第35回 天と地
~古代中国思想の魅力~
今日は。この章から中国の思想についてのお話です。今日は、その前提となるような、古代中国の歴史や社会についてお話をしたいと思っています。
中国4000年の歴史といいます。昔、こんな話をきいたことがあります。本当の話か分かりません。中国の長江の上流にはきこりがいて、彼らは木を切り倒すと、それで大きな筏を組んで、その筏を長江に浮かべて下流に流します。しかし、長江は果てしなく長いので、きこりの一代では目的地に到着できません。筏の上で生活をしているうちに、そのきこりは亡くなり、息子の代に引き継がれます。その息子もそのうちに亡くなり、孫の代になって初めて目的地に到着して、そこで木材を売ってお金を得るというのです。随分昔に人から聞いた話で、冷静に考えてみるとそんなことはありえないと思うのですが、何故か、僕はこの話が記憶に残り忘れられません。何か、スケールの大きなこの話の中に、中国という、僕にとって未知であった文明の不思議な魅力を感じさせてくれる話だったからです。ものごとが一代の人間だけで終わらないという中国人の考えは、有名な「愚公移山」の物語にも表れていますね。中国人の考えは、本当にスケールが大きいと思いました。後で話に出てくる甲骨文字から分かることですが、少なくとも今から2500年以上昔に、黄河流域では、現在の中国の人々が話している中国語を話す民族が生活をしていて、その同じ言葉とその同じ言葉をになった民族が、同じ地域で活躍を続けてきた。確かに、古代オリエント世界は古い歴史をもっています。でも、その昔、そのあたりで活躍をして文明をつくっていった人々の言葉が、現在もその地域で話されていることはありません。そう考えると、中国という文明の底の深さを感じずにはいられません。そんな中国のお話をこれからしてみたいと思います。
天と地
ところで皆さんは初詣に行ったことがあるでしょうか。僕は、宗旨も違うし信心深いというのではないのですが、何故か、近くの八幡神社に出かけることが好きなのです。「八幡さま」と昔から呼んで親しんできたこの神社は、昔から僕たち悪ガキの遊び場の一つでした。お祭になると、よく夜店がでて、そこの焼きそばを食べるのが楽しみで出かけました。この「八幡さま」は、僕の家から北に歩いて10分くらいのところにあります。大晦日の夜、紅白歌合戦が終了して、テレビの「行く年くる年」の中から流れてくる除夜の鐘を耳にすると、急いで眼いっぱい厚着をして家を出ます。家から「八幡さま」までの道はやや下っています。寒さも手伝って「八幡さま」までの道では、たいていは小走りになります。冬に北を向いて歩くと、冷たい風に息をのむことがあります。肩をすぼめて急ぎ足で北に向かいます。最近はあまり見られなくなりましたが、昔は、北に向かって歩いていると、着物姿で下駄を履いた人たちが路地からでてきて、せわしなげに下駄の音をカタカタと鳴らしながら、僕たちと同じように、北に向かって「八幡さま」へと急ぎます。そして、眼を正面上に上げると、北斗七星がひしゃくを立てた形で雄大な姿を見せて、僕たちが北に向かって急ぎ足で歩いていることを教えてくれます。実は、この雄大な北斗七星を眺めることが好きで、毎年大晦日には「八幡さま」への道を歩いているのです。北斗七星の柄のつけ根にある星は、一つだけ三等星で(他の六つは二等星です)見えにくいのですが、今年は幸いなこと見ることができました。東京の空は年々明るくなっていくので、いつまでこの大晦日の北斗七星を見ることができるか分かりませんが・・・・普通は、真冬のこんな寒い夜に、外に出て星を眺めることはないでしょう。昔から星を眺めるのが好きだった僕には、夏の星座は身近で親しいものです。そして、夏に見られる北斗七星は、ひしゃくを上にむけて雄大に横たわっています。でも大晦日の夜の北斗七星は、夏の夜空にみる北斗七星とはまったく違った位置にあります。そして、いつもと違う位置に「立っている」北斗七星を見上げるとき、僕はいつも同じような感慨にみまわれます。大自然は人間の営みをこえて、いつも変わらず雄大な営みを続けているのだと。そして、来るべき年の幸福を祈るために「八幡さま」に向かう途中の多くの人たちは、同じようにそそくさと歩き続けます。大自然の営みを視覚的に感じることができる北斗七星の雄大な姿と、その下に生きて生活を営んでいる人々の姿を同時に見るとき、「天と地」、天は上帝が支配し、地には人が生活を営むと考えた古代の中国人の思いが、なんとなく分かるような気がします。
確かに、僕たちは大地の上で生活をしています。でもその大地の上には、広大な天が広がっています。天とは、人間が両手を広げて立つその上方をさす字です。頭上に広がる広大な天と、大地で生活を営む人間。これが、太古の昔から、人間が生きてきた現実でした。人間は大地の上に立って、さまざまの営みをして生きてきました。自分の歩みをとめて後を振り返ると、今まで自分が歩んできた「過去」が見えるし、これから向かおうとする前方を眺める時、自分の行く末という意味での「未来」が見えます。人間は自分が出会う様々のものに対して身を処し、問題を解決してきました。時には敵とたたかい、この世界を支配下に入れようとの野望を抱くこともあったでしょう。しかし、ふと頭上を見上げると、広大な天が自分を覆っています。そんな時、「過去」や「未来」を超えて、そして、今ここで生きている現実の地上での生活を超えて、人間は「永遠」と出会います。雄大な「天」に触れる時、自己の小ささや有限性を意識します。中国思想の歴史のなかで、「天」はいろいろな意味をもっていました。天上を支配し、人々に危害や福をもたらす「上帝」であったり、大自然を生み出し育む大きな力であったり、さまざまでした。しかし、人間が自己満足的に増長することに対して、みずからの有限性や謙虚さを問いかける存在という点で共通したものであったと思います。
近現代のヨーロッパ文明は科学技術を高度に発達させました。その結果、「天と地」という人間の素朴な現実が見えなくなってしまいました。実際、東京に住んでいると、視覚的にも、天は狭められるだけでなく、遙か遠くまで見通すことのできる大地すらなくなってしまいました。もう一度素朴に、人間とは何だろうかを考えようとするときに、中国思想がきっとよいヒントを僕たちにくれるのではないだろうかと思います。
足もとを知る
古代中国の思想をこれから学ぼうとするに際して、もう一言。
日本人のメンタリティーの形成にあたって、大きな影響を与えたのは江戸時代だ、と言われることがよくあります。泰平の世とよばれた鎖国時代に、日本人のメンタリティーが形成されたのだというのです。もしそれが本当なら、これから学ぶ中国思想、特に儒教思想は、日本人の精神性を理解する上で重要なもののはずです。実際に、今、僕たちは授業の初めに「起立」して「礼」をします。そのような礼儀を大切なものと考える傾向は強くあります。また、人と話をしているときに姿勢が悪いと、ヒンシュクをかうことがあります。そのような気持ちの持ち方は、儒教、とりわけ朱子学の影響だと思います。僕たちが意識するしないにかかわらず、僕たちは儒教的な伝統の影響を受けています。だから、自分がどのような思想風土の影響を受けているかを知ることによって、初めて、僕たちは自由にものを考えているといえるのだと思います。これからお話しすることを通じて、僕たちが自分の足もとを知り、その上で、ものを考えることができるようになればと思いながら、お話をしたいと思っています。
東アジア文化圏
前置きが長くなりました。僕たちがこれから学ぼうとしている中国は、東アジア文化圏の中心にあります。東アジア文化圏とは、歴史的に形成されてきた中国・朝鮮・日本に共通した文化圏のことです。そこでは、漢字という文字、大乗仏教という宗教、儒教思想の伝統である礼儀の尊重という文化を共通にもっています。その文化圏の中心にある中国のお話です。
地理的常識です。中国とは、世界の屋根であるヒマラヤ山脈やパミール高原を西に臨むため、西高東低の地形をしています。それ故、中国を流れる大河は、西から東へと流れています。北の黄河、その南に長江、一番南にチュー川。大雑把に見ると、黄河流域を華北、長江流域を華中、チュー川流域を華南といいます。
中国文明がどこで発生したかについては、近年、長江流域からも様々の発掘がなされていて注目されていますが、一応は、黄河中下流域の黄土地帯から始まったということにしておきます。中国文明の中心であった黄土地帯の中原(「ちゅうげん」と読みます)から、次第に華中、華南へと広がっていきました。
黄河文明
世界史の時間ではありませんから、歴史の話は簡単にします。中国最古の文明は黄河文明といいます。初期の黄河文明からは、彩陶と呼ばれる土器が多く出土します。彩陶のような褐色の素焼きの土器は、中国に限らず古代のオリエントにも見ることができ、世界史的には彩文土器といいます。しかしその後、黒陶と呼ばれる土器が、黄土地帯に見られるようになります。この黒陶はロクロを使ってつくられ、大変薄いので、英語では卵の殻(eggshell)という表現で説明されることがあります。やがて黄河流域には青銅器が作られるようになり、中原に文字と青銅器を伴う王朝が成立し、歴史時代に入ります。
三皇五帝
現在、確認されている中国最古の王朝は殷です。殷代には優れた青銅器文明があります。殷代に鋳造された青銅器は、それと同じような緻密な青銅器をつくることは、現代の技術をもってしても、決して易しいことではないそうです。このように考えると、そのような高度の文明が、突然あらわれたというのは疑問に思えます。
そこで少しだけ、司馬遷の「史記」のお話をします。司馬遷の「史記」については、項羽と劉邦の叙述など有名な箇所が多いですから、皆さんも、漢文の授業でも読んだことがあるのではないでしょうか。数奇な運命をたどったこの中国の歴史の父は「史記」のなかで、中国の歴史の始まりについて、次のように伝えています。
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古来、中国には三皇五帝という伝説があります。それによると、中国人を野蛮から文明に導いたのは、三皇五帝と呼ばれる八人(?)ので伝説的な神や英雄たちでした。このうち三皇は、伏犠と女媧は体が蛇で頭が人間、神農は体が人間で頭が牛、というような異形の神であり、歴史的な実在人物とはとても考えられません。司馬遷の記述は、五帝本紀から始まります。五帝は、黄帝・顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)・尭・舜と受け継がれます。尭と舜はこれから勉強する儒教ではとりわけ聖人としてあがめられ、彼らの治世は理想化されるようになります。尭は暦をつくったと伝えられます。また尭は人徳にすぐれた舜に位を譲り、舜は治水に功のあった禹に位を譲りました。このようにして、中国に文明がもたらされていきます。そして五帝の最後の舜から譲位された禹によって、中国最初の王朝である夏がつくられたと司馬遷は伝えています。夏王朝の次の王朝が殷で、殷の次が周と続きます。
実は、今から100年少し前の19世紀末までは、中国の実在した最古の王朝は周だと考えられていました。夏のみでなく、殷も伝説の王朝として、実在性は疑われていました。しかし、1899年に、河南省安陽県小屯村を中心に殷墟が発掘され、そこから出土する甲骨文字が解読されるにしたがって、殷という王朝が確認されるようになりました。甲骨文字の解読から、この遺跡が殷朝の後半の都の跡であることが確認されました。この遺跡から、殷の歴代の皇帝の名前を刻んだ甲骨文字が出てきましたが、その皇帝の順番は、司馬遷が「史記」で伝えている皇帝名とぴったりと符号することがわかりました。このようにして、司馬遷の歴史記述の正確性が認識されると同時に、先ほども言ったように、殷の精密な青銅器文明が何らかの先行する文明の蓄積によらないということは難しいのではないかとの推測から、夏王朝の存在も確かでないかとの考えがだされてきました。事実、黄河流域には、昔の夏王朝の宮殿跡ではないかと思わせるような遺跡も発掘されてきています。ただし、これらの遺跡からは文字が出土しないために、確認ができないという状況だそうです。
さて、殷墟は先ほども言いましたように、殷王朝の後半の都でした。殷は邑を統率する王朝で、王は天子として天の意を占う祭を重要な仕事としていました。何かにつけて、王は天意をうらないます。鹿などの骨や亀の甲羅(といっても腹のほうだそうですが)に小さな穴をあけて、その穴に暑く焼けた火箸のようなものをあてると、骨にひびが入ります。それを見て天意を占うのです。漢字の「兆」とか「卜」は、ひびの形からできた象形文字でした。そして、占いの結果をその甲羅や牛の肩甲骨などに刻み込んだものが、甲骨文字として残っているものです。
この章はここで終ります。次章では殷・周という古代中国の社会における精神文化のお話をしたいと思っています。
第36回 人格神から自然神へ
~殷周時代の呪術信仰と天の思想~
前章では、司馬遷の「史記」のお話をしました。三皇五帝伝説を紹介し、最古の王朝である夏と殷のお話をしました。中国の歴史は連綿と続きます。「歴史は鏡」という考えが中国にはありました。一つの王朝が滅びると、一体、何故この王朝は滅びたのかを知ることで、新しい王朝の反省材料にしようという考えがあったのでしょう。司馬遷の「史記」以来、中国では王朝が変わるたびに歴史の編纂が積み重ねてきました。歴史書はまさに、中国文化の特色といえるでしょう。殷 周 春秋戦国時代 秦 前漢 新 後漢 魏晋南北朝時代 隋 唐 五代 北宋 南宋 元 明 清 中華民国 中華人民共和国。王朝の興亡はめまぐるしく続きます。今後のためにも、教養としても、一度覚えておくとよいと思うのですが・・・・
僕たちは、中国思想、特に春秋戦国時代に活躍した孔子に代表される儒教や、老子を祖とする道家思想を学ぶ予定です。この章では、そのような様々の思想がそこから出てきた、中国人のものの考え方の古層にあたる部分について考えてみたいと思います。
人間の死
南北朝の時代、後醍醐天皇は戦いに敗れて、吉野で死を迎えようとするとき、「玉骨はたとい南山(吉野山)の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕(ほっけつ=京都)の天に臨まんとす」との言葉を残したと「太平記」は伝えています。この言葉を引用したのは、魂魄という言葉の話をしたかったからです。
