老人のソクラテスという風に考えることもできるかもしれません。(第五章の年表を見てください。)いずれにしても、教科書に出てくるソクラテスは、プラトンの描いたソクラテスです。ここでも、プラトンの描いたソクラテス、それも、プラトンの初期の作品に登場するソクラテスを紹介することになります。その中で、「ソクラテスの弁明」は特に有名です。“アテナイの諸君”で始まる「弁明」は「不敬罪」等の理由で訴えられたソクラテスの、法廷での弁明の様子を描いたものです。ソクラテス自身が彼の人生のターニングポイントともなった「デルポイの神託」にもふれつつ、過去の自分を語る部分もあります。また、何よりも“アテナイの諸君”で始まる「弁明」は、ソクラテスの人となりを伝えてあまりある、格調高い文章として有名です。「クリトン」は、牢獄のソクラテスの様子を描いたもので、脱獄をすすめる友人に対して、アテネをこよなく愛したソクラテスが、脱獄の不当性を説得したものです。「弁明」と「クリトン」は二編が一冊になって岩波文庫から訳がでています。短いものですから、皆さんも読むことはできると思います。「パイドン」はソクラテスの死を描いた作品です。その日にソクラテスの処刑が行われることが決まっていたために、何か不思議な雰囲気をもった作品になっています。誰もが、心の中で感じます。今日で、ソクラテスとはお別れだ。今日を逃すと、ソクラテスの話を聴くことができなくなる。魂は死んでしまうと、どうなるのだろうか。でも、これから死に向かおうとしているソクラテスに、そのことを訊くのは酷な気がする。そんな雰囲気を察して、ソクラテス自身が“死”について語ります。最後に、悠然と独杯を仰いで死んでいく場面はとても印象的です。古来、“神のようなプラトン”という言葉があります。プラトンの描写の見事さを、人間業ではないと言う意味でいったのでしょう。機会があれば、是非、読んでみて下さい。
ソクラテスの父のソプロニコスは石工、母のパイナレテは産婆でした。母の職業は有名で、ソクラテスは日頃から、自分はソフィストのように知識を教えることはしていない。自分は、人々が知識を自分で生み出すことを手伝うだけだ。それは、ちょうど僕の母親が産婆で、自分で子どもを産むのではなく、人が子どもを産むのを助けるのと同じだ、と言っているので確かでしょう。ソクラテスの対話、ないし問答は産婆術(助産術)と呼ばれます。ソクラテスの奥さんのクサンチッペも有名です。昔読んだある本の序文に、“この本をわが愛するクサンチッペに捧げる”という言葉がありました。これは“わが愛する悪妻に捧げる”という意味でしょう。実際、ソクラテスに水をぶっかけたとか、クサンチッペをてなづけてうまくやっていければ、ほかのどんな人ともうまくやっていけるようになる、とソクラテスが言った、等々、クサンチッペが悪妻であるとの評判は昔からあったようです。しかし、「パイドン」に登場するクサンチッペは、夫を襲う運命を嘆き悲しんでいる普通の女性です。クサンチッペを実際に見た人の証言は、決して彼女を悪妻に描いていません。おそらく、ソクラテスの偉大さや忍耐強さを強調するために、奥さんが悪者にされたというのが真実のところでしょう。もっとも“火のないところに煙はたたない”という諺もあります。ソクラテスの家計は、決して裕福ではありませんでした。それなのに、ソクラテスは積極的に金を稼ごうとした形跡はありません。いつもアゴラなどで人々と話しをし、ソフィストのように、そのことでお金を受け取るでもなく、ブラブラしていましたから、クサンチッペとしては小言の一つでも言ったでしょう。そんなことに尾ひれがついて伝わったとも考えられます。
ソクラテスは、当時の人々から見ても変わり者であったようです。
今に残っているソクラテスの肖像は、どれを見ても、決して美男子とはいえない風貌をしています。実際、彼は醜男だったようです。それはソクラテスを尊敬している人々ですら、例えばプラトンですら、ソクラテスの顔は見ていられない、といっているので確かです。もっとも、プラトンはソクラテスの顔は怪獣のようだ、と言う一方で、しかし、中を開けてみると、ソクラテスの中には、黄金の像が隠されているという意味のことを言っています。このことは、ある意味ではギリシア人の間では変なことでした。皆さんもギリシア人の残した彫刻を見たことがあるでしょう。均整の取れた肢体、鼻筋の通った顔立ち、ギリシア人にとっては美しいことと善いことは同義語でした。カロカガティアという言葉があります。美にして善という意味です。カロンとは美という意味です。英語のcaligraphyは書道という意味ですが、もともとは“美しく書く”という意味です。だから、美しいものは外見も美しく善であるはずです。その意味では、ソクラテスは、外見は醜いが内面は黄金のようだとプラトンが言うとき、その表現の異常さを、プラトン自身は意識していたと思います。また、ソクラテスは常日頃からダイモン(ダイモニオン)に憑かれている、何かしようとすると、それを禁止する合図がダイモンからあって、うっとうしいくらいだ、と言っています。アリストファネスの「雲」の中でも、ソクラテスの学校に入れられそうになったペイディッピデスが、あんな蒼い顔をして、ダイモンにとり憑かれた、ソクラテスやカイレポンなどの仲間になるのは、まっぴらだと言う場面があります。アリストファネスの作品の中にも出てくるくらいですから、ソクラテスのダイモンは有名だったのでしょう。また、ソクラテスは、突然立ち止まって動かなくなるクセがありました。ちょうど映画のコマ送りがストップしてしまったように、立ち止まって動かなくなるというのです。それが始まると、ソクラテスをよく知っている人は、例のあれが始まったとして放っておくことにしていたようです。「シンポシオン(饗宴)」の中で、こんな場面があります。ある人がソクラテスは突っ立ったまま動かないのを不審に思って、様子をうかがっていました。昼になり、夕方になっても、そのままです。こうなれば最後まで見届けてやろうとして、寝椅子をもってきて見張っていると、夜中そのままで、明け方に東の空の太陽に祈りをささげてその場を立ち去ったと、書かれています。再び動き出したソクラテスは、その間のことを、何も話さなったようです。そのほかに、ソクラテスの特徴として、体力も気力も剛健であったことが挙げられるでしょう。ソクラテスはいくら飲んでも酔うことがありませんでした。また、三度の従軍の時には、寒さの中で薄着に裸足で平気な顔をして、また、戦いでも沈着冷静な豪胆さで賞賛されました。また、彼は70歳で亡くなりますが、その時、妻のクサンチッペは、まだ乳飲み子を抱えていました。その意味でもソクラテスは健康であったといえるでしょう。
ソクラテスの若い頃のことは、ほとんど分かっていません。ただ、プラトンよりも年長者のアリストファネスが描写したソクラテスは、ソフィストのようでありながら、木の枝から籠を吊るして、その籠の中にいて天空を観察しています。また、新しい時代の神として“雲”をあげていて、従来、ゼウスの仕業とされていた天空の現象を、雲のなせる業としているなどから推測すると、若い頃のソクラテスは、自然の研究に従事していたとも考えられます。また、「パイドン」の中で、ソクラテスは「若い頃に自然の研究といわれる学問に驚くほど熱中したことがあった」と告白している場面があります。しかし、ある時点でソクラテスは、自然の研究に見切りをつけたようです。ソクラテスが自然の研究に対して持った不満は、同じ「パイドン」の中で、次のように説明されています。
ソクラテスにとって、自然の研究が不満であったのは、自然の研究が、彼が本当に知りたいことに何も答えてくれない、という点でした。ソクラテスが本当に知りたいということは、“自分が何故ここにいるのか”という問でした。ソクラテスはその答えをもっていませんでした。しかし、ある見通しは持っていました。それについてソクラテスは、次のような意味のことを言っています。ソクラテスはある時点から、彼が今行なっているように、人々に語りかけ、問答をして過ごすことが善いと思った。その結果、彼に反発する人々によって裁判にかけられました。裁判の席では、ソクラテスは他の多くの人々がそうであったように、500人の裁判官たちの心情に訴えて、涙戦術に出ることもできました。しかし、ソクラテスはそのような手段を選ばず、堂々と自分の考えを述べるほうが善いと思った。それを聴いて裁判官諸氏は、ソクラテスを有罪にするのが善いと思った。有罪が決定した後、どのような罰が妥当かで話がありました。ソクラテスは裁判官たちの心証を傷つけるような発言をあえてしました。それに対して、裁判官たちの多くが、ソクラテスを死刑にするほうが善いと思った。死刑が決定してから執行まで、例外的に時間があり、その間、ソクラテスは脱獄することもできた。しかし、ソクラテスは脱獄をしないほうが善いと思った。つまり、ソクラテスがそこにいるのは“善いこと”のためであった。ソクラテスがそこにいるのは、自然学者が言うように、ソクラテスの体を、骨と皮と筋が支えているからではなく、“善”のためであった。だから、問題は、自分にとって“善とは何か”であった。そのことについては、自然の研究は何も教えてくれない。以上が、ソクラテスの自然の研究に対する不満でした。この「パイドン」の箇所は重要だと思います。この“善”の問題を通じて、ソクラテス、プラトン、アリストテレスは一本の線でつながっています。
自然の研究に見切りをつけたソクラテスは、以後は、人間の問題、人間にとって“善”とは何か、“美”とは何か等を、問いながら生きるようになりました。
ソクラテスの生涯の大きな転機は、ソクラテスの信奉者であったカイレポンによってもたらされました。日頃から、ソクラテス以上に知恵のある素晴らしい人間はいないと信じていたカイレポンが、デルポイのアポロン神殿に“ソクラテス以上の知者はいるか”とお伺いを立てたのです。それに対するアポロンの答えは、“ソクラテス以上の知者はいない”でした。カイレポンによってもたらされた神託は、ソクラテスを混乱させました。日頃からソクラテスは、自分が人間にとって大切なことを何一つ知っていない、と考えていたからです。そこで、ソクラテスは、当時世間で知恵があると考えられていた人々を訪ねて歩きました。もしかしたら、皮肉屋のソクラテスは、自分より知恵のある人を見つけて、アポロンの神のお告げの誤りを指摘したかったのかもしれません。しかし、実際に知恵のあるとされている人々にあって話をすると、世間で知恵があると考えられている多くの人々は、実際にはソクラテスが考える意味での知らなくてはならないことについて、何も知恵をもっていないことが判明しました。そればかりか、彼らは、自分が、人間にとって大切な知恵をもっていない、ということすら意識していない。ソクラテスは大切なことを知らないが、自分が知らないということは知っている。いわゆる“無知の知”です。その限りでは、そのほんの少しの点で、ソクラテスは彼らより知恵がある、と気づくようになりました。その結果、ソクラテスは、神託の真の意味を理解し、自分の使命を自覚するようになりました。ソクラテスがデルポイの神託の意味をどう理解したかは、次章でお話しします。
とにかく、ソクラテスの無知の知は有名ですね。人は自分が知らないということを自覚しなければ、知りたいという気持ちも起こりません。それ以後のソクラテスは、アテネの人々に語りかけ、彼らの無知を自覚させることによって、哲学、つまり、知への愛へと、とりわけ若者たちをいざなうことを生涯の課題としました。しかし、そのことは公衆の面前で、自らの無知を暴かれた人々の不快、ないしは恨みをかうことになりました。BC399年、ソクラテスは、政界の大立者アニュトスを後ろ盾とした、メレトスという青年によって訴えられました。訴状は、ソクラテスは国の認める神々を認めず、新たなダイモンの祭を導入しているという罪を犯している。青年たちを堕落させている。というものでした。裁判の結果は280対220で有罪。量刑は、ソクラテスの挑発的な発言もあって、360対140で死罪となりました。ソクラテスの死はプラトンの「パイドン」で詳しく描写されています。次回はソクラテスの内容に入ります。
第8回 汝自らを知れ
~神の知恵と人間の知恵・ソクラテス~
ドイツ語にVorsokratiker(ソクラテス以前の人々)という言葉があります。ソクラテス以前の人々の説を伝える断片を編集した、ディールス・クランツの有名な本が「ソクラテス以前の人々の断片集Die
Fragmente der Vorsokratiker」というタイトルです。この「ソクラテス以前」という言葉の中には、ソクラテスから、今までの哲学とは異なる何かが始まったことが暗示されています。教科書的には、哲学の関心が自然から人間へと移っていたと、言えるのかもしれません。しかし、ディールス・クランツの「断片集」には、プロタゴラスなどの、ソフィストたちも掲載されています。そして、プロタゴラスに代表されるソフィストたちこそ、哲学の関心を自然から人間や社会へと向けた人々でした。そして、ソクラテスは、そのソフィストに対しては厳しい批判を行っています。ソクラテスとソフィストとはある意味では正反対の立場に立つとも言えます。今回は、ソクラテスから始まった新しいことについて考えてみたいと思っています。
神の智恵と人間の智恵
プラトンの著した「ソクラテスの弁明」は、ソクラテスの生涯の転機となった、デルフォイのアポロン神殿の神託に触れています。「ソクラテス以上の知者はいない」との神託は、日頃から、人間として知るべき善美のことについて、無知であると自覚していたソクラテスを困惑させました。神託の真意を探るために、知恵があるとされている人々のところを回ったソクラテスは、一般に知恵があると考えられた人々が、実は何も知ってはいず、そればかりか、自分が何も知らないということについてすら、自覚していないということに気づきました。このことから、ソクラテスは、世間一般に知恵のあると言われている人々と自分とは、大切なことを何も知らないという点では同じだが、自分は何も知らないということについて自覚している(無知の知)が、彼らはその点について自覚していないという点で、ほんの少しだけ自分のほうが、彼らより知恵があると考えました。さらに、デルフォイのアポロン神殿に掲げられている銘の「汝自らを知れ」から、ソクラテスは次の様な結論を導き出しました。デルフォイの神は、次のようなことを言おうとしている。「人間たちよ、お前たちの中で一番知恵のあるソクラテスでさえ、大切なことを何一つ知らないのだ。人間に許されているのは、自分が知らないということを知ること、無知の知に過ぎない。人間たちよ、思い上がってはいけない(汝自らを知れ)。」人間の知恵とは何と惨めな知恵でしょうか!(注)
ここで、ソクラテスは“智恵”という言葉に特別の意味を込めています。ソクラテス以前にも古代ギリシアには“七賢人”と呼ばれた知者がいました。ソフィストも智恵のある人という意味です。それに対して、ソクラテスは、“真の智恵は神のもの”と言います。人間の智恵は、一番智恵があると言われるソクラテスですら、無知の知でしかない。
しかし一方で、ソクラテスは「無知の知」に積極的な意味を見ていました。自ら知れりとする人は、さらにそれ以上に知りたいとは思いません。知らないからこそ知りたいという思いが強く起こります。しかも、その智恵とは、神のみがもつ智恵です。それに近づくためには、自らのあり方そのものを問い直し、自らの無知を自覚することによって、魂そのものが浄化されなくてはなりません。「魂への配慮」といわれます。
デルフォイの神託から、ソクラテスは、自己の使命を自覚することになります。知恵があると思う人に対して、本当は大切なことを何も知ってはいないとの「無知の知」に導くこと。そして、共に真に知らねばならない大切なことを問い求めよう。このように、哲学(智への愛)に人々を、取り分け青年たちをいざなうこと。そのことを彼は生涯の課題としました。
ソフィストとの論争
