震える心 溢れる想い
~愛するものへ レクイエム~
† 暗転
一昨年の初秋、医師の告知を受けた帰りの車の中で、息子は言った。「何か自分とは無関係な世界の出来事を見ているようだった。」僕は黙ってハンドルを握りしめた。
診断の結果は膵臓癌。手術は不可能で余命は年単位とは言えない。まだ三十四歳。三歳の愛娘と、一ヶ月後に二人目の子どもが生まれる予定だった。胸が張り裂けそうだった。
それから七ヶ月間。辛かった。息子の頑張り。息子の嫁の気丈な献身。家内の悲壮な決意。そして孫娘の天真爛漫な愛らしさ。それらがあったから、僕は頑張れた。抗癌剤の投与も暗礁に乗り上げ、医学的に万策つきた昨年二月、息子は退院した。月単位では考えられないとの医者の予想をこえる四十五日間、息子は、自分が建てた家で、愛娘の元気な声と、生後間もない息子の泣き声を聞き、家族と同じ空気を吸い、家族とともに生きた。愛する妻に見守られて、四月五日夕方、自宅で息を引き取った。
今から考えると、抗癌剤を投与する前は、息子はまだ元気だった。九月には、家族で自由が丘の写真館に行き、記念の写真を撮った。その中に、僕の胸に強く迫ってくる一枚があった。娘が微笑んで上目遣いに母親を見つめ、母親は優しく娘を見守る。その母親の腕にそっと手をあてた息子が、娘を、あるいは母親の胎内で誕生のときをまっている子を、見つめている。
娘を見つめるあなたの腕に
そっと手を触れるとき
愛しさに 私の心は震える
息子の心の声が、聞こえるようだった。
受け止めきれない現実の前で、僕は思った。
突然襲ってきたこの過酷な運命を、息子は雄々しく受け止めて戦った。愛しい人との別れの予感は、息子の心を震わせたに違いない。しかし、このような運命は息子に限ったことだろうか。限りある命。誰もがそうだ。悠久の時の流れの中に、ほんの一時、人間は現れ、そして消えていく。これが人間だ。愛しい人。誰の心にもいるのではないか。愛しい人とともにいる限りある命。あの写真は、それを見る人に、「あなたは、その大切さを本当に分かって生きていますか」そう問いかけているようだ。
息子の死と共に、僕の時が止まった。
しかし、僕の周りは止まらない。まだ幼い二人の孫たちは元気に笑い、怒り、泣く。この子たちが自分の足で歩きはじめるまで、元気でいたいと思った。また、大きくなったこの子たちに、息子のことを伝え、彼らが父親から愛されていたこと、だから彼らは決して孤独ではないということを伝えるまで、死ぬことはできないと思った。また、産休を終え、仕事に復帰した息子の嫁の負担の一部でも担うことができたらと思った。しかし、息子と入れ替わりにこの世に生を受けた男の子を抱きながら、思わず息子の名を呼び、ある時には、この子を抱いているのは、僕ではなく息子ではないかと思うこともあった。
† 愛しい命
今年の一月末、昔の卒業生から電話があった。高三の時に僕が担任をしていた生徒の訃報だった。まだ四十歳。七歳と二歳の二人の子どもを残しての他界であった。まだ幼い二人の子どもを残して去らねばならなかった彼女の思い、娘に先立たれたお母様の心中を察すると、胸が締めつけられるようだった。
都内の某ホテルで偲ぶ会が催されることになり、スピーチを依頼された。その電話口で、僕はスピーチを引き受けることを一瞬躊躇した。息子を失って以来、多くの人からお悔やみの言葉をいただいたが、それらの言葉は、僕にとって悲しく、また虚しく響くばかりだった。複雑な気持ちだった。悲しみに押しつぶされているご遺族に、何を話すことができるのか。しかし一方で、同じ悲しみ苦しみを体験したものだからこそ、親身になって語る資格、いや、語ることができるのではないだろうか。僕は迷いながらもスピーチを引き受けた。
忍ぶ会で、何をお話したらよいだろうか。ご遺族に、というよりも、息子を失った僕自身に、どんな言葉がうつろな言葉でなく響くだろうか。僕は考えた。そして、命(いのち)についてお話をさせていただくことにした。