平凡社の百科事典によると、魂魄とは人間の精神的肉体的活動をつかさどる「たましい」を意味しました。古代の中国人は、何でも陰と陽の二つの原理からものを考えようとしました。魂は陽で魄は陰。魂は人間の精神活動をつかさどり、魄は肉体をつかさどる霊と考えられました。とにかく、現に生きている人間には魂魄がやどっていて、人間を生かしていると考えられます。人間の死とは、魂が肉体から離脱して天上に上り神となることと考えられました。一方の魄は、地上に留まって鬼となると考えられました。この平凡社の百科事典の説明が正しいなら、「論語」の中で孔子が言った、「鬼神を敬して遠ざかる」という言葉は、死者のこと、死後のことは尊敬の念はもっているが、正面から論じたりしないで遠ざかるという意味になるでしょうね。ちょっと脱線しました。魂魄の話に戻ります。夢でとなり村に遊びに行ったとします。それは魂が睡眠中に肉体を遊離して、となり村へ行ったことです。夢から覚醒するときに、魂はまた肉体に帰ってくることになります。もしも、二度と魂が肉体に帰れなくなると、それは死を意味します。人が息途絶えて亡くなると、親族は屋根に登って四方の空に向かって大声で叫びます。「魂よ、帰って来い」 死に伴う招魂の行事は、周王朝の末にまで見られたそうです。
天の世界
それでは祖先の魂が上ると考えられる天上の世界は、どうなっているのでしょうか。天上の世界には、北辰(北極星)を中心に、秩序正しい星々の運行が見られます。何時の頃からか、古代の中国人たちは、天には上帝がいて支配をしていると考えるようになります。人々は天に昇った祖先を祭りました。そのために宗廟がつくられます。宗廟とは天上の魂を一時的に招き寄せる木主を安置したところでした。日本の古代信仰にも、天上の率先の霊が高い木に降りてくるというものがあり、それが神木となり、さらに位牌となったと言われます。
地下の世界
さて、魂が肉体から離脱して死んだその肉体には、魄が宿っています。この肉体を何らかの形で保存しておくと、いつか魂が帰ってきて再生すると考えられます。
魄が肉体とともに保存される地下の世界には、その土地を支配する土地の神がいます。上帝が天上の世界を支配して唯一なのに対して、土地の神はさまざまで、それぞれの地を支配しています。このような神々を社稷といいます。社とは土地の神であり、稷とは穀物を実らせる神です。
中国の歴史のなかでは、宗廟と社稷は重要な役割を果たしています。天に昇った皇帝の魂を祭る宗廟や、土地の神を祭ること(社稷)は、国家的な二大行事と考えられました。
天と地
世界的な視野からみると、一般に、天の思想は遊牧民などの間にみられる一神教の伝統と関係があります。キリスト教の母体となったユダヤ教、また、ユダヤ教・キリスト教の影響を受けながらも、独自の発展をとげたイスラム教などは、その代表です。また、一方では、大地の恵みが豊かな地域では、天の思想とは異なる原理の思想・文化が生まれます。春になると芽吹き、また様々の命を育み、また、穀物を実らせる。そのような力が大地にはあります。そのような中から、地母神や日本の「ウブスナ(産土)」のような母性的な(?)地の神が生まれると言われます。古代中国には、そのような世界的にも見られる二つの神の思想、つまり、天と地の両方の神のようなものがあり、それが、宗廟と社稷の伝統の中に残っているのだと思います。しかし、中国においては、天は、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教の神のような人格神の方向には進みませんでした。天は次第に、神から自然の営みを支配する何か、さらに、大自然の大いなる営みをもたらす力のようなものに移行していくようになります。
周王朝
さて、殷の後に中国を支配したのが周です。殷の滅亡については、次のような逸話があります。殷の最後の王であった紂は妲妃を寵愛し、彼女を満足させるために、人民から重税をかける悪政をおこなった。そこで西方の周は「商王(殷の王)紂は夫人の言うことを大切にして神の祭りをないがしろにしている」として殷を滅ぼしました。おそらくそれは真実ではないでしょう。殷が東方の民族の反抗を抑えることに力を使っているうちに、西方の周が力をつけて、殷を滅ぼしたというのが真相でしょう。それを隠すために、中国の伝統的な「美人傾国」の話をつくったものでしょう。つまり王が美女に現を抜かしている間に国が滅びることになるという考えです。
周の封建制度
殷を滅ぼした周の基礎づくりに大きく貢献したのが周公です。武王の弟で周の支配の基礎を固めた人物とされます。周の礼楽制度を整えた聖人として、孔子から尊敬された人物でした。孔子は晩年になって、近頃は周公の夢を見なくなったと嘆いているくらいです。周の封建制度は、孔子の理想として、儒教に深い影響をあたえます。周は一族など血縁者に土地を与えて、支配をまかせるという封建制度をとりました。土地を仲立ちとする主従関係を封建制度といいますが、周の場合は、その条件として一族という血縁を利用したといえるでしょう。孔子は魯国の出身でしたが、この魯国こそ、周公の子孫にあたえられた国で、その意味では、孔子の周公への敬愛の念は、周の理想社会を作った先人であるとともに、自分の生国の大先輩への想いがこめられているのでしょう。
天の思想
前にも言いましたが、古代の中国人はいつの頃からか、天には上帝がいて唯一の全能者として諸部族の神々を統一して支配していると考えるようになりました。そればかりか、上帝は、天候をはじめあらゆる自然現象をも、豊年、凶作、疫病なども支配していると考えるようになりました
殷の王は、天子として天を祭り、天の命に従って治めました。そのためには、占いを行ない、上帝の意をうかがう必要があります。上帝の意をうかがい、天意に従って政治を行うという祭政一致でした。
周の王もまた、天子と考えられましたが、周では上帝への祭りなどの上帝の意を伺うことが最重要なこととはされませんでした。天子は徳を修め、正しい政治を実践するという徳治政治が、周においては重要でした。このことは別の視点から見ると、天子が徳を失って天命にそむけば、天は有徳の人を天子に任命する。つまり、天の命を革めて、王の姓をすげかえる(支配権を他の一族にかえる)ことになります。周が殷の臣下でありながら殷の支配を覆したときに主張した論理でした。これはやがて孟子によって易姓革命の理論として形作られていくことになります。
人格神から自然神へ
殷と周の時代の天についての考えを比較すると、ある種の変化が見られます。殷代の天には、人々にとって疫病や凶作をもたらすような、おどろおどろしい神というようなイメージがつきまとっています。それ故、王は天の機嫌を損なわずに、天の意向がいかなるものであるかを絶えず気にして、卜占で伺いをたてることを事としました。それに対して周の時代になると、天のそのような恐ろしい面は消えていきます。問題は天にあるのではなく、人間がいかに正しく生きるかが大きな問題になります。人格的に人間に語りかけ,場合によっては脅威をあたえるという面が、少なくとも表面的には消えていくようです。言わば、人格神から自然の営みを支える自然神へと、移行をしていくようです。このような延長線上に、その後の中国の思想は進んで行くように見えます。孔子のところでまたお話したいと思っていますが、孔子は、宗教的なことは話をしようとしませんでした。孔子にとって「天」とはどういうものであったのかよく分かりませんが、少なくとも、天とは祈りの対象というような、宗教的な意味合いはないようです。天という観念は残り、それは中国思想にとってキーワードのようになりますが、彼らの関心は、天よりも地で生きている人間のほうにむかっているようです。
第37回 激動の時代の中から
~春秋戦国時代と諸子百家~
この章では、孔子が登場した時代である「春秋戦国時代」と、そこで活躍をした諸子百家と呼ばれる思想家たちのお話しを簡単にしたいと思います。
春秋戦国時代
BC770年に、周は異民族の侵入を受けて一時的に滅亡します。司馬遷の「史記」は、この事件については、次のようなエピソードを伝えています。周の王であった幽王の妃であった褒姒(ほうじ)は美しい女性であったが、全く笑うことがありませんでした。幽王は、何とか彼女の笑顔を見たいと思っていましたが、褒姒は笑いません。ある時、緊急用の烽火が誤ってあがってしまいました。それを見た諸侯は急いで駆けつけました。以前から外敵が攻めてきたら烽火を上げるから、援軍を派遣するように命令してあったからです。諸侯は駆けつけてはみたが、何事もなかったので拍子抜けをして、それぞれ自分たちの国へ帰っていきました。この様子を見た褒姒は、初めて笑いました。幽王は大喜びで、褒姒の笑顔を見るために、しばしば烽火をあげました。そのため、諸侯は烽火を信用しなくなり、本当に異民族が侵入してきたときには、幽王のあげる烽火に呼応する諸侯が誰もいませんでした。そのようにして一時的に周は滅亡したということです。イソップの狼少年のような話ですね。
その後、周王室の一族が東に拠点を移し(東遷)、建て直しをはかりますが、往時の繁栄を再び取り戻すことはできませんでした。この周の東遷以後を、春秋戦国時代といいます。この時代の前半の春秋時代は、BC770年からBC403年までです。春秋時代は「覇者の時代」とも呼ばれます。この時代には、周室の権威はまだ残されています。そこで、諸侯は周室の権威を利用して、天下に号令をかけようとします。ちょうど織田信長が将軍であった足利義昭を奉じて京へ上ったのと同じですね。このようにして実質的な支配権をにぎった諸侯を覇者と呼びました。春秋の五覇として斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉の夫差、越の句践などがあげられます。(最後の二人に代わって宋の襄公と 秦の穆公をあげる説もあります)この時代の色々な物語は、さまざまの故事成句となって、昔から日本人にもなじみの深いものが多くあります。宿敵の呉と越の戦いの中で、敗者がその恨みを忘れないために「臥薪嘗胆」を行ったなどは、世界史で学んだのではないでしょうか。
春秋時代と戦国時代の境目は、BC403年とされています。名門の諸侯であった晋が、家臣たちによって支配権を奪われ、韓,魏,趙に分割されます。そのような下克上を周室が容認し、韓・魏・趙がそれぞれ諸侯として認められたのがBC403年でした。ここから戦国時代が始まります。戦国時代に入ると、周室の権威はすっかり失われ、諸侯は、従来は周室のみが許された王の称号を、各自がとなえるようになります。この戦国時代は、秦による中国統一によって、BC221年に終わります。
新しい社会の動き
春秋戦国時代は、分裂と混乱の時代でしたが、一方で、中国の社会が大きく発展した時代でした。鉄製農具の普及は、農業生産の増大をもたらしました。余剰生産物が生じると、それを背景にして商工業が発達します。このような社会の発達は、地縁・血縁で結ばれた氏族的な古い社会の衰退を招く結果となります。そのような中で、従来の価値を疑い、より合理的にものごとを考えようとする動きが起ってきます。鄭の国の宰相であった子産は、そのような意味での合理主義者でした。「天道は遠く、人道は近い」。子産の有名な言葉です。鄭の占い師が火災を予言し、それを回避するためのおはらいを行うことを子産に勧めたとき、子産はそれを拒否しました。その翌年、大風が吹いて鄭の国に大火災が起こりました。その後、占い師が再び火災の予言をしたことで、鄭の国に大混乱がおこりました。そのとき、子産が言った言葉が、「天道は遠く、人道は近い」です。人間にとって遠い天帝の意など分かるはずがない。人間にとって分かることは、この人間世界を支配する原理しかない。このような合理主義です。孔子は、子産のこのような合理的態度を高く評価しています。「怪力乱心を語らず」といわれた孔子の人間中心的な立場も、子産のような人々や、時代の趨勢の延長上にあったともいえるでしょう。
春秋戦国時代には、有力諸侯は広く人材を求めました。富国強兵のため、国を治めるため、政治の理念などへの見識、政治思想なども必要とされました。そのような社会的要請の中で登場してきたのが、諸子百家と呼ばれる思想家たちでした。戦国の七雄の一つであった斉の国では、最盛期には大勢の学者を招いて、都の城門(稷門とよばれた)の近くに邸宅を建てて住まわせ、十分な生活費を与えて著述活動を援助したり、論争をさせたりしたと伝えられています。百家争鳴とは、戦国時代の諸子百家による理論や学術の活発な様子を指す言葉ですが、具体的には、この斉の都でのさまざまの思想家たちの論争を表わしています。
戦国時代といえば、日本にもそのような時代がありました。しかし、日本と中国の違いは、恐らく国土の大きさでしょう(注1)。日本のように国土が狭いところでは、一回の戦争が重要な意味を持ち得ました。織田信長のように今川義元を桶狭間で破ると、勢いにのって、一気に上京することも可能でした。しかし、広大な領域に広がる中国を統一するためには、一度の戦いで決着がつくことは不可能です。中国を統一するには、単なる軍事力だけではなく、如何にして国を安定して治め、豊かな国とするかが重要でした。そのような意味では、諸子百家と呼ばれた思想家たちの多くは、天下国家のあり方を論ずる思想家たちでした。その点では、古代インドに登場した自由思想家の多くが、主に宗教的な問題を考えたのとは対照的です。宗教的なインドと政治的な中国という対比は、古代思想家たちについてもあてはまるのでしょうか。
諸子百家
春秋時代末期から戦国時代にかけて、諸子百家と呼ばれる多くの思想家たちが登場します。その中で、孔子・孟子に代表される儒家と、老子・荘子に代表される道家が、中国思想の車の両輪となります。儒家は、人間の生き方を考える道徳としても、また世を如何に治めるかという政治思想としても、大きな影響を後の中国にあたえました。一方で、道家は、儒教への反発から生まれました。君子と小人、賢人と愚人を分ける儒学は、人倫の道を励む努力を高く評価しましたが、道家思想は、そのような人間の小賢しい努力を嘲笑うかのように、無為自然の生き方を主張しました。儒学はその後、漢王朝において官学としての地位をえて、中国思想の主流となりますが、道家思想も中国の思想には欠かせることができません。僕たちは儒家と道家を中心に学んでいこうと思います。
その他にも、多くの思想家やそのグループが登場しました。家族道徳の枠をこえて、ひろく人々を愛する「兼愛」を説いた墨家。法律を制定して、中央集権国家体制を強化しようとする法家。戦国時代に諸侯の外交政策について論じた縦横家。戦国時代における戦術と政治について論じた兵家。中国古来の陰陽五行説によって自然や社会の変化を説明しようとした陰陽家。名(言葉)と実(実体)の分析を通じて「白馬は馬ではない」などの詭弁を駆使した名家。農業と農政について論じた農家。等々。この時代には、後の中国思想の要素の全てが出そろいました。そのような中で、幾つか、少しだけ詳しくお話をしたいと思います。
墨家
