泥にまみれて

泥にまみれて

 教員の体罰が問題になっている。僕は体罰には反対だ。しかし、37年間の教員生活の中で一度だけ、僕は生徒の頭を平手でたたいたことがある。今でも,その時の手のひらの感覚が残っていて、心が痛い。

 放課後の掃除の時間だった。僕は、廊下と水飲み場の掃除の監督にあたっていた。4人位の掃除当番の生徒たちと一緒に、廊下を掃き、毛雑巾で磨いた。生徒たちはおしゃべりに夢中で、掃除はすすまなかった。よくあることで、僕は率先して掃除をした。廊下掃除が終わり、水飲み場の掃除にかかった。流しは汚れていて不潔だった。流しには水垢が溜まり、石けん置き場はぬめぬめしていて、誰も手をつけようとしなかった。僕はそこを奇麗にするよう促した。生徒の一人が笑いながら言った。「汚い」・・ 甲高い女子生徒のその笑い声を聞いた時、僕は思わず生徒の頭を平手で叩いた。僕は怒鳴った。「汚いものをきれいにするのが掃除だろうが。他の人が手を汚せばよいというのか。」

 教師として未熟だった。生徒は何故たたかれたのか、分からなかっただろう。

 中学生のころ、僕は水飲み場の掃除当番にあたったことがあった。たわしで流しを洗い、床を雑巾でふいた。水飲み場のコップのなかに一つだけ、底に1センチほどの厚さのヘドロのようなものが残っている汚れたコップがあった。気持ちが悪く、それには手を触れなかった。その時、同じ当番の女子生徒がそのコップに気がついた。「あら汚れている」と言って、その生徒はコップを手に取り、水道の水をそのコップに注ぐと、自分の手をその中にいれて汚れを洗い流した。あの汚いコップの中を素手で洗うことなど、僕には思いもつかなかった。僕は驚くと同時に、自分自身を恥じた。金城さんという生徒だった。あの時以来、僕は、掃除のときには自分の手を汚すことにためらうことはやめようと思った。

 僕が、生徒の頭を叩いた時、生徒に分かって欲しかったことは、中学生だった僕が金城さんから学んだことだった。汚いものなどない。汚いものを汚いと思うことが汚い。泥にまみれていても、美しいことがある。しかし、そんな僕の思いは,あの時あの生徒には伝わらなかっただろう。

 どうしたらよかったのだろうか。分からない。しかし、その後そのような場面に立った時は、僕はいつも黙って自分から素手で洗った。汚れを落としながら、自分自身を恥ずかしいと思った中学生の時の僕の体験を、独白のように話すようにした。教師の中には、義務を果たさせることこそ、教師の力量と考える人もいるだろう。生徒を叱ることができて、初めて一人前の教師という考えも根強い。しかし、僕はその場限りの強制や威圧によって何かをさせることに意味があるとは、どうしても思えない。

 このような問題は、マニュアルにのせるような正解はない。結局のところ、人間をどう見るかという人間観が、生徒に対する教師の応答の根底にあるのだろう。人間性への尊敬の念をもつか、人間の中に早期に摘まなくてはならない悪の存在をみるか。人間の完成をある時期に見て、それ以前を完成前の不完全とみるか、人生の行程をそれぞれがその年齢にふさわしい完成があると見るか。そのようなことで、あるべき教師像も変わってくるだろう。しかし、それにしても人間とは不思議で奥の深い存在だ。自分の抱く人間観をもって、生徒を律しようとする時、教師たちは、自分の視野の狭さにより、人間性に対する冒涜を犯してはいないだろうか。

 「教師の力量」について言うならば、教師には力などない。人間が人間に影響をあたえて、よい人間に育てることができるなど傲慢というべきだ。もし、「力量」ということがありうるとすれば、次のような場合ではないだろうか。例えば、友人関係で悩んでいる生徒から、何かのおりに相談を受けたとき、「本当の親友なら、どうするだろうか」そんな風に問いかけることができる教師、いや、そんな風に問いかけることができる関係を、生徒との間に築けている教師。そんな教師こそ、力量があると言えるのではないだろうか。