第四回 アウグスティヌス3

第4回 アウグスティヌス 3


今回はアウグスティヌスを扱う最後の時間です。

プラトン派の書に刺激されて自己の内面に向かい、ついに自分自身を超えて光をみたアウグスティヌスでしたが、そのままキリスト教に入信できたかというと、そうではありませんでした。キリスト教に飛び込みたいとの思いがつのるのですが、どうしても決断ができない苦しさがさらに深まっていきます。性的な欲望を捨てきれないとの理由もありました。しかしおそらく、キリスト教を受け入れるということは、彼にとっては深いところで自分自身が失われるという恐怖感があったのではないでしょうか。今回は、アウグスティヌスが「告白」8巻で、「あなたは罪の奴隷となっていた私の束縛の鎖を打ち砕いてくださった」と語った「回心」について考えてみたいと思います。

始めに「告白」の中でアウグスティヌスがどのように自分の回心を語っているかに触れて、そのあとで、回心の意味について掘り下げて考えてみたいと思います。

彼の回心にあたって大きな役割を果たしたのは、他の人々の例でした。実際、僕たちは一人で生きているのではありません。だから、他の人の生き方は、僕たちの生き方に大きな影響をあたえるのだと思います。キリスト教に飛び込みたいと思いつつも、悩み苦しみ躊躇していた彼は、キリスト教を受け入れいった人々に出会います。自分の従来の生活を捨ててキリスト教を受け入れていった人々の例に触れるにつれて、そうできない自分、すべてを捨てきれない自分を意識し、そのように他の人と自分自身とのコントラストが激しくなったところで「回心」がおこります。

悩みを内に秘めながら、アウグスティヌスは他の人の助言を受けたいと思いました。おそらく本当はアンブロシウスから話を聴きたいと思っていたでしょうが、アンブロシウスが多忙であり、時間が空いた時には寸暇を惜しんで静かに読書をしていることを彼は知っていました。そこで彼は、アンブロシウスの霊的な師でもあり、アンブロシウスが敬愛しているシンプリキアヌスのもとを訪れました。アウグスティヌスが今までの自分の歩んできた道と過ちを語ると、シンプリキアヌスはローマの修辞学者であり後にキリスト教に改宗したヴィクトリヌスの話をしてくれました。それはアウグスティヌスが読んだプラトン派の書はヴィクトリヌスによってラテン語に翻訳されたものだったからでしょう。

シンプリキアヌスとヴィクトリヌスは古くからの友人でした。ある時キリスト教に興味を抱いたヴィクトリヌスは、学者のことだから聖書を読み、ありとあらゆるキリスト教関係の本を読みあさりました。そしてキリスト教の司祭であったシンプリキアヌスに、「君にだけは言うけれど、僕はもうキリスト教徒なのだ」と告白したそうです。それに対してシンプリキアヌスは、「僕は君をキリストの教会の中で見ない限り、キリスト教徒と認めない」と言い返しました。それに対し、ヴィクトリヌスは「それでは教会の壁がキリスト教徒をつくるのかい」と皮肉を言ったそうです。教会の建物のなかにいれば、それでキリスト教徒といえるのかとの強烈な皮肉でした。二人が旧知の仲で親しかったからこそ、そのように言い合えたのでしょう。それ以来、二人が会うといつも同じやり取りがかわされました。ヴィクトリヌスはが「自分はキリスト教徒だ」と言い、シンプリキアヌスが「教会の中で君をみるまでは、君をキリスト教徒とは認めない」という。それに対してヴィクトリヌスは「教会の壁がキリスト教徒をつくるのか」と反論する。このようなやり取りが続きました。しかし、ある時シンプリキアヌスに向かいヴィクトリヌスが突然こう言いました。「教会へ行こう。僕はキリスト教徒になりたい」。シンプリキアヌスは喜びました。しかし、当時キリスト教徒となるためには、多くの信者たちのまえで信仰告白をする習慣がありました。そこでシンプリキアヌスが、ヴィクトリヌスの名声をおもんばかり、秘かに信仰告白を行うように勧めましたが、ヴィクトリヌスはそれを拒絶し、多くのキリスト教徒のまえで信仰告白を行い教会の一員に迎え入れられました。