諸子百家のなかで最も早期に登場したのが、孔子とその周りに集まった人々からなる儒家でしたが、その儒家に対抗したのが墨子に代表される墨家でした。墨子自身は自ら著作を残しませんでしたが、彼の弟子たちが「墨子先生は次のようにおっしゃった」という形で「墨子」が残されています。この点では孔子の言葉を残した「論語」と似ていますね。墨家の思想は、とてもおもしろいと僕は思います。墨子が生まれたのは、紀元前の5世紀の後半ですから、今から約2400年以上昔のことです。でも、「墨子」に伝えられている言葉には、現代の僕たちにも強く訴えるものがあります。墨子はじめは儒家から多くのことを学んだようですが、孔子の仁について「別愛」との批判をしています(注2)。儒家の仁愛は、身近なものから初めてその愛を広く社会へと広げていこうとするものです。家族道徳を基本とする儒家では、何よりも親に対する孝を大切にし、親を思うことを一番とします。しかし、人間は誰もが、誰かの親であり、誰かの子であるはずです。自分の親への思いのみを重視するのは別愛であり、天の上帝の意志は、ひろく愛すること(兼愛)にあると墨家は主張しました。墨家は、中国思想にしては珍しく、天に対する信仰のようなものがあるように思えます。また、「墨子」は、大国の横暴を批判し、大国が小国を攻撃することを激しく批判しています。ものを盗めば罰を受ける。より多くのものを盗めばより厳しい罰を受ける。しかし、国ごと盗めば英雄である。また、人を殺せば、殺人の罪となり死罪になる。その理屈だと百人を殺せば、(実際は無理なことだが)100回も死罪になるはずである。しかし、大量に殺せば英雄になる。これは理屈にあわぬ不合理なことではないか。このように「墨子」は主張します。墨家の「兼愛論」「非攻論」は、現代の僕たちにも、素朴に考えるとき、説得力を持っていると考えるのはぼくだけでしょうか。
法家
法家思想は、儒家の影響をうけて生まれたものです。儒家の中の荀子の門弟が、師の説をさらに徹底することで法家は生まれました。儒教では基本的に刑罰をともなう法をつくることには反対しています。孔子も、「刑罰は法による政治では、人民は法の目をくぐり抜けて恥じることを学ばない」と言って、法治主義を否定しています。しかし、韓非子によって大成された法家では、法による強制力を武器に、信賞必罰の政治を主張します。戦国の七雄の一つであった秦は、法家の商鞅を採用しました。商鞅は法家思想にもとづく厳しい態度で、中央集権の国家体制を固めてゆきました。結局、商鞅は恨みをかい、非業の死をとげます。しかし、秦は、対抗する諸侯を従え、中国を統一して、長い戦国時代を終焉に導くことになりました。そのように考えると、法家思想は、戦国時代末の社会から要請されるような思想だったのでしょう。
孫子の兵法
日本でも戦いの書として孫子の兵法が有名ですね。この兵法書を表したのは、一説によると孫武という人です。斉の人で、13編の兵法書(孫子)を著し、呉王に仕えました。この孫武が呉王に見えた時の話です(注3)。呉王は孫武に言いました。「あなたの書かれた兵法書は13篇すべて読んだ。一つ実際に兵を動かして見せて欲しい。」おそらく、呉王は学者の考えと実戦とは違うと侮っていたのではないでしょうか。孫武は宮中に仕えていた美女180人を一同に集めて、これを2隊に分けて、王の寵愛を受けた二人をそれぞれの隊長に任じました。そして、女性達に説明をします。「前と言ったら胸を、右と言ったら右手を、左と言ったら左手を、後と言ったら背中を見よ。」女たちは「はい」と答えました。軍令を3度出し、5度説明をした上で、鼓を打ち、「右!」号令を出します。しかし、宮女たちは笑うばかりです。孫武は「軍令が明らかならず、号令が徹底しないのは将たるものの罪である。」と言い、軍令を3度出し、5度説明をしました。そのうえで、鼓を打ち「左!」と号令をかけます。しかし、女たちはまたもや笑うばかりでした。それをみた孫武は、「軍令が明らかならず号令が徹底せぬのは将たるものの罪である。しかし、軍令が明らかなるに、なお兵が従わぬのは隊長の罪である。」孫武は即座に左右の隊長を切ろうとしました。呉王はあわてて、「もはや将軍が用兵の達人であることはわかった。わしはこの2人がいないと、何を食べてもうまくない。どうか切らないでほしい。」とたのみます。しかし、孫武は「私はすでに命を受けて将となっています。将たるものは軍中にあれば君命もきかぬことがあります。」として、隊長2人を切って見せしめとしました。そして次のものを隊長として、鼓を打って号令を発しました。女たちは、左に右に、前に後に、膝まずくも立ち上がるも、全てが命令通りに動き、声を出す者すらありませんでした。孫武は伝令をもって王に報告します。「すでに兵は整いました。試みに王自ら台より降りて、動かしてご覧下さい。もはや、王の意のままに、水や火の中といえども進んでまいりましょう。」
皆さんはこの孫武のエピソードを聞いて、どう思ったでしょうか。僕は昔この司馬遷の「史記」に載っているこの話を読んで、とても嫌な感じを受けました。孫武は、兵家の思想家で戦いにおいていかに兵を動かすかを論じた人です。でもおそらく、教育現場には、このような厳罰主義はふさわしくないだろうと思いました。次章からは孔子と儒教のお話です。
注1:森三樹三郎 第三文明社「中国思想史1」51頁参照
注2:第十六章の「ヘブライズム」と第二十九章の「悟りということ」において、人間のエゴの根深さについて考えてみました。儒家の仁を「別愛」であると批判する墨子の考えは、儒家の愛を身近なものから遠くへ及ぼすと言うことを、単なるエゴイズムの拡大と考えることと通ずると墨子は考えたのではないでしょうか。
注3:平凡社 中国古典文学大系11 「史記」中 174頁参照
第38回 吾れ十有五にして学に志す
~儒学の伝統・孔子と「論語」~
湯島聖堂を訪ねて
JR御茶ノ水駅の東側の聖橋口を出ると、すぐ左に聖橋があります。「聖橋」という名称は、その橋が、南側の駿河台にあるキリスト教・正教会の大聖堂であるニコライ堂と、北側の湯島にある聖堂を結んでいるために付けられたものです。美しいアーチを描いて神田川にかかるこの橋は、お茶の水駅のホームからその姿を見ることができます。この聖橋を渡るとすぐ右が湯島聖堂で、そこにまつられている主が、これから僕たちが学ぼうとしている孔子様です。
湯島聖堂は、徳川綱吉が儒学の振興をはかるために、元禄3年に(1690)に湯島に聖堂を創建し、上野の林家の私邸にあった孔子廟と林家の塾をそこに移動させてできたものです。林家の塾は昌平坂
学問所として、江戸幕府直轄の学問所となります。昌平坂学問所の名称は、孔子の生まれ故郷である昌平郷(山東省泗水県の東南)の名に由来します。この湯島聖堂は、都心にありながら静かな森の中にひっそりとたたずんでいて、その中にいると、儒教が隆盛をきわめた江戸時代にふとタイムスリップしたような気になります。聖堂の敷地内には、高さ約4.8メートル、重さ約1.5トンの、世界最大の孔子銅像があります。実は、孔子のことを書こうとした時、何故か、湯島聖堂にあるこの孔子像に会ってみたくなりました。この孔子像の前で、「あなたは、一体、どんな方だったのですか。」と問いかけることで、自分自身で今一度、孔子に始まる儒教の意味を考えてみたかったからです。
日本書紀によると、儒学は、古く応神天皇の時代に、百済から王(わ)仁(に)によってもたらされたのが日本初とされます。その後、知識人のあいだには、儒学的素養があったと思います。聖徳太子の「十七条の憲法」のなかには、儒学の考えがちりばめられていますし、太子が定めたとされる「冠位十二階」には、徳を先頭に仁礼信義智のいわゆる儒教の「五常」の徳目がもちいられ、それぞれを大小に分けて、十二の冠位がつくられています。このようなことからも、聖徳太子が儒学の知識を十分に持ち合わせていたことが分かります。しかし、古代においては、人間の思想や宗教という内面に強い影響をあたえたのは、儒教ではなく仏教でした。内典である仏教に対して、儒教は外典として、主に政治に関するものとされてきました。
儒教が人間の思想としての実質的な力を持つようになるのは、江戸時代になってからです。中世の末から近世にかけて、精神的に大きな変化が起こりました。例えば、古代中世を代表する文化財が、寺院建築や仏像のような仏教に関するものであるのに対して、安土桃山時代を代表する文化財は、城郭建築でしょう。天高く聳え立つ天守閣をいだく城郭は、新興大名の支配力を誇示するものでした。秀吉の目指したものは、まさに「城と黄金の世界」でした。そこには、ヘーゲル流に言えば、「時代精神」の変化があります。京都五山相国寺の学僧であった藤原惺窩が、徳川家康の前に僧服を脱ぎ捨てて、儒者の姿で現れたことに象徴されるように、時代は、現世を空と観じる仏教よりも、現実の社会における社会倫理を要求したのでしょう。藤原惺窩の推薦によって徳川氏に仕えた林羅山も、五山の禅僧でありながら朱子学に心をひかれていった一人でした。江戸幕府は儒学の中でも朱子学を官学としました。このような情勢のなかで、朱子学を中心とする儒学が、日本人の精神構造に大きな影響をもたらすことになります。江戸時代には、幕藩体制の確立の中で、「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」との孟子の五倫観を基本としながら、あるべき人倫の道に関する思索が現実的意味をもつようになりました。
江戸時代に、武士の子どもたちは、孔子その門人の言動録である「論語」や「孟子」などを、まだわけも分からない頃から、「素読」という形で学びました。素読とは、例えば「論語」の冒頭の学而から「子曰(いわ)く、学びて時にこれを習(なら)う、亦(ま)た説ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや」と、その意味の理解は二の次にして、幾度となく音読をして、それを書物がなくとも諳んじて言えるようになる学習方法です。徳川幕府は寛政期に、朱子学以外の学問を昌平坂学問所で講ずることを禁止した「寛政異学の禁」を出しました。さらに、儒教を奨励するために、旗本や御家人の15歳以下の子弟に、「素読吟味」といって、「四書五経」と「小学」の素読の試験を毎年実施しました。試験の結果、優秀な成績を上げたものは表彰されました。まだ幼い子どもは、素読の訓練を通じて、「論語」を覚え、理解の浅い深いは別にして、教養として身につけていきました。この「素読」という方法は、子どもに難解な語句を意味も分からずに無理に覚えさせるということで、現代では用いられることはあまりありません。しかし、この「素読」の伝統は、決して無視できないものであったと思います。何か意を決して実行に移すときに、「義を見て為ざるは、勇なきなり」いう言葉がでるなど、何かの折に「論語」の言葉が口ずさまれました。漢文の読み下しは、中国語ではありませんが、それは簡潔でリズム的とも言える日本語にまで洗練されました。そのような形で、過去の賢人の言葉を身につけるということは、その人間の精神にも影響を与えずにはおかないでしょう。「教養」をドイツ語でビルドゥンク(Bildung)と言いますが、それは文字通りには「自身を形作る」という言葉から来たものです。その意味で、「素読」は日本人の教養を培ってきたと思います。とにかく、江戸時代には多くの人々が儒学の影響を受けて、人間はどう生きるべきかを思索してきました。
幕末になってペリーの来航以来、圧倒的な力をもつ欧米の圧力の前に、徳川幕府は開国を余儀なくされました。しかし、佐久間象山の「東洋の道徳、西洋の芸術」という言葉に代表されるように、多くの日本人にとって、外国から学ぶものは、「黒船の力」に代表されるような科学や技術のみで、心の問題は従来通りの儒教で十分だと考えられました。いわゆる「和魂洋才」ですね。もちろん、西洋を物質文明で東洋を精神文明とする見方は単純すぎます。西洋の科学技術は、その背景に西洋の精神文化をもっていましたから、単純に科学技術のみを受け入れるというわけにはいきませんでした。その後、欧米の思想や哲学も、多くの日本人によってもたらされました。しかし、儒学思想が明治以後も日本人の精神に、良きにつけ、悪しきにつけ、深い影響をあたえたことは確かでしょう。孔子が内面を伴わない形式は意味がないと強調したにもかかわらず、儒教は時には、忠君愛国というスローガンのもとに、国民にある種の奉仕を強要するイデオロギーに逸脱したこともありました。しかし、何の価値もないものがこれほど長期間にわたって、深い影響力をもつことはできないでしょう。そして現在でも、現実の社会の中で、タテ社会の人間関係、礼儀を尊重する習慣、家の観念etc.として、今なお、儒教思想は影響力を持っていると思います。そのような儒教の原点となった孔子はどのような人だったのだろうかを考えながら、お話をしたいと思います。
伝不習乎
さて、これから孔子のお話に入りますが、正直に告白すると、今までに扱ってきた、ギリシア、キリスト教、仏教よりも、今回の中国思想はうまく話をできるか、不安です。「論語」の中に、孔子の門人である曾子の次のような話があります。自分は日に三度(何度も)自らを省みる。一つは人と相談をするときに忠でなかったかどうか、また朋友に対して信ではなかったかどうか。最後に習わざるものを教えなかったかです。この論語の一説は「三省堂書店」の名前の由来になったものですね。ここで「忠」とか「信」ということについては次回お話します。僕が言いたいのは、最後の「習っていないものを教えなかったか」という点です。「習」とは「羽」という字が入っているように、雛鳥が羽を何度もばたつかせて巣立ちのための準備を習熟するように、何度も何度も学び考え自分のものにすることです。(注) これからの話については不安を感じながら、でも僕なりに考えながらお話をしてみたいと思っています。
注:金谷治「論語の世界」NHKブックス9頁参照
孔子(前551年頃~前479年頃)
孔子の伝記を簡単に見てみましょう。孔子は春秋時代の末期に、魯の国で生まれました。魯国は弱小国ではありましたが、周公旦ゆかりの国でした。孔子は、やがて周の時代の礼楽に興味を示し、またそれを理想と考えるようになりますが、周の諸制度を作り上げるのに大いに貢献したのが、この周公でした。孔子は晩年に、自分が周公の夢を久しく見なくなったと嘆いています。孔子が生まれた魯の国は、その周公の子孫たちに与えられた国でした。その意味では、孔子の周公への尊敬の念は、周代の諸制度へばかりでなく、故郷である魯国の先人への思慕でもあったのでしょう。
孔子の父は、自分の実力でのし上がってきた武人でした。そういえば、孔子は大男で、当時の大人の平均身長が八尺であったのに対して、九尺九寸あったと伝えられますが、そのような強健な身体は、父親ゆずりだったのかも知れません。しかし父は孔子が誕生してまもなく亡くなり、母も孔子が子どもの時に亡くなりました。孔子は、自分が幼いときは貧しくて、そのためつまらないことどもに多能になったと言っています。