前にお話したように、アリストファネスは、「雲」の中で、ソクラテスをソフィストのように描写し、新しい時代の風潮を助長する人物として、批判しています。しかし実際には、ソクラテスは、ソフィストに代表される当時の知識人が主張する相対主義に対して、厳しく対決しました。ペロポネソス戦争の長期化の中で、人々の心がすさみ、倫理観が崩壊していくさまについては、すでにお話しました。そのような無道徳を理論的に支えたのが、プロタゴラスの「人間尺度論」でした。それぞれの人に「そう思われること」が、その人にとって「事実、その通りにある」という立場からは、誰にでも肯定される、絶対的な正義はありえません。それでも、自己の主張の正当性を主張するには、弁論の力で人々を説得する必要があります。正邪の別なく、人々に自己の正当性を説得する術は、弁論術と呼ばれ、ソフィストたちが、青年たちの教育にあたって、一番重視したものでした。弁論術を使って、人々を説得することで、優れた人物と評価されれば、名誉や名声を得ることも可能な社会でした。そのため、ソフィストにとっては、人間としてあるべき徳(アレテー)とは、弁論に秀でていることであり、人間の幸福は、弁論術を駆使して、名誉や名声をえることでした。
そのようなソフィストの、そして当時のアテネの人々の、人間観や幸福観に対して、ソクラテスは厳しい批判を行ないました。ソクラテスとプラトンの弁論術批判は、章を改めてお話したいと思っていますが、ここではさしあたって、ソクラテスのソフィスト批判を簡単にまとめてみます。ソフィストたちが主張する人間のあるべき姿(徳・アレテー)とは、要するに、「優れたものと思われること」ではある。ソフィストのいう弁論術とは、結局は巧みな弁論によって、あの人は素晴らしい人、優れた人と思わせることにより、名誉や名声を得ようとしているのではないのか。大切なことは、優れたものと「思われること」ではなく、優れたもので「あること」である。外見ではなく中身が優れた者となることではないのか。人間にとってあるべき姿、アレテーとは、真に人間の内なる魂そのものが優れたもの、善いものになることである。肉体がすぐれたものとなるためによい食べ物を必要とするように、魂がすぐれたものとなるためには、魂そのものにとってのよい食べ物ともいえる智恵が必要とされます。ソクラテスは「弁明」の中で、アテネの市民に対して、次のように訴えかけています。
“諸君は金銭や評判のことは気にしても、智恵や真実のことは気にせず、魂をできるだけ優れたものにすることに気を使わず心配もしないで、恥ずかしくはないのか”
ソクラテスの死
ソクラテスの死のお話をする前に、少しだけ雑談をさせてください。
“アテナイの諸君、諸君が私の告発者たちからどのような印象を受けたか、私は知らない。私としては、彼らによってほとんど我を忘れるほどでした。それほど彼らの話し振りは説得力があったのです。しかし、彼らは真実を、いわば何一つ言わなかったのです。”
このような言葉で「ソクラテスの弁明」は始まります。この「弁明」は、哲学科の学生にとっては必読の書でした。ギリシアを専攻しない学生でも、この「アポロギア(弁明)」と呼ばれる作品は、一度はギリシア語の辞書を片手に、読む必要のあるものでした。僕もこの「弁明」を、四苦八苦の思いで、ギリシア語で読んだことがありました。その時、強く印象にのこったことが二つあります。一つは、「弁明」の訳の最初の言葉の「アテナイの諸君」がandres
athenaioi(アテナイの男たち)という言葉だったことです。考えてみれば、アテネでは成人の男子である市民以外には、政治に参加する道はありませんでしたし、ソクラテスが引き出された法廷の裁判官たちは、籤で選ばれた500人の成人男子でしたから、「アテナイの男たち」と呼びかけるのは、不自然ではありません。もしかしたら、法廷での呼びかけとして、常套の言葉だったのかもしれません。または、ソクラテスは、自分に無罪の票を投じてくれた人々に、裁判官dikastaiと言っているので、流言飛語に惑わされず、自分の良心と理性に問いかけて、正しく判断する人のみを、裁判官諸氏と注意深く呼んで、それ以外の人々を、単なる人々andresと呼び分けているのかもしれません。しかし、この言葉を見たとき、あらためて古代ギリシアは男社会だったことを実感しました。ソクラテスは、500人もの男子市民の前で、自らに関する訴状に対して「弁明」をしなくてはならなかったのです。
「弁明」を読んでの印象について、あと一言。結果としてソクラテスは有罪となり、刑死しました。つまり、この法廷では文字通り「命を賭けて」の弁論が交わされたのです。僕は法律の専門家ではありませんし、現代の裁判のこともよく知りません。それに、現代と古代ギリシアの裁判では、時代も違いますし、制度も違います。だから、両者を比較すること自体、意味のないことでしょう。しかし、死刑制度がまだ存続している日本とは、法廷に命がかかっていることがあるという点では、共通したものがあると思います。そう考えると、ソクラテスの法廷弁論は、少なくとも現代の弁護士が行う弁論としては、異様なものでした。法律の条文がそれほど重要なこととして細かく引き合いにだされないことは別としても、現代ならば、被告の立場を有利なものにするために行うであろう努力は、ほとんどなされていません。また、情状酌量の可能性を模索する努力も、何もなされていません。(そのようなことは、ソクラテスの裁判以外では、よくなされたことは、「弁明」の中でも暗示されています)。限られた時間の中で、ソクラテスに対する告訴人の訴状に対する反論ばかりでなく、ソクラテスに対する昔から積み重なった社会の偏見に対しても、ソクラテスは沈着に明解に、しかも毅然として、反論を展開しました。有罪の決定から量刑に移ると、ソクラテスを取り巻く友人や支持者の心の動きも推測される個所があります。裁判官たちに挑発的な発言をするソクラテスに対して、プラトンを含む人々が、科料として30ムナの支払いを提案するようにソクラテスに伝えたことが記されています。しかし、ソクラテスは死罪となりました。裁判の一部始終を、当時まだ28歳であったプラトンは、固唾をのんで見守っていたのでしょう。「ただ生きること」が問題ではない、「善く生きること」こそ、一大事なのだ。ソクラテスの生きざまそのものが、「弁明」というプラトンの作品を通じて、宣言されているのだと思いました。
閑話休題
BC339年、ソクラテスは政界の有力者アニュトスを後ろ盾としたメレトスという青年によって告訴されました。訴状は“国の認める神々を認めず、別のダイモンの祭りを導入するという罪を犯し、青年たちに害悪を与えているという罪を犯している”というものでした。裁判の結果は、280対220で有罪。次にいかなる刑を課するかに入りました。ソクラテスは、裁判官たちを挑発するような発言をして、360対140の大差で死刑と決まりました。判決から刑の執行までの間、牢獄にいるソクラテスは「クリトン」に、ソクラテスの死は「パイドン」に描かれています。「パイドン」の最後の部分は是非ご自分で読んでみてください。中央公論の世界の名著も読みやすいと思います。
とにかく、「ソクラテスの死」は、彼の周りにいた人々に強烈な印象を与えました。強烈な印象というよりも、謎を残してソクラテスは去っていったような気がします。一体、ソクラテスは何者だったのだろうか。ソクラテスは、何故死ななくてはならなかったのだろう。ソクラテスは裁判の最後の量刑の際に、自分は決して罪に当たるようなことはしていない。自分はアテネのために尽くしてきた。もし、自分に何かをしてくれるなら、オリンピックの勝者に対して、国家がもてなしをしてくれる、あのプリュタネイオンの宴に招待して欲しい、などと言いました。このことは当然ながら、裁判官たちの心証を悪くしました。ソクラテスは何故、裁判の席で、自らの死を招くような発言をしたのだろうか。また、刑の執行に至るまで、いくらでも逃亡することはできました。逃亡をすすめる人々に対して、ソクラテスは逆に、逃亡の不当性を説きました。不正な対処に対して、不正をもってかえすのはよくないとか、「悪法もまた法なり」とか言われますが、そのようなことでは割り切れない思いが、ソクラテスを愛した人々には残ったと思います。また、ソクラテスは、幸福になるためには知恵が必要だと言いました。しかし、その知恵をソクラテスは持っていないとも言いました。それなのに、彼はあのように落ち着いて死に赴きました。ソクラテスは、一体何を考えていたのだろうか。「パイドン」の最後に、プラトンは次のように書いています。“これが、エケクラテス、ぼくたちの友、ぼくたちが知るかぎりでは同時代の人々のなかでもっともすぐれた、しかも最も賢い、最も正しいと言うべき人のご最期なのでした。” そのもっとも正しいソクラテスが、何故、国法の名のもとに、およそソクラテスにふさわしくない死にかたをしなくてはならなかったのか。この謎は、やがて、ソクラテスをこよなく愛したプラトンによって、壮大な哲学に結実することになるでしょう。
最後に、「ソクラテスの弁明」の最後の箇所についてお話をして、この章を終わりたいと思います。
「弁明」の最後に、ソクラテスは少しの時間だけ、自分に無罪の票を投じてくれた裁判官たちに(そのような人々のみを、彼は真の意味で「裁判官」と呼びました)、親しく語りかける場面があります。ソクラテスが法廷で話をしている間に、不思議なことが起こりました。ソクラテスに絶えずつきまとって、彼が何か悪しきことをしようとすると、頻繁にそれを制止してきた神の声(ダイモニオン)が、何故か、この日に限って何もなかった。神の合図が何もなかったことは、恐らく、ソクラテスがしようとしていること、結果的にはそれが彼の死を招くことになるのですが、そのことがソクラテスにとって何か善いことであるはずと、ソクラテスは考えました。そして、考えてみて欲しい、と彼は言います、死というものは二つのうちのどちらかのはずです。全くの「無」のようなもので、死んでしまえば何も感じないことか、あるいは、言い伝えにあるように、魂がこの世からあの世への旅立ちなのかです。もし、前者のようなものであるなら、つまり「死」というものが何の感覚もなくなる、夢一つみない眠りのごときものであるなら、それはよいことではないだろうか。誰だって夢一つみずに熟睡したあと、目覚めたとき、こんな素晴らしい夜をもう一度味わうことができたらと思うはずです。また一方、「死」がこの世からあの世への旅立ちだとするなら、これ以上の嬉しいことはないはずです。かの世では、彼は思う存分、過去の知者と語り合うことができるのだから。いずれにしても裁判官諸君、諸君には「死」というものについて、よい希望をもってもらわなければなりません。善い人には、生きているときも、また死んでからも、悪しきことは一つもないのです。・・・・
しかし、もう終りにしよう。時間だ。もう行かなくてはならない。私はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかし、われわれの行く手にまっているものは、どちらがよいのか、それは誰にもはっきりとはわからない。神でなければ。
「ソクラテスの弁明」はこのような言葉で終わっています。次章からプラトンです。
注:筆者が高校の教師として高3の担任をしていた時、某有名進学塾の書類一式が入った紙袋を受け取ったことがありました。紙袋の表紙にギリシア語で大きく、ΓΝΩΘΙ ΣΑΥΤΟΝ ΦΩΣ と書かれてあり、次のような説明がありました。塾訓で「汝自らを求めよ」のギリシア文字、「グノーティサウトン」と発音する。これを見たとき、思わず笑ってしまいました。どのような意図でこのデルフォイの言葉を塾訓にしたのかわかりませんが、あれは誤訳でしょう。それにポース(ΦΩΣ)という言葉も気になりました。この言葉がデルフォイの銘にあるものか知りません。しかし、この言葉は、神に対する人間を意味します。だから、本来は「(神ならぬ)人間よ。身の程を知れ」という意味でしょう。もしかしたら、「受験生諸君、受験校は高望みせずに、等身大でいきなさい」というブラックユーモアをこめているのかもしれませんね。
第9回 政治の道と哲学の道
~プラトンの生涯~
今回からプラトンのお話に入ります。プラトンは大きすぎて、僕の手に余る、というのが正直な思いです。ソクラテスにならって、知らないことを知らないというのが正直な哲学の始まりというならば、「ごめんなさい、プラトンのことは話せません。」というのが一番ではないかと思います。
雑談を一つ。僕たちはプラトンの何を知っているか、という点でも、よく考えると分からなくなります。プラトンは自分の作品のなかで、注意深く自分のことを隠しています。プラトンが自分のことを「対話篇」の中で書いているのは二箇所だけです。一箇所は、「弁明」。プラトンは列席していて、ソクラテスに罰金を支払うようにすすめた友人の一人として。もう一箇所は、「パイドン」。ソクラテスの死に際して、プラトンは病気で寝ていた、つまりプラトンはソクラテスの死の場面に居合わせなかった、と記されています。その上、プラトンという名は本名ではなくあだ名です。本名はアリストクレス! プラトンとは“肩幅の広い人”という意味です。でも、どうでしょうか。皆さんが自分の名を呼ばれる時、もし、ペンネームや芸名で呼ばれたらどうでしょうか。その名前に皆さんが慣れていて違和感がないとしても、もしかしたらその名前を気に入っていたとしても、本当にその名前によって「あなた」が呼ばれているように感じるでしょうか。僕にはそうは思えません。プラトンの場合はどうでしょうか。本名を隠して、「対話編」の中では、自分のことを注意深く隠したプラトン。あなたは、本当は何ものでしょうか。そんなことを思うと、怖くてプラトンのことを話すことができなくなります。
プラトンは常々、次のように言っていたそうです。自分は神に四つのことを感謝している。人間として、ギリシア人として、男子として、そしてソクラテスと同時代のアテナイ人として生まれたこと。人間、ギリシア人、男子、アテナイ人という順番も面白いと思いますが、最後に、ソクラテスと同時代のアテネに生まれたことと言っています。また、「パイドン」の最期の言葉も印象的です。“これが僕たちの友、僕たちが知る限りでは同時代の人々の中で、最もすぐれた、しかも最も賢い、最も正しいと言うべき人のご最期なのでした。”プラトンにとって、ソクラテスとはどんな人物だったのでしょうか。そんなことを念頭におきながら、プラトンの伝記を紹介したいと思います。
プラトンは、ソクラテスの場合とは異なり、本当に名門の出でした。父アリストンは、伝説におけるアテネ最後の王コロドスにつながる家系でした。母ペリクチオネの血筋は、民主政治の祖ともいえる、ソロンの改革で有名なソロンにつながります。このように両親とも名門の出で、一族にも歴史的に有名な人物が多く出ました。ソクラテスの弟子になったのが20歳のころとの説もありますが、プラトンがソクラテスを知ったのはもっと幼いころからです。幼少のころから、年長の身内の者たちとともに、ソクラテスと親しく接触をしていたはずです。しかし、始めからソクラテスのことを理解したわけではありません。プラトンは手紙の中で次のように言っています(注1)。“わたしも、かつて若かったころは、じっさい、多くのひとたちと同じような気持でした。自分自身のことを支配でくるようになりしだい、すぐにも国家の公共活動へ向おうと、考えたわけです。”若い頃のプラトンは、当時のアテネの青年の一人として、政治家になって国事に携わることを考えていました。実際、名門の出であったプラトンにとって、何回か政治に携わる機会がおとずれました。23歳のとき、ペロポネソス戦争が、アテネの敗北により終結しました。プラトンの母の従兄にあたるクリティアスや叔父のカルミデスらによって、30人政権と呼ばれる新政権が樹立されました。そのとき、プラトンも、仲間に入るように誘いを受けました。しかし、期待は裏切られます。新政権はスパルタと結んで、政敵を殺す恐怖政治を行ったのです。“わたしは、憤懣やるかたなく、当時の悪風からはきっぱりと身を退きました。”しかし、30人政権は間もなく崩壊します。もし、この政権が早期に倒されなかったら、政権の不当な命令を拒否していたソクラテスは、処刑されていたでしょう。アテネには民主制が再び回復しました。プラトンはこの新政権には、好意的な気持をもっていました。実際政治に参加したいというプラトンの意欲が、徐々に蘇ってきました。しかし、そのとき、ソクラテスの裁判と処刑という、衝撃的な事件がおこりました。プラトンが28歳のときでした。
ここで、ソクラテスの裁判について、少し解説をします。