アウグスティヌスはヴィクトリヌスの話を聴いて、自分も彼と同じようにキリスト教に飛び込みたいとの思いをさらに強くしましたが、どうしても決断ができません。

その後ほどなくしてある日、アウグスティヌスのもとにポンティキアヌスというローマの役人が訪れました。たまたま机の上にパウロの書簡がのっているのを見つけたポンティキアヌスは、当時キリスト教徒の間で話題となっていた話をアウグスティヌスにしてくれました。それはエジプトの聖アントニウスの話でした。アントニウスは砂漠において長い間、孤独の中で祈りの生活を送りました。アントニウスを慕う人々が次第に増え、彼らと共同生活を行うことで、それが修道院生活の始まりともなったといわれます。アウグスティヌスはアントニウスのことを知りませんでしたが、当時、キリスト教徒の間では有名になっていました。ポンティキアヌスと同僚のローマの役人は、アントニウスの生活を知って、自らの役人生活のむなしさを思い、その場で役人の仕事を辞めて神に仕える生活に入っていきました。ポンティキアヌス自身もキリスト教徒であり、同僚の役人と行動を共にしたかったが、自分には家族もあり行動をともにすることができません。後ろ髪をひかれる思いで友人たちと別れ、心ならずも今は役人の仕事にとどまっている。ポンティキアヌスはそのようにアウグスティヌスにかたりました。

ポンティキアヌスが語っている間、アウグスティヌスはそのようにできない自分、欲望を捨てきれず、醜く汚れた自分を強く意識させられずにはいられませんでした。ポンティキアヌスがアウグスティヌスのもとを去り、一人残された心穏やかでないアウグスティヌスは回心の前の心境を次のように告白しています。

 私たちの密室、すなわち、私の「心」の中で、私は私自身の魂に対して激しく戦いをいどんできました。しかし、ついにその時、この私の内なる家でくり広げられてきた大乱闘のさなかに、顔つきばかりか、精神も動転した私は、アリピウス(アウグスティヌスの古くからの親友)のもとへ飛んで行き、こう叫びました。 「僕たちは何という目にあっているんだ。君はあの話を聴いてどう思う。無学な者たちが立ち上がって、天国を奪い取ってしまったんだ。それなのに、学問のある僕たちは、心がないばかりに、血と肉の中でのたうち回っているあり様だ。それとも、僕たちが彼らの後に従うのを恥じるのは、彼らに先を越されてしまったという理由からなのかい。せめて後からでも従おうとしないことを恥とすべきではないのか。」

 私は何かこのようなことを言うと。興奮のあまり、突然、アリピウスのもとを離れました。彼は驚いたように私を見つめていた。実際、私の声色は通常の響きではなかった。私の発した言葉より、私の額、頬、眼、顔色、声の調子の方が、遥かに雄弁に、私の魂の状態を語っていたのです。

 私たちの家にはちょっとした庭があり、私たちはそこを家全体と同じように使っていました。主人であるその家の家主たちはそこに住んでいなかったからです。 私は胸の騒ぎに耐えかねて、その庭に飛び出ました。そこでは、私が私自身に対して始めた戦いが終わりをつけるまで、誰も邪魔ができないようになっていたのです。あなたはその結末がどうなるかをご存じでした。しかし、私は知りませんでした。私は狂気のようになっていましたが、それは救いのためであり、死にそうになっていましたが、それは新たな生を得るためだったのです。私が知っていたのは、私がどんなに悪いものであるかということでした。私は、やがて間もなく、私がどれほど善いものになるかを知りませんでした。

 私は立ち去って庭に出ました。アリピウスも後からついてきました。実際、彼が傍らにいる時には、私は何も隠しごとをしていませんでした。彼としても、こんな状態にいた私をどうしてほっておくことができたでしょう。

 私はできる限り建物から遠く離れたところに腰をおろしました。私は激しい怒りに震えあえいだ。何故なら、神よ、私があなたのみ旨にかないあなたと契約を結ぶ(「エゼキエル」十六・八)にいたらないからです。《私のすべての骨》(「詩篇」三十四・十)はそうするように叫び、天にむかって賛美の声を上げているというのに。
              アウグスティヌス 「告白」八・八・十九より


アウグスティヌスは煩悶します。何故、こんなに思いがあるのに決断ができないのか。彼は膝を抱えたり、髪の毛をかきむしったりしました。これほどの思いに、なぜ自分の意志が応えることができないのか。涙があふれてきました。その時、どこかから子どもの歌声が聞こえてきました。

「取って読め、取って読め」tolle lege tolle lege

アウグスティヌスはこのような歌があったかしらと不思議に思いました、次の瞬間、我に返ったように立ち上がり。血相をかえて部屋に戻ると、机の上にあった聖書を取り、無作為に開けたページを読んでみました。