15歳の時から、孔子は学に志しました。学に志したとは、父親のように武芸ではなく、学問に生涯を捧げるという決意をしたのでしょう。決して血筋がよく裕福であったわけではなかった彼は、あらゆる機会に、わからないことを質問することで、知識を広げていったようです。弟子の子貢は「先生は誰にでも学ばれた。別にきまった先生などいなかった」と言っています。やがて孔子は独立して、魯国の下級役人となります。しかし、時代は戦国時代へと入ろうとする時期で、魯国の政治も混乱を極めます。孔子36歳のときに、魯国の昭公が家臣の反逆にあって斉へ亡命をするという事件がおこりました。主君が家臣に国を追われるということへの疑問もつよく、孔子も魯国を去り、斉の国へ赴きました。この斉という大国での経験は、孔子のキャリアに箔をつけることになりました。古代の帝王であった舜がつくったと伝えられる「韶」を聴いた時は、あまりの美しさに感激してしばらくは食事の味もしなかったといいます。
やがて魯国に戻った孔子は私立学校を設立し、弟子の養成に従事するようになりました。このころから孔子は古代の礼楽に詳しい人物との評判もたかまり、40歳頃からは孔子の周囲には学団が形成されはじめるようになります。
そのような学識をかわれて、52歳の時に、孔子は魯国に仕官して手腕をふるうことになります。活躍が認められて、孔子は大司寇(現在の最高裁判所長官的役職)まで上りつめます。孔子の生涯で、政治家として最も輝いたのは53歳のときでした。大国であった斉との平和会議(夾谷の会)で、大国の脅しにも屈せずに堂々とやりあい、平和会議を成功させました。しかし、孔子が目指した政治改革は、孔子の改革による魯国の強大化を懸念した斉の策略もあって挫折をします。「論語」には「斉人が女楽をおくる、季桓子これをうけて3日朝せず。孔子去る」と伝えています。孔子56歳の時でした。
以後15年間、孔子は諸国を遍歴してまわります。自分の理想とする政治のありかたを述べ伝えてまわりますが、孔子の見識に対する尊敬はうけても、彼の理想を政治に生かそうとする諸侯はいませんでした。時には家無し犬のようだ(喪家の狗の如し)と表現されるような苦労をしたこともありました。長い放浪生活を終えて、孔子が故国の魯に戻ったのは69歳の時でした。以後は落ち着いた生活の中で、弟子たちの教育と研究に残りの人生を過ごすことになります。しかし、晩年の孔子は悲しい出来事に多くみまわれます。最愛の弟子とも言える顔回が32歳という若さで亡くなったときは、天が我を滅ぼした、とまで言って慟哭しました。その人柄を本当に好んだ子路が、仕官先の衛国で殺されたときも、深く悲しみました。このように、弟子の死に対して、他の目を気にせず嘆き悲しむところに、孔子の人間らしさが伺えます。そして74歳で弟子たちに看取られながら生涯をおえました。
以上の伝記は 司馬遷の「史記」を中心にしたもので、本当のことかどうかは確定できません。しかし、孔子や弟子たちの言葉が集められた「論語」は在りし日の孔子の人柄と雰囲気を見事に伝えていると思います。
井上靖さんの「孔子」は、大変面白い設定になっています。ひょんなことから諸国をめぐっていた孔子の一団に加わり、孔子やその門人の子路、子貢、顔回などの苦楽をその眼で見たという、篶薑(えんきょう)という架空の人物が登場します。孔子はもちろん、孔子と直に面会をしたことのある門人もすでになくなっていますが、孔子を慕い、孔子の言動の真実を知りたいと、各地の孔子研究会のメンバーが、すでに老境にたっして田舎で自然を友として生活をしている篶薑(えんきょう)のもとに、孔子の真実を質すべくやってきます。それらの人々の質問に答えて、篶薑が、昔の思い出を語るという形で話が進んでいきます。孔子の没後に成立した「論語」が成立するまでには、このような努力が恐らくなされてきたのでしょう。「論語」の知識が少しはある人が読めば、「論語」の色々な場面の言葉を井上靖がどのように解釈したかが分かり、その意味では興味深い作品です。孔子の死後、恐らく、孔子の孫弟子や曾孫弟子たちの努力で、孔子を中心として門人たちの語録として編纂されたものが「論語」です。
「論語」は、孔子やその門人の「語録」です。「論語」ほど多くの人々に読まれてきたものはないでしょう。日本語には、様々のところで「論語」から取られた言葉があります。また、孔子が自らの過去を振り返って語った「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして迷わず、五十にして天命を知り・・・」という言葉から、而立(30)や不惑(40)が僕たちの人生における年齢を表わす言葉にもなっている位です。そのように日本人にも昔から親しまれた「論語」ですが、昔から「論語読みの論語知らず」という言葉があります。「論語」の言葉は、単に知識として知っているのでは不十分なのでしょう。知識として「論語」を理解しているようでも、実践が伴わない学者は「論語読みの論語知らず」といわれました。実践が伴わないというよりも、その人の知識が熟して骨肉化していないならば、本当の知識にははっていないというのだと思います。孔子が愛した弟子の顔回は、そのよう意味での、知恵と実践が分かれていない人物であったように感じられます。顔回が師である孔子に「仁」について質問したとき、孔子は「克己復礼」(己に克(か)って礼に復(かえ)る)と答えました。それに対して顔回は、「回、不敏と雖も、請う斯の語を事とせん(わたしは愚鈍ではありますが、どうか、先生の言葉を守り実行させていただきたいと存じます)」と答えています。「論語」を読むには、一つ一つの言葉を味わいながら、自分の内なる心に照らして読むことが、本当は一番必要なのだと思います。
第39回 人類の教師・孔子
~孔子の思想~
今日は。この章では孔子の思想についてのお話をしたいと思います。孔子の思想全般について、詳しくお話をする余裕も、また、能力も、僕にはありません。そこで、孔子の思想の中心にある「仁と礼」を中心に、孔子の人となりを含めた思想の断片を、僕なりにその意味を考えながら、お話をしたいと思っています。
人類の教師 孔子
和辻哲郎は「孔子」の中で、孔子、釈迦、ソクラテス、イエスの四人を「人類の教師」としました。その中で、和辻は、孔子が自らを振り返って語った有名な次の言葉をあげて以下のような説明をしています。
我十有五にして学に志し 三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳したがう 七十にして己の欲するところに従いて矩をこえず。
この孔子の晩年の言葉が、本当に孔子自身のものならば、これはまさに自伝です。しかし、この言葉から分かることは、孔子といえどもそれぞれの年になるまでは、そのようではなかったということです。つまり、三十に至るまでは、まだ世に立っていなかった。四十になるまでは惑いもあった。六十になるまでは、他人の言葉に寛容になれないこともあった。等々。しかし、孔子はそれぞれの人生の段階において、そのような自己実現をはたしてきました。この孔子の生涯の段階から、十五を志学、三十を而立、四十を不惑、五十を知命、六十を耳順、七十を従心と言うようになります。そして、この孔子の生涯は、一般の人々にとっても人生の段階としての意味をもつようになります。一般の人々でも三十になれば、而立になり、四十になれば、不惑になったといいます。たとえ三十で世に立つことがなくとも、四十になっても惑いがあろうとも、人は、而立となり、不惑となります。そして、三十で人生に惑いがあっても、人々はそれに対して寛容でありえます。しかし、四十を過ぎても惑溺の底に沈んでいれば、その人は、当然なすべきことの欠如として、非難されるようになります。
和辻が同じく「人類の教師」とみなした他の三名の人生航路と比較をすると、孔子の人間的な人となりがより鮮明になります。
例えば、而立。30歳の頃の釈迦は、厳しい修業の最中でした。時には生命の危機に瀕するほどの厳しい苦行も行いました。そして、35歳で苦行を捨てて、ブッダガヤーで悟りを開き仏陀となりました。30のときのイエスはまさに、十字架への道行きの途上、恐らく、ユダヤ教の主流との対決は避けられないという自覚をもっていたでしょう。30の頃のソクラテスはどうだったでしょうか。自然の研究に没頭していたのでしょうか。分かりません。しかし、例のダイモンの声はもう聞いていたようです。いずれにしても、他の三人の「人類の教師」の人生の諸段階を一般の人の「あるべき段階」とすることは無理でしょう。
もう一つ。和辻の「孔子」で、僕が面白いと思ったことは、他の三人の「人類の教師」と孔子の間の「死に方」の違いです。他の三人の「死」は特別の、そして、決定的な意味があったということです。イエスの死と復活は、キリスト教の信仰の中心にあります。イエスの十字架上の死の中に、キリスト教徒は神の智慧を認め、また、十字架上のイエス自体が信仰と祈りの対象となりました。「福音書」そのものが、イエスの十字架への道行きを示しているともいえます。また、ソクラテスの死は強烈です。ソクラテスの死そのものが、強烈なインパクトをもって、ソクラテスとは何者か、また、ソクラテスを突き動かしていたものは何か、との問いかけになっています。「ソクラテスの弁明」「クリトン」「パイドン」というプラトンの一連の作品は、ソクラテスの死を扱ったものです。イエスとソクラテスの場合は、激しい敵意やねたみ、また、政治との関わりによって刑死するという、不自然死でした。それに対して、釈迦の死は穏やかなものでした。自分の滅後は、法のみを、ないしは自己のみをたよりとせよとの「自灯明」、「法灯明」を説き、全てのものは移り行く、怠らずに修行せよとの説法をのこし、最期はクシナガラで沙羅双樹のもとで右を下にして入滅しました。仏陀の死を描いた阿含経の部分は、「涅槃経」として親しまれてきました。しかし、いずれにせよ、イエスの十字架、ソクラテスの毒杯、釈迦の涅槃を扱った作品が、つまり、彼らがどのような死に方をしたのかが、彼らの思想の本質的な重要な部分となっています。
それに対して和辻は、「論語」の中には、孔子の死についての明白な記録がないという特色を指摘しています。このことは、孔子の思想の特色を表しています。生を知る前に死について語ることを避け、鬼神を敬遠し、怪力乱神を語らずと言われた孔子は、その意味では、常に、人間的立場に立っていたと言えるでしょう。
人間的立場
孔子の言動を集めた「論語」は次のような言葉から始ります。「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり遠方よりきたる。また楽しからずや。」“学んで時にこれを復習する、いかにも心嬉しいことだねえ。(志を同じくする)友だちが遠いところから訪ねてくる、いかにも楽しいことだね。”
孔子の言葉は決して人々を驚かすようなものではありません。孔子と並び称せられる古代の多くの哲学者や宗教家たち、例えばソクラテスやキリストと比較すると、孔子は一見いかにも常識的なことしか話しません。「・・・されど汝らに告ぐ」というような、今までの常識を破る説を唱えることもありません。孔子は中庸の徳を説き、平凡であれと説きます。しかし、そのような常識の中に、人々を心から納得させる真理をかいま見ることができます。そのような常識の中に隠されている真理を発掘する孔子を評して、ある本(森三樹三郎「中国思想史(上)」レグルス文庫)で「偉大なる凡人」と表現しているのを読んだ時、いかにも言いえて妙という印象を受けました。
「論語」の中に、厩の火事について、次のようなエピソードが伝わっています。「厩が火事になった。先生は朝廷から帰っていらっしゃると、人に怪我はなかったか、と問い、馬のことは問われなかった。」洋の東西を問わず、古代世界において馬は高価で大切な財産でした。厩が焼けた時に、普通ならば、馬に被害がなかったかを問うはずなのに、人間が無事であったかということ以外に尋ねなかったことが、弟子たちの印象に残ったことだったのでしょう。
現に生きている人間を重視する孔子の立場は、「敬遠」の語源となった「鬼神を敬して遠ざける」という話の中にも、見ることができます。また、季路との次のような話の中にもよく現れています。季路が神霊につかえる事を問うたのに対して、孔子は、「いまだ人に仕えることができないのに、どうして神霊に仕えることができるだろう。」と言い、また、死についての季路があえて問いかけたのに対して、「いまだ生も分からないのに、どうして死が分かるというのか。」と答えました。孔子は怪異と力わざと不倫と神秘を口にしなかったと言われます(怪力乱神)を語らず。)
温故知新
孔子は周の礼楽制度を理想として、熱心に礼楽の意味を学ぼうとしました。このように古いことに習熟して新しいことをわきまえることを「温故知新」と言います。孔子は「学ぶこと」と、それをふまえて「考えること」を重視しました。「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」という有名な言葉は、そのことを表しています。実際、「学ぶこと」と「思索すること」の両方が大切ですね。皆さんの勉強もそうです。学び憶えることだけでは、決して勉強になりません。学んだことをもとに、自分で考えることこそ大切です。よく社会は暗記科目だとか、たくさんのことを憶えることが得意ではないから社会は苦手だという人がいますが、社会が暗記科目だと考えている人には、本当に社会が得意な人はいないはずです。また、憶えることが多すぎると考える人は、自分で考えるという作業をしていない人です。自分で考えれば、何が重要かがわかってきます。何が重要かがわかってくれば、それを軸にして、そこはしっかりおさえて、その肉付けをしたり、派生的な問題をそのもとに位置づけて理解し憶えていけば、決して社会が暗記科目とか、憶えることが多すぎるということにならないはずです。
君子による徳治政治
「論語」の中には「君子」という言葉がよく使われます。「君子」とは「小人」に対する言葉で、「有徳の士」といった意味です。孔子が理想とした古代の聖人たちは、皆「君子」でした。孔子は身分制度を当然のこととして前提にはしていません。孔子の私塾には、身分の別なく門人がいて、孔子は誰を拒むこともありませんでした。しかし、その人の位と徳とは一致すべきだとは考えました。
「修己治人」という言葉があります。人を治める前に、まず自分自身を修めるという意味です。「修身、斉家、治国、平天下」という言葉があります。宋学(朱子学)を完成した朱熹が、特に重要と考えたものですが、何よりも、まず己の徳を研くこと(修身)、その次に、自分の国をととのえ(斉家)、しかる後に国を治める(治国)。そうすれば、天下は平らかになる(平天下)というものです。このように、まず自己を修め、その徳を周囲に広げて、自然に社会が良い方向へむいていくような政治を、徳治政治といいます。それに対して、「法律」を定め、その法に違反した者を厳しく罰するということを、法治主義といいます。孔子の時代、地縁血縁でむすばれた古い氏族的社会が崩壊していき、新しい実力主義の風潮のなかで、法治主義が芽生えていく時代でした。結局は、法治主義で国を固めた秦によって、中国の長い分裂時代が終焉を迎えることになります。しかし、そのような社会的な方向性というか、雰囲気のなかで、孔子はこの「法治主義」をきっぱりと否定しました。法律と刑罰をこととする政治では、民は法の網を逃れて恥じる心を失う。大切なことは、民自身のうちに、悪を憎み不善を恥じるような心が生じることで、そのためには、君子自身が徳を積まなくてはならないというものです。それでは、君子たる者が修めるべき徳とは何でしょうか。孔子は相手である弟子をみて、さまざまに答えています。しかし、その中心となるものが「仁と礼」でした。それでは、孔子の仁と礼とはどういうものだったのでしょうか。