ソクラテスの裁判の内容と結果については、すでにお話しました。不敬罪と青年への悪影響が、その訴状の内容でした。しかし、現実は複雑なものでした。ペロポネソス戦争後の混乱の一つに、民主制支持者と寡頭制支持者の対立がありました。30人政権という寡頭派は、民主派を弾圧して、多くの処刑を強行しました。やがてポリスを二分するこの対立に妥協が成立し、新たな民主制が成立します。妥協とは、過去の政治的立場は、今後一切詮索しない、それを理由に処刑などしない(注2)、というものでした。ソクラテスは元来、公の政治には可能な限り参加せず、一私人としての生涯をおくりました。だから彼は寡頭派ではありませんでした。しかし、彼は衆愚政治には反対をしていました。“息子の馬術の先生を決めようとする父親は、なるべく馬術のうまい人の中から熱心に探すくせに、ある意味では、息子の先生より大事な国の運命をまかせる役人を、希望者の中からくじで選んで平気でいるのはおかしい”。ソクラテスを訴えた人々は、ソクラテスを危険人物とみなしました。ソクラテスは影響力の強い人でした。また、ソクラテスの身近にいた人々の中から、寡頭派の人々やアルキビアデスのような、アテネの運命を誤らせた人物もでました。しかし、アムネスティアのために、そのことでソクラテスを訴えることはできません。そこで持ち出されたのが、昔、アリストファネスが著した「雲」という喜劇作品でした。そこでソクラテスがどのように描かれているかはお話しました。結果は、お話をしたように、小差で有罪。量刑に当たっては、ソクラテスの挑発的な発言もあって、大差で死刑が決定しました。
ソクラテスの刑死は、プラトンにとっては衝撃的事件でした(注3)。ソクラテスの死と当時のアテネの政情を思うとき、プラトンは“とうとう眩暈がしてきました。”と言っています。誰よりも正義の人であったソクラテス、30人政権の時代に、告発者アニュトスの味方の一人を逮捕するよう命じられた時に、生命を賭けて、あえてその命令を拒絶したソクラテス、そのソクラテスが、国の法律のもとに、およそ、彼に似つかわしくない罪状のもとに、死刑になった。恐らく、プラトンはそのときまでソクラテスのことを正しくは理解していなかったでしょう。しかし、今や、ソクラテスの死を通じて、ソクラテスを奪われて初めて、ソクラテスが自分にとってどのような存在であったかが、明確になってきました。人は大切なものを失ったとき初めて、そのことの大切さの自覚にいたります。
この「事件」を通じて、プラトンの中で、二つの人間の生き方が自覚されてきました。一つは、以前から彼自身が目標としていた政治の途(みち)。あと一つは、ソクラテスが歩んだ哲学の途。前者は、青年プラトンが目指してきた途であると同時に、当時のアテネの市民として、国事に携わることこそ男子一生の仕事としてふさわしいものと考えられていた生き方でした。一方で、ソクラテスは生涯を通じて、可能な限り公の仕事から遠ざかり、私人として「人間にとって善とは何か」を問い続けました。この二つの生き方は、異なるばかりではなく、相矛盾するものでした。プラトンはこう書いています。一部の権力者たちが、ソクラテスには似つかわしからぬ罪状を押し付けて、法廷へ引っぱり出し、死刑にした。ソクラテスは、政治の場面で殺されたと言えます。ソクラテスの歩んだ途と、当時のアテネの市民の多くが男子一生の仕事として最もふさわしいと考えていた政治の途、どちらがもっともふさわしい生き方か、このような問を胸に秘めて、プラトンはアテネを飛び出しました。
ソクラテスの刑死の後、プラトンはアテネを飛び出し、いわゆる「遍歴時代」に入ります。メガラ、キュレネー、エジプト、南イタリア、シシリーなど。南イタリアでは、ピュタゴラス学派の考えを知ることになりました。この頃から、プラトンはソクラテスを主人公にした幾つかの対話篇を書き始めました。どのような気持から、プラトンは対話篇を書き始めたのでしょうか。恐らく、犯罪者として刑死したソクラテスの真の姿を、アテネの人々に伝えるためでもあったでしょう。しかし、その作業は、生前のソクラテスの言動が何を意味していたのかを、自分なりに再確認することになりました。結論としては、“国政にせよ、個人の生活にせよ、およそそのすべての正しいあり方というものは、哲学からでなくしては見きわめられるものではない”と確信するにいたりました。この確信は、やがて、彼の「国家」の中で哲人王の理想へと結実することになります。
少しだけ、「国家」について、雑談めいたお話をさせてください。
プラトンの「国家」(ポリテイア)は、プラトンの対話篇の中では大作で、プラトンの代表作であると同時に、彼のいわゆる「イデア論」が語られていることでも有名な作品です。「国家」の副題は“正義について”となっていて、“正義とは何か”という問いから始まり、個人の正義を問うことのむつかしさから、もう少し大きな規模の国家の正義を問い、言葉によって理想の国家を構築することになります。また、理想国家の実現のための唯一のありかたとして、哲人王の思想が表明されます。これはプラトンが書簡で語っている「真に哲学をしている人が支配者となるか、あるいは支配者が真実に哲学をするようになるかが実現されるまでは、人類は禍から免れることはない」との確信を(多くのためらいの中で)言葉にしたものでした。この作品の中には、プラトンの説く魂の三分説が展開されます。魂には理性的部分、気概的部分、欲望的部分の三つがある。たとえば、あることについてああしたいと思う一方で、それはいけないと考えることがあります。欲望的部分と理性的部分の分裂です。その時、そうあるべきならばそうしようと頑張り、理性的部分に従うとき、魂の気概的部分は働いたことになります。プラトンは魂の欲望的部分のあるべき姿は節制で、気概的部分のそれは勇気で、理性劇部分のあるべき姿は知恵であるとし、それぞれがそのあるべきアレテー(徳)を発揮して三つが調和するとき、魂の正義が実現すると考えました。同じように、国家には三種類の人間がいて、欲望的部分が強い人間は庶民、気概的部分が強い人間は軍人、理性的部分が強い人間は哲学者となり、それぞれがそのあるべき徳、つまりアレテーを発揮して調和を保つとき、ポリスの正義が実現し、理想の国家となると考えました。プラトンの説くこの知恵、勇気、節制、正義は、ギリシアの四元徳として有名になりました。
プラトンのこの「国家」は、昔から議論の多い作品です。とりわけ、哲人政治と財産の共有の考えは、批判の対象となりました。僕も「国家」については、解説書を読んだだけで、たとえば財産の共有、(役割分担的ではあるが)三つの身分の別(知恵のある哲学者、勇気のある軍人、欲望しかもたない庶民)という内容を見て、それだけで真剣に「国家」を読んでみようという意欲すらおこらなくなりました。だから、「国家」の6~7巻のイデアについての部分のみ、拾い読みする程度でした。でも、ある機会に、「国家」の全体を通して読んで、そのイメージが変わりました。「国家」のテーマは“正義とは何か”です。実際、正義とは不思議なものです。たとえば、皆さんが先生から不当な扱いを受けたり、エコヒイキをされたりした場合どうでしょうか。すぐに、自分が不当な扱いを受けた、と感じるのではないでしょうか。そして、それは正しくないと、心の中で叫ぶはずです。なぜなら、誰でもある意味では“正義とは何か”を知っているからです。たとえ正義とは何かを言葉で明確に表現することができなくとも、誰もが“正しくないこと”に出会うと、それは“正しくない!”と言うことができるという意味で、誰もが“正義”を知っています。これは重要なことです。プラトンが生きた時代、ポリスは混迷をきわめていました。人の心も、ある意味では、底なしに濁っていました。プラトンの著作の端々にある、絶望的な人間の在り方への批判的描写に、そのような事態の深刻さを垣間見ることができます。その点では、現代の社会の混迷と共通するものがあると思います。このような中で、人間を、そしてポリスを、再構築するにはどうしたらよいか。その糸口を、プラトンは誰の心にもまだ(わずかに)残されてある“正義”に求めたように思います。プラトンは「国家」のなかで、不正は人々を分裂させるが、正義は人々をまとめる、というような意味のことを言っています。
40歳の頃、アテネに帰ってきたプラトンには、自分のすすむべき途が明らかになっていました。ソクラテスの歩んだ哲学の途こそ、政治の途に劣らず、それ以上に、人間の一生をかけて歩むに値するものであることを、自他ともに確認すること。哲学を確立することでした。具体的には、アテネの郊外のアカデモスに、学園を建設することでした。青年たちに自分の哲学の目的に沿った教育を授け、理想国家の統治者たるべき資格をそなえた人材を育成することでした。アカデメイアと呼ばれたプラトンの学校の設立は、BC387年のプラトンが40歳の頃でした。今ひとつは、著作活動です。彼の主著ともいえる「国家」はアカデメイアの学頭時代の初期に完成しました。
とにかく、アテネに戻ってきたプラトンの後半生は、アカデメイアの学頭として活動した時代でした。「ゴルギアス」という作品において、政治の途に決別をして、哲学の途を選ぶと宣言をしたプラトンでしたが、真の哲学からのみ理想の国家が存在しうるとの確信をいだいていたプラトンは、現実の社会から逃避して思索にふける哲学者ではありませんでした。プラトンが60歳と66歳の時に、彼はシュラクサイ(シシリー島)に出かけています。20年ほど前の遍歴時代に知り合い、信頼している友人のディオンの要請で、シュラクサイの若い君主の教育のため、また、シュラクサイで彼の理想の政治を実現して欲しいとの強い要請をうけての出国でした。結果は、プラトンが恐れていたように、失敗に終わりました。プラトンの中では、政治と哲学の緊張は晩年まで続いていました。
プラトンのアカデメイアは、その後900年間ちかく、ローマ皇帝のユスティニアヌスの禁令まで、続くことになります。Academicという言葉は、学問的ということを意味するようになりました。次回から、プラトンの内容に入りたいと思います。
注1:岩波書店 プラトン全集14 書簡集を参考にしました。
注2:この妥協はアムネスティアと言いました。アムネスティアとは「覚えていないこと」(忘却)という意味ですが、転じて「恩赦」という意味にもなります。世界中の「良心の囚人の解放」や「死刑制度に反対」をめざしている国際的NGO組織のアムネスティ=インタナショナルのことは皆さんもごぞんじでしょう。
注3:以下のプラトンの伝記の解釈に関しては、岩波書店 岩波講座 哲学16 の藤沢令夫氏に教えられるところが多くありました。
第10回 名誉・名声こそ人間の幸福
~プラトン 「ゴルギアス」1~
今日は。皆さんの中には、冒頭にソクラテスの肖像があるのを、いぶかしく思っている人もいると思います。もうソクラテスは終わったはずだと。実はこの章から、プラトンの「ゴルギアス」という作品のお話をします。プラトンの作品は、皆さんも知っているように、「対話篇」と呼ばれ、ソクラテスが主人公となって、人々と問答をするという形式で、登場します。そんなわけで、再びソクラテスに登場してもらったのです。この「ゴルギアス」の話が進む中で、皆さんがこのソクラテスのことをどのように考えるようになるか、嫌なやつだと感じるか、素晴らしいと感じるか、それとも無関心になるか・・・・・どうでしょうか。楽しみです。
PROBLEM
前章で、ソクラテスの死という「事件」を通じて、プラトンに自覚されてきた二つの生きかたのお話をしました。「善く生きるとは」、「美とは」を問いつつ、魂をより善いものにして生きようとするソクラテスの生きかたと、現実の社会の中でたくましく生き、国事に携わり、現実を指導しながら生きる政治の途です。この両者の生き方が相互に矛盾するものであることが、プラトンによって自覚され、プラトンはアテネを飛び出した、というお話をしました。今回から三章にわたって、この問題に対して、プラトンがどのような答えを出したかを、プラトンの「ゴルギアス」という対話篇を通じて、確認しようと思っています。
ちょっと雑談を一つ。随分昔になりますが、昼間のテレビ番組でこんな番組を見たことがあります。関口ひろしさんの番組で「100人の人にききました」という番組がありました。100人の人に質問をして、その答えがイエス・ノーの数で電光掲示板に示されるものでした。それと同じように、企業の経営者・会長100人をスタジオに招いて、質問をして、イエス、ノーの返事をしてもらうものでした。番組としては他愛のないものでしたが、最後にアナウンサーが、次のような質問をしました。「現在の日本を動かしているのは、自分たちだと思いますか。」この質問に対する答えを見たとき、僕は不思議な気持がしました。99人がイエスと答えたのです。不思議な気持というよりは、反発の気持を含んだ疑問といったらいいでしょうか。一体、この人たちは何を考えているのだろうか。彼らが動かしていると自負している現実の世界には、僕も含めて、多くの人たちがいるはずです。古典的な表現を使うなら、名もなく、貧しく、美しく生きている沢山の人々がいるはずです。それらの人々を含めて、この現実の世界を、自分たちが動かしているということは、一体、どういう意味だろうか、と思いました。
今言った疑問は、実は、ソクラテスの死を契機に、プラトンが感じた疑問に通じるものがあるように思います。ソクラテスは常々“ただ生きるだけでなく、善く生きることが問題だ”と言っていました。そのようなソクラテスは、現実の政治の場面で死ぬことになりました。ソクラテスのような生き方は、現実の社会の中では意味がないものなのか。社会を動かしていると自負する人々の前で、正しく生きることは、何の力にもならないものなのか。
プラトンがこのような問題を正面から取り扱った作品に、「ゴルギアス」と「国家」があります。プラトンは「ゴルギアス」ではカリクレス、「国家」ではトラシュマコスという人物を登場させて、ソクラテスの生きかたに対して、挑発的な問いをたてます。両者とも、社会の現実の厳しさを強調して、ソクラテスのような生きかたが、非現実的であると非難します。そして、両者とも「自然の正義」を主張します。つまり、人間の内実は欲望以外には何もない。人間にとって確かなことは、快楽を求めていること。そして実際に、強いもの、権力を掌握しているものは、自由に思い通りに欲望を満たすことができる。弱いものを支配し、強者が思い通りに生きること、弱肉強食こそ、自然のありかたで、これこそ“自然の正義”という。それに対して、自分も本当は欲望を満たす生活がしたいのにできない弱者は、強いものをねたんで、“欲望のままに生きることはいけない”“節制せよ”“人のものを奪ってはいけない”等々の道徳をつくりだしたのだ。道徳の起源は、弱者の強者への僻みにすぎない(弱者の道徳!)と主張します。それほど、ソクラテスが主張する、“善く生きること”、“正しく生きること”は無意味なものだと、厳しくソクラテスに迫ります。さらに、「国家」では、“ギュゲスの指輪”の話が紹介されます。ギュゲスの指輪とは、魔法の指輪で、それをはめている人は、自由に姿を消したり現したりすることができます。一度、この指輪を手にした人は、日頃、道徳的なことが大切だといくら言っていても、誘惑に負けて、自分の好き勝手なことをしてしまうだろう。
皆さんはどうでしょうか。もし、皆さんがギュゲスの指輪を手に入れたらどうでしょうか。自分が何をしようと、誰からも見られず、従って、どんな罰も受けることなく、自分の好きなことを、何でもできる立場に立つことができたらどうでしょうか。ソクラテスに対抗したカリクレスやトラシュマコスは、当然、人間ならば自分の好き勝手なことをするはずだと言います。あなたならどう考えるでしょうか。自分自身の心に問いかけてみて下さい。これからお話をする「ゴルギアス」は、ある意味では、その問に対するプラトンの答えだと思います。
そのようなことをふまえたうえで、これから「ゴルギアス」を扱いたいと思いますが、「ゴルギアス」を扱う理由を幾つか、次にあげてみます。
○ ソクラテスの死をめぐって、善く生きるということは、現実の中で無意味なことか。現実の大きな力の前では、そのような人間は、嵐の中の木の葉一枚に過ぎないのか。ソクラテスは犬死か。正直者は馬鹿をみる・・・の現実は本当か。だとするなら、ソクラテスが「弁明」の最後に言っていることはどうなるのか。
“しかしながら、諸君にも、裁判官諸君、死というものに対して、よい希望をもってもらわなければならないのです。そして善き人には、悪しきことは一つもないのであって、・・・・”
この問題を「ゴルギアス」は扱っています。
○ アリストテレスの作品の中に、次のようなことが載っているそうです。コリントの農夫が、「ゴルギアス」を読み、感激してすぐに農業をやめて、種を植える代わりに、自分の心にプラトンの教えを種として植えるために、プラトンに弟子入りした、というものです。一介の農夫に、自分の職業をなげうたせてひきつける魅力を、プラトンのこの作品はもっているというのでしょう。一体、どのような魅力なのかを考えてみたいことです。
