近くて遠い一歩

近くて遠い一歩

 人生には、様々のターニングポイントがある。その時、人生が動き、人間は新たな一歩を踏み出す。この一歩は、すんなりと踏み出すことができることもあるが、時には「その一歩」が、一見やさしそうだが、途方もなく難しいこともある。その時点で、今、自分は新たな一歩を踏み出したと自覚する場合もあるが、振り返ってみて、あのころが自分のターニングポイントだったと気づく場合もある。自分の過去を振り返っても、そのような一歩が確かにあった。

以下にあげる二つの文は、僕が勤めていた雙葉中・高等学校で年に一度発行されていた「ふたば誌」に投稿したものだ。第一節の「鏡に映ったあなた」は僕が新任教師として書いたもので、第二節の「愛すること」は、定年を前に、長年お世話になった学校への感謝の気持ちをこめて書いたものだ。その間に34年の歳月が流れている。扱っているテーマはあまり変わらない。ぼくにとって大切なこと、本物というか、真実というか、または、「愛」というか、それは何だろうかを自分自身に問いかけたものだ。しかし、両者の間には決定的な違いがある。



第一節 「鏡に映ったあなた」

 僕たちの印象に残り記憶される事柄は、案外偶然に出会った他愛ない事が多い。旅先で何気なく眺めた車窓の景色。ふとすれ違った老人の顔とその後姿。他人が自分に対して言ったさりげない言葉。そんな事柄が、妙に気になり心に残ることがある。僕が「22才の別れ」というフォークソングを初めて耳にした時もそうだった。

  この「22才の別れ」は、17の頃から交際してきた「あなた」に、「あなた」との知らないところへ嫁いでゆく「私」の告げる「別れ」を、さりげなく歌っている。その中に、次の様な言葉があった。

 私には鏡に映った

 あなたの姿を見つけられずに

 私の目の前にあった

 幸せにすがりついてしまった

 この「鏡に映ったあなたの姿」という奇妙な表現が、僕にとって妙に印象的で、一体、これは何を意味しているのだろうと思った。

 今、僕はこの歌についてこんなことを考えている。「鏡に映ったあなたの姿」というのは、「私の目の前にあった幸せ」に対する表現になっている。「鏡」というのは、僕たちの視線を反転させる。「鏡」の前に立てば、「私」が映る。そして、もしも「あなた」が「私」の後に立って「私」を見守り支えていてくれるならば、「あなたの姿」も鏡に映るはずだ。「鏡に映ったあなた」とは、「私の背後」に立って「私」を見守っていてくれた「あなた」のことではないだろうか。そんな「あなた」に反して「私」は、「目の前にある幸せ」ばかりを求めてきた。「私」の求めた「幸せ」とは、「私」にとって「楽しいこと」でなくてはならなかった。「私」を喜ばせる何か。「私」の気に入る言葉。「私」のためのプレゼント。そんな「目の前の幸せ」を、「私」は「あなた」からも求めた。そして、本当の「あなた」に気づかなかった「私」は、「あなた」の元を去っていった。つまり、真実の何か、本当のもの、気障な言葉を使えば「愛」というものは、僕たちの「目の前にある」ものではなく、僕たちの背後にあって僕たちを支えてくれるものだ、ということをこれらの言葉は意味しているのではないだろうか。

 これは単なる「解釈」にすぎないかも知れない。作者はもっと別の想いをこの詩にこめているのかも知れない。しかし、「本当のものは人間の背後にある」ということは、僕には何故か真実だという気がしてならない。とするなら、僕にとってもっと興味のあることは、何故僕たちは「本当のもの」が僕たちの後にあると思うのだろう、という問だ。僕たちは「目の前にあるもの」しか見ることができないのに、何故、僕たちの背後にあるものが「本当のもの」だと分かるのだろうか。別の問い方をしてみよう。例えば、遠藤周作の「同伴者としてのイエス」が、何故、「僕たちの後からついてくる」というイメージで考えられているのだろうか。

 この様な問は、僕たちには所詮は答えることのできないものなのかも知れない。ただ、「本当のもの」はどんな時にも、僕たちの精神が高揚している時にも、僕たちの心がうちひしがれている時にも、「いつも」変わらずにあるという考えが、僕たちにとっては「いつも分からない僕たちの背後」というイメージと重なっているということは言える様な気がする。僕たちは「いつも」何か「目の前にあるもの」に面して生きている。しかし、「目の前にあるもの」が「いつも」同じものである訳ではない。例えば、僕たちは、自分にとってどんなに「大事なもの」、「大切な人」でも、そのものの前に「いつも」いることはできないし、又、そのことを「いつも」考えていることもできない。現実に生きている以上、僕たちの目(それが「肉体の目」であれ「精神の目」であれ)にあるものは「いつも」変わってしまう。だから「自分にとっていつも」変わらない何かがあるとするならば、それは「いつも」変わってしまう物事に面して生きている自分にとって、「いつも知られない」僕たちの背後をおいて他にはないのではないだろうか。

