第一回 神・人間・そして・・

第一回 神・人間・そして・・・

今日は。これから西洋の近・現代哲学について一緒に考えてみたいと思います。



第一回の今日は、これから僕たちがどのような範囲で何を考えるのかという見取図のお話です。

その前に、僕が好きな哲学者の言葉を二つ紹介させて下さい。これらの言葉を紹介することを通じて、これから僕が皆さんにどのような想いでお話をしようとしているのかを聴いてもらいたいし、僕の話し方にも慣れてほしいと思っています。

初めは、古代ギリシアのヘラクレイトスの言葉です。

“人間は、実に多くのことを知らなくてはならない。しかし、真に知らなくてはならないことはただ一つである。”

ヘラクレイトスと言えば、「万物は流転する」との言葉で有名ですね。この言葉は、正確に言うとヘラクレイトスの言葉を僕が少し改ざんしたものです。初めの「人間は」という言葉は「智を愛する者はphilosophos」という言葉ですが、それを「人間は」と変えました。それと、「しかし」という言葉。もともとは、この二つの文章はつながったものではありません。ヘラクレイトスはいくつかのところで、博識(polymathia)の必要性を説いていますが、一方で、真の智のありかたはただ一つであると言っています。だから、その二つをあわせて、「人間は、実に多くのことを知らなくてはならない。しかし、真に知らねばならないことはただ一つである」としました。

僕たちは社会で生きていくために多くのことを学ばねばなりません。社会が複雑化、高度化してきた現代では、社会に適応するためにも、僕たちは実に多くのことを知らなければなりません。しかし、一方で、どんなに時代が変わろうとも、次代をこえて僕たち人間が知りたいと思うことは、それほど多くはないと思います。僕たちは、誕生し、成長し、年をとり、老いて死んでいきます。僕たちはいろいろと考えます。自分は何だろうか。自分が出会う他者とは自分にとって何だろうか。死とは何だろうか。僕たちは考えます。心が疼くというか、この胸に湧き上がる不思議な想いとは何だろうか。僕たちは考えます。このように僕たちが本当に知りたいと思うことは、ヘラクレイトスのようにただ一つとは言わないまでも、それほど多くはないと思います。これからのお話は時には知識的なことに終始してしまうこともあるかもしれません。しかし、僕自身の中では、いつも僕たちにとって数少ない本当に知りたいと思う事柄をめぐってお話をしていきたいと思っています。

あと一つは、アリストテレスの言葉です。言葉というよりは、アリストテレスの考えと言ったらいいでしょうか(注1)

僕たち人間は、何かをして生きています。そして、アリストテレスは人間の行為について、キネーシスとエネルゲイアという二種の行為を考えています。

キネーシスとは、その行為の目的が、その行為自身のうちにない行為 であり
エネルゲイアとは、その行為の目的が、その行為自身のうちにある行為 です。

哲学者の言葉は複雑でややこしいものが多いですね。でも言っていることは簡単です。例えば、法事で東京から大阪まで行くということを考えてみましょう。新幹線に乗っていく場合、その行為は新幹線に乗ることが目的ではなく、法事の時間までにそこに到達することが目的です。それに対して、ローカル線で車窓の景色を楽しんでいる場合、電車にのっているのは目的地に到達することが目的ではありません。乗り物に乗っているということは同じでも、その意味合いはことなります。または「歩く」ということを考えてみても同じです。目的地に向かうこともあれば、美しい景色を眺めながら歩く場合もあります。前者は「その行為の目的が、その行為自身のうちにない行為」(キネーシス)であり、後者は「その行為の目的が、その行為自身のうちにある行為」(エネルゲイア)と呼ばれます。(注2)

キネーシスの特徴は、目標が明確であり、そのための効率化が可能だと言うことです。先ほど例にあげた「東京から大阪まで行く」ということについてなら、昔は随分時間がかかりました。一日20~30キロ歩けば20日くらいでしょうか。鉄道は飛躍的な効率化をもたらしました。新幹線にいたっては東京大阪間の日帰りも可能にさせました。リニアモーターカー、はたまた、「どこでもドア」ができたなら、瞬間移動も可能です。それでも問題はありません。キネーシスはそのプロセスを問題にしません。問題は目的地に到達することですから。それに対してエネルゲイアはそのようは効率を求めることはありません。

アリストテレスのキネーシスとエネルゲイアの区別に関して、僕が本当に共感することは、この二つの行為の中で、アリストテレスが、真に生きると言うことは、キネーシスではなくエネルゲイアなのだと考えたところです。現代はテクノロジーが目覚しい進歩をとげました。僕たちの生活はますます便利になっていきます。しかし、それでよいのだろうかとの疑問が消えません。アリストテレスのキネーシスとエネルゲイアの区別が示唆していることは、効率化、能率化できることは、本当に生きるということに関係ないということではないでしょうか。

僕たちは、いつも何かのために生きています。例えば、ますます過熱化していく「受験」について考えて見ます。小学校に入るために就学前の幼児が訓練をしています。小学校に入ったら、中学受験のために、中高ではよりよい大学に入るためにがんばります。よりよい大学に入るのは、よりよい企業に入るためでしょうか。そのように考えると、僕たちはいつも将来のために生きているようです。でも僕たちが生きているのは他ならない「今、ここ」です。幼児、小学生、中高生、大学生、社会人、そして高齢者にはそれぞれそのときにしかできないあるべき姿(エネルゲイア)があるのだろうと思います。僕たちはどこかで、僕たちが生きているのは他ならないこのためなのだ、ということを見つけなくてはならないでしょう。そうでなければ、ご臨終にあたって、一体自分は何のために生きてきたのだろうかということになってしまうのではないでしょうか。