そこには「むなしい欲望を捨てて、キリストを着なさい」というパウロの言葉がありました。その言葉を読んだとき、アウグスティヌスの心は落ち着きます、すべての疑いは消え去りました。

その後、彼はミラノの大学の職を辞し、静かに洗礼の準備をして、33歳の時に、尊敬するアンブロシウスから洗礼を受けることになります。

以上、「告白」におけるアウグスティヌスによる「回心」の描写を紹介しました。


ここで振り返って、「回心」とは何だったのだろうか、二つの点から考えてみたいと思います。

1.ドナティスト論争にみるアウグスティヌスの「人間観」

彼の「回心」はどのようなものであったかは直接問題にするのはむつかしいですが、確かにその体験を通じて、彼は深い人間観が心に刻まれたように思えます。その後の彼の活動のなかで、彼の人間観が良く表れているドナティスト論争に注目してみます。

世界史の教科書などを読むと、ローマにおけるキリスト教は厳しい迫害を受けたが、「キリスト教徒の血は種子」ともいわれるように、迫害を受ければ受けるほどキリスト教はローマ帝国内に深く広がって行ったと言われます。しかし、すべての人がそのような強い人ではありません。迫害に耐えられずキリスト教を捨てる人々もいました。中にはキリスト教の司祭でありながら、キリスト教を捨てた人々もいました。しかし、迫害が終わると、それらの人々は教会に戻ってきました。アウグスティヌスの時代は、キリスト教は公認され迫害を受けることはなくなりましたが、その余波は残っていました。ドナティストと呼ばれる人々は熱心なキリスト教徒で、一旦キリスト教を捨てた司祭が教会に戻ってきて洗礼などの秘跡を行うことに強く反発をしました。教会にはキリストによって定められたサクラメント(秘跡)とよばれる洗礼、堅信、聖餐、告解などの儀式がありましたが、ドナティストたちはキリスト教を捨てた司祭たちが行う洗礼は無効であるから、洗礼をやり直さなくてはいけないと主張しました。それに対して強く反発したのがアウグスティヌスでした。

ドナティスト論争とは教会の秘跡の有効性をめぐる論争でした。両者の立場は次の通りです。
ドナティストの立場 人効論(ex opere operantis)
 秘跡は行う人により効力をもつ、棄教したような司祭の行う行為は無効である。
アウグスティヌスの立場 事効論(ex opere operato)
 秘跡はそれを行う司祭の人間性が問題ではない、「父と子と聖霊のみなにおいて洗礼をさずけます」としてとり行えば、それ自身で有効となる。

見方によっては教会内の些細な論争にも見えます。またアウグスティヌスの立場は内面を伴わない形式主義に見えるかもしれません。
それにしてはアウグスティヌスの反論は激しいものでした。それは、もし教会の儀式が司祭の人間性により成立するなら、一体誰が教会の儀式を有効にすることができるのか。誰もが自らをかえりみて「罪なし」と言えない、というのがキリスト教の基本的人間観ではないのか。司祭の人間性はよいにこしたことはない。しかし人間性が教会を成り立たせる条件であるならば、誰が秘跡を有効にさせることができるだろうか。秘跡はキリストが定めとり行うのだ。司祭はその道具にすぎない。

アウグスティヌスの心の中心には、このような人間観、人間は醜く罪深く、どんなに頑張ろうとしても神の助けなしには何もできない、というどうしようもない自分という人間観がありました。そして、そのような自分自身についての弱さを「回心」を通じて彼の心に深く刻み込まれたのだと思います。

2.恥ずかしいのですが、僕自身の体験をお話ししたいと思います。

僕がキリスト教に関心をもったのは、高校生の時でした。初めは倉田百三の「出家とその弟子」を読んだのがきっかけでした。その後、何となくキリスト教に関係したものを読んだりしましたが、西洋文化へのあこがれだったと思います。高二のことでした。クラスの友人から、「今日、四谷にある上智大学のカトリック研究会で神父さんの話があるので聴きにいかないかと誘われたのです。特に深い付き合いはなかった彼が、何故僕に声をかけてくれたのか、わかりませんでしたが、誘いにのってみました。神父さんのお話は気のいい爺さんの話という感じで、あまり印象に残りませんでした。でも四谷駅を降りて階段を上ると、すぐに視界に入ってきたイグナチオ教会が印象的でした。今と違って教会の広い芝生の庭、高くそびえる聖堂。僕は、この大学に入りたいと思いました。高3では日本史の先生の授業が好きだったので文学部の史学科に入学しました。今から考えると何もわかっていない若者の計画でしたが、その当時僕は、初めの一年間キリスト教のことを学んで洗礼を受け、二年から落ち着いて史学科での専門を勉強しようと考えていました。ところが、キリスト教のことを学べば学ほど、よくわからなくなってきました。そこで、史学科から哲学科に転科をしました。しかし、学んでキリスト教に入れるというものではありません。大学の3年くらいから、自分が努力してキリスト教に入れるというものではないと半ばあきらめの境地になりました。しかし、何らかの自分なりのキリスト教に対する見極めができるまで頑張ろうと大学4年の終わりに卒論を出さずに留年をしました。