○ また、新プラトン学派では、プラトン哲学への入門書として、幾つかの対話篇の一つにプラトンのこの「ゴルギアス」をあげています。「ゴルギアス」はプラトンの哲学への入門的な意味があります。
○ また、プラトンの作品の中で、この「ゴルギアス」が一番現代的な問題を扱っているといわれることがあります。どのような点でそう言われるかは、皆さん自分で考えて下さい。
等々、いろいろと理由がありますが、とにかく、この対話篇はとても面白いと、少なくとも僕は、思います。そして、プラトンのソクラテスへの思いも、また、ソクラテスを殺したアテネの市民たちを、激しく断罪している場面もあります。皆さんと一緒に味わってみたいと思います。
「ゴルギアス」
この対話篇では、副題が示すように、弁論術が問題となっています。“弁論術”とは、当時のアテネの青年にとって、“政治の途”に参加するための“必修科目”のようなものでした。プラトンは“弁論術”とは、一体何なのかを問うことによって、当時のアテネの市民たちが考えていた意味での“政治”を、さらには、当時のアテネの社会自体を、吟味しています。その意味では、この「ゴルギアス」は“政治”に対する“哲学”からの挑戦です。それは、ソクラテスを殺した当時のアテネに対する、プラトンの告発であり、アテネの市民として、若い頃から政治に志していたプラトンの、“政治の途”にたいする決別の書でもあります。
対話篇の登場人物、は全部で5人です。
ソクラテス:60歳前後?の年齢に設定されています。
カレイポン:彼の名前は、アリストファネスの「雲」でも、また「弁明」でも出てきましたから、皆さんには、もうおなじみの人物ですね。ソクラテスに、例の神託をもたらした人物です。ソクラテスの熱心な信奉者であり忠実な従者でもありました。
ゴルギアス:アテネの市民からも、その弁論術の故に、広く尊敬されている弁論家で、シシリー島の出身です。
ポロス:ゴルギアスの弟子で、弁論術の熱心な信奉者として登場します。人物としては、当時の社会の常識人といえます。
カリクレス:アテネの新進気鋭の政治家。教養もあり、弁論術も身につけています。ゴルギアスは、彼の家に泊まっていることになっています。この時代の風潮、ないしは生きかたを具現化した、典型的な“時代の子”として登場します。プラトンの対話篇に登場する人物は、たいていは実在の人物ですが、このカリクレスは、実在の人物と確認されていません。もしかしたら、プラトンが創作した架空の人物か、または、後で紹介するように、あのような過激な思想の持ち主は、長生きできずに、名前を残す前に死んでしまったのかもしれません。
構成は、三部よりなり、前後にプロローグとエピローグがおかれています。プロットは、すべてソクラテスと誰かとの対話形式で進みます。問題の中心は、政治に参加するために必要な道具としての、弁論術とは何かという問であり、さらには、そのような弁論術を必要とする、政治とは何かに移り、実際の政治家であるカリクレスとソクラテスとの対話でクライマックスに達します。
プロローグ
高名なゴルギアスが講演をしているというので、それを聴くために、ソクラテスとカイレポンが会場へ急ぎます。会場に到着すると、すでに遅かったようで、カリクレスから、もう講演は終わってしまったことが知らされます。カリクレスは、ソクラテスが望むなら、ゴルギアスは彼の家に今日は泊まることになっているから、何時でも訪ねてきてもよいといいます。しかし、まだ中でゴルギアスが質問を受けているようなので、ソクラテスたちも質問をしてもかまわないだろうかと確認した後、中に入ってソクラテスのゴルギアスの対話となります。
第一部 ソクラテスとゴルギアスとの対話
ゴルギアスとの対話では、“弁論術は人間が習得すべき素晴らしいものだ”とするゴルギアスと、“弁論術などあまり意味がない”とするソクラテスとの間で、“弁論術とは何か”が争われます。
ソクラテスの“ゴルギアスは何者だ”との問いから、問答が始まります。弁論家であるとの答え。そこから“弁論術とは何か”との問に向かいます。結局、弁論術とは“人を説得する術”ということになります。ゴルギアスは主張します、弁論術とは素晴らしいもので、弁論家は偉大である。弁論術さえ身につけていれば、人々を説得することによって、政治を支配して、何でも思い通りのことができる。
ゴルギアスは、自分は病気の人に対して、医者よりも説得力があると豪語します。手術を拒絶する患者に対して、手術を受けるようによく説得できるのは、医者よりも自分(弁論家)である、その意味では、弁論家はその道の専門家よりも説得力があると主張します。ソクラテスの反論は、ゴルギアスとの一問一答で進められますが、要約すると次のようになります。人を説得するという場合、二種の説得がある。一つは知識によるもの。後一つは信仰、つまり、相手を信じ込ませること。例の医者よりも弁論家のほうが説得力があるという場合、弁論家の説得は後者になる。そして、弁論家が医者よりも説得力があるというのは、医者の前ではなく、医術の知識のない人々の前であるから、結局、弁論術の説得とは、次のようになります。無知なもの(弁論家)のほうが、知識のあるもの(医者)よりも、無知なもの(医術の知識のないもの)のまえでは説得力がある、ということに他ならない。弁論家とは、事柄そのものについての知識はなくても、何らかの方法をみつけて、無知なものが無知なものの前で、彼らを信じ込ませることに過ぎない、と決めつけます。
ドッズという学者が「ゴルギアス」の注釈(注)の補遺で、次のように言っています。“「ゴルギアス」は、プラトンの対話篇の中で、最も現代的な(modern)な作品である。それが提起する一対の問題、すなわち、民主主義におけるプロパガンダの力をいかにコントロールするかと、伝統的価値は崩壊していくなかで、道徳的価値を如何に再構築するかは、20世紀の最も中心的問題である。” 現代社会で繰り広げられている、さまざまのコマーシャルや政治演説は、知識にもとづく説得ではなく、ムードや流行、感情に訴えるなど、ソクラテスから言わせると、さしずめ、現代の弁論術と言えるのではないでしょうか。
ゴルギアスの窮状をみかねて、ゴルギアスの弟子のポロスが対話の中に入ってきます。ポロスは、ソクラテスが質問ばかりしているのはずるいと言います。質問をしてゴルギアスが答えると、その言葉尻をとらえて反論する。むしろ、ソクラテスこそ、弁論術を何と心得るか答えて欲しい、と言って、ポロスが登場して第二部が始まります。
注:PLATO GORGIAS A Revised Text with Introduction and Commentary
by E.R.DODDS OXFORD P.387
第11回 思い通り生きること
~プラトン「ゴルギアス」2~
前回の続きです。前回は、ゴルギアスとソクラテスとの対話のお話でした。弁論術こそ、デモクラティアの体制のなかで、最も大切で偉大なものであるとするゴルギアスに対して、ソクラテスの反論は次のようなものでした。弁論術とは一種のごまかしで、ただ、“無知な者の方が、知識のある者よりも、無知な者の前では、説得力があるということに過ぎない”。ゴルギアスの窮状をみかねて、弟子のポロスが対話に割り込んできて、第二部のポロスとソクラテスの対話が始まります。
第二部 ポロスとの対話
ポロスとの対話では、第一部に続いて弁論術が問われるが、ここではゴルギアスとの対話では主題とならなかった“人間の生きかた”“人生観”が前面に出てきます。「弁論術を使って現実の政治の指導者になって、自分の思い通りのことができる権力をもつことができるとしたら、それは素晴らしいことで、そのような権力者は幸せだ」とするポロスと、「そのような生きかたでは、人間の幸福は得られない」とするソクラテスの間で論争が行なわれます。しかし、ポロスの立場は、後で登場するカリクレスに比べると、徹底されているとは言えません。ポロスの人間観は、「人間は“善いこと”をしたいと思っている」という立場にたっているが、そのような立場が彼の“幸福観”と矛盾する点がソクラテスに指摘され、対話の主役は、ポロスからカリクレスに移り、「ゴルギアス」はクライマックスを迎えます。
ポロスは、ソクラテスが人に質問ばかりして、自分では何も問題について積極的なことを言わないことを咎めて、ソクラテス自身は弁論術を一体何と考えているのかを尋ねます。
ソクラテスは、率直に言わせてもらえば、弁論術は一種の“へつらい”であるといいます。中身を、真に善いもの、正しいものにするのではなく、外見を飾って、そのように見せかけるものと決めつけます。その上で、真の政治と弁論術の関係は、体育術と化粧法、医術と料理法の関係と同じとされます。体育術が身体を鍛えて健康にするのに対して、化粧法が身体にオリーブ油を塗りたくって、外見を健康そうにみせようとするように、また、医術が病気を治療して健康をつくりだすのに対して、料理法は調味料を工夫して食べる人が美味しいと感じ、健康であると思わせるように、真の政治は、国民をより善いものにするのに対して、弁論術は国民に耳に心地よく響くことを言って、自分の考えに賛同させるごまかしにすぎない、とソクラテスは決めつけます。
弁論術を料理法なみの“へつらい”とされたポロスは、激高して言います。“弁論家こそ、その国の最大の実力者ではないか”、“弁論家には力がある”、“弁論家は何でも思い通りのことができる”。
弁論家には力がある、何でも思い通りのことができる、というポロスの主張に対するソクラテスの反論は、彼自身が“鉄と鋼の論理”と呼んだもので、この「ゴルギアス」という作品の中心的な内容の一つです。これはポロスとソクラテスとの間の一問一答を通じて、つまり、ソクラテスの問答法を通じて、両者の間に合意を積み重ねて明らかになるものですが、今はその筋だけをまとめてみます。ソクラテスはまず、人間の行為はその行為自身というより、何か益になること、善をめざしていることを確認します。例えばクスリを飲むことは、苦い薬を飲むこと自体を目的としているのではなく、健康になることをめざしている。つまり、人間は何をするにしても“善”を望んでいることが確認されます。ということは、“力がある人”とは、本当に自分が望んでいる善を実現できる人ということになります。そのためには、何が善であるかを知らなくてはなりません。つまり、“思い通りのことができる”ということとは、“自分の本当に望んでいることができる”ということと同じではありません。真に善であること、自分に本当の意味で益になることを知らなくては、ちょうど目標が見えない闇の中で矢を射るようなもので、それが偶然的に命中したとしても、それはその人の力とは言えません。そして、今までの論理のつながりで言うと、弁論家はその道の専門家と比べて、知識がないということになっています。(知識がなくとも、その道の専門家よりも説得力があるというのが、ゴルギアスの自慢でした)とすれば、いくら弁論家が自分の思い通りのことができる権力をもとうと、自分が真に望んでいる善を実現できなくて、どうして力があると言えるでしょう。
人間は善をめざす。それ故、真に力があるとは、自分のめざしている善が何かを知り、それを実現できることに他ならない。思い通りのことができても、それだけでは、自分の真に益になることができるということにはならない、という論理は重要です。よくソクラテスの主知主義と言われます。(“徳は知である”という言葉で表現されます)。人は善いことを知っていればそれをするし、悪いと知っていればそれはしない。大切なことは知ることである。このような主知主義です。このときの善悪とは、単なる道徳的な善いことや悪いことではないでしょう。善とは、真の意味で“ためになること”、“幸福”と考え、また、悪とは、その反対で、“ためにならないこと”、“不幸”とするなら、人は善を知っていればそれを行い、悪と知っていたら行わないということになります。
卑近な例で言えば、現代社会で自分の思い通りのことができるのは、経済的に豊かな人たちでしょう。でも、その人たちが真に豊かで幸福でいるでしょうか。何が本当に自分にとって幸福かの判別すらできずにいて、幸福であるといえるでしょうか。また、現代社会では、昔の人たちができなかった多くのことができるようになりました。その結果、現代社会に生きる僕たちは、本当に善い人間になったでしょうか。
論理でソクラテスに言い負かされたポロスは、今度は一般常識に訴えます。自分の思い通りに生きることができることを、羨ましくないか、と。それに対して、ソクラテスは、羨ましくない、正しいことでなければ、と言います。それに対してポロスは言います。“あなたに反論することは、何と難しいことでしょう。ソクラテス。でも、子どもだって、あなたが正しくないことくらい知っている。”と言って、アルケラオスの例をあげます。アルケラオスは、不正の限りをつくしてマケドニアの王になった人物であるが、誰からも罰せられることなく、何でも思い通りのことができる立場にある。ソクラテスが何を言おうと、誰でもそのような立場を羨ましいと思うはずだとポロスは主張します。
ソクラテスはポロスが一般常識に訴えたことを批判して、問題は賛成する人の数ではない、それは弁論術の手法である。大切なことは、今ここで話をしているポロスとソクラテスが、この問題において同意できるかどうかだ、とします。
ソクラテスは、ポロスが言っていることは、「不正を犯しても、罰を受けないですむ人は幸せだ」ということと同じであることを確認します。その上で、「ゴルギアス」におけるソクラテスの中心的信念の一つが展開されます。つまり、不正を行う人は不幸である。不正を行うよりは不正を受けるほうがよい。自ら不正を行わずに不正に死刑を宣告されたソクラテスの裁判は、そのことを象徴しているでしょう。
ソクラテスはまず、ポロスに対して、不正を行うことは醜いことであり、それ故、不正は魂に害をあたえるものであることの同意を得ます。(この点に同意をあたえたことが、ポロスがソクラテスの術中に陥る原因になったことは、後でカリクレスに指摘されます。)その上で、人が身体の害悪(病気)にかかったときは医者に行く必要があるように、魂の害悪(不正)となることを行った場合は、裁きを受ける必要があることを主張します。“罰する”というギリシア語がイディオムで“正義をあたえる”という言葉になることからも分かるように、身体の害悪である病気を治すためには手術が必要であるように、不正を行った人は罰を受けることによって、魂を矯正して正しい状態にもどす必要がある。だから、不正を犯さないことが一番だが、もし、不正を犯してしまった場合は、何よりも罰を受けるほうがよい。もし、敵が不正を犯したならば、なるべく罰をあたえないようにすべきだし、もし身内が不正を犯すならば、何としても罰をあたえるように、場合によっては、死刑にすることも必要である。
ポロスとソクラテスの対話を傍らできいていたカリクレスは、ソクラテスの非現実性にずっとイライラしていたが、ついに我慢ができなくなって口をはさんできます。
第三部 カリクレスとの対話
カリクレスとの対話では、ポロスの立場をさらに徹底して、“現実”の社会の問題に焦点が合わされます。ゴルギアスとポロスは“弁論家”であり、“現実の政治”に携わっていません。しかし、カリクレスは“政治家”として“現実”を知っています。第三部では、“真実”とは、“善”とは一体何か、と問いながら生きようとするソクラテスと、“現実の社会”で“弁論術”を武器に生きるカリクレスとの対決、“哲学”と“政治”の対決が主題となります。しかし、この対決の根底には、“ソクラテスの死”が伏線として隠されています。カリクレスの本心には、「いくら上品部って“哲学”などしていても“現実”を知らなくてはだめだ。“現実の社会”では“力”のある者が支配する。政治に携わる者は、その気になりさえすれば、哲学者の一人や二人、簡単に抹殺することができる。哲学とはそれほど弱いもの、無意味なものだ。」という“現実主義”がある。第三部の真のテーマは、そのような“現実主義”に対する“哲学の弁明”でもあります。
カリクレスは、ソクラテスが本当に真面目に議論をしているのだろうか、と詰問します。普通は、敵が不正を行った場合、我々は厳しく追及して罰をあたえようとする。それに対して、もし身内が不正を犯したなら、なるべくかばい、罰をあたえないようにするじゃないか。もしソクラテスが言うことが正しければ、我々は全く逆のことをしているじゃないか。(このカリクレスの言葉は印象的です。僕たちが当たり前の常識と思っていることが、もしかしたら、転倒したものであるということもありえるのでしょう。)ソクラテスはふざけているとしか思えない。カリクレスが登場し、第三部が始まります。
