昔、本郷の東大美学研究室で、月に一度アウグスティヌス会という研究会がありました。都立大の院生でアウグスティヌスを専攻していた僕は、指導教授の加藤信朗先生に連れられて、この会に参加させていただきました。院生は2、3人で、後は大学の先生たちがメンバーでした。前半はアウグスティヌスの「詩篇注解」enarationes
in psalmosを読み、後半はメンバーが回り持ちで研究発表するというものでした。読解ではラテン語からの訳をするのは僕たち院生で、その訳を先生たちが叩くといった感じで、僕たちにとっては厳しい訓練でした。研究会は中身の濃いもので、多くのことを学びました。特に印象に残ったことは、知的な雰囲気は空気伝染するということです。「語り言葉」の持つ力とでもいったら良いと思います。「本当にそうですね」とか、「ここの部分が気になるのですが、こんな風に考えたらどうでしょうか」等々の話のなかに、学術論文では伝わらない人間性と結びついた智慧を垣間見る思いがしました。
教員となってから、僕にとって大きな悩みは「あらずもがなの試験」でした。試験問題を作っていても、我ながらつまらないことをしているとしばしば思いました。こんな試験をして何の意味があるのだろうかと悩みました。ある時、僕は考えました。試験時間も授業時間に数えられるのだから、試験中にも何かを学び、また考えてもらおう。それ以来、僕は自分の出す倫理の試験の形をかえました。歴史上の人物を登場させて語らせたり、座談会に出席させたり、書簡のやり取りをさせたりするようになりました。対話の内容はなるべく僕自身が読み取った資料に基づくものにしたいとは思いました。しかし、すべてをそのように調べることは無理です。学問的にはあり得ないだろう。しかし僕は居直りました。「学問がなんだ、僕は学者ではない。自分が理解した限りでこの人ならこのように語ってもおかしくないだろうと考えたことを書こう。」学問というよりも文学に近いかもしれません。そのように考えてから、試験問題を考えることは、僕にとっては楽しい時間になりました。
「想像の翼を広げて」とは、そのようにして出来上がった僕の倫理の試験問題です。とはいうものの試験ですから、問題をだすために無理に作った箇所もあります。楽しみながら、また、木戸はそれらの人々をそのように解釈しているのかと思いながら読んでいただけたらと思います。