仁とは
孔子が一番大切にした徳は仁でした。孔子は「論語」の中で多くの機会に、仁について語っています。「巧言令色すくないかな仁」とか、「仁とは克己復礼である」等々。表現はさまざまで、一概に言い切れない面をもっています。
ただ、「仁」という字は、ニンベンに二と書きます。つまり、「仁」とは人が二人ということです。恐らくそれは、二人の人間が寄り合うときに、自然に起こってくる純粋な心を本来意味していたのではないでしょうか。それを孔子は端的に「人を愛する」と表現しました。
樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す。
しかし、人を愛するとはどういうことでしょうか。孔子は抽象的な議論や空論を嫌う人でした。そして、孔子に始まる儒教の大きな特色の一つに、人間は個人で生きているのではない、人間は具体的な人間関係の中で生きている、という考えがあります。抽象的な人間でなく、具体的な人間関係は、まず家族から始まります。親に対する思いを「孝」と言います。また兄弟(兄)に対する思いを「悌」と言います。孔子は「孝悌」を仁のもととしました。つまり仁とは、孝悌を基本とした内的なあり方を言います。
忠 信 恕
人間が本来修めるべき徳としての仁を構成する重要な要素として、忠、信、恕があります。
忠とは、中と心の二つから成り立っていることから分かるように、内なる心という意味での「まごころ」を意味しています。孔子には天に対する信頼がありました。万物を生みはぐくむ大いなる何かを、恐らく「天」は意味していたでしょう。そのように確信している孔子にとっては、人間の内心は本質的に善いものでした。
ここで、第十六章のヘブライズムのところでお話したconscience の話を思い出して下さい。良心と訳されるこのconscienceは、本来は「内から知られたもの」という意味です。孔子が「良心」の発見者と言われたりするのも故なしとしないでしょう。忠とは心の奥底にある良心でした。前に触れた曾子の「三省」の第一、人と相談するにあたって忠でないことはなかったか、という言葉の意味は、人と相談をするときに、本当に親身になってまごころをこめて相手をしていただろうか、という意味でしょう。
信とは、人の言葉に関係して外に現れたまことが本来の意味でした(金谷治「論語の世界」)。そこから、約束をまもるとか、嘘をつかないという意味になります。
恕とは、心の如しという言葉がもとになります。具体的には、人に対する思いやりです。子貢が孔子に、「一言でもって生涯それを実行すべきものがあるか」と問うたのに対して、孔子は「其れ恕か。己れの欲せざる所、人に施すこと勿かれ。(それは思いやりというものだ。自分がしてほしくないことを他人にしないことだね)」と答えました。有名な箇所ですね。
夫子の道は忠恕のみ
孔子が信頼していた若い弟子に曾子がいました。参と呼ばれた曾子と孔子の間に、次のような会話が交わされたことがあります。「参よ、私の道は一をもって貫かれている。」それに対して曾子は「分かりました。」と答えました。孔子が退出すると、近くに居合わせた弟子たちがその会話をいぶかしく思い、曾子に、一体先生が自分の道は一つのことに貫かれているというのは何か、と尋ねました。それに対して、曾子の答えは、「先生の道は忠恕のみ」でした。
子曰く、参よ、吾が道は一をもってこれを貫く。曾子曰く、唯。子出ず。門人問うて曰く、何の謂いぞや。曾子曰く、夫子の道は忠恕のみ。
心の中(忠)も、心の如し(恕)も、人間のあるべき内面の姿です。この内面の規範、あり方を、孔子は仁と言いました。
礼とは
明治になって西洋の文物が流入しはじめて以来、日本人は欧米の文物を取り入れてきました。哲学も入って来ましたが、そのなかで、外国の哲学を受け売りのように取り入れるのではなく、自らの思索を通じて、哲学を作り出した日本初の独創的哲学者が西田幾多郎でした。その西田は、中国文明を評して、「礼の文化」と言いました。礼とはどういうものなのか、僕なりに考えてみました。
孔子の思想の中心には「仁と礼」があると言いました。仁とは、今まで述べてきたように、内面的なあり方で「人を愛する」とも言われます。ここで考えてみたいことがあります。「仁」とは「愛」そのものではないにしても、「愛」ということに深く関わっていることは確かでしょう。人間は何かに惹かれたり、何かを愛したりします。その意味では、「愛」というものは人間にとって普遍的なものであり、重要なものです。だから、表現の違いや意味合いの差こそあれ、哲学者や思想家や宗教家は、何らかの形で「愛」について語っています。プラトンはそれをエロースと言い、アリストテレスにとっては友愛を意味するフィリアは大切なものでした。キリスト教の愛はアガペーといい、キリスト教は「愛の宗教」とさえ呼ばれます。仏教では「愛」という言葉はよい意味では使いません。「愛着(あいじゃく)」という表現の中に、何ものかに執着することによって迷いの原因となる困ったものという意味合いが仏教における「愛」にはあると思います。しかし、そのような言葉尻にとらわれるのではなく、何らかの他者に対する思いやりというか、愛情というものなら、仏教には慈悲があります。キリスト教における「愛」にあたるものは、仏教では「慈悲」と呼ばれる「生きとし生けるものへの慈しみの心」でしょう。墨子は、孔子の仁を別(差別)愛であるとして、「ひろく愛する」という意味の兼愛を説きました。
このように考えてみると、「愛」ということは、昔から人間にとっては重要なことでした。しかし、このようなギリシアからキリスト教、仏教などの古代思想における愛と孔子の「仁」の考えには、ある大きな違いがあるように思えます。それは、多くの古代の思想化の「愛」は、愛を考える人々の心の中の問題だったということです。しかし、「愛」とは「何かに対する愛」であるはずです。「愛」というものが、その人の心の中にのみ生じるもので、他へと伝わらないものならば、意味がないのではないか。「愛」というものは、何らかの形に表わすことで、他へ伝わることが必要ではないか。
少なくとも、孔子にとってはそうだったと思います。孔子にはじまる儒教思想の人間観は、人間は個人で生きているのではない、具体的な人間関係の中で初めて、人間は人間として生きることできる、というものでした。後に、この儒教的な人間観は、孟子によって五倫観として完成することになります。そのような人間観をもつ孔子にとっては、人間の内面(仁)は、他の人に伝わるための「形」を持つ必要がありました。そのような内面の心を表す形は、礼と呼ばれました。「礼」はあくまで内面的心である「仁」を表すものであり、内実を伴わない形ばかりの礼は、孔子が最も嫌うものだったと思います。孔子においては「仁」が人間の内的規範であるとするなら、「礼」は外的規範というべきものでした。
しかし、一方で、「仁」を形にあらわす「礼」という外的規範が導入されることによって、儒教思想は他の古代思想にはあまり見られない「社会性」をもつようになったと思います。このことは、やがて漢代に儒教が国家の思想として採用されていくことと無関係ではないでしょう。
孔子における天
最後に、孔子における「天」とはどういうものであったのだろうか、考えてみたいと思います。孔子は50歳で天命を知ったと言われます。ここで言う天命とはどういうものでしょうか。天から与えられ、または、課せられた使命でしょうか。あるいは、己の限界を示すような運命でしょうか。分かりません。僕はどちらかというと、後者のように思えるのですが。孔子にとって「天」というのはどういうものだったのでしょうか。孔子が天に対する信頼を抱いていたことは確かです。何かのっぴきならない状況に立たされたときに、天という言葉が孔子の口から出てきます。例えば、孔子が匡の土地で危険に陥ったとき、天がこの文化を滅ぼさないからには、周の文化を受けついでいる自分の身を、匡人がどうしようとも、できようはずがないと言い切っています。
天の未だ斯(そ)の文を喪(ほろ)ぼさざるや、匡人(きょうひと)其れ予(わ)れを如何。
一方で、天は、人間の限界としての運命を意味していました。伯牛という弟子が病気になったとき、孔子は、このような人でも病にかかるのか。運命だ(命なるかな!)と繰り返し嘆いています。また、最愛の弟子である顔回が亡くなったときには、「ああ,天はわたしを滅ぼした。天はわたしを滅ぼした。」と慟哭しました。
困難な状況においても孔子が信頼をおく天、しかし、時には冷酷な運命をもたらす天、孔子にとって「天」とはどういうものだったのでしょうか。確かに、孔子の天は、キリスト教の神のように、祈りの対象ではなかったでしょう。人間に問いかけ、また、それに人間が応答するというような、人格神ではありませんでした。しかし、天への信頼は揺るぎませんでした。
「天何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天何をか言うや。」(天は何をいうだろうか。季節はめぐり、万物は生まれ育つ。天は何をいうだろうか)
この孔子の言葉は、子貢などの弟子が、何でも自分から言葉を聞こうきこうという依存心に対して、言葉に頼りすぎることを注意するために語られたものです。しかし、その例として、大自然の営みを例に挙げているところが注目されます。第三十五章の「天と地」の項でお話ししたように、孔子における「天」とは、天地大自然を生み出し育む、大自然の営み、内から支えている大いなるものを意味していたのではないでしょうか。地上に棲む人間の頭上に広がる天。それは人間の自己充足的な自己満足に対して、人間の有限性を、さらには謙虚さを問いかける大いなるもの。その意味では、人格的な神への祈りではないにしても、「丘や祈ること久し」と言われるように、ある意味では畏敬の対象であったと思います。
これで孔子のお話は一区切りです。僕なりには考えながらお話をしたつもりですが、自信はありません。孔子がその才能を認め、かつ、その学への姿勢を最も愛した顔回は、自分の師である孔子を評して「仰ぎ見れば、ますます高く。切り込めばいよいよ堅く。前方に見たと思えば、ふいにまた後ろにいらっしゃる。・・・ついて行きたいとおもっても、その手段がまったくみつけられない」と嘆いています。孔子の一面をゆがめて伝えていないように願うだけです。和辻哲郎は「孔子」の中で、この大思想家の「思想」について、「その思想を「叙述」することは自分の全然興味をもたないところである。この思想に接したい人は、「論語」を繰り返して読むがよい。」(岩波文庫 和辻哲郎「孔子」138ページ)と言っています。皆さんに対してもそう言うより他にありません。ただ、儒教とか孔子と言うと、一般に大変古臭い、そして、忠君愛国思想と結びついたものという通念があると思います。それに対して、孔子自身はそのようなものでなかったことをお話し、それによって「論語」を皆さん自身で読んでみたいとの気持ちが生まれてくればとの思いで、お話をしてきました。この章では、孔子の後継者として、主に、孟子と荀子のお話をしたいと思います。
第40回 人間を信じることができるか否か
~孟子と荀子~
孔子の後継者
第三十八章で「湯島聖堂」のお話をしました。この孔子廟(大成殿)には、孔子像の左右に孟子、顔回、曾子、子思の四賢人を祀ってあります。顔回は、孔子が将来を最も嘱望した門人で、その直向な生き方と向学心から、孔子が最も愛した門人でしたが、若くしてなくなりました。「夫子の道は忠恕のみ」と喝破した曾子は、孔子の内面の核心である仁の思想を受けついだといえます。子思は孔子の孫で、曾子から薫陶を受けました。孟子はその子思の門人から学びました。儒教は「孔孟の教え」と呼ばれるように、曾子、子思、孟子と連なる儒教の伝統は、正統派儒教思想とみなされてきました。この儒教の流れは、どちらかというと、忠恕を孔子の道と理解した曾子に代表されるように、孔子の仁という内面的なあり方を重視するものです。しかし、一方で、孔子が重視した「仁と礼」の中で、礼のほうをより強調する流れもありました。子游や子夏がその代表で、やがてこの礼重視の伝統は荀子に受けつがれていきます。この章では、孟子と荀子のお話をしたいと思います。
性善説と性悪説
僕たちは、様々の個人的な歴史をもっています。嬉しかったこと、悲しかったこと、義憤を強く感じたこと、等々。そのような経験を積んでいくうちに、自分も含めた人間について、ある種の見方が形成されていきます。そのような中で、人間の嫌な面や、また、素晴らしい面を体験するにつけて、人間の本性について、それが善であるか悪であるかということについて対照的な人間観が現われることがあります。人間の本性を善しとする立場を性善説、悪とする立場を性悪説といいます。ヨーロッパではルソーの性善説とホッブズの性悪説が有名です。この章でお話をする孟子と荀子も、典型的な性善説と性悪説を代表する儒者です。
性善説と性悪説の問題は、僕たちにとってとても大きな問題だと思います。人の本性を善と見るか、悪とみるかは、高尚な哲学の問題でもあるでしょうが、それ以前に、僕たちが人とともに生きている現場で、人に対してどのようにふるまうか、人をどのように扱うかという、ごく日常的なあり方にも影響をあたえる問題です。「人間嫌い」の人にとっては、人間は悪しき存在なのでしょう。また、教育の現場でも、厳しい指導をしようとする人は、人間の中にある悪への傾向を押さえ込もうとする意図を無意識のうちにもっているのでしょう。しかし、一方で、様々の裏切りを受けつづけても、相手を信じることができる人は、その根底に性善説をいだいているのだと思います。ここでは、孟子と荀子を紹介することで、性善説と性悪説について考えてみたいと思います。
孟子
孟子は孔子没後、約100年後のBC372年に、魯の南(鄒)に生まれました。孟子の母親についての言い伝えは有名です。初めは墓場の近くに住んでいたが、孟子が葬儀の真似をして遊ぶのをみて、市場の近くに引越しました。しかし、今度は商人の物売りの真似をする孟子を見て、孟子の母は、今度は学校の近くに引越しました。そして、ようやく幼い孟子は礼儀作法やなどの真似をして学ぶことを始めたという、いわゆる孟母三遷の教えです。また、孟子が学問を中座して故郷に帰ってきた時に、機織の途中であった母は、織りかけの布を刀でばっさりと切断し、学問を途中で放棄することはこのようなことなのだと、孟子を諭したという言い伝えがあります。孟母断機の教えとして有名です。孟子の母の言い伝えは、孟子の死後の「史記」にも載っていないもっと後代の「子列女伝」に載っているものですから、本当の話かどうかわかりませんが、古来、孟子の母親は教育熱心な賢母として有名です。孟子は、先ほども言ったように、孔子の孫の子思の門人に学んだと言われます。