カリクレスは登場するなり、長い演説をうちます。それをまとめてみると次のようになります。
自然の正義
ソクラテスは、ノモスとピュシスを取り違えている。“不正を犯すことは醜いこと”というのはノモスにおいて言えること。ピュシスにおいては、不正を受けることこそ醜いことだ。ポロスがソクラテスの術中に陥ったのは、不正を行うことは醜いと認めてしまったからだ。ピュシスの正義(自然の正義)は、強者の正義である。人を思いのまま支配して、自己の欲望を満たすことこそが、正義といえる。道徳というものは、自分も本当は自由に思い通りに欲望を満たして生きたいと思っていても、そう生きることができない弱者(劣者)が強者に対する僻みからつくりだしたものだ。(弱者の道徳)
哲学は自己を助けることができない。
哲学というのは、現実には何の役にもたたない。青年が一時期に哲学に興味をしめすのはほほえましいし、その青年の資質が豊かであることの証でもあるが、ソクラテスのように年をとっても、そのようなものに関わりあっているのは、むしろ危険である。カリクレスに言わせれば、そういう人間に対しては、横っ面を一発張り飛ばして、現実に目覚めさせてやりたい。例えば、何かの機会に裁判にかけられた場合、弁論家ならば裁判に勝ち、逆に自分を訴えた人物に罰をあたえることもできるが、哲学などにウツツをぬかしていると、現実を知らないから、自分自身を守ることすらできない。それほど哲学とは弱いもの、無意味なものだ。
ソクラテスは、カリクレスの話を聴いて、ある意味では感謝をします。誰もが、もしかしたら心の中に抱いている考えを、率直に表明してくれたことを。しかし、だからこそ、ソクラテスの考えが本物かどうかを試す試金石にもなる、と言い、カリクレスとの対話を始めます。
始めに問題点を明確化するために、ソクラテスは質問をします。
ソクラテス「カリクレスの言う強者、勇者とはどういう人か。」
カリクレス「より力のある者」
ソクラテス「物理的な力ではないだろう」(一人の政治家は10人の歩兵より物理的力は弱いに決まっている)
カリクレス「より思慮のある者」
ソクラテス「何に関して」
カリクレス「国家や公共の事に関して」さらに「より勇気のある者」と付け加える。
カリクレスの説
国家や公共のことに関して思慮と勇気をもち、人々を支配する強者は、より多くのものを持つ。より多くのものを(劣者より)もつことこそ、自然の正義という。
ソクラテスはなおも問題点を明確化するために問答を続けます。
ソクラテス「他人を支配するだけではなく、自分自身も支配(節度、節制)するのか」
カリクレス「節度、節制などは弱者が考えた、単なる美名(ノモス)にすぎない。欲望は大きければ大きいほどよい。その大きな欲望を満たす者こそ、選りすぐれた者」
カリクレスの立場は、次のようにまとめられるでしょう。
現実主義:現実の社会の中で、目に見える効果をもたらすこと以外は信用しない。従って、現実を支配できる力を最高のものと考える。
快楽主義:快楽こそ善という説。人間にとって善とは、快楽以外にない。より多くの快楽を満たすことこそ、人間にとっての善である。
これがカリクレスの立場です。皆さんはどう考えるでしょうか。カリクレスほど極端ではないかもしれませんが、現代社会に生きる人たちは、多かれ少なかれ、彼のような現実主義の立場にたっているように思います。僕が「ゴルギアス」を懲りずに話をしているのは、そのような現実主義に対するソクラテス・プラトンの考えを紹介して、皆さんにも考えてみて欲しいと思うからです。
次回は、カリクレスの世界観・人生観に対する、ソクラテスの全霊をこめた反論です。
第12回 哲学からの告発
~プラトン「ゴルギアス」3~
今日は、今回で「ゴルギアス」は最後です。皆さんの中には、もうソクラテスはいいと思っている人もいるかもしれません。プラトンの作品のおもしろさは、結論として何が書かれているかではなくて、そのような結論にいたるまでの、論理のプロセスです。そんな雰囲気を少しでも紹介したいと思ったので、「ゴルギアス」を三章にも分けてお話しすることになってしまいました。でも、この章でソクラテス中心のお話も最後ですから、もう少しがまんして聴いて下さい。
前回の最後に、カリクレスの立場を紹介しました。現にあるもの、目に見える効果をもたらすことしか信用しない現実主義。確かなことは、「今、ここ」で快楽を求めて生きている自分しかない。それ故、快楽こそ人間にとってたしかな善であり、それ以外は何も信用できない、というものでした。
ソクラテスの反論
それでは「ゴルギアス」のなかで、ソクラテスがどのようにカリクレスに反論したかを紹介してみます。ソクラテスの反論が成功したかどうか、分かりません。19世紀の思想家のニーチェは、この「ゴルギアス」を読んで、カリクレスの説に感激しました。それに対して、ソクラテスは卑猥で醜い、とニーチェは批判します。この「ゴルギアス」に登場するカリクレスは、ニーチェの思想形成に大きな影響をあたえることになります。僕はソクラテスの論理は一貫していると思います。でもそのようなことよりも、僕が初めて「ゴルギアス」を読んだとき、一番印象に残ったことは、文章の端々から、プラトンの怒りが感じられたことです。ソクラテスを殺した当時のアテネの市民たちと、そして政治家たちへの怒りです。皆さんはどう感じられるでしょうか。
快=善説に対して。
始めにソクラテスは、カリクレスがいう人間にとって快楽こそ善であるとの主張に反対しようとします。
ここで少し、雑談というか、解説というか、一言。僕たちは「幸福」を「幸福であると感じること」と同一視しがちです。昔、「いいじゃないの幸せならば」という歌が流行したことがあります。プラトン・アリストテレス、というよりは、古代・中世の哲学全体は、「幸福であること」と「幸福であると思うこと」は別であると考えました。「酔っ払いの幸せ」という言葉があります。昼間から酒を飲んで酔っ払って、路地で倒れながら「俺は幸せだ」と言っている人の場合です。確かに、酔っ払っている当の本人は、自分が幸せと感じているのでしょう。でも、幸福にも「真の幸福」と「偽りの幸福」とがある。真の幸福とは、ただ幸福と思うことではない。自分は偽りの幸福、幻惑された幸福には満足できないという考えです。皆さんはどうでしょうか。カリクレスは、快楽以外の善を認めませんでした。それ故、快楽を満たすことこそ幸福だとします。「ギュゲスの指輪」の話も、究極的にはそのような人間の幸福観にたっているでしょう。善とは快楽に尽きるか、とは、「私はどう生きるか」ということを真剣に問う哲学が、避けて通れない問題だと思います。
始めに、ソクラテスは昔からの賢者の例をあげて、放埓な生活よりも、節度ある生活のほうが幸福であるとしますが、カリクレスは受けつけません。そこで、ソクラテスは皮膚病にかかった人の例をあげます。皮膚病にかかった人は、痒みを和らげるために、皮膚をかけば気持がよいはずです。しかし、かく時の気持ちよさは、皮膚病にとっては悪い結果をもたらします。とすれば、全ての快楽が善いものではないのではないか、との主張です。それに対して、カリクレスは多少動揺します。彼はソクラテスの出す例はいつもくだらないものばかりだと苦情を言いつつも、快楽=善との自説の一貫性を守るために、それで本人が気持ちよければ、それはそれでいいじゃないかと答えます。
そこで、ソクラテスは論理的に、快楽と苦痛は善悪と無関係であることを示します。
カリクレスの立場は、快楽は善、苦痛は悪。より多くの快楽を得ることのできる人こそ優れた強者。多くの苦痛をしのばなくてはならない人は、くだらない、取るに足らない弱者・劣者となります。
ソクラテスによると、快楽とは欠けていることを満たすときに得られるもので、例えば、喉が渇いているときに、水を飲むと快楽を得られる。欠けていること(喉の渇き)は苦痛であり、満たすこと(飲むこと)は快楽である。渇きが激しいほど、快楽も大きい。快楽は渇きがなくなると同時になくなる。渇いていないのに、それ以上に水を飲むことは、むしろ苦痛になる。つまり、快と苦は背中合わせの関係にあり、苦痛がある限り快楽があることになります。もし、カリクレスが言うように、快が善で苦が悪だとすると、快楽を感じている人は(苦痛がある限り快楽があるのでから)善であると同時に悪であるということになる。このような矛盾が生じるのは、快=善、苦=悪とするからで、もともと快楽と苦痛は善悪とは関係ないものである。
この辺りから、カリクレスの返事が次第に歯切れの悪いものになっていきます。
ソクラテスは追い討ちをかけるように、カリクレスが忌み嫌っている「臆病者」の快楽を持ち出します。ソクラテスは、カリクレスに質問をします。例えば、強者(勇者)と臆病者の弱者がいて、敵が攻めてきたときはどうだろうか、両者のどちらが多く苦痛(恐怖心)を感じるだろうか。カリクレスは、両者のどちらも苦痛を感じるだろう、と答えます。それではどうだろうか。敵が逃げていったとき、両者のどちらがより多くの快楽(喜び)を感じるだろうか。君は、より多くの快楽を感じることができるのが強者、勇者というけれども・・・・ここでカリクレスは、ついにこう叫びます。「何を言っているのだ。僕が快楽なら何でも善いとでも思っていると言うのか。臆病者の快楽などは認めない。快楽にも善い快楽と悪い快楽があるのだ。」カリクレスにしてみれば、臆病者の快楽を善として是認することは、許せなかったのでしょう。しかし、これは明らかに、彼の根本的な主張である快=善説を捨てることを意味します。問題は快楽を得ることではない。快楽にも善い快楽と悪い快楽がある。善い快楽とは善に関ることであり、それ故、何が善かを知ることこそ、最も大切なことになるはずです。ここで再び、ポロスとの議論に戻ることになります。大切なことは、何が人間にとっての「善いこと」を知ることである!
弁論術はへつらいではないか プラトンの時代批判
途中で歯切れがわるくなったカリクレスは、ゴルギアスに途中で投げ出さないようにと促されて対話を続けてきましたが、この辺りからは、ソクラテスが一人で問いを立てて、自分で答えるようになっていきます。
ソクラテスはさらに、弁論術は、民衆に耳に心地よく響くことを言って、民衆を喜ばすことで権力をえようとする、民衆へのへつらいでないか、と批判します。それに対して、「弁論家の中にも、市民にへつらわず市民のためを思って話す人もいる」とのカリクレスの答え。それに対するソクラテスの批判は強烈です。ソクラテスはカリクレスの説を認めません。真の政治家なら何をなすべきか。民衆に満足をあたえることだけをめざすのではなく、市民をより善い人間にすべきではないのか。そう考えるなら、ペリクレスは無能であった!彼の政治をへて、アテネの人々が少しでも善い人間になったなら別だが、結果は見ての通り、アテネの民衆はむしろ邪悪になってしまった。それ故、ペリクレスも失格である。この発言は強烈です。ペリクレスといえば、代表的な政治家であり、アテネの民主制の全盛時代を支えた偉大な政治家と一般にみなされていたからです。
カリクレスはソクラテスを批判して、まるで自分は政治とは関らないかのようだ。(弁論術など不要と思っているみたいだ)。でも君だって、いつ何時、政治にまきもまれないともかぎらない。もし、君が裁判にかけられたら、どうするのだ。弁論術を身につけていれば、自分を助けることができるが、そうでない君は、自分自身を守ることもできないだろう。それに対してソクラテスは、カリクレスの言うことを認めます。僕も今の時代に裁判にかけられないとは断言できない。実際、何がおこるか分からない時代だから、と言って彼自身の予想を話します。もちろん、この話はソクラテスの裁判と死をプラトンが意識して書いているものです。
ソクラテスは言います。もし僕が裁判にかけられたら、自分は死を免れないだろう。そして、その理由を話します。ソクラテスは本当の政治、つまり、アテネの市民がより善いものになることをめざしてきた。だから、民衆に気に入ること、民衆が喜ぶことは、言ってこなかった。考えても見てほしい。例えば、料理人が子どもたちを前に、医者を訴えたとする。子どもたちよ、ここにいる医者は君たちを切ったり焼いたりしてきた。私のように美味しいものをあたえたのとは違ってね、と訴えたらどうだろうか。それに対して、医者が、子どもたちよ、私が君たちを切ったり焼いたりしたのは、みんな君たちのことを思ったからなのだ、と言ったらどうだろうか。それと同じように、僕が弁論家によって裁判にかけられたら、ちょうど子どもたちの前で料理人に訴えられた医者のような立場となるだろう。アテネの市民をまだわけの分からない子どもにたとえているところに、プラトンのアテネの市民への批判がはっきりと見て取れます。
哲学の助け、弁論術の助け。
裁判にかけられたら、死を免れることはできないとのソクラテスの予想に対して、カリクレスは、自分で自分を守ることもできない、そんなことで立派にやっているといえるだろうか、と問いつめます。この「哲学は自分を助けることができない」という批判に対するソクラテスの反論は、本当に強いものです。
ソクラテスは問います。本当に自分を助けるとはどういうことか。それは最大の害悪から自分を守ることではないのか。カリクレスがいう弁論術の助けとは、裁判の席で無罪になり、死刑を免れることだが、そのような弁論術の助けは「延命術」に過ぎない。ただ死を引きのばし、死なないということだけでは、何の意味もない。もしそうなら、建築術は建物が崩れないことによって、人を死なせない術であり、水泳術は、船が難破したときには、おぼれないための延命術になる。しかし、ただ死なないということは何の意味もない。例えば、船の船長は港から港へ乗客を乗せて無事に送り届けたあと、何事もなかったかのように、港の酒場で酒でも飲んで過ごすだろう。それは、もし、その航海の間に乗客が少しでも善い人間になったなら、それは大したことだろうが、乗客を死ぬことなく無事に運んだだけでは、何の意味もないことをよく知っているからである。それに対して、哲学の助けとは、最大の害悪から自分自身を守ること、人に対しても、神々に対しても、不正を行わないということで、自分を守っている。それこそ、最大の助けであり、ただ命がながらえることに意味があるわけではない。
皆さんはこのソクラテスの考えをどう思うでしょうか。死について、「弁明」や「パイドン」の中で見られる、ソクラテスのあの決然とした態度にも通じるでしょう。「ただ生きること」が大切なのではない。「善く生きること」こそ大切なのだとのソクラテスの生き様そのものを見る想いです。
エピローグ
すでにカリクレスは沈黙をしています。ソクラテスの自問自答が続きます。ここで、ソクラテスは「死後の世界」についての神話を語ります(注)。
人間の死は、魂と肉体の分離を意味する。生前、正しく生きた人の魂は美しく、不正をおこなってきた人の魂は醜く、その不正の痕が残されている。そして、人間は死後、裸となって、つまり魂そのものとなって、裁判官である神々の前に立つ。正しい人間は「幸福の島」に移り住んで浄福の生を送るが、不正な人々は「タルタロス」というあがないのための牢獄へ送られて責め苦を受けることになる。その裁判官(神)の前では、どんな人間でも、弁論家であろうと、地上の裁判で子どもたちの前に立たされた医者のように、不正をおこなってきたなら、自分を守ろうにもなすすべもないだろう。なぜなら、そこではその人の魂そのものが、自らの正邪を証しているのだから。
だから、カリクレスよ、哲学によって人々に対しても、神々に対しても、不正をおこなわないということで、自分自身を助けることこそ、本当の意味で、自分を助けることになる。このように言って、ソクラテスはカリクレスに対して、地上においても、あの世においても、哲学によって不正を行わず、魂をより美しいものにたもつ生きかたを奨めることで、「ゴルギアス」は終わっています。
次回はプラトンのイデアについてのお話です。
注:第三章の「神話から哲学へ」の話の時に、次のような説明をしました。ホメロスやヘシオドスによって伝えられた神話は、もうこれ以上は知りようもない、確認しようもない、神を持ち出して、この世界の不思議を理解しようとした。それに対して、哲学は、誰にでも分かるロゴス(言葉、理性 等)を使って、この世界の内から理解しようとした。それ故、ギリシア神話はホメロス、ヘシオドスで完成してしまうが、ギリシア哲学は発展していった。このように話しました。神話とは異なる哲学の意味を、プラトンはもちろん十分に理解していたはずです。これはどう考えたらよいのでしょうか。