そうこうするうちに悪い(?)友達ができて、お酒をおぼえるようになりました。週に1、2度四谷界隈の飲み屋で酒を飲むようになり、帰宅時間も遅くなることがありました。それまでの僕は、自分で言うのもなんですが、まじめな学生で、自宅から大学と大学から国会図書館の間の道しかあまり歩かない生活をしてきましたが、時間帯が変わると風景もかわるのだと思いました。特に終電間際の電車内の眺めはペーソス溢れる風景でした。中年のおじさんが多く、彼らはとても疲れているようでした。だらしなく緩んだネクタイ、うつろな目。判で押したように、たいていのおじさんは一面にプロレスの記事を載せた東京スポーツを読むか、小脇にかかえてだらしなく社内の座席に座っていました。僕はそのような風景に出会うときに、一体この人たちは何のために生きているのだろう。未来に希望があるわけでもない。持っているものは品のよくない娯楽新聞。キリスト教の知識だけは多少持っていた僕は、イエスが希望のない人、悩む人、罪人のためにこの世に生まれたとするなら、このような人々の傍らにこそイエスがいるべきではないのか。そんな風に思いました。

ある日、僕は友人と四谷で酒を酌み交わし、飲みすぎた。千鳥足で、どうして家までたどり着こうかと思いながら四谷駅の改札をはいり、総武線に乗り込んだ。ふらつく足で電車のドアのすぐ右の開いている座席に倒れこむように座った。そしてうつろな目で僕の正面を見た。反対側の座席には東京スポーツを小脇に抱えだらしなく座っているおじさんがいた。またいる。僕は思った。その瞬間思った。まったく同じじゃないか。僕も同じようにだらしなく座っている。いや同じじゃない。自分は彼らとは違う、自分には多少の学問がある。未来もある。彼らとは違う。そう思っているだけなおさら僕は傲慢で醜く、救いがたい人間だと思った。そのときふと僕の傍らにイエスがいるように思った。

先ほど引用したアウグスティヌスの回心直前の心理を描写した部分を見て下さい。
そこで彼は親友のアリピウスの向かって次のように言っています。

君はあの話を聴いてどう思う。無学な者たちが立ち上がって、天国を奪い取ってしまったんだ。それなのに、学問のある僕たちは、心がないばかりに、血と肉の中でのたうち回っているあり様だ。

「あの話」というのは、ローマの役人であったポンティキアヌスと同僚のローマの役人が、アントニウスの話を聞いて、すべてを捨ててキリストに従ったということです。それをアウグスティヌスは「無学な者たち」と表現し、自分たちを「学問のある僕たち」と言っています。その限り、アウグスティヌスにとって、考えもなしにキリスト教に飛び込んだ人々を「学問のある自分」の下にみています。しかし、そのような考えが間違っているということもアウグスティヌスにはもう分かっています。

私がが分かっていたことは自分がどんなに悪いものであるかということでした

他者に対する優越感が打ち砕かれ、自分のかたくなな自己慢心が崩れるとき、それこそが回心が起った時でした。「決断した」のではありません。「起こった」のです。アウグスティヌスは告白の中で、何度も決断しよう、自分の意志が決断すればすぐできるのにと煩悶しますが、どうしてもできませんでした。「決断する」ことと「心が決まる」ことは別物です。自分のかたくなな自己慢心が崩れたとき、アウグスティヌスの心が落ち着き、心が決まりました。彼の回心を語る「告白」8巻の冒頭で、あなたは私の鎖を断ち切ってくださった、・・・どのように断ち切ってくださったかを私は語りましょう。」とアウグスティヌスは語っています。だから、告白における「回心」は、彼の決断したのではなく、神の助けによって「心が決まった」のでした。注1