「孟子」の中に、次のような一節があります。「万物の道理は、みな自分の本姓にそなわっている。」「其の心を尽くす者は、其の性を知る。其の性を知る者は、即ち天を知る。」最後の、「心を尽くすものは」という言葉は、江戸時代の庶民の学問を築いたと評価される石田梅岩の「心学」のもとになっています。
万物の真理は、自己の本性にそなわっているという主張は、孟子における汎神論的な自然観に由来すると思います。十九章でも触れたように、汎神論とはpantheismeといわれるように全て(pan)が神(theos)という意味で、自然の中に神が現れるとか、自然即神と考える自然観です。nature(自然)という言葉は、ラテン語のnatruraから来ていますが、naturaとはnascor(生まれる)という動詞からきます。西洋で汎神論が展開するなかで、natura
naturans (生み出す自然)とnatura naturata(生み出された自然)という言葉が使われました。キリスト教のように、全能の神が世界を無から創造したとして、創造主である神と被造物である世界を峻別するのではなく、汎神論は、神というか、絶対者を、自然の内に働く自然を生み出すものと考えました。
天に関して汎神論的考えをもつ孟子の基本的立場は、「天が万物を生む」ということです。天が万物を生み、その天を孔子も孟子も信頼しているとしたら、天によって生み出された人間の本性は善とならざるをえません。孟子は基本的に、人間の本性を善とする性善説の立場に立っています。
四端説
孟子は自らの性善説の根拠として、四端説をあげています。例えば、子どもがまさに井戸に落ちようとする場面に遭遇したとき、誰もがその不幸を見てはいられない「人に忍びざるの心」、つまり、惻隠の心が生じます。それは、その子どもの両親との交流を求めてでも、郷里での評判のためでも、助けなかった場合の悪評を恐れてでもなく、純粋に、心からのものである。また惻隠の心と同じように、悪を憎み自分の不善を恥じる羞悪の心、へりくだる辞譲の心、基本的な判断力である是非の心が、人間の生まれながらの本性にそなわっています。孟子は、「惻隠の心のなきものは人に非ざるなり、羞悪の心なきものは人に非ざるなり、辞譲の心なきものは人に非ざるなり、是非の心なきは人に非ざるなり」と強い調子で言っています。この惻隠の心を育みそだてていけば、やがて仁の徳へと完成していきます。つまり、惻隠の心は「仁」の端緒となります。同様にして、羞悪の心は「義」の端緒に、辞譲の心は「礼」の端緒に、是非の心は「智」の端緒になります。孟子はこのように、人間の本性は仁義礼智という得の端緒を生まれながらに備えているとの四端説を説き、それを根拠に、人間の本性が善であることを主張しました。
民本主義と革命の是認
孟子のエピソードに次のようなものがあります。
梁の恵王が「教えを受けたい」と願った時、孟子は問います。「杖でたたき殺すのと、殺人ということに違いがありましょうか。」 王、「違いがなかろう。」 孟子、「刀で切り殺すのと政治がまずくて殺すのと、違いがありましょうか。」 王、「違いはなかろう。」 孟子、「王様の料理場には脂ぎった肉があり、厩舎には太った馬がおりますが、民衆は飢えに迫られ、郊外には、餓死者がころがっています。これは獣に人を食べさせているのと同じです。獣が獣を食べているのさえ厭わしいのに、民衆の父母として政治をとりながら、獣に人を食べさせるような事態を避けることができない。どうして民衆の父母としての資格がありましょうか。」
孟子が生きた時代は戦国時代の最中です。そのような混乱の中で、社会の混迷も深く、孔子が理想とした社会とは程遠い現実がありました。今触れたように、飢えた人々や餓死者も多く見られる状況でした。孟子の目指したことは、何よりも、先ず、民の安寧でした。孟子は政治の目的を民に置きました。民衆のための政治が理想でした。「民、貴しとなす、社稷(国家)これにつぐ、君、軽しとなす」という孟子の言葉があります。天の命は、君主のためではなく、民衆のためにあると孟子は考えます。
また、孟子に「恒産なければ、恒心なし」という有名な言葉があります。斉国の宣王との会話の中で出てくる言葉です。一定の資産や生業(恒産)がなくては、迷いのないきれいの心(恒心)がなくなる。民をそのような状況に放置しておいて、罪を犯せば罰するというのは、民に網をかける(是れ民を罔(あみ)する)ことにほかならない。この孟子の言葉は、僕は、面白いし、また、考えさせられることだと思います。僕は何も、恒産がなければ全ての人が、罪を犯し、恒産があれば、誰も悪いことをしなくなる、ということを認めるのでは勿論ありません。また、個人の倫理的責任を否定するのでもありません。しかし、恒産なき状態に置かれたこともない人が、それが、政治家であれ、裁判官であれ、教師であれ、どんな人であれ、何かの過ちを犯した人を(何の心の痛みも相手への忖度もなく)罰するということは、まさに、孟子は「民に罔する」ということに通じるのだと思います。
少し脱線しました。孟子はとにかく政治の目的を民の安定におきました。もっとも、「民衆のための政治」は「民衆による政治(民主主義)」ではありません。孟子は民衆の力量を、政治をになうことができるものとは考えませんでした。
孟子も、孔子と同様に、徳治政治を理想としました。彼は、君主自らの徳により国が治まることを「王道」と呼び、力による支配を「覇道」と呼びました。徳を失い覇道におちた天子に対しては、天は命を革めて天子の資格を奪うとの「易姓革命」も唱えました。周は主君である殷の紂王を退けたのではないかとの批判に対して、孟子は「一夫の紂を誅するを聞くも、いまだ君を弑するを聞かず」(一人のつまらない男である紂が殺されたとは聞いているが、いまだ(有徳の)主君を殺したとは聞いていない)と答え、易姓革命を肯定しました。徳を失った主君は主君とは言えず、当然、支配者としての資格を失うとの孟子の革命思想は、日本には伝わりませんでした。儒教といえば、保守的思想と考えられがちですが、儒教思想のなかには、易姓革命を是認するような革新的な面もあることを見過ごしてはならないでしょう。
五倫の道
儒教思想は、人間を個人としてみるのではなく、関係と見ます。人間は具体的な人間関係のなかでのみ、人間として生まれ、人間となります。孟子はこのような人間観を、具体的に五つの人間関係として、それぞれにあるべき徳を定めました。「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」とまとめられます。父と子の間には親愛の情が。主君と家臣の間には状況・分に応じたあるべき筋目。夫婦の間には別。(この別とはどういう意味でしょうか。差別でしょうか。役割の別でしょうか。)年長者と若者の間には序列。友人関係には信義。それぞれあるべき姿がありますが、この父と子、主君と家臣、夫婦、年長者と若者、友人関係の五つの人間関係は五倫と呼ばれ、人間が人間である限り励むべきあり方があるとされました。
五倫五常
儒教は前漢の時代に国教となりましたが、この時代に五倫五常の考えが生まれました。五常とは、孟子の四徳(仁義礼智)に信を加えたもので、五倫が人間関係に関するあるべき姿とするなら、五常とは、人間が個人として習得すべき徳目と考えられます。この五倫五常観は、儒教思想の影響下に入った地域には深い影響をあたえることになります。江戸時代の日本も、知識人は儒教の枠組みの中でものを考え、人倫の道に励むことを当然のこととしました。
諸子百家の中で、一番早くに登場したのが孔子でした。孔子は特定の先生について勉強したことはなかったと言われます。それは、孔子が恵まれた環境のもとに生まれなかったということもあるかもしれませんが、それ以上に、孔子の時代に思想家として名をなした人物がまだ出ていたなったことにもその原因があるでしょう。孔子の後、墨子が登場しますが、その後、孟子の時代になると、多くの思想家が登場します。当然、思想家同士の間の交流や批判が出てきます。孟子も他の思想化に対する批判をしています。その中に墨子に対する批判もあります。墨子については三十七章の「春秋戦国時代と孔子」のところでお話しをしました。孔子の仁を「別愛」であると批判した墨子に対する孟子の批判は「強烈です。墨子の説く「兼愛」の博愛主義を、孟子は「父を無みする」ものであり、それは「禽獣」の愛であると非難しました。五倫の考えからも分かるように、孟子も恐らくは普遍的な博愛を根本的に排除しようとしてはいないと思います。しかし、人間は抽象的に存在するのではなく、五倫という具体的な人間関係においてのみ、存在します。「仁のもとは孝悌か」と言い、他者への思いやりと愛を身近なものから遠くへ及ぼそうとする孔子の考えは、孟子にもしっかりと受け継がれています。
浩然の気
孟子は決して緻密な論理を展開するタイプではありませんでした。しかし、孔子を尊敬し、孔子の真意を受けついているとの自負は強かったように思います。そのような孟子の言葉には、内から漲る自信を伴った力があるように思います。そして、孟子は、真理を確信し、その道を歩もうとするときに、内から沸きあがってくる雄雄しく漲る心を浩然の気と呼びました。「自ら反みて縮ければ、千万人と雖も吾往かん」という浩然の気に満たされた人を、孟子は大丈夫と呼び、自らを大丈夫と任じました。
荀子
孔子や孟子は中国の諸国を巡って、諸侯に様々の助言を行っています。そのことを通じて理想とする社会の建設をめざそうとしたからです、しかし現実には、彼らの政策は理想としては敬意をはらわれることはあっても、諸侯たちの政策を動かす力にはなりませんでした。荀子が生きた時代は、戦国末期でした。孟子は「利」をもたらしてくれることを期待した梁の恵王に対して「仁義」あるのみと言いいました。しかし、孟子の「仁義のみ」は、恵王の政策を動かすことができませんでした。その時代よりも、荀子が生きた時代は、さらにむき出しの「富国強兵」という「利」が優先される時代でした。人間の本性を善と信じる性善説を前提とする「徳治政治」や「王道」が説得力を持ちえなくなった時代に生きた荀子は、孔子の内面重視から「礼」の役割を強調するようになります。
大分時代は下りますが、荀子と同じように性悪説を主張した17世紀のイギリスのホッブズは、清教徒革命という悲惨な状況のなかで、フランスに亡命して「リヴァイアサン」を著しました。あの時代に人間が生命を全うすることの難しさを痛感したホッブズは、各人が己の欲望のままに放置された状態を、「万人の万人に対する戦い」bellum
omnium contra omnesとか「人間は全ての人間に対して狼」homo omni lupusとかいう言葉で表現せざるをえませんでした。ホッブズにとっては、人間のうまれついての本性は悪であるとしか見ることができなかったのでしょう。
戦国末期に生きた荀子の場合も、社会状況としては似たようなものだったと思います。荀子は、自然のあるがままの人間は無限の欲望をもち、あるがままの人間の社会は混乱を免れないと考えました。孟子は人間の本性を悪とみる性悪説の立場にたっています。そのため、荀子は孔子の礼を強調して、外的な礼を重視して、礼治主義を主張しました。
礼とはどのように生まれたのかについて、孟子は人間に本来そなわった辞譲の心が発展したもの、つまり、何も外からの強制をくわえなくとも、他者を尊重し他者に譲る心は人間の内にあると考えました。そのような性善説の根拠には、孟子が天を信頼し、万物は人間も含めて天によって生み出され、それ故、人間も含めた万物には天が宿っていて、それが本性となっているとの考えがあります。中国の古い言葉に、「人事を尽くして天命を待つ」というのがあります。これは、人間ができる限りの努力をした後は、天に任せるという意味でしょうが、その場合、天命をまつ人間には、天への信頼があったと思います。また、天と人間とのあいだの相関関係を「天人合一」と言います。この天神合一は中国思想の中心的な内容の一つです。それに対して荀子は、「天人の分」を説きます。天と人間の間には別がある。そして、人間の本性は悪へと傾くが故に、社会の混乱を防ぐために、古代の聖人たちは、身分に応じた分限を定めた。これが礼の始まりだと荀子は説きます。礼を学ぶことによって、粗暴で悪しき方向にながれやすい人間を矯正することを、荀子は強調しました。「人の性は悪にして、その善なるは偽なり」という荀子の言葉があります。この「偽」とは「いつわり」という意味ではなく「人な為すこと」、つまり「人間の努力」を意味します。
法家思想
性悪説をとった荀子は、人間のあるがままの悪しき本性を礼によって矯正すべきと考えました。しかし、法を定めて違反者を罰するというところまでは行きませんでした。もともと法治主義は、孔子の嫌うところでした。法治主義ではなく、徳治政治が儒教の基本でした。荀子はぎりぎりのところで儒教にとどまったといえます。しかし、彼の弟子のなかからは、荀子の礼治主義は不徹底であり、法を定めて法の持つ強制力によって国の政治を行うべきとの法家思想が生まれました。その代表が韓非子です。
以上で孟子と荀子のお話を終ります。儒教は、漢代に官学となり中国人の学問となり、中国文明の影響下に生まれた東アジアの朝鮮や日本のメンタリティーにも、深い影響をあたえることになりました。次章は老荘思想です。
第41回 大道廃れて仁義あり
~道家思想と老子~
マックス=ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本があります。資本主義を支える勤勉の精神、「時は金なり」とか「禁欲的な労働精神」などが、カルヴァン派のプロテスタンティズムからくるという有名な説です。ところが、今から何年くらい前でしょうか、右肩上がりの経済成長の時代が終わって、日本経済が現在のように低迷をまだしていなかったころに、欧米の資本主義諸国の経済が低成長に甘んじている中で、日本や韓国などの経済が高度経済成長を維持しているのは、これらの国が儒教思想の伝統のなかにあるからだという人たちがでました。実際、儒教思想には人間の努力を評価するところがあります。「論語」には「性は相近し、習えば相遠し」という孔子の言葉があります。つまり、人間は、生まれつき(性)は皆それほど違わないが、習慣というか、学ぶことで得られる教養というか、そういうことによって大きな差がでるという意味です。そして、儒教では人倫の道を励み歩むことを勧めます。努力することが大切だというのです。そのような儒教精神が、日本や韓国の経済を支えているというのです。