この「ゴルギアス」のエピローグで、プラトンは次のようなことを書いています。場面は、カリクレスに対してソクラテスが死後の世界の話をはじめるところです。「それでは聴きたまえ、世にも美しい話を。君はそれをミュートスと思うかもしれないけど、僕自身はロゴスと思っているんだ。」ミュートスは神話、ロゴスは理性とか言葉を意味します。僕がもっている訳(岩波のプラトン全集と中央公論「世界の名著」)では、いずれもミュートスを「作り話」、ロゴスを「本当の話」と訳しています。英語ではfictionとfactと訳しています(penguin
classics)。死後に魂が裁判官である神の前に立つこと等の話ですから、神話的な話です。でも、それを神話ではなくロゴスであって、それは「ぼくが君に話そうとしていることは本当のこと真実のこととして話そうとしているのだからね」とソクラテスは言っています。ロゴスをどう訳すか分かりませんが、少なくとも、ロゴスという言葉はプラトンにとって、というよりもギリシア人にとっても、重要な言葉です。プラトンの神話は、彼の哲学がぎりぎりのところで真理を理解するためのsigna(サイン)のように思えます。
第13回 我が魂の故郷
~プラトンのイデア論をめぐって~
今回は、プラトンのいわゆる「イデア論」について、お話をしたいと思います。話の進め方として、始めに、イデア論がどのよう主張されはじめ、一般に、どのような考えと言われているかを話し、その後で、それがどのような意味をもつのだろうかを、考えてみたいと思います。
前章の「ゴルギアス」を思い出してみてください。カリクレスは、ソクラテスによって自説の誤りを納得したでしょうか。「ゴルギアス」を読む限り、カリクレスは心からソクラテスの説に納得したとは思えません。快楽=善の考えは、論理では敗れました。しかし、その根底にある「現実主義」が敗れない限り、カリクレスの心には「所詮ノモスはノモス・・・」との思いが抜けなかったのではないでしょうか。
カリクレスの現実主義、つまり、現に存在するもの、目に見える形で効果をもたらすもの以外は、何も存在しない、という説に対して、現にあるもの、この世の事物のみが、存在するものの全てではない。現に存在するものは、全て相対的なもので、滅びゆくものだが、それらの事物を超えて、絶対的なものが存在する!このようにプラトンが積極的に主張することによって、イデア論が誕生します。
ソクラテスからのヒント
イデアの考えのヒントは、「ソクラテスの問い」からでした。ソクラテスは常々、「Xとは何か」を問いかけました。ソクラテスの問いに対する多くの人々の答えは、「Xとは・・・のこと」と答えます。それに対して、ソクラテスは、自分が訊いていることは、「何がXか」ではない。「Xそのものとは何か」を訊いているのだと問い直します。例えば、「ラケス」という対話篇の中で、ソクラテスはラケスに対して、「勇気とは何か」を尋ねます。ラケスは「勇気とは敵から逃げないで戦うこと」と答えます。ソクラテスはそれに対して、自分が訊いているのはそういうことではない。何が勇気あることかではない。例えば、作戦によっては、敵から逃げながら戦うことも勇気と言われる。また、戦いではなく、別の分野でも、勇気あることはあるはずで、その全てに共通して勇気あると言われるときの、勇気そのものとは何かを訊いているのだ。
ソクラテスの問いは、日常の自明性を破る問いでした。普段、何気なく使っている言葉も、そもそも「それは何か」と問いなおされると、分からなくなります。美についても、私たちは自明のこととして、美しいという言葉を使います。美しい人、美しい花、美しい景色、美しい行為、等々。その全てに共通してそれらを「美しい」としている「美そのもの」とは何か。そのように問われると、多くの人は答えられなくなります。その結果、ソクラテスは、やはり私たちはそれが何かを知らなかったのだ。だから、一緒にそれが何であるかを問いながら生きようではないか、という「無知の知」に留まりました。
イデア論の誕生
ソクラテスがそれ以上は分からないとした「Xそのもの」が存在すると、プラトンが主張したことから、イデア論が誕生しました。個々の人間を超えて、人間そのものが、個々の美しいものに共通した美そのものが、空間をしめる物質として存在するのではなく、精神の眼でのみ見ることができるイデアとして、存在するというのです。精神的存在というのは理解しにくいと思います。乱暴な言い方をすると、例えば、今僕が右手に握っているペンを離すと、ペンは下に落ちるでしょう。何故、ペンが落ちるのかというと、万有引力の法則があるから、と言います。でも、万有引力の法則があるとはどういうことですか。このペンが万有引力の法則ですか、と言われると困ります。このペンが万有引力の法則ではありません。しかし、物質があるところには、必ず、万有引力の法則が支配しています。その限りでは、万有引力の法則は、確かにあります。僕たちは「ある」というと、物質がある空間を占めて存在すると考えがちです。でも、「ある」というのはもっと広い意味があります。少なくとも、プラトンは、イデアとはそれぞれ個々のモノが沢山あるなかで、普遍概念として理想の姿として存在するとしました。しかし、イデアを観るためには、精神をもっともっと研ぎ澄まさなくてはなりません。プラトンの学園であるアカデメイアには、「幾何学者にあらざるもの、この門より入るべからず」との看板が掲げられていたと伝えられています。それは、幾何学があつかう直線や三角形などの図形は、本来は眼に見える幅をもたないものですが、実際に紙の上に書かれた線や図形を手がかりに、眼に見えない理想の図形を考える幾何学こそ、イデアを見るための予備訓練としてふさわしい学問であると考えられたためでした。
プラトンはイデアについて、およそ神について言われる性質のすべてを語っています。唯一、不生、不滅、永遠、絶対、等々。そしてイデアの中の最高のイデアを善のイデアとしました。
洞窟の比喩
イデアを語りはじめると、プラトンは神話的な表現を使い始めます。洞窟の比喩という話が「国家」の中に登場します。人間は深い洞窟の中に閉じ込められていて、身体を一方の方向に向けて縛りつけられて、一方方向しか見ることができなくなっています。縛られた人間の背後には、誰かいて、松明を持っています。その松明と人間の間には、色々なものがあります。そして、縛られている人間の見ている壁には、松明の光によって影が映ります。縛られて壁しか見ることのできない人間は、壁に映った影を実際に存在している世界と思い込んでいます。ところが、ある人がこの縛めを解いて、洞窟から抜け出し地上にたどり着きます。すると地上は、太陽がさんさんと輝き、美しい木々や草花がさきみだれています。わぁ、本当の世界はこんなに美しい世界なのだ。それに比べると、自分たちが生きていたあの世界は本当に影みたいなものだったのだ。そう思ったその人は、洞窟内の人間たちに真実を伝えなくてはと思います。そこで、洞窟内にもどって人々に言います。今、君たちが見ているこの世界は、本当は存在しない影で、本当に存在する世界はもっと別にあって、この世界とは比べものにならないくらい美しい世界だ。どんなに話をしても、洞窟の中の人々はそれを信用しません。あまりしつこく言うと、うるさがられて、結局は裁判にかけられて殺されてしまう。それが、この世における哲学者の運命だ、というのです。この比喩に登場する人間が見ている壁は現実の世界、美しい地上はイデア界。地上に輝く太陽は善のイデアをあらわしています。
教科書的にイデアを定義すると、プラトンはソクラテスが人々に問いかけてものの定義である「Xとは何か」のXを、「Xそのもの」として、永遠の存在であるイデアとして存在すると主張したことで、イデア論が誕生した、と言えるでしょう。
古代ギリシア人の世界観
ところで、古代のギリシア人の世界観について一言。
古代のギリシア人にとっては、神々と人間の関係は、神々は不死なるものだが、人間は死すべきものでした。このように、古代ギリシア人は神々と人間を峻別しました。神々はオリンポスの山に住み、アンブロシオを食べ、ネクターを飲み、不死であり、人間とは異なる。神々と人間との間には、深い溝があり、この区別を無視して神々のようにあろうとすることは、人間のヒュブリス(傲慢)であり、それに対しては厳しい罰を人間は受けることになります。しかし、このように人間を死すべきものとして、不死なる神々と峻別するということは、古代ギリシア人にとって、不死なる神々への憧れも、一層深いものであったことを意味しています。そして、プラトンのイデア論も、このギリシア人の不死なる神々への憧れを、哲学によって表現したもののように思えてなりません。
松田聖子の認識について
ここで、僕たちが他の人間を知っていくプロセスを考えてみましょう。例えば、僕は松田聖子さんをよく知りませんが、その人を知っていく過程を考えてみます。もちろんこれから話すことは、あくまでも「もしこうだったら」というSUPPOSITIONでの話です。
僕が松田聖子を知っているのは、テレビを通じてです。テレビで松田聖子を見て、僕は「変な女だ」と思います。ところが、あるとき、街で偶然に松田聖子と出会ったとします。ぶつかって「あ、すみません」といったぐあいで、ナマの松田聖子を見たとします。そのときの印象で、もしかしたら、「案外まともな人か」と思うかもしれません。そんなことがきっかけになって、交際を始めたとします。そうすると、今までテレビでは見ることのできなかった本人の色んな面をみることができて、「意外といい人」と思うようになったとします。さらに、親密な交際がはじまると、もしかしたら松田聖子が「本当に善い人」と思うようになるかもしれません。そうだとしたら、以前のようにふざけ半分で相手を見ていては、相手も本当によい面を見せてくれなくなるでしょう。そこで、僕のほうも、本当に「善い人」に対するのにふさわしい自分の「善い面」を出すようになるでしょう。
何が言いたいかというと、人間は出会う対象によって色々と変化するということです。古代ギリシア人は「等しいものは等しいものによって知られる」と言いました。テレビで知っていた松田聖子から、実物を、そして、本人の本当の内面に触れるに従って、僕自身も変わっていくはずです。プラトンのイデア論に則して言えば、感覚的な事物に対しているときの人間は、感覚的自分です。感覚的で見ることのできる世界には、永遠にとどまるものはありません。そのような事物に対している人間もまた、時とともに変化し消滅していくでしょう。しかし、幾何学を理解しているときの人間は、単なる感覚的な自己とは異なる自分でなくてはならないでしょう。そして、プラトンが不生、不滅、不変、永遠と言って強調したイデアに出会うときには、人間はそれにふさわしい自己、肉体の衣を脱ぎ捨てて、魂そのものになっているはずです。イデアを知っていくプロセスは、人間が魂そのものになり、不死なる世界へと飛翔していくプロセスでもありました。
アナムネーシス(想起説)
イデアについて、プラトンは次のような神話を語っています。この世に誕生する前に、魂はイデア界にいて、善そのもの、美そのもの等のイデアを観ていました。しかし、あるとき、魂はイデア界から墜落して、地上に激突しました。これが人間の誕生です。激突の衝撃で地面が盛り上がりました。これが人間の肉体で、形が墓に似ていることから、肉体は魂の墓場と言われます。肉体のことをギリシア語でソーマ、墓のことをセーマといい、言葉のゴロがよいので、ソーマ=セーマ説と言います。激突のショックで、魂は昔見ていたイデアの世界を忘れてしまいました。しかし、何か美しいものを見ると、昔見た美のイデアを思い出します。プラトンによると、学ぶことは思い出すことでした。いわゆる想起説(アナムネーシス)です。
このアナムネーシスの考えは、意外とよくできた考えです。例えば、今、授業中だとして、僕が出席している生徒の誰かを指名して、「悪いけど、職員室に行って、○○先生を呼んできて。」とたのんだとします。この○○先生など実はその学校にいなかったとしたら、指名された生徒は、途方にくれるでしょう。また、もしも、その先生が実際に職員室にいるとしても、その生徒が知らない先生であったなら、たとえ、当の本人がその生徒の前を通り過ぎても、認知することができないでしょう。しかし、実際にその学校にいる先生で、その生徒がその先生のことを知っているならば、その生徒は迷わずに職員室にいって、○○先生を連れてくることができるでしょう。職員室で○○先生を認知できるはずです。また、探しものをしているとき、当のそのものを何らか記憶していなくては、探し当てることはできません。それと同じように、僕たちが何かを学ぶ場合、たとえそれを誰かから教えてもらったとしても、最終的にそれを理解して、「分かった」、「確かに」、「これは正解である」と分かるためには、僕たちは、正解を知っていなくてはなりません。また、何かを見て、僕たちは、これは美しいといいます。そのとき、何故、「美しい」と言えるのかを考えると、何らかの仕方で美とは何かを知っているから、と言わざるをえません。人は全く知らないものを学ぶことはできないとプラトンは言います。プラトンはイデアの世界で「見た」ことを「忘れた」が、それを「思い出す」ということで、「学ぶ」ということを理解しました。
エロースとアガペー
イデア界の神話に関して、プラトンの「愛」について。プラトンにとって、人間の魂の故郷はイデア界で、人間は地上からイデアの世界へ憧れる、この憧れをプラトンは「エロース」と名づけました。プラトンに代表されるギリシアの愛である「エロース」に対比されるのが、キリスト教の愛である「アガペー」です。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、福音書をはじめ聖書を書いた人々は、イエスが言う愛ということをギリシア語で表す時に、慎重に言葉を選んだと思います。「愛」を表す言葉は他にも、エロース、ピリアなどがありましたが、恐らく、そのどれもイエスが言う愛を上手く表現していないと考えたのでしょう。必ずしもよく使われていなかった「アガペー」という言葉を選んで、イエスが言う愛を表現したのです。
一般に、エロースとアガペーは、次のように対比されています。エロースとは、イデア界への愛と言われるように、より価値のあるものへの愛であるのに対して、キリスト教の愛は、聖書で、天の父は悪人にも善人にも等しく陽の光を照らしてくださる、と言われるように、ある人が特別の価値がある、ないしは、功績を誉めて、だから愛するというのではありません。よく「無償の愛」と言われます、イメージでいえば、エロースはイデア界への上昇、飛翔する愛であるのに対して、キリスト教のアガペーは、天の父から降り注ぐ愛と言えるでしょうか。
とにかく、プラトンが言う「智への愛」(フィロソフィア)は、エロースの神に導かれた、人間のイデア界への歩みと言えるでしょう。これでプラトンの話は終わります。次回はアリストテレスです。
第14回 suum cuique 各人に各人のものを
~アリストテレス~
今日は。今回は、アリストテレス(BC384頃~BC322)について、一回でお話したいと思います。
