江藤太郎先生の思い出
大学で江藤太郎という先生に出会った。先生から多くのことを学んだ。先生のお宅にもしばしばお邪魔した。先生の書斎でキリスト教のことが話題になった時、先生は、昔の軍隊での苦労話を呟くように口にされた。
「軍隊ではよく殴られた。二等兵だったからね。そのような時、ボクは、昔読んだプチワラの本のことを思い出した。プチワラはキリスト教とは「最高のものが最低のものになったこと」という。ボクはそれが本当にどんなに大変なことだったかと思った。」
もう50年以上昔のことだが、今でもあの時の先生の顔を、僕は鮮明に覚えている。
大学で教えていた先生は、二等兵として招集され、つらい思いをした。自分の信念を曲げない頑固な先生は、軍隊で上官の言うことに素直に従えなかったのだろう。大学教員という肩書きなど何も通用しない世界。理不尽な殴打。神が人となり、しかも人間の住む家ではなく、馬小屋で飼い葉桶のなかで生まれたことが、ご自身の体験に照らして、どんなに大変なことだったのかという言葉になったのだろう。
先生のお話は,僕にいろいろなことを考えさせてくれた。しかし、何よりも、僕のような若造に、辛く悔しかった体験をさりげなく話してくれたことに感激した。
その後、教師になった僕は、生徒の前に立つ時、先生のことをよく思い出した。倫理の授業で思想や宗教の話をする時には、自分自身の体験に照らして,本当に納得できることを語ろう。また、何よりも,僕自身の喜びや、悲しみ,弱さ、悔しさを隠すことなくぶつけよう。そう思った。体験の裏づけのない言葉は、人に伝わらないからだ。
僕は自分の体験を通じて、本当に納得したことや、真実だと思ったこと、誰かに伝えたいと心から思ったことを、文にまとめ始めた。それを「以心刻心」というフォルダに保存した。口先だけでなく、心によって心を刻むことを意識したからだ。この「役立たずのつぶやき」に掲載された短編は、そのような想いで書かれたものである。