何が言いたいかというと、これから皆さんにお話ししようとすることは、何かほかのことのためではなく、この授業のために、僕にとって興味があり面白いと思うことをお話したいと思っています。確かに、これからお話しすることは、倫理の授業ですし、受験科目として倫理を選ぼうとする人にとってはそれなりに役に立つと思います。また、世界史で受験しようとしている人にとっても、それなりに参考になることもあると思います。しかし、ここでのお話は、何かほかの目的のためにあるのではありません。すくなくとも、僕はそう思ってお話をしようと思っています。

神・人間・そして・・・

これからの予定ですが、内容は西欧の近現代思想が中心となります。

西洋の近世思想の特色はいろいろな捉え方があると思いますが、僕はそれを「人間中心主義」と考えています。しかし、西洋近世の思想が人間中心主義というとき、それは人間中心主義ではなかった時代があったということ意味していいます。西洋中世のキリスト教世界はすべてが神を中心にまわっていました。今回のタイトルである「神・人間・そして・・・」の「神」にあたる部分は中世ヨーロッパの神中心主義をあらわしています。そこで初めに、西洋中世の神中心主義とはどのようなものであったのかを扱います。僕たちは中世のキリスト教思想に絶大な影響をあたえたアウグスティヌスを通じて、中世のヨーロッパの精神を動かしていたキリスト教の精神とは何かを考えてみたいと思います。

タイトルにある「人間」は西洋近世の人間中心主義を表しています。しかし、「神中心」から「人間中心」への移行は一朝一夕になされたものではありません。17世紀に近世哲学の祖と呼ばれるデカルトとF=ベーコンが登場するまでの14から16世紀は、中世思想から近世思想への過渡期とも呼ばれる時期でした。大航海時代の始まり、ルネサンス、宗教改革は、近世への扉を開く大きな出来事でした。僕たちはルネサンスの人文主義と宗教改革を通して近世への胎動を見てみたいと思っています。思想家としては人文主義を代表するピコ=デラ=ミランドーラ、ルターの宗教改革を取り上げるつもりです。

17世紀になるとデカルトとF-ベーコンが登場します。彼らはもはや、神の助けを必要としません。あるいは、彼らは自ら他者(神)に依存することを拒絶して、己の理性を信頼して、自らの足で立とうとします。デカルトとベーコンが近世哲学の祖とも評価されるのは、そのような彼らのスタンスによるのでしょう。

デカルトのあとに、スピノザ→ライプニッツと続く大陸の合理論が展開されました。ベーコンのあとは、ホッブス→ロック→ヒュームと続くイギリスの経験論が登場します。大陸の合理論とイギリスの経験論を受けて、近世の人間中心主義を確立したのがカントでした。モノではない人格としての人間の尊厳を高らかに謳ったカントの哲学を皆さんと一緒に味わってみたいと思っています。

カントのあとにフィヒテ→シェリング→ヘーゲルというドイツ観念論がつづきます。ヘーゲルは、近世哲学を代表する哲学者であり、壮大な体系を構築しました。しかし、現代思想を切り開いてきた多くの哲学者は、ヘーゲルを批判することから自己の哲学を切り開いて行きました。

西洋近世思想の特色が人間中心主義と呼ばれるなら、現代思想はどうでしょうか。現代思想のキーワードは「人間疎外」と言われます。疎外はドイツ語ではEntfremdung、英語ではalienationと言います。この言葉はラテン語で「他の」という意味のaliusという言葉からきました。エイリアン(alien)という言葉は「(地球とは)別のところからきた」別物(宇宙人)という意味でしょう。つまり、疎外とは「あるものが他のものになってしまった」と言う意味です。カントに代表され近世思想が人間の尊厳を謳い、人間であることを誇らしく思ったのに対して、現代思想の特色は、人間そのものが失われた、人間が真の意味で人間ではなくなってしまった、つまり「人間疎外」が大きな問題として意識されたことでしょう。

現代思想の課題は「人間性の回復」と言われます。

タイトルの「神・人間・そして・・・」の「そして・・・」は、本来のあり方を見失った僕たち現代人がどこへ向かって進もうとしているのかということを含んだものです。
現代思想としては、社会主義、実存主義、プラグマティズムがあげられます。
乱暴なまとめかたをすると、社会主義は社会を変革することによって真に人間性の回復をめざそうとするものです。実存主義は、社会がどう変わろうと問題ではなく、「今、ここにいるこの私」に焦点を当てて本来の自分(実存)を生きようとするものでした。それに対して、プラグマティズムは、価値の多元化が進行した現代において、意味のあることは「永遠の真理」などではなく、人間が生きていくうえで役に立つ「有用性」を真理の基準としてたくましく現代社会を生き抜こうとするアメリカの哲学です。

近世哲学は認識論が前面にでてくるものでした。自然科学が生まれ着実な歩みを進める中で、哲学の知識の確実性の確実性が問われたためでした。それに対して現代思想は「人間疎外」を問うことを通じて、近世思想では前面に出てこなかった問題がでてくることになります。僕たちは社会主義を代表するマルクス、実存主義を切り開いたキルケゴール、また「神の死」を叫んだニーチェなどを通して、今一度「人間」について考えて見たいと思います。

次回はアウグスティヌスです。

注1:岩波新書 「ギリシア哲学と現代」藤沢令夫著 Ⅵ章 アリストテレスの哲学と<エネルゲイア>の思想 参照

注2:キネーシスとは「運動」という意味です。動画のシネマはキネーシスが語源です。エネルゲイアとはもともとはen ergonという言葉からきたもので、仕事ergonの中en という意味です。英語でならat workという意味になるでしょうか。ちなみに英語のエネルギーenergyとはこのエネルゲイアという言葉からきました。本来自分にとってのあるべき仕事をしているときが、本当の意味で力がでるということでしょうか。