 それにしても、「本当のものがあるなら、それは自分の背後にある」ということと、「自分の背後に本当のものがある」ということの間には、まだどこか隔たりがある。その「隔たり」を埋めるには、なおあと一歩の何かが必要なのだろう。僕たちが「鏡に映ったあなた」ではなく、「本当のあなた」に出会うための「あと一歩」とは何だろうか。

「ふたば」第35号より



第二節 愛するということ ~Amazing Grace~

 江戸時代の儒学を代表する荻生徂徠と伊藤仁斎との間に、次のような確執があった。仁斎に私淑していた徂徠が、仁斎に手紙をだし、尊敬の念を伝えた。しかし、その当時仁斎はすでに病気で、徂徠に返事を出すことができずに亡くなった。仁斎の死後、息子の東涯が徂徠に無断で、徂徠の仁斎宛の手紙を公表した。それに対して、仁斎の病のことを知らなかった徂徠は、仁斎に対して激しく怒り、以後、徂徠は仁斎学に対する強烈な批判者となった。

 仏像の発祥の地について、ガンダーラとマトゥーラの二説がある。それに関係して、日本の仏教学の碩学である中村元氏は、次のようなことを書いている。学者の国籍を見れば、その人が二説のどちらを支持しているかは本を読まなくてもわかる。インド人ならばマトゥーラ説、パキスタン人ならばガンダーラ説と考えて間違いない。

 今、二つの例をあげた。荻生徂徠といえば、頭脳明晰な大学者だ。でもその人が、伊藤仁斎批判を展開する根底には、仁斎への愛憎があった。また、仏像の起源についても、真実は一つであるはずなのに、「自国びいき」が結論を曲げている。人間というのは自分勝手で不思議な存在だ。アリストテレスは人間を「理性的動物」と言った。しかし、何事にも「本音と立て前」があるように、人間とは何かという問にも本音と立て前がある。古典ラテンに憧れ、終生、擬古文を綴り、古典的ラテン語しか話さなかったエラスムスは、死に臨んで、母国語を一言発して死んだ。結局のところエラスムスにとって、端正なラテン語よりも自分の母国語のほうが、本音を語る言葉であったのだろう。人間とは何か、動物とは異なる理性をもった存在。だが、本当か。知的な学者でも、内心は「愛と憎しみ」に動かされている。その点では、人間は平等だ。学者であろうと無学なものであろうと、偉人であろうと凡人であろうと、教師であろうと生徒であろうと・・・ここで、僕は「立て前」でなく「本音」で、人間の中心にある「愛」とは何だろうかを考えてみたいと思う。

 「人間の中心にある」と考えるのは、「愛」というものが、人間を本当に動かす力をもっているからだ。アウグスティヌスは「告白」の中で次のように言っている。「私の愛は私の錘(おもり)。Pondus meum amor meus それが導く方向に私は引かれていく」自分を本当に動かすものこそ、本当のものだろう。だから、「愛」とは、僕にとって、本当に知りたいことだ。そして、「愛とは」と問いかけるとき、僕にとって、キリスト教の愛が念頭にある。何故なら、僕にとって、「キリスト教が言う愛とは何だろうか」という問いが、ずっと昔から、心に問いかけられ、そのことによって、僕は動かされてきたからだ。とは言うものの、「愛」は漠として捉えがたいものだ。ここでは、僕なりの見通しを描いてみるだけだ。

 友だちの友だちは友だちか?
       ~自己中心的な愛は愛とはいえない~

 「人を愛する」ということは、愛することで何か得をしようとすることではない。しかし、本当か。アウグスティヌスは次のようなことを言っている。人間は人を騙そうとすることはあっても、人から騙されたいとは誰も考えない。「欺かれたくない」というその意味で、人間は誰もが「真理」を愛している。しかし、人間は顚倒(てんどう)した形で、つまり、自分が愛しているものが真理であることを願うという形で、真理を愛しているというのだ。これは言い得て妙だ。人間は、いつも互いに争う。あいつは間違っている。自分が正しい。誰もが自分が正しいと主張したがる。しかし、冷静に考えてみると、そのような場合、僕たちは本当に正しいことを求め、それに自分が従うというのではなさそうだ。でも、自分が誤っていると認めるのは嫌だ。だから、人間は自分が愛しているものが真理であることを願うというように、逆さまの形で真理を愛しているというのだ。このことは、僕たちが人を愛するという時にも、当てはまるのではないだろうか。僕たちは、人を愛すると言いながら、本当は、人を愛している自分をより深いところで愛しているのではないだろうか。