このような考えが当たっていたのかどうかは知りません。現状では日本経済は元気がありません。しかし、儒教思想が人間の努力を評価していることは確かだと思います。人が何かをなすことを「人為」といいます。しかし、人が何かをなすということ、人間の努力はそれほど大事なものでしょうか。「人為」とは人が為すという意味ですが、ニンベンに為すと書くと「偽り」という意味になります。古代の中国には、儒教の有為(努力主義)に対して、無為を説く人々がいました。儒教思想が国教となり中国人のメンタリティーに大きな影響をあたえるようになってからも、ずっと、儒教的努力主義への反発を感じる人々がいました。この章からは、道家思想、つまり無為を説く人々のお話です。この章では、主に老子について考えてみます。
老子
司馬遷の「史記」は老子伝としては最古のものですが、それによると、老子は楚の人で、周王室の書庫の記録係をしていました。ある時、孔子が訪れて老子に教えをうけようとしましたが、老子は孔子のいうことが無内容な偽善であるとののしり追い返しました。それでも孔子は、老子を風雲に乗じて天にのぼる竜のような、優れた人物であると感服したと伝えられています。老子は自然の道を尊び、みずからの才能を隠し、世から隠れて無名のまま終わることを念願していました。その後も老子は周にいましたが、周王室がいよいよ衰えるのを見て、中国から去ることを決意します。関所までやってくると、関所守の長官である伊喜が、「先生は隠遁なされようとしていますが、その前にぜひ私のために書物を残していただきたい」と要請します。それに応えて老子は、上下2篇の「老子」を書き下し、やがて、風とともの関所のかなたに消え去りました。(平凡社 中国古典体系11 史記 中167ページ)
司馬遷は、老子を孔子と同時代の先輩として描いています。しかし、「老子」はその批判の対象として、儒教を明確に意識しています。ということは、「老子」が成立したときには、すでに儒教はある程度の完成をみていたことになります。批判されるものは、当然、批判するものに先行しているものです。老子が孔子の先輩であるということはありえなくなります。しかし、孔子の同時代にも、隠者のような生活をして、自然を友として生きる人々がいました。「論語」の中に次のようなエピソードが記録されています。長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)という二人の隠者が並んで田を耕しているところに、孔子の一行が通りかかりました。孔子が子路に船着場がどこにあるかを尋ねさせると、二人はあちらこちらと旅をしている孔子なら、船着場くらいどこにあるか知っているはずだ、と教えてくれません。そのついでに、とうとうと流れる川をせき止めることができないと同じように、孔子のように、世の中を変えようとするなど無駄なことだと言い、子路に対して、そんな孔子に従うよりも、自分たちのように自然を友として生きるほうがよいと勧めます。子路が孔子のところに戻って二人の隠者のことを孔子に話すと、孔子は次のように嘆きます。「鳥や獣と一緒に暮らすわけにはいかない。人間と一緒にいるのでなければ、一体、誰と一緒にいればいいのだ。社会が乱れていなければ、自分もこのような努力をしようとはしないだろう。」
「鳥や獣とともに生きるわけにはいかない」という孔子の言葉のなかに、儒教の立場がよく表されています。しかし、一方で、鳥や獣、自然を友として生きたいと思う人々もいました。特に、戦乱の世に国を失い、またそのような社会に対して嫌気をもよおした知識人の中に、そのような人々が少なからずいました。「老子」とは、孔子の時代にもいたそのような人々の考えが結集されてできあがったものかも知れません。「老子」は儒教的な有為の思想に対して、根本的に懐疑的です。人倫の道を歩むために絶えざる努力というか、人間の行為を評価して、君子と小人を分け、賢人と愚人の序列をつくりだす儒教。都会中心の文化主義の立場への反発が、「老子」の基本にはあります。
「老子」の基本的立場
「老子」の中には、根源的なるもの、悠久なるもの、本来的なるものへの強い志向があります。これを老子は「道」と呼びました。道家思想の名前の由来ですね。相対的なるもの(是非、高低、真偽、善悪 等々)を超えたところに「道」はあります。またそれは表現を超えているために「無」と言ってもよいものです。それは存在の根拠・宇宙の根拠であり、万物に内在する「自然の大道」とも呼ばれます。
道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。
名無し、天地の始、名有り、万物の母
「老子」の有名な書き出しです。難しいところですが、はっきりしていることは、(儒教などで)一般によく言われている「道」とか「名」というものが、本来のものではないということ、また、天地の始原には(何であるなどと定義できる)名などなかった(「無名」、天地万物が個別に多様のものとして出現し知られるようになるのは、名づけられてからであった、本来のものは無名である、ということでしょう。根源的なものは名づけようのないもの、無、であり、万物は無から生じました。
無から生じたと言っても、そこでいう「無」とは、何かを指し示しているものではありません。「荘子」のところで改めて考えてみたいと思いますが、言葉は何かを指し示していますが、その意味では、老子のいう「無」は何かを指し示しているものではありません。指し示すことができないからこそ「無」というのでしょうか。
そうは言っても、「老子」の中には、直接的な表現ではなくとも、「無」について色々と語られています。例えば「無用の用」の隠喩があります。
三十本のスポークが集まる車軸は、空洞になっているからこそ、車軸の働きをすることができる。粘土をこねて壷をつくるが、壷が壷として意味があるのは、その空洞の部分である。窓や入り口を穿って作られた部屋は、何もない空間こそが必要なものである。いわゆる「無用の用」です。「無用の用」は「荘子」にも出てきます。「荘子」の無用の用は、処世術的な意味が強いようです。しかしとにかく、具体的なものではなく、「無」をより本質的なものと考えようとすることは、西洋文明にはあまり見られないものではないでしょうか。どことなく日本の文化における「間」の重視とか、「幽玄」などにも通じるように思え、興味深いですね。
老荘思想は、中国思想には珍しく宇宙・自然への哲学的考察を行っています。孔子は「論語」の中で、自然のことについてはあまり触れてはいません。人生をとうとうと流れる川の流れに喩えたり、「天」について言及することはあります。しかし、それは自然や、天がいかなるあり方をするものかを問うているのではなく、自分(人間)のあり方を問題としているだけでした。それに対して、自然の根源に関する思索を含むという意味で、老荘思想は中国思想の中で特異な存在だと思います。
相対的な事物を真理とすることを否定する老子の立場からは、知識の否定が導き出されます。元来、知識というのは「分別すること」つまり「あるもの」を「他のもの」から「分ける」ことによって「分かる」という知識が成立します。しかし、真理である「道」は、相対的差別の世界を超えています。その意味では、「分けられたもの」は真実ではありません。
以上のような老子の「基本的立場」を支えているものは、「天」というか、「自然の摂理」への信頼でしょう。この信頼は、孔子や孟子とも共通したものではないでしょうか。
天網恢恢、疎にして失わず「天網恢恢 疎而不失」(天の法網は広くてまばらであるが、何も見逃すことはない)という言葉は、そのことを示しているでしょう。
無為自然
「大道廃れて仁義あり」という有名な「老子」の言葉があります。儒教が大切にしている「仁義」だとか「孝行」だとか「忠君」などという徳目は、実は、本来あるべきすがたが失われたとき、初めて問題とされたものだというのです。仁とか義というものが叫ばれるのは、仁とか義が本来の力を失った時です。親を思う心が失われて初めて「孝」ということが強調され、国が乱れることで始めて忠臣が登場するというのです。そのように人為を否定し、儒教批判を短解する「老子」のいくつかの側面をお話しします。
柔弱謙下の人生観
堅い木が強風で折れて倒れても、風になびく草が強風を受けても、肩肘をはってかたまることなないから、折れることがない。また、若芽は柔らかだが、死滅時には堅くなる。そのように、自我を張ってかたくなに生きるのではなく、謙虚にへりくだって生きることを老子は説きました。万物を育みつつも、自らは人の嫌がる低いところに行こうとする「水」こそ「道」に似ているといいます。「赤子」のように、「女性」のように、という表現もしています。そのような生き方を「老子」は柔弱謙下と言いました。
知足
また老子は、自然に近い人間ほど欲望がすくないといいます。それは赤子や農民を見ても明らかです。文化的生活をしている都会人ほど、欲望を多くもち、かえって欲望に振り回されることで不幸になります。足りることを知るもの、つまり「知足」を知るものこそ富むといえるでしょう。
この老子の考えは、ジャンジャック=ルソーの考えにも似ています。文明や学問が人間を堕落させることを確信したルソーは、「自然に帰れ」と呼びかけます。自然状態にある自然人は、自他に対する素朴な愛情をもって生きていた。人間には、できることとできないことがある。人間は鳥ではないから、大空を飛び回ることはできない。高いところから落ちれば、怪我をするか命を失う。このようなことを「自然の必然性」と言います。この「自然の必然性」に鍛えられた自然人は、自然が許すもののみを望み、それに安住する。それゆえ欲望は少ない。自然人がもつ善良さを失わせたものは、他ならない文明であるとルソーは考えました。そのように考えると、近代文明は、「自然の必然性」を切り崩すことによって成立してきたと言えるでしょう。その結果、欲望が渦巻く現代社会に僕たちは置かれています。もう一度、自分たちの置かれているこの状況を考え直す必要があるのだと思います。
五色は人の目を盲にし、五音は人の耳を聞こえなくし、五味は人の口を麻痺させ、馬を走らせて狩をする遊びは人の心を狂わせ、珍奇で得がたい貨(たから)は人の行いを邪悪にさせる。
この「老子」の言葉は、飽食の時代を生きている僕たちとっての強烈なアフォリズム(警句)となるでしょう。
小国寡民
「老子」の理想社会は、小国で人間の数も極く少ない農村の姿でした。となりの村の鶏の鳴き声が聞こえるほどでも、人々はその間を行き来すらしません。外の世界を知らず、さまざまの情報も知らされない。その意味では、「老子」には悪い意味ではないでしょうが、ある種の「愚民観」があります。そこには、世の中がどう変わろうとも、支配者がどう変わろうとも、太古の昔から続いて来た、中国の農村の姿が思い浮かばれているようです。
「老子」には、孔子や孟子のような天下国家をどう治めるかという議論が、中心テーマとして目だって出てくることはありません。しかし、春秋戦国時代の思想家として、「老子」は、人間の社会や国家の理想を、小国寡民というかたちではありますが、考えているようです。「無為にすれば、天下は治まる」という考えは、「老子」の八十一章を通読すると、聖人の国の治め方として、意外と随所にみられます。しかし、(僕の考えでは)老荘思想には国家論はあまり似合いません。「老子」の中に残されていた「国家」「社会」のあり方を問題にすることを、完全に払拭したのが荘子の立場だと思います。次章は「荘子」についてのお話しです。
第42回 無限への憧れ
~「荘子」の世界~
今日は、今回の荘子の話で最終章になります。最後に荘子のお話をするのは、ちょっと荷が重いです。鬼才ともいえる荘子の想像力に満ちた自由闊達な文章は、「解説」などを寄せ付けません。そんな自由な境地に遊ぶ「荘子」の雰囲気を少しでも紹介できたらを思います。
前章の最後にも言いましたが、老子に残存していた政治的要素を払拭して、老子が説いた「道」というか、「無」というものに「この私」を対峙させ、そこに自らを投げ込んで生きようとするとき、荘子の思想が生まれました。
「荘子」内篇の応帝王篇に次のような話がでてきます。ある人の「天下の治め方を教えてほしい」という問に対して、無名人は答えます。「とっとと消え失せろ。お前は卑しい人間だ。なんと不愉快な質問をするのだ。私は大自然の営み(造物主)とともにあり、それに飽きたら、果てしなく天がけるあの鳥の翼にのって、この俗世界の外に飛び出し、何者も存在しないところで遊び、果てしない広々とした広野におろうとするのだ。」
荘子については、次のようなエピソードが伝えられています(「史記」)。荘子が濮水で釣りをしていたとき、楚王が二人の役人をつかわし、国内を治めるように要請しました。荘子はそれに対して、卜占に使われる神聖な亀を例にとり、いかに死んでから尊ばれようとも、結局は殺されるよりも、生きて泥の中を這いまわるほうがましであると、断りました。類似した話もいくつか伝えられています。荘子にとっては、諸侯に仕官することは、何よりも自由を失い、精神的に死ぬことを意味していたのでしょう。
無限への憧れ
荘子の思想をどう考えたらよいか途方にくれますが、僕にとって、荘子というと「無限への憧れ」という言葉が、何故かぴったりとします。そして、そのときに思い浮かぶのが、随分昔に見たテレビのコマーシャルの一場面です。何のコマーシャルかも全然おぼえていないのですが・・・。
場面は大海原。真っ青な大海原にヨットが一隻。その甲板の上に俳優の森繁久弥さんが一人立って歌っています。
憎んだり、愛したり、このひと時を
人間はなんて、小さいのだろう
つい先日、皆既日食が見られるということで、九州南部の島々に多くの人々がでかけたということがニュースなどの話題になりました(2009.7.22)。生憎の雨のために、日食を見ることができなかった人も多くいたようですが、船上で見事な日蝕に遭遇して、とても神秘的で厳かな気持ちになったなどというテレビのインタビューを見ました。人間は、通常の自分の尺度でははかりきれないことに触れると、何か神秘的な心になるのでしょう。
「無限」とか「永遠」ということは、不思議なものです。「無限」とか「永遠」ということは、人間だからこそ思うことでしょう。大海原に一人囲まれる時、自己の小ささを意識する一方で、一体、自然はどこまで広いのだろう、と僕たちは考えます。また、宇宙はいつから始まったのだろう、と僕たちは考えます。でも、宇宙に始まりがあるなら、その始まりの前には何があったのだろうか、と僕たちは考えます。そして、時間的、空間的にどこまでも無限にさかのぼることができないと意識したとき、「無限」とか「永遠」という観念が浮かびます。ところで、「有限者」と対比で考えられた「絶対者」は真の絶対者ではない、と言われます。だから、僕たちが「無限」とか「永遠」というとき、それは、僕たちのようなちっぽけな肉体を持った人間と比べてとか、僕たちが住んでいる世界とは比べものにならないほど広大な何か、というような意味ではありません。また、僕たちが生きているこの時間とは比べものにならないほど長い悠久の時という意味ではありません。そのように考えると、それではそれほど広大な世界のさらにその向こうはどうなっているのか、そもそも世界の始めがあるとするなら、その始めの前は何があったのか。そのように無限に問いがくりかえされてしまうからです。