息子が逝って以来、僕は悲しみの中で、命について考えざるをえなかった。「喪失感」という言葉がある。しかし、僕には愛する者の死が「喪失感」をもたらすとは思えなかった。息子の病の発覚以来、僕は「息子の代わりに僕の命を受け取って下さい」と何度祈ったことだろう。人間とは、実存主義者が言うように「誰も自分の死を死んでくれない」という、そんなものではない。どんなに願っても「人の代わりに死ぬことができない」、それが人間だ。愛する者たち、まだ幼い子どもたちを残して逝かねばならなかった息子の心を、抱きしめてやりたい。自分のことではなく、愛するもののことを思うことが人間の真実ではないだろうか。
人間の命は、個体としてはその死で終わるかもしれない。しかし、命とはそれだけのものだろうか。人間は一人で生きているのではない。さまざまの人と、また、さまざまのものと、無数の縁で結ばれている。そのような繋がり自体が一つの「大きな命」ではないのか。確かに、息子は死んだ。しかし生きている僕は、息子が建ててくれた家に、息子が愛した家族と住んでいる。息子が生きていたからこそ、今のこの僕の生活がある。その意味では死者は生きている。そして、そのような「大きな命」が僕たちの心の中にあり、僕たちを動かしている限り、息子は生きていると思いたかった。
偲ぶ会では、故人のことを思いながら、繋がりとしての「大きな命」のお話をさせて頂いた。そして最後に、人間が本当に死ぬのは、その人を思う人がいなくなった時と言われる、だから、故人のことを忘れることなく、生きている僕たちが今の命を大切にしていけたらとの言葉でスピーチを結んだ。
† 時よ、動け!
息子の一周忌が近づいた今年の三月、東北大震災の悲惨を伝える多くの番組が放映された。昨年は、息子の闘病生活が続く中で、テレビを観ることもなかったが、今年は何本か観ることができた。亡き人々への切なる思いが伝わってきた。その中で、残された肉親の「あなたのことは忘れない」という言葉が、僕の胸に突き刺さった。その言葉に込められた心が、僕には痛いほどわかった。その言葉は、息子が逝って以来、僕が心の中で何度も息子に語りかけた言葉だったからだ。震災の発生以来すでに四年余りの時が流れた。その間、僕は幾度となく大震災についての番組を観てきた。そして「あなたのことは忘れない」」との言葉を幾度となく耳にしてきたはずだ。それなのに、この言葉の意味が本当に分かり、このように心に響くことはなかった。このことは、僕にとっては大きな衝撃だった。僕の心は大きく動き出した。
息子の死という受け入れ難い現実の前で、僕は個体の命を超えた繋がりとしての「大きな命」を思った。繋がりという縁で結ばれた関係が残されている限り、息子は生きていると思った。そして、僕が息子のことを忘れずに覚えている限り、息子は死んではいないと思いたかった。しかし、自分の息子は大切だが、「あなたのことは忘れない」と叫ぶ多くの人にとっての愛しい「あなた」はどうでもよいのか。そもそも、息子を包み支える「大きな命」は、他の人々にとっての愛しい人を包み支える「大きな命」と別ものであるはずがないだろう。僕が息子のことを記憶している限り息子は死んではいないということも、そうではないだろう。もしそうなら、息子の命は何という脆弱なものに依存していることだろう。
僕の想いは溢れでてとまらなかった。
「大いなる命」とは何だろうか。「神」と呼ぶものか、「仏」と呼ぶべきか、あるいは「無限」とでも呼ぶべきものなのか、分からない。しかし、はっきりしていることがある。それは、それが僕に依存しているのではなく、僕がその「大いなる命」に依存しているということだ。宮沢賢治の「世界の全体が幸福にならない限り、個人の幸福はありえない」という言葉を思い出した。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、主人公のアリョーシャが身を投げ出して大地に接吻をした場面を思い出した。今までの僕の理解と違う何かを感じた。体の中の力が抜けた。その時、僕の中で止まっていた時がかすかに動いた。息子のことは忘れまい。前を向いて歩き始めよう。息子のためにも、息子が愛した家族のためにも、そして何よりも我が子を失うという深い悲しみを共有している妻のためにも、前を向いて生きていこう。そう僕は思った。