頑張れ団塊の世代

 

がんばれ、団塊の世代!

中野坂上の眼科を出て三階のビルの渡り廊下を進んだ。右目を手のひらで押さえて、白内障の手術をうけた左目で、そっとあたりを眺めてみた。一瞬、僕は明るい光に包まれた。三十階まで垂直に伸びる巨大な吹き抜けが、目に飛び込んでくる。吹き抜けの巨大なガラス製の壁が、太陽の光をやさしく反射して美しい。ビルの外側には緑や赤い色のタクシーが、渋滞のためだろうか、客待ちをしているようにゆっくりと動いている。視線を渡り廊下の反対側に向けた。遠くまで美しい町並みが眺められる。太陽の光が眩しい。印象派の絵にも似たその景観を、久しぶりに出会った懐かしい風景のように僕は楽しんだ。今度は、左目にそっと手を当て、手術をまだ受けていない右目で、同じ風景を眺めてみた。明らかに暗い。今までの美しい色が、一瞬に消えた。左目で見た世界が、フルカラーの写真であるなら、右目で見る世界は、年月を経た昔のセピアカラーの写真だ。右目の手術を受けるまでの約6ヶ月間、僕はこの二つの世界を、そしてその二つの世界の不思議なコントラストを体験した。

左目で見る世界を、三十余年前に見た世界とするなら、右目で見る世界は、今の僕にとっての世界であった。歳をとるということは、このようなことなのか。「老いる」ということはこういうことなのか。ため息がでた。「老い」は視覚だけにとどまらないはずだ。聴覚、味覚、臭覚、触覚。それぞれが、知らず知らずの内に衰えてきているに違いない。

高校で倫理の授業を担当していた僕は、ある時期から、授業準備のための読書をやめた。若いころは、いろいろな本を読んだ。専門ではない分野を扱うときには、がむしゃらに本を読んだ。しかし、ある時期から、授業の準備のために新しい本を読むことはやめた。普段、自分の興味にしたがって読書をする。面白かったこと、また、倫理の授業のあのテーマに使えそうだと認めたことを書きとめておく。授業の前には自分で考えて、それらのストックを使って授業を組み立てる。読書範囲も、自分の興味にしぼって、狭くなっていった。僕はそのことを「進歩」と受け止めていた。「勉強」をする時期は終わった。自分で考えること、それこそ創造的な活動である。そう自負するようにさえなった。

しかし、白内障の手術の後、これまでとは別の想いを抱くようになった。左目から僕に飛び込んでくる世界は生き生きとしていて美しい。もっともっときれいな世界を眺めてみたいと思う。好奇心がよみがえってくる。「老いる」ということは、この好奇心、外の世界に学びたいという想いが、次第に薄らいでいくことではないのか。外からの刺激が弱くなり、良くも悪くも、自己の内へともどっていく。それは自分を見つめるという意味では、積極的な意味をもつであろう。しかし、そのように外界からの刺激を奪われ、自己の内へこもっていくことで、次第にフェードアウトを準備していくことになるのだろう。

今、僕は思う。自分自身の世界を見つめることは悪くない。しかし、美しいものがあるのに、興味深いことがあるのに、そこから遮断されて自己にこもることはやめよう。自分にとって知らないこと、自分の間尺では測りきれないことに、もっともっとチャレンジしてみたい。高齢であることと、老いることとは違う。そのようにポジティブに生きることこそ、高齢化ではなく老齢化の防止になるであろう。