神護寺
川端康成の「古都」は、生まれてすぐに分けられて別々に成長した美しい双子の姉妹の出会いを縦軸に、京都の風物を鮮やかに描いた作品で、古都京都の風情に触れる秀作です。姉妹が最初に出会う周山は「古都」でも紹介されて有名になった北山杉の産地。この周山に京都市街から行く途中、周山街道沿いに清滝川の谷を抱くように高雄(高尾)、栂(とが)尾(のお)、槙尾(まきのお)の三尾があります。高雄山神護寺と槙尾山西明寺と栂尾山高山寺のある三尾は、古来これらの古刹と美しい紅葉で有名です。その中でもっとも古い歴史をもつのが神護寺です。
神護寺は和気清麻呂にゆかりのある寺です。奈良時代末、僧侶として称徳天皇の寵をえて天皇の位まで狙おうとした道鏡の野望を阻止したのは和気清麻呂でした(宇佐八幡宮神託事件)。その際、宇佐八幡神の願いで和気清麻呂が河内に神願寺という寺を創建しました。この神願寺を同じく和気氏の寺であった高雄山寺に移してできたのが神護寺です。
神護寺金堂の本尊は薬師如来。国宝でヒノキ材の一木造です。仏像というと施無畏・与願の印相に見られるように、その前に座る人間を優しく招くというイメージがありますが、そのような期待をもって薬師如来の前に座る人は、何か拒絶をされたような思いを抱くことになるでしょう。この仏像はハッと思わず引き下がるような威厳をもっています。この薬師如来像は神願寺の本尊でした。この仏像ができたころ、清麻呂によって野望をくじかれた道鏡はすでになくなっていました。称徳天皇の死後、後ろ盾を失った道鏡は下野の薬師寺に左遷されました。道鏡は清麻呂に深い恨みをもっていたでしょう。その道鏡の怨霊を封ずるために造られたものがこの薬師如来像だという説があります。怨霊といえば、この時代から平安時代にかけて多くの人が無実の罪を負わされて非業の最期を遂げました。代表例は桓武天皇の弟で皇太子であった早良親王でしょう。謀反の廉で淡路に流される途中、無実を主張して食を断って死んだ早良親王の怨霊のために不吉なことが多くおこりました。神護寺の薬師如来は、桓武天皇や和気氏への怨霊の恨みを退けるために、厳しい表情をして1000年以上の永い時を立ち続けてきたのでしょうか・・・・
和気清麻呂の墓は神護寺の境内にありますが、清麻呂の息子たちは平安仏教のスーパースターとも言うべき最澄と空海を尊敬し援助をすることで平安仏教の発展に大きな寄与をしたことになります。
神護寺は日本天台宗の開祖最澄とも深い関わりがあります。19歳で東大寺戒壇院で具足戒をうけて正式の僧侶となった最澄は、当時の堕落した奈良仏教に飽き足らず比叡山にこもりました。厳しい自己反省の上にたって六根清浄の境地に達するまでは山を降りないと決意をこめた「願文」は、彼の生涯を通じて見られるひたむきさを示す名文です。この最澄の中の純粋さは、堕落した奈良仏教への嫌悪感をもっていた桓武天皇をやがてひきつけることになります。比叡山で修行に励んでいた最澄を神護寺に招いて法華経の講義を行わせたのが和気一族でした。この法華経の講義には南都の学僧も多く招かれ、これが最澄の思想界へのデビューになりました。これを機に、最澄は桓武天皇の信頼を得ることになります。
最澄に続いて和気氏の尊敬と援助を受けたのが空海でした。唐から帰国後ほどなくこの神護寺に住み、高野山や東寺を賜るまでの長い間、空海は神護寺の住持となります。空海は最澄と同じ時期に遣唐使船団で唐へ留学をしましたが、最澄が十分に学ぶ暇のなかった密教を日本にもたらしました。空海が日本にもたらした経典類が記されている請来目録から、空海の存在を知った最澄は、空海に密教の教えを請い、とりわけ空海のもたらした経典の借用を依頼しました。空海と最澄の交流は当時はまだ高雄山寺と呼ばれていたこの神護寺を舞台に展開します。
しかし、両雄並び立たずというか、天台宗と真言宗の違いというか、それ以上に、両者の人間性の違いのゆえに、やがて最澄と空海は決別することになります。最澄が理趣経の注釈書の借用を依頼したときに、空海は拒絶しました。密教とは書物で学ぶものではない、修行を伴うもので、最澄が神護寺まで来て空海のもとで修行をするならばいざしらず、誤解を招きやすい理趣経に関する注釈書を貸すことを空海は拒絶したのでしょう。また最澄は自分の弟子を空海の下に送り込み、密教を学ばせようとしましたが、最澄の最愛の弟子であった泰範が比叡山に戻らずに空海の元に走ったこと、その泰範への最澄の手紙の返事を空海が代筆して、最澄の仏教理解を厳しく批判したことなどから決別は決定的なものとなりました。
最澄は空海からこの神護寺(当時はまだ高雄山寺といいました)で812年から813年にかけて3回にわたって灌頂をうけました。灌頂を受けたとは最澄が密教に関しては空海の弟子になったということを意味します。神護寺には灌頂暦名が残されています。灌頂暦名とは空海が誰に何時灌頂を授けたかということを記した覚書で、国宝です。その中に最澄の名前があります。金堂で(もちろんレプリカですが)灌頂暦名を見ることができます。僕は、この灌頂暦名に「僧最澄」と空海によって書かれた書体を見る時、色々なことを思い浮かべます。「僧最澄」と空海が記入したとき、彼は何を考え、また感じていたのだろうか。また、当時すでに仏教界で高い評価を得ていた最澄が、空海に弟子の礼をとって高雄山寺に赴いて空海から灌頂受けたとき、どのような思いであったのだろうか。空海にとっては、最澄が彼から灌頂を受けたということは、梅原猛氏も言うように、大きな利点で、空海の名声を大いに高めた。桓武天皇からも絶大なる信頼をえていたあの最澄が弟子となった空海はどのような人物であろうか・・と。
天台宗と真言宗がその後に日本の仏教に与えた影響を考えると、神護寺は日本の仏教だけでなく、仏教の影響を計り知れないほどうけた日本文化にとっても重要な古拙でしょう。
その後、神護寺は衰退しますが、平安時代末から鎌倉時代にかけて衰退した神護寺を再興したのは文覚でした。破天荒な僧侶であった彼は伊豆に流罪となっていた頼朝の挙兵にも関わったといわれます。その後、神護寺の再興に努力をした彼を頼朝も保護をしました。神護寺で有名なのは源頼朝像や平重盛像などの肖像画です。文覚と頼朝との関係もあって神護寺に残されたものが国宝の源頼朝像です。また高山寺の明恵上人は文覚の弟子で、修行の一時期をこの神護寺で過ごしました。
神護寺は1200年以上の時代をのりきってきた風格のある古刹です。また美しい自然の中で、現代的な文明の影もあまり見られないことから、神護寺は水戸黄門などの時代劇の舞台としてもよく使われるとのことです。また、神護寺の中の地蔵院ではカワラケ投げが楽しめます。素焼きの小さな皿型の土器を投げると、土器ははるか下方の美しい清滝川の峡谷にむかって弧を描くように飛んでゆきます。遠くに飛ぶほど幸運がめぐってくるとの言い伝えがあるそうです。神護寺参詣の懐かしい思い出になるでしょう。