 「友だちの友だちは友だちだ」という言葉がある。「世界に友だちの和を広げよう」と言われることがある。実際、人は一人で生きているのではない。どんな人にも、大切に思う人や友人はいるだろう。もしいないというなら、その人は不幸な人と言わざるを得ない。友だちの友だちをたぐっていけば、世界は友だちの輪で繋がっているはずだ。しかし、「友だちの友だちは友だちではない」というのが、人間の社会の現実だろう。ある人を本当に大切と思い愛しているのなら、その人が大切に思っている人も大切に思うはずだ。自分が愛している人が愛している人を大切にしないなら、自分が愛している人が悲しい思いを抱くはずだからだ。しかし、現実には、自分が大切に思っている人にとっての大切な人に対して、人間は意地の悪い対応をとる。もし「友だちの友だちは友だち」ということが真実なら、この社会はもっと住みやすく、また、戦争などはありえないだろう。

 もし、本当の愛に出会いたいなら、人間の中にある「私が一番」というエゴセントリック(自己中心)な自我の殻がどこかで突き破られる必要があるのだろう。

 何を愛するのか
 
 「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がある。「あなた自身を否定しているわけではない。あなたの行ったことを問題としているのだ」ということだろう。しかし、僕はこの言葉を耳にすると、何故か「ウサンクサイ」気持ちがぬぐえない。二つの意味で、なにか反発したくなるのだ。

 一つは、「罪を憎んで、人を憎まず」ということは、罪と人を別のものとして理解している点だ。でも、例えば、「反省」をするとき、「あの時、あんな事をしてしまった、なんて馬鹿な私」と「今の私」が「過去の私」を断罪するというのなら、「反省」の意味はないだろう。そうではなくて、「あのようなことをしてしまったのは、まさに、この私なのだ」という心の痛みを伴う後悔の念があるからこそ、反省の意味があるのだと思う。つまり、罪と人は分けることができないのだ。だから、人を愛するということは、「罪を犯したまさにその人」を丸ごと愛するのだと思う。

 しかし、このようなことを言うと、必ず反論がでてくる。「それなら、罪はどうでもよいのか。」「悪いことを正すことこそ、その人にとっても良いことではないのか。」

 僕が「ウサンクサイ」と言って反発したい気持ちになるあと一つの理由は、この点にある。全てを倫理的にみようとすることへの不満というか、不安が、僕の心の中にあるからだ。ギリシアでは、昔から正義は「天秤ばかり」をシンボルとしていた。神話でも、正義(ディケー)の女神は「天秤ばかり」をもった姿で描かれている。「目には目」「歯には歯」という言葉で表現されるように、善に対しては善、悪に対しては悪で報いることこそ、正義と呼ばれてきた。悪人が世にはびこり、善人が辛い目にあうことに、僕たちは割り切れないものを覚える。「許せない!」という気持ちの背景には、正義はバランスであり、それ故、「こんなことをした人が、のうのうと生きていること自体が、おかしい」という、思いがあるはずだ。

 キリスト教ではどうだろうか。よく、宗教を信じている人は正しく生きるはずだ、とか言われる。しかし、倫理的に正しく生きる人が、宗教的に生きる人ではない。キリスト教は、人が正しく生きるという意味での倫理的なものを無視はしないが、そのことを本質的なこととは考えない。「放蕩息子」の話や「マルタとマリアの物語」を考えてみてほしい。放蕩息子の兄、マルタとマリアの物語のマルタは、いわゆるなすべきことをしっかりと行っている。そしてなすべきことをしない放蕩息子の弟や、イエスの前に座り込んで家事をしようとしないマリアに対して、不満を言う。しかし、イエスは彼らの不満を受け入れはしなかった。新約聖書で神から義(よし)とされる人々は、決して行動において立派な人々ではない。そのような人を義とするのはファリサイ主義だろう。「神は善人にも、悪人にも、等しく陽の光を注いでくださる」というイエスの教えこそ、罪人として社会的に見捨てられた人々にとって「福音」と呼ばれるものであった。

アメイジンググレース

Amazing grace, how sweet the sound
that saved a wretch like me.
I once was lost, but now am found,
Was blind, now I see.