このようなアポリア(難問)が生まれるのは、「言葉」にその一因があります。荘子は「言葉」というものを信頼していません。「言葉」は何かを指し示す働きがあります。馬という言葉は四足のある動物を指し示しています。しかし、そのような意味で「無限」とか「永遠」という言葉が何かを「指し示している」のではありません。もし、指し示しているなら、それは、それによって「指し示されていない何か」と並立するものとなり、「無限」とか「永遠」と呼ばれるにふさわしいものではありません。「絶対者は自己の外になにものかの存在を許すことはない」と言われます。汎神論が生まれるのは、ある意味では、この論理の必然性からでしょう。
「絶対」とか「永遠」を直感的に意識するとき、僕たちは、言わば「座標軸」を失います。「無限」とか「永遠」を測るモノサシはありません。「始まり」と「涯」があるところには、「古い」とか「新しい」とか言う余地があり、中心とか周辺ということができます。「永遠・無限」から考えると、全ての有限的な事物の差別は「無」に斉しくなるでしょう。いわゆる荘子の万物斉同です。そこには、古今東西はありません。そのようなものが生まれるのは、「我」による「分別」が必要です。「今・ここ」」は「我」にとっての今でありここであり、それはすぐに、他我にとっての「今・ここ」に代えられます。各自の座標軸があって,初めて、個別の世界が出現することになります。
大鵬の飛翔
「無限とか永遠」の神秘に触れるのは、僕たちが宇宙の神秘に目が開かれることによってではないでしょうか。宇宙飛行士が宇宙から戻ってくると、人生観が変わるといいます。毛利さんは、「宇宙から見た地球には国境は見えなかった。」というようなことを言っていました。荘子の時代には毛利さんのような体験は不可能でした。しかし、荘子の想像力は、大きく翼を広げて飛翔(あまがけ)ているようです。(「中国思想史」森三樹三郎 レグルス文庫)
北冥に魚あり、其の名を鯤と為す。鯤の大いさ其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為るや、其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるかを知らず。怒(ど)して飛べば、其の翼は垂天(すいてん)の雲の若(ごと)し。是(こ)の鳥や、海の運(うご)くとき則(すなわ)ち将(まさ)に南冥に徒(うつ)らんとす。・・・
鵬の南冥に徒るや、水の撃すること三千里、扶揺(ふよう)を博(う)ちて上ること九万里、去るに六月の息を以ってする者なりと。野馬や塵埃や、生物の息を以て相い吹くなり。天の蒼蒼たるは其れ正色なるか。其れ遠くして至極する所なければか。その下を視るや、亦た是くの若くならんのみ。
北の果ての海に魚がいて、その名を鯤という。鯤の大きさはいったい何千里あるか見当もつかない。(ある時)突然形が変わって鳥となった。その名を鳳という。鳳の背中は、これまたいったい何千里あるか見当もつかない。ふるいたって飛びあがると(その大風に乗って飛びあがり、)さて南の果てへと天(あま)翔(かけ)る。・・・
大鳳が南の果ての海へと天(あま)翔(かけ)るときは、まず海上を(滑走して)浪立てること三千里、はげしいつむじ風に羽ばたきをして空高く舞い上がること九万里、それから六月の大風に乗って飛び去るのだ。かげろうか、塵埃か、(たちこめた宇宙の大気は)生き物どもがその息で吹き上がっているのだ。(してみると、)大空の青々とした色はいったい本当の色であろうか。それとも遠くへだたって限りないから(そう見えるの)であろうか。鳳もまた下界を見るとき、やはりこのように青々と見えているに違いない。
「荘子」内篇冒頭の「逍遙遊第一」の書き出しです。のっけから荘子は読み人の度肝を抜くスケールの大きな話をします。
北の海に鯤という魚がすむ。その大きさは巨大ではかりしれないといいます。その鯤が化身して鳥となり鵬となる。この大鵬は海面をうって羽ばたき、上昇気流にのって天高く飛翔して、遠い南の海をめざします。地上には多くの生物が息づく雑多な世界がありますが、大鵬が飛翔する天は青々としています。ここの「天の蒼蒼たるは其れ正色なるか。其れ遠くして至極する所なければか。」という言葉が生きていますね。そして、大鵬の目からみると青一色に見えるというのです。
ところで冒頭の鯤ですが、古い辞書では魚子なりとあるそうです。つまり、微細な魚(の卵)というのです。本当に微細なものが、実ははかりしれないほど巨大なものであるというのです。もっとも鯤を魚子と解釈するのは穿ちすぎだと(「新釈漢文大系」(明治書院)といわれることもあります。でもどうでしょうか。「荘子」の内篇は荘子の思想の中核を形成するものといわれます。その内篇の冒頭の章は、荘子の根本的な考えを述べるに相応しいでしょう。そして、荘子の根本思想には万物斉同という考えがあります。この世界の全ての相対的差別はなく、一切が斉しいというのです。大小、左右、善悪、美醜、真偽などは、全て相対的なものです。人間は蟻より大きいが、象よりは小さいです。でも象も恐竜よりは小さいです。巨大な恐竜だって、地球や宇宙から見れば微細なものです。反対に、ミクロの世界に入って見ると、蟻でも途方もなく巨大な生物といえるでしょう。中国思想のなかには、このような思索がよくあります。微細な毛穴の中にすら、巨大な仏の世界があるとの「華厳経」の思想もそうですね。
絶世の美女と言われる毛牆(もうしょう)と麗(り)姫(き)の二人について、「荘子」の斉物論篇で次のように言われています。この二人を人間は美しいとするが、魚は二人が池に近づくと池の底に深くもぐり、鳥は空高く飛びあがり、鹿はそれを見ると飛び上がって逃げさる。とすれば、人間と魚と鳥と鹿の誰が本当の美を知っているといえるか。世間一般で仁義だとか、善悪とみなされているものも同様である。全ては相対的であるとの荘子の立場から考えると、荘子がその本の冒頭で、微細な鯤が巨大な魚であると言うのはごく自然な万物斉同の立場の表明のように思えます。
鵬の話は続きます。蜩(ひぐらし)や学鳩(こばと)は鵬のことを嘲笑います。
「我々は奮い立って飛び上がって、楡の木などの枝につかまってそこに止まるが、それでさえ行き着けなくて地面にたたきつけられることもある。どうして九万里もの上空まで飛翔して、南方を目指そうとするのだろう。」
しかし、この言葉自身が、相対的差別の世界でとらわれて生きているものどもへの嘲笑として響きます。
小知は大知に及ばず。小年は大年に及ばず
「荘子」はその始まりの「逍遙遊篇」の冒頭から、「無限へのあこがれ」を幻想的に描写して、「荘子」自身の真髄を提示しています。
逍遥遊
荘子にとって、真に存在する何か、というよりか、天地万物を生みだしている何か、本来、分別を許さず、定義することによってむしろその本質が隠される絶対的なるもの、不適切ながらあえて表現するなら「無」とか「道」としか表現できないものは、直観的な体験を通じてのみ近づきうるものでした。その絶対的なるものに、暴力的に「こことそこ」、「大と小」、「美と醜」、そればかりか、「善と悪」、「有用と無用」の区別をつけるのが、「我」であり、人間の小賢しい分別でした。荘子は「万物斉同」を主張することによって、そのような我の囚われから自由になろうとします。
「荘子」の中には、身体的に奇形であったりするグロテスクなものに焦点を当てている箇所が少なくありません。そこでは、社会的に役に立たないからこそ、難をのがれて寿命をまっとうできる、との処世術的な「無用の用」の指摘があります。しかし、それ以上に、奇形とか、グロテスクという概念自体が、とらわれた見解であることを、荘子が強調したかったためといえるでしょう。人間の間でグロテスクと言われる人たちも、それは人間の間でのみ言われるのです。グロテスクといえば、先ほど引用した絶世の美女と言われる毛牆(もうしょう)と麗(り)姫(き)も、魚や鳥や鹿からみれば、怪獣であり、グロテスクそのものになるでしょう。いかなるものも、また、人間がグロテスクとみなすものも、すべては自然の営みの中の一つであり、その営みのなかで生みだされるいかなるものに対しても、そのように差別的にみる見方そのものが、如何に根拠のないものであるかを、荘子の万物斉同は当然の帰結としています。
逍遥遊篇の最後に、荘子とその親友であった恵子との会話があります。
恵子が荘子に言った。「わたしのところには樗(おうち)という大樹があります。その幹がこぶだらけで直線をひくことができず、小枝は曲がりくねっていて定規にすることもできないので、道にあっても、大工が振り向きもしません。それと同じで、あなたの言葉も大言壮語で使いようがないから誰からも相手にされないのです。」それに対して荘子は言います。「君は大樹があって使い道がないと心配しているけれど、なぜ、何もない広々とした野にそれを植えて、とらわれない心でそのそばで休息をし、心のままにその大樹の下で腹這いになって眠ることをしないのですか。」
狭い囚われた価値観のなかで、大人も子どもも偏った一方的な価値体系から落ちこぼれないようにとの強迫観念の中で、窒息しそうになっている現代社会で、荘子のように、もっと別の角度から、こんな生き方もまんざらではないのではないか、ということができないのだろうかと、思わずにはいられません。
胡蝶之夢
「斉物論」の最後に有名な「胡蝶の夢」があります。
昔、荘周(荘子)が夢で蝶になった。ひらひらと飛びまわり、自分が荘周であることに気づかなかった。しかし突然、夢から覚めると、自分はまぎれもなく荘周であった。果たして、自分が蝶の夢を見たのだろうか、それとも、蝶が夢に荘周を見たのだろうか。荘周と蝶とは区別がある。これをものの変化(物化)という。
この箇所は有名で、荘子の幻想的な雰囲気がよく出ている箇所です。しかし、ここで誤解してはいけないことは、荘子と蝶のどちらが本当の現実であるのか、と荘子が真剣に問いかけているというのではないという点です。少なくとも、「現実」が確かなもので、「夢」が現実の上になりたっている幻影(非現実)という意味で、どちらかと問いかけているのではありません。そのような意味では、荘子も蝶も「現実」ではありません。「現実」も「夢」も相対的なものであり、鵬の目から(万物斉同の立場から)みれば差別はありません。また、「物化」(物の変化)が前のものが原因で後のものが生じてくるということでもありません。もしそうなら、あることの原因には、そのまた原因があるはずですし、原因は無限に遡って求められます。しかし、無限遡行は不可能ですから、「無限には座標軸がない」というところでもお話ししたように、「始まり」そのものもあり得ません。とすれば、物化とは、「俄(にわか)に起こる」ことになります。
物の変化はどこでも起こります。天地大自然のあらゆる営みもそうでしょう。また、人間の内でも、様々の心の動きや感情までが、生起します。そのような変化がどうして起こるのかについて、荘子は「知らず」と言います。しかし、どのような変化であれ、それは「無」というか、「真理」というか、自然の大いなる呼吸というか、何か表現しようもない大いなるもの、無限なるもの、つまり「道」の働きに促されて起こるものです。正しくは、それこそ「道」そのものです。その意味で、万物斉同の立場から、荘子は相対的差別の世界に対する執着は捨てつつも、その時々に、自由な境地でその物化を楽しみます。荘周であれば荘周としての自分とその世界を、胡蝶であれば胡蝶としての自分とその世界を、自由な境地で楽しみこと。そのような逍遥遊を、荘子は理想とし、そのような自由な境地に遊ぶものを「真人」と呼びました。
分別知の否定
南海の帝を儵(しゅく)となし、北海の帝を忽となし、中央の帝を混沌となす。儵と忽と、時に相いともに混沌の地に遭う。混沌これを待つこと甚だ善し。儵と忽と、混沌の徳に報いんことを謀りて曰く、人みな七竅(きょう)ありて、以て視聴食息す、これ独り有ることなし。嘗試(こころみ)にこれを鑿(うが)たんと。日に一竅を鑿てるに、七日にして混沌死せり。
南海の帝を儵といい、北海の帝を忽という。中央の帝を混沌という。儵と忽は、時おり、混沌の地でであったが、混沌はこれをはなはだ善くもてなした。儵と忽は混沌の恩に報いることを相談した。人にはみな七つの穴(目と耳と鼻と口)があって、それによって人は見たり,聴いたり、食べたり、息をしたりしているのに、混沌のみにはそれがない。ためしにそれに穴をあけてあげよう。そこで、一日に一つずつ穴を開けていったが、七日たつと混沌は死んでしまった。
「荘子」の内篇は、壮大なスケールの大鵬の飛翔の描写ではじまり、この「混沌」寓話が内篇の最後に置かれています。
儵と忽とはいずれも迅速の意味があり、すばやく機敏なことから人間のこざかしい努力(人為)を表し、混沌は主観が客観を認識するなどの人間的立場とは異なる、言わば主客未分の自然を表しています。(岩波文庫 「荘子」内篇235ページ参照)
人間は見ること、聞くこと、食べること、呼吸すること、それぞれのための七つの穴があります。それによって様々の経験をして、そこから人間はさまざまの知識を得ます。しかし、そのように知識化されたものは、本来の道から離れてしまいます。荘子は内篇において、言葉の説明が不可能なことを強調しつつも、あえて言葉で思うところを説明すると前置きをして、筆を進めています。しかし、そのような自分の説明自体を、又は、その説明を真に受けてそれを信じようとする読者をあざ笑うかのように、七つの穴が完成した日に、「混沌死せり」することで、「荘子」の内篇は終わっています。
荘子の死
荘子の万物斉同の立場は、生死についても,当然あてはまります。生も死も、共に生じる対概念です。それ故、万物斉同の立場から考えると、生死も差別はなくなります。生を喜び死を悲しむこと自体、相対的世界にとらわれていることになるでしょう。最後に、「荘子」の雑篇になりますが、老子の死について伝えられた部分を紹介して、荘子のお話しを終わります。生死を斉しくする万物斉同を生きた荘子の片鱗を垣間見ることができるでしょう。
「荘子、将(まさ)に死せんとす。弟子、厚くこれを葬らんと欲す。荘子曰く、吾天地を以て棺槨(かんかく)(棺桶)と為し、日月を以て連壁(一対の大きな玉)と為し、星辰(星座)を以て美玉と為し、万物を死者への贈り物と為す。吾が葬具は豈に備わざらんや、と。弟子曰く、吾れ烏鳶(うえん)(カラスとトビ)の夫子を食わんことを恐る、と。荘子曰く、上にありては烏鳶の食となり、下にありては螻蟻(ろうぎ)(ケラやアリ)の食となる。彼より奪いて此に与うとは、何ぞそれ偏よれるや、と。「荘子」雑篇 列御寇篇
荘子の「生き様と死に様」の真骨頂が、伝わってこないでしょうか。