私を超えてあなたの内に in te supra me

アウグスティヌスは告白の7巻で、プラトン派の書に触れて、その後、回心を体験したことはよかった。もし逆にキリスト教に回心した後にプラトン派の書に触れたならば、回心の体験なしに、プラトン派の書だけでキリスト教に入ることができたと思ってしまうかもしれなかった。そのようなことを言っています。これはどういうことでしょうか。知識としては、プラトン派の書をきっかけにして確信した。それは、私の精神を超えて、光を見たといい、その光は何にたとえることもできないまったく別のものaliud valdeであり、「それが存在することを疑うより、私が生きていることを疑うほうが易しい(Ⅶ.10.16)。」とアウグスティヌスが言わざるを得ない確信だった。

それでは、アウグスティヌスが考えたギリシア思想とキリスト教は何が異なるのでしょうか。それは「自分自身を超えてsupra me」 ということが同じでも、その越え方に違いがあるのではないでしょうか。アウグスティヌスが「私の精神を超えて光をみた」といったとき、精神が研ぎ澄まされ高揚した瞬間であったと思います。しかし、彼はそこにとどまりそれを味わうことができませんでした。それに対して、彼の回心が起こったのは、彼が「自分の醜さ、高慢さ」を思い知らされた瞬間でした。「私を超えてあなたの中へ移動した」というのではありません。アウグスティヌスは「場所ではない、場所ではない non locus non locus!」とよく言います。場所をしめるのは物質的世界でしょう。「あなたの中に入る」というのは、私からあなたに「主役が変わった」ということにほかなりません。「他の人の家に入る」というのは、入れていただくことであり、そのご主人に礼を尽くすことでしょう。「自分の頑なさが打ち砕かれたとき 注2、肩の力が抜け、私はあなたの中にいた」。 神を認識したわけではありません。しかし無上の喜びgaudiumが、彼の記憶のなかに深く残った 注3。そして彼の生き方が「心の根本から変わったconversio」。これこそ、アウグスティヌスの「回心」の真実ではないでしょうか。

注1 加藤信朗氏は「告白」における回心直前の状況を、心corを本丸とする神の軍勢による城攻めのように描写されていることを指摘している。アウグスティヌスの心は自分であろうとしてがんばるが聖書の言葉、ヴィクトリヌスの話、ポンティキアヌスの話などが神の軍勢としてアウグスティヌスの心に迫ってくる。アウグスティヌスは私は私であると、自我を誇示しようとするが、神の言葉の進撃はやまず、状況は神の言葉がアウグスティヌスの心(cor)の直前(prae)(=praecordia 横隔膜)にへばりついて、絶体絶命となる。これが、アウグスティヌスの回心の直前の状況である。最後に神の言葉がpraecordiaを突き抜けてcorに入ったときが、落城であり、回心である。「中世思想研究9」1967

注2.心を打ち砕かれたこともなく、自らの知識を誇る人々、それには過去のアウグスティヌス自身も含まれていましたが、そのような人々を、アウグスティヌスは、パウロの言葉を借りて「彼らは自らを知者だと言いつつ、愚か者になりゆく dicentes se esse sapientes stulti facti sunt」と言っています。

注3 告白の10巻で、アウグスティヌスは自己の内面にあるメモリア(記憶という意味だが、アウグスティヌスはもっと広い意味で、魂のうちにあるものという意味に、あるいは魂そのものとして、メモリアを捉えている)に「心象 imagines」、「事柄自体 res ipsae」、「魂の感情 affectiones animi」の三種類をあげている。心象は外部にある物がそれ自体ではなく心象として記憶に残されている。事柄自体は「学芸artes」におけるような真理。例えば幾何学の真理は具体的なものではなく精神の眼でのみ見極められる事柄自体と考えられる。魂の感情は喜び、悲しみ、忘却etc のように魂そのものの有り様を意味する。前者二つは対象として捉えられ認識されるものであるのに対して、魂の感情は、そのように対象化されない魂そのものの有り様である。ここで注目したいのは「心象」と「事柄自体」のように対象化されるものではない「魂の感情」のほうが、より魂の内部のものと考えられていることである。対象化された「心象」や「事柄自体」は知的能力や知識にかかわるものであるのに対して、「魂の感情」は、学問とは直接関係ない心の問題であり、その「魂の感情」において、アウグスティヌスは神を「無常の喜び」gaudiumまたは「至福の生」beata vitaとしている。これは知識をほこり他者を無学なものとさげすみ、己を過信する生き方に対して、人となったイエスによって示された知識の多寡にかかわりのない謙遜の道を暗示するものであろう。