アリストテレスは、マケドニア王室の侍医であったニコマコスの息子として、マケドニアのスタゲイロスで生まれました。だから恐らくは、小さい頃には、マケドニアの都ペラで生活をしていたでしょう。17歳の時にアテネにやってきて、プラトンのアカデメイアに入門しました。アカデメイアには、17歳からプラトンが死ぬまでの20年間とどまりました。学園きっての読書家、秀才として、学頭であるプラトンを助け、アカデメイアで講義も受け持ったと思われます。アカデメイア在学中に、プラトンの哲学とは異なる考えも抱くようになりましたが、プラトンへの敬愛は深く、プラトンが亡くなるまでは、アカデメイアにとどまりました。プラトンが亡くなると、アカデメイアを出ます。36歳~50歳頃までは遍歴時代で、小アジアのアッソスや、レスボス島のミュレネーなどを訪れ、独自の研究を切り開いていきました。その頃のアリストテレスの観察にもとづいた生物学や動物学は、現在でも価値を失っていないということを聞いたことがあります。また、この時代にマケドニア王のフィリポスの招きで、少年であったアレキサンダーの家庭教師をしたことがありました。アリストテレスが将来の大王に、何を教えたのは分かりません。アレキサンダーがホメロスを好んだことは知られています。アリストテレスほどの人と一緒にいて、何も影響を受けなかったとは考えられません。でも、ギリシア文化を何よりも誇りに思っていたアリストテレスは、アレキサンダーの東西融合政策をどう見ていたでしょうか。決して思い通りには育ってくれないと思ったのではないでしょうか・・・・。BC335年にフィリポスが死ぬと、アテネに戻り、アカデメイアとは離れたリュケイオンに学園を開き、以後は学頭時代となります。アレキサンダーの経済的援助のもとに、リュケイオンには多くの本や資料が集められ、世界最大の図書館がつくられました。フランスの大学進学のための中等教育機関をリセといいますが、これはリュケイオンの名前からきたものです。このような恵まれた環境のなかで、アリストテレスは静かな学究生活を過ごしました。アリストテレスの学派をペリパトス(逍遥)学派と呼びますが、一説に、アリストテレスが散歩(ペリパトス)をしながら哲学の話をしたために、そのように呼ばれたとも言われます。BC323年の秋、東バビロニアから、アレキサンダーの突然の死のニュースが伝わりました。アテネでは、反マケドニアの不穏な動きがおこります。そのような中で、マケドニアの息がかかっていると見られていたアリストテレスの身にも、危険が迫ってきました。無神論のかどで、アリストテレスを裁判にかけようとの動きです。それに対するアリストテレスの反応は、ソクラテスのそれとは異なるものでした。アテネに生まれ、アテネをこよなく愛していたソクラテスに対して、アテネ出身ではなかったアリストテレスは、「アテナイの市民が再び哲学を冒涜しないために」との言葉を残して、アテネを脱出し、母親の故郷であるエウボイアのカルキスへ逃れ、翌年、その地で胃の病気がもとで、62歳で亡くなりました。
万学の祖
アリストテレスは、古代ギリシアで最大の学者であり、「万学の祖」と言われます。あらゆる学問を手がけたといっていいほどです。「論理学」と言う学問も、アリストテレスから始まりました。アリストテレスの論理学関係の書は、オルガノンと呼ばれ、古代中世では学問の道具(オルガノン)として重視されました。自然についての学問も、近代自然科学が成立するまでは、ヨーロッパの重要な学問でした。近世哲学の祖とも評されるFベーコンの主著が「ノーヴム・オルガヌム」(新しい道具)との題名を掲げているのも、アリストテレスの伝統が、中世哲学においても、どれほど強いものであったかを語っていると思います。アリストテレスの生物の観察の記録は、今でも賞賛に値するものだとは、すでにお話ししました。また、全ての学問には、それに固有の領域がありますが、全ての領域は、何らか「存在(ある)」するものです。すべての学問の領域をこえて、「何ものかとしての存在」ではなくて、「存在としての存在」「あるとは何か」を考える「形而上学」という学問も、アリストテレスから始まりました。また、学問を分類して、「他ではありえない」事柄をあつかう数学や自然学や形而上学などの、理論的学問に対して、「他でもありうる」事柄をあつかう倫理学や政治学などの実践的学問の二種類の学を考えたのもアリストテレスでした。倫理(ethics)という名称もアリストテレスに由来します。
ここではアリストテレスのすべての面を紹介することは、時間的にも、僕の力量の上でも、不可能です。問題をしぼって、アリストテレスのある面を、僕にできる限りでおお話してみたいと思います。
「アテネの学堂」(省略)
まず、この絵を見てください。ルネサンスの絵画を代表する、ラファエロの「アテネの学堂」という絵です。ここには、ギリシアを代表する哲学者や自然学者などが、一同に集まっています。それぞれ誰を表しているかを考えてみるのも面白いでしょう。ギリシア哲学を代表するプラトンとアリストテレスは、絵の中央に描かれています。その部分を拡大したのが、上の絵です。昔、本屋の棚に、「プラトンは赤いマントがお好き」という題の単行本を見かけたことがあります。内容は知りませんが、本のタイトルは、このラファエロの絵から来ているでしょう。プラトンのモデルはレオナルド=ダ=ヴィンチ、アリストテレスのモデルはミケランジェロと言われています。この二人の構図に注目してください。プラトンが天を指差して、「本当の世界は天上にあるイデア界だ」と言うのに対して、アリストテレスは、「いや、先生、現実のこの世界しかありませんよ」と右手を広げて下を向けています。昔から、プラトンは理想主義、アリストテレスは現実主義という解釈がありますが、それを絵画で表現したのがこの構図と言われています。
事実、アリストテレスは、普遍概念ともいえるイデアが、理想的な存在として、この世から離れて存在するという考えには、反対しています。例えば、個々の人間に共通する人間そのものが、個々の人間から離れて存在するならば、そのイデアとしての人間と個々の人間に共通する「第三の人間」が存在することになります。とにかく、アリストテレスは存在するものは、個物のみと主張しました。そのような意味で、アリストテレスは現実主義と言われます。
一方で、この絵の中の二人が手に持っている本からも、両者の性格の違いが分かります。プラトンが手にしている本は、彼の後期の「ティマイオス」という作品で、イデアをモデルに、デミウルゴス(造り主)が、宇宙万物をつくりだす、壮大な宇宙の生成の物語が描かれている作品です。それに対して、アリストテレスの手に持っているのは「倫理学」です。
ここで、倫理学の語源について一言。倫理学 ethics と言う言葉は、ギリシア語のエートスという言葉からきていて、エートスはエトス(習慣)と言う言葉に関係があります。いわば、習慣の結果としての倫理的な性格(人となり)とでもいう意味です。例えば、僕は昔はひどい夜型人間で、夜中に勉強をして昼は12時過ぎてからおきる、という生活をしていました。でも、勤めはじめてからは、出勤時間が早いので、朝おきがとても苦しい時期がありました。でも、仕方がないので、苦しくとも頑張って朝早く起きる努力を積みかさねていくうちに、朝早く起きることが苦しくなくなってきました。そのように朝起きをすることが苦しくなくてできるようになることも、エートスと言うのでしょう。英語のhabit
という言葉は、ラテン語の「持つ」という意味の habeo (英語のhave)の過去分詞で、「持たれたもの」から来ています。つまり、習慣化することによって、身についた能力とでもいうのでしょうか。つまり、倫理学とは日常の個々の行動を通じて、善き人間性を身につけていくこと、習性的徳をめざすというのが、アリストテレスが名づけた倫理学の始まりです。その意味では、個々の行為の積み重ねというアリストテレスの現実的な生きかたの重視が現れています。
とにかく、幾つかの面で、アリストテレスはプラトンとは違う道を進みました。ここで教養的雑学を一つ。Amicus Plato, sed magna
amica veritas というラテン語があります。アミークス プラトー セド マーグナ アミーカ ヴェーリタス と発音します。訳すると「プラトンを愛している、しかし、真理をもっと愛している」となります。一般に、弟子が先生の説に反旗を翻すときに使われる言葉です。
倫理学
アリストテレスは、プラトンのように、一足飛びに「善のイデア」などと言わないで、個々の行為から出発します。人間の行為は、何らかの善を目指しています。例えば、朝眠いのに早く起きるのは、学校に遅刻をしないため。皆さんがお勉強をするのにも、必ず何か目的があるはずです。あまり賛成はできませんが、学校をサボろうとするときだって、学校をサボることが目的ではなく、その結果できる暇というか自由な時間、または、何か思い切ったことによる爽快感と言った、何か自分にとっての善が目的となっているはずです。理性をもった人間の行為は(夢の中での動作や、無意識の行動は別にして)、何らかの善(目的)をもっているという事実から、アリストテレスは出発しています。
しかし、この人間の行為をよくみると、ある行為の目的は、本来それを目指しているのではなく、それによって得られる他の結果(目的)を目指していることがあります。さっきの僕の例でいうと、朝眠いのを我慢して起きるのは、学校に遅刻をしないためでした。その場合、朝起きることは「手段」であって、本当の「目的」は学校に遅刻をしないことです。でも何故、学校に遅刻をしないことを目的としているのか、というと、僕の場合は、慌てて授業にでるのではなく、心を落ち着けて授業にのぞみたいからです。とすると、学校に遅刻をしないということは、それ自体を目的としているのではなく、落ち着いて授業にのぞむための「手段」となっています。このように、人間が意識するかどうかは別として、人間の行為には「目的の連鎖」があります。ある行為はある面では「目的」としての善を目指していますが、別の目的のための「手段」としての善でもあります。しかし、この「目的の連鎖」は無限に続くのでしょうか。もしそうだとすれば、人間の行為は絶えず別のことのためとなり、何らかの善を目指す人間の行為そのものが無意味になってしまいます。とすれば、どこかで、目的の連鎖をこれ以上さかのぼらなくてもよい「究極目的」がなくてはなりません。この「究極目的」は、これ以上他の目的の手段とならないもの、人間が何をするにしても、結局は「それ」を目指すものとして、アリストテレスはそれを「最高善」と予備、それは「幸福」以外にはないとしました。
それでは、「最高善」を実現するには、どうしたらよいのでしょうか。
アリストテレスは、結局のところ人間は人間にしかなれないが故に、人間が最も人間らしく生きるときに、人間の本来の持分が発揮されて「最高善」である「幸福」が実現すると考えました(注)。それでは、人間を他の存在と分かつ人間の特性は何か。人間は存在していると言う点では、物質である。しかし、単なる物質ではなく、生命力、繁殖力を持っている。その意味では、無機質な物質ではなく、生物である。それならすべての生物が人間であるかというと、人間は動物であり、感覚をもっている。それでは、すべての動物が人間かというと、もちろん違う。人間は他の動物と異なり理性をもっている。つまり、人間は理性的動物である。それ故、人間と他の動物を分けているものは理性ということになる。人間が最も人間らしく生きるとは、他の動物にはない理性を最大限働かせて生きることである。理性を最大限働かせることは、アリストテレスによると、テオーリア(観想的生活)である。テオーリアとは「見る」という動詞からできた言葉で(劇場・シアターも同じ語源になる!)澄み切った目で、真実(真理)を見ることを意味します。英語なら
contemplation となるでしょう。
正義論
「人間はポリス的動物」とアリストテレスが定義するように、他者との関りを本質とする人間にとって、ポリスの法に従うことを、「全体的正義」とアリストテレスは呼びました。一方で、「部分的正義」として、アリストテレスは「調整的正義」と「配分的正義」をあげている。「調整的正義」とは、各自の社会的地位や能力とは関係なく、相互に等価な関係をもつべきとしるもので、いわゆるバランスとしての正義に相当します。「目には目、歯には歯」とも言われます。犯罪を犯した人は罰を受ける。借りたものは返す。ディケー(正義の女神)は天秤ばかりを持つというときの、「はかり」によって象徴される正義です。「配分的正義」とは、配分される人のあり方(能力、器量、地位)に応じて相応の配分を行うことが正義との考えに立ちます。プラトンの「国家」における三種類の人間に、それぞれにふさわしい地位(適材適所)をあたえる、というのは、この「配分的正義」にあたるでしょう。配分的正義はsuum
cuique tribuere 「各人のものを各人に配分する」という言葉で表現されます。アリストテレスの正義では、とりわけ、この「配分的正義」が後世に大きな影響を与えました。
アリストテレスの話はこのくらいにします。アリストテレスの末年は、世界史でいうと、すでにヘレニズムの時代に入ります。次回はヘレニズムの時代の思想です。
注:何年か前に読んで、意外と面白かった本に Mel Thompsonという人のPHILOSOPHIE teach your self と言う本があります。その中で、筆者は倫理学には三つの立場があると考えました。自然法と功利主義、それにカントの道徳の立場です。簡単に説明をします。功利主義とは、その行為がいかなる結果(快楽としての善)をもたらすかを重視する立場で、ベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉が、功利主義の立場を代表しています。カントの倫理学は、人間をモノではなく人格としてとらえます。モノは他のものによって動かされますが、人間には自由があります。人間はいかなる状況においても、他のさまざまの状況に影響されることなく、たとえ自分が不幸になることさえわかっていても、「ここではこうあらねばならない」と良心の声をきくことができます。そのような意味で、カントは人間をモノではなく、自由な人格であるとしました。そのため、カントは行為における動機の純粋性を強調し、純粋な動機からなされた行為のみを、道徳的と考えました。ただ、僕が注目したいのは、自然法です。自然法というと、おそらく普通は、ストア学派の考えや、近世の自然法思想を思い出すでしょう。しかし、本来の自然法とは、人為ではなく、自然が本来あるようにあるべきだとの考えといえます。本来自然においての「何であるか」を「何となるべきか」の目標にするという考えです(少なくとも
Thompsonの紹介している自然法はそうです)。そして、その本では簡単に、「そうある」から「そうあらねばならぬ」は出てこない、例えば、「男である」から「男らしくあらねばならない」は出てこない、と言って、自然法を倫理の立場としては否定しています。僕は、その本を読んだときは、「あ、そうだね」と納得しました。でも、よく考えると、おかしいと思い直しました。もし、真剣にものを考えるとき、例えば、「人間とは何か」を問うということは、人間である自分が人間を問うことで、その問は、「私はどう生きるのが本当なのか」という問いと不可分なはずです。自分が生きるということから無関係な学問ならば、論理的に「あること」to
be と「あるべきこと」should be とは違うと言えるでしょうが、僕たちが最後に頼ることは、「自分とはいったい何だろう」という問いを手がかりに「どう生きたらよいのだろうか」を考えるしか、道はないのではないか、と思います。アリストテレスのテオーリアの考えも、そのような観点から参考になる切り込みであることは、間違いないと思います。
本文で、配分的正義の話をしました。suum cuique tribuereと表現されるこの正義は、ドイツ語では Jedem das Seineと訳されます。この考えは、ナチスの時代にJuden
das Seineユダヤ人にはユダヤ人のものを(死を)という、忌まわしく、そして、恐ろしい逸脱を招いてしまいました。しかし、本当の意味は、そのものが本来何であるかは、そのものの本来の持ち分であるから、そのものにかえすことこそ、正しいことであるはずだという自然法の考え方に通じるものだと思います
第15回 ポリスの枠を超えて
~ヘレニズム時代の思想~
今回は、「ポリスの枠を超えて」というタイトルで、アリストテレス以後の思想を、一回でお話ししたいと思います。
ヘレニズムの二義性
その前に、先ず用語の問題を一言。ヘレニズムというと、広義と狭義の二つの意味があります。広義のヘレニズムとは、ギリシア思想やギリシア文化全体を意味します。例えば、ヨーロッパの精神を支える二大支柱はヘレニズムとヘブライズムである、という言い方がありますが、その場合、ヘレニズムとはギリシア思想、ヘブライズムとはユダヤ・キリスト教思想の伝統を意味します。それに対して、狭義のヘレニズムとは、世界史上のある時期、つまり、アレキサンダーの東方遠征(または、アレキサンダーの死後)から、ローマの地中海支配の成立(エジプト支配)まで、BC334年からBC30年までの時期をいいます。この時代に、ギリシア文化が広がりました。地中海にも、ギリシア語が普及しました。そのギリシア語はコイネー(「共通の」という意味)と呼ばれ、新約聖書もコイネーで書かれました。東方に移住したギリシア人と仏教が出会ったガンダーラ地方では、仏像がつくられるようになったことは以前に話をしました。この章でのお話は、狭義のヘレニズム時代の思想についてです。
狂えるソクラテス ヘレニズム期の精神風土
この時代の特色は、知識人の間に一風変わった人物が多く現れたことです。一例をあげます。
シノぺのディオゲネス。変わった言動で有名な彼には、たくさんのエピソードがあります。樽の中で生活し、最低限度の日用品しか持たないことを信条とした彼は、ある時、川の水を手ですくって飲んでいる少年を見て、私はこの少年に負けた、と言って、わずかに残っていた頭陀袋の中の食器を捨ててしまいました。彼のエピソードで有名なのは、アレキサンダーとの出会いでしょう。英語の教科書によく載っているので、皆さんも知っているでしょう。アレキサンダーがディオゲネスのもとを訪れたとき、彼は昼寝中でした。ディオゲネスの前に立ちはだかったアレキサンダーが、望みの物を尋ねると、ディオゲネスが、私の太陽を奪わないでくれと言ったとのエピソードです。他にも、彼の変人ぶりを示すエピソードはこと欠きません。昼間からカンテラをかかげて、「人間はどこだ」と叫びながら、街を歩き回ったとの話もあります。僕が気に入っているのは、彼がコリントの町を訪れた時の話です。おりしも町は戦争の準備で、人々は忙しく立ち振る舞っていました。それを見たディオゲネスは、例の樽をすごい勢いで街中転がしまわったそうです。町の人が何をしているのか尋ねると、「人々が大変忙しそうにしているので、私だけ暇そうに見られるのは困る」と答えたそうです。従来のしきたりや権威を無視することで、本当の自由を得られると考えたのでしょうか。
シノペのディオゲネスは変人で有名でしたが、彼ほどではなくとも、ヘレニズム時代に登場した思想家は、従来の権威から自由な生き方をした人が多くいました。自殺が流行りました。古代ギリシア・ローマの哲学について貴重な資料となっているディオゲネス=ラエルティオスの「哲学者列伝」によると、ヘレニズム時代を代表するストア学派とエピクロス学派の創設者であるゼノンとエピクロスの二人も、自殺によって生涯をおえました。ゼノンは、老境に立ったある日、つまずいて倒れ足の指を骨折しました。その時、彼はもう置きあがろうとはせずに、大地をトントンと叩き、「今行くところだ。何故私をそう呼びたてるのか」と言って、息を止めて自殺をしました。また、エピクロスは、老人になって最期には、葡萄酒を飲んでお風呂に入り、安楽死をしたと伝えられています。先程から話題にしているシノペのディオゲネスも、一説によると、息をとめて自殺をしたということです。
知識人の間にこのような一風変わった人物が多く登場した背景には、ポリスの崩壊という現実がありました。「人間はポリス的動物」というアリストテレスの言葉を待つまでもなく、ギリシア人にとって、ポリスは不可欠のものでした。しかし、マケドニアを相手に戦われたカイロネイアの戦い以後は、ポリスの独立は失われました。昔は、人々はアテナイ(アテネ)の出身であるとか、ラケダイモーン人(スパルタ人)であるとかいうことを、誇らしく口にしました。しかし、そのような誇らしさを失ったギリシア人は、言わば、広大な世界(コスモス)の中に、一人で投げ出されました。その結果初めて、ギリシア人にとって「個人の自覚」が生じたと思います。ディオゲネスは、お前は何者だとの問いに対して、色々な答えをしました。「俺は犬のディオゲネスだ」と答えたりしましたが、一方で彼は、「俺はコスモポリテースだ」と答えたそうです。恐らく、この言葉はディオゲネスによって造られた言葉でしょう。このコスモポリテースは英語でコスモポリタン(世界市民)という意味になりますし、それは後で紹介するストア学派でよく使われた言葉です。おそらく、しかし、ディオゲネスの場合は、文字通り、自分はアテネとかスパルタという狭いポリスに閉じ込められない、もっと自由で、コスモス(宇宙、世界)をねぐらとする人間だ、という意味でしょう。ソクラテスやプラトンの時代にも、彼らはどう生きたらいいのかを真剣に問いました。しかし、彼らはどこか深いところで、「寄らば大樹」という安心感・信頼感をポリスにいだいていました。その「大樹」を失ったヘレニズム時代の人々は、初めて、今ここに、世界(コスモス)の中に一人で投げ出されている自分はどう生きたらいいのかを、真剣に問わざるをえなくなりました。その結果、従来のポリスの枠、既成の価値観にとらわれない自由な知識人が多く排出しました。また、この時代には個人の意識ばかりではなく、人類の意識も生まれたといわれます。個人と人類は反対概念のようにみえますが、根は同じでしょう。ポリスの枠を取り去って、一人の人間となった時、個人であると同時に、すべての個人は人間として同じとの自覚も生じてきました。
人間には、ある集団への「帰属意識」が必要だという考えがあります。でも帰属すべき集団の意味が失われるとき、人間は個人で生きる道を探さなくてはなりません。ちょうど現代の社会は、そのような時代ではないでしょうか。一昔前には、一流商社の社員であるとか、高級官僚であるとかいうことが、個人の誇りでありえた時代があったと思います。でも、今は、そのような誇りが失われたように思います。そんな目でヘレニズムの時代を見てみると、色々と考えさせられることが多くあります。よく哲学プロパーの学者の中で、ヘレニズムの時代は、プラトン、アリストテレスの時代のような粘り強い緻密な思索を欠いた時代で、哲学は処世術
(ars vivendi) に成り下がってしまったと言う人がいます。でも、哲学が単なる知的好奇心ではなく、自分はどう生きたらよいのかとの真剣な問いを含むものであるならば、「個人としての私」が本当にどう生きたらいいのかを真剣に問わざるをえない状況で生まれたこの時代の思想は、決して過小評価してはならないと、僕個人は思います。
シノペのディオゲネスを評して、プラトンは「狂えるソクラテス」と言ったそうです。しかし、腐っても鯛という言葉がありますが、狂ってもソクラテスです。生まれ故郷のシノペから逃亡(追放?)して、ポリスの枠を超えて、何ものにも囚われ依存することのない自由の中で、彼は真の人間として生きようとしました。愚かな男がハープの調律をしているのを見た彼は「音の方は楽器に合わせようとして調律しようとするのに、魂と生活が不調なままでいるのを恥ずかしいと思わないのか」と言いました。また、哲学に自分が向いていないという者に対して、「それなら何故生きているのかね。立派に生きる気持ちが無いのならば」。このような言葉を発するディオゲネスは、将に、ソクラテスの徒といえるのではないでしょうか。
ヘレニズムを代表する学派は、エピクロス学派とストア学派です。簡単に紹介します。
エピクロス学派
エピクロス学派の創始者はエピクロス。創始者の名前が、そのまま学派の名前になっています。エピクロスはサモス島の出身で、アテネで学び、BC4世紀末に教え始めました。人間は基本的には快楽をもとめる。それ故、基本的には心地よく生きることを彼は目指します。それ故、エピクロス学派は快楽主義のレッテルを貼られることになります。英語の辞書で
epicurianとひくと、「快楽主義者」と出てくるはずです。実際、エピクロスの時代から、そのような批判がエピクロスには投げかけられてきました。しかし、彼が言う快楽とは、決して肉体的な快楽ではありませんでした。肉体的な快楽は永続することがなく、かえって苦痛をともなうことが多くあります。エピクロスの快楽は「精神的快楽」とも言うべきものでしょう。
私の死はない
しかし、何ものにも煩わされることなく、「日々好日」と毎日を心地よく過ごすことは、よく考えてみると、難しいことです。僕たちは、いつも何かを心配し悩み、その日その日を落ち着いて楽しむことは、意外と難しいことです。エピクロスが言うように、毎日を精神的に心地よく生きるためには、ある種の精神的な悟りのようなものが必要ではないでしょうか。
人々を悩ませ、心配させる問題の中のひとつに、「死」への心配、「死後の世界」への恐怖があります。それについて、エピクロスの有名は「私の死はない」という論があります。人間は「生きている」か「死んでいる」かどちらかです。「生きている」とするなら、私は生きているのだから、私の死はありません。しかし、死んだなら、私は無になります。エピクロスはデモクリトスの原子論(アトミズム)を採用していました。「死」とは、私を構成しているアトムが分散することで、「私」は雲散霧消してなくなります。とすれば、「私の」死はありません。
エピクロスは基本的に「反宗教」の立場にたちました。神の人事への干渉、死後の刑罰への恐怖などが、人間の心を乱す「死」を克服するためには、エピクロスはデモクリトスの原子論を採用するのがよいと考えたのでしょう。私の死後は何もない無、私が無いのだから、不安に思うことも、苦しいことも無い!このように、人間が不安に思うことを、一つ一つ理性によって克服していくことで、何ものにも乱されることのない「不動の心」ともいえる境地(エピクロスはこのような境地をアタラクシアと呼びました)に達することをエピクロスは目指しました。
隠れて生きよ
エピクロスの時代は、アレキサンダー死後の「後継者争い」という戦乱の時代でした。エピクロスは「隠れて生きよ」というモットーを実践して、戦乱を避けて、「エピクロスの園」と呼ばれた楽園に身を隠し、親しい友との語らいを楽しむ生活を送ったと伝えられています。実に親しい友との語らいこそ、エピクロスが考えた、もっとも心地よい快楽でした。
その後のエピクロス学派
さきほども言ったように、エピクロス学派は快楽主義のレッテルを貼られて、誤解され続けました。「彼らは人間の幸福を口腹においた」などと批判されました。ローマ時代には「質実剛健」を美徳と考えたローマ人にとっては、エピクロス学派よりも、ストア学派のほうが、魅力があったようです。ローマでのストア学者の名をあげるのは簡単ですが、エピクロス学派を擁護した人を探すのは大変です。ここでは一人だけ、「事物の本姓について」という哲学史を著したルクレティウスを名前だけ紹介します。ルクレティウスはエピクロスを、宗教的束縛から人類を解放した神のような英雄とみなしました。
精神的なものや、神の存在を認めず、この世界は物質に過ぎないとする考えを唯物論といいます。デモクリトス→エピクロス→ルクレティウスは、唯物論の系譜に分類される流れです。しかし、その後のヨーロッパでは、キリスト教が大きな力をもつことになります。そのため、唯物論は、影をひそめることになります。やがて、19世紀になって「唯物論」はフォイエルバッハやマルクスとともに、再び息を吹き返すことになるでしょう。
ストア学派
ストア学派の創始者はゼノンです。ゼノンはエピクロスよりは少し年下ですが、同じころに、アテネのストア・ポイキレーで、人々に対して教えを説き始めました。ストアとは「柱廊」とでも訳したらいいのでしょうか。アゴラの周りに立てられる公共建築の中には、前面に柱を並べ立てて、三方を壁で囲われた空間で長大なホールのようなストアがありました。アゴラ付近には、そのような一方は壁がなくオープンスペースに面しているストアがいくつもありました。その中で、彩色をほどこされたストアが、ストア・ポイキレーです。このようなアゴラに面した公共の場には、人々がよく集まりました。ソクラテスもそこで人々によく話をしていました。ゼノンはアテネの出身ではありませんでしたし、アリストテレスやプラトンのような設備のととのった学校を持つべくもありませんでした。そこで、ストアの一角で教え始めたのです。ストアで話をしている人々だったので、ゼノンに始まる学派は、ストア学派と呼ばれました。
禁欲主義
英語でストイック stoic というと、禁欲的という意味になります。恐らくエピクロスが自分たちの考えを「快楽主義」と評されて気分を害するほどには、ゼノンは「禁欲主義」と評されて怒ることはなかったと思います。ストア学派は、人間を煩わし振り回して不幸にする原因は、怒りや欲望などの情念であると考えます。そのため、情念から自由になることこそ、彼らの理想の境地と考えた心の平静につながるとしました。このような理想の境地を、ストアではアパテイアと呼びました。アパテイアとは文字通りには情念(感情 パトス)が無い(ア)という意味です。英語の
sympathy とは感情(パトス pathy)を共にする(sym)ということから「同情」という意味になります。Student apathyというと、学生の無気力・無感動を意味するでしょうか。ストア学派のアパテイアとはそのような否定的な意味ではなく、情念にかき乱されない心の平静という意味です。
自然にしたがって生きる
ストアは禁欲主義と言いましたが、情念を抑え、欲望を抑えるとは、消極的なことではありません。むしろ、ストアがいう人間の自然の本性にしたがって生きることこそ、禁欲につながるという意味だと思います。元来、ギリシアでは、理性は特別の意味をもつ重要なものでした。ストアでも、理性はとりわけ重要な意味をもっています。ギリシア語で宇宙(世界)のことをコスモスと言いますが、コスモスとは、一方では秩序を意味していました。世界・宇宙は広大ですが、バラバラで無秩序ではありません。季節は規則的にめぐり、太陽は東から昇り西に沈みます。星空は、北極星を中心に、広大なスケールで回転をしています。このような秩序をあたえるものこそ、(世界)理性とストアは考えました。その理性とは何でしょうか。神さまの理性でしょうか。分かりません。ストアでも明確に述べられていないように思います。この宇宙を支配している優れた理性は、人間の中にもその一部があり、それに人間も支配されています。その理性にしたがって生きることをストアは強調しました。
コスモポリス
ストアの中には、コスモポリスの思想があります。今言ったように、人間の中には宇宙を貫く理性の一部があります。それ故、人間は理性的動物で、理性をもっており、したがって、理性の道理である自然法もそなえています。自然法の意味は、前にアリストテレスのお話をしたところで触れました。一般に、「自然法」に対する言葉は「実定法」です。実定法とは、実際に人間が定めた法で、日本国憲法はもちろん、日本にある全ての法律は実定法です。ところで、世界にある全ての法律では、おそらく、「殺人」を禁止しているでしょう。「窃盗」も禁止しているでしょう。それでは、私たちは法律で禁止されているから、人を殺さないのでしょうか。法に触れるから、他人のものを盗まないのでしょうか。そうではないでしょう。法律が禁止しているから人を殺さないのではなく、むしろ逆でしょう。世界のどの法律でも「殺人」を禁止しているのは、理性をもった人間は誰でも「人を殺してはいけない」と分かっているから、法律が制定されたのでしょう。つまり、法律として条文化された実定法の根底には、書かれてはいないが理性をもった人間の誰にも了解されている自然法があるからです。ストアでは自然法を重視しました。
そこで国家(ポリス)とは何かというと、法があり、法を守ろうとする市民がいれば、そこには国家が成立します。確かに、ヘレニズム時代には、かつて自由・自治・自給自足を理想としたポリスは崩壊しました。ギリシア人の誇りのもとであったポリスはなくなりました。しかし、ポリスの枠を取り除いても、世界(コスモス)には人間がいて、その人間には自然法があり、それを尊重し守るべきと考える理性があります。法があり、市民がいるところは、国家です。ストアではコスモス(世界)がポリス(国家)であるというコスモポリスの思想がありました。(このような考えは、特に、ローマ皇帝でもありストア学者でもあったマルクス=アウレリウスの「自省録」に顕著にみられます。)
先ほども言いましたが、ストア学派はローマでは多くの理解者を得ました。特に、自然法思想は大きな影響をあたえました。イタリアの一都市から出発したローマは、やがて地中海を支配する大帝国となります。ローマは法律の制定でも後世に大きな影響を与えました。はじめは「市民法」でやっていけましたが、大帝国になったローマは、多くの風俗・習慣の異なる異民族を抱えることになります。そこでは、従来の市民法では覆いきれない問題が生じました。そのために「市民法」のみでなく「万民法」が必要になりました。このローマの「万民法」に、ストアの自然法思想が大きな影響をあたえることになります。そして、「ローマ法」は、ローマ滅亡後も中世のヨーロッパに大きな影響をあたえることによって、ひいては、ヨーロッパの法思想に深い影響をあたえます。「ローマは三度世界を征服した。剣とキリスト教とローマ法で」という諺を、皆さんも知っているでしょう。
これでギリシア思想の話は終わります。次回からはキリスト教に入ります。