 アメイジング・グレース(驚くべき恵み) なんと甘味な響きか
 こんな恥知らずな私をすら 救って下さった。
 かつて、私は見失われていたが、今、私は見出された
 何も見えなかったが、今、見ることができる

 有名はアメイジング・グレースの一節だ。美しい響きの歌だ。しかし、なぜ、恵みを「驚くべき」というのだろうか。作詞者のニュートンはかつて奴隷貿易に従事していた。航海中に嵐にあい九死に一生を得て助かった。その後キリスト教の牧師になった人だ。そのような彼を救ってくれた恵みを感謝するとともにアメイジングと感じている。

 人間的に考えると、善いことをした人には善いことを、悪しきことをなした人には悪しき報いをと考えることが、バランスという意味で正しいことだ。ミュージカルの「サウンド・オブ・ミュージック」の中で、主人公のマリアと彼女が家庭教師となった子供たちの父親であるトラップ大佐が、初めてお互いの愛に気づき、向き合う場面がある。互いに見つめ合って歌う場面に次のような言葉がでてくる。

 Perhaps I had a wicked childhood.
 Perhaps I had a miserable youth.
 But somewhere in my wicked miserable past,
 there must have been a moment of truth.
 For here you are standing there, loving me.
 Whether or not you should.
 So, somewhere in my youth or childhood,
 I must have done something good.

 Nothing comes from nothing….nothing ever could.
 So,somewhere in my youth or childhood,
 I must have done something good.

  私の子ども時代は悪い子だったかも
 私の若い頃は惨めだったかもしれないわ
 でも、悪くて惨めな私の過去にも、どこかに
 真実の瞬間があったはず
 だって、いまここにあなたがいて、私を愛してくれている
 義務からでなく、あなたは確かに
 だから、私が若い頃、それとも子供の頃
 確かに、わたしは、何かよいことをしたはず

 だって、無からはなにも生じない・・・けっして・・・
 だから、私が若い頃、それとも子供の頃
 確かに、わたしは、何かよいことをしたはず

 自分が幸せであることすら、何か原因があるはずだと、人間は思う。そのように考えると、自分には何のいわば「加点要素」もない、または人間的に言えば許しがたい、そう考えるからこそ惨めなこんな自分を、救ってくれた、「存在しがたい」という意味で「ありがたい」恵みを、ニュートンはアメイジングと呼ぶより他になかったのではないだろうか。人間は倫理的にものを考えることを本性としている。だから、何か努力をして、良く生きることが必要だと考える。ただあなたがそこにいるだけでよい、とはなかなか言えない。しかし、宗教は、そのような倫理の呪縛から人間を解放してくれる力を持っている。その時、人は、今まで見えなかったものが見えるようになるのだと思う。

愛の中に

 今、僕は愛ということを次のように考えている。

 愛とは、自分の周りに現れる全てのことを、そのものとして、あるがままに受け入れること。これは単純なことだ。人を受け入れるということは、その人の犯した過ちを是認するということではない。自分の尺度で判断し断罪するのではなく、相手の心そのものを大切に受け入れることだと思う。しかし、自己中心的な自我に無意識のうちに凝り固まった私が、どのようにして、自分の殻を破って、あるがままに他者を愛することができるのだろうか。恐らく、ニュートンに起こったように、今までの自分の基準では推し量ることができない、何か、「存在しがたい」という意味で「ありがたい」大切なものにであった(出あわせってもらったといったほうがよいだろうか)時に、「この私が」という肩の力が抜けて、あるがままに人を受け入れることができたことによるのだろう。それを「回心」といっても、または、「悟り」といっても、または「心からうなずけた」といってもよい。

この文の初めに、「愛が僕の中にあり、僕自身を動かしている」と書いた。しかし、それは正確ではないだろう。自分の中にある愛と僕が考えたものは、本当のもの、本物にたいする憧れであり、愛とはいえないだろう。僕たちの心には、「憧れ」はあっても、その「方向性」が見えない。また、人間は、自分が正しいと心から思っても、それが誤りうる存在だ。自分が良心に照らして恥じなしと考えても、良心そのものが誤る、その意味では、人間は悲しい存在だ。あえて断定的に表現すれば、「自分の中に愛がある」のではない。「愛の中に私が入る」のだ。「愛の中に私が受け入れてもらう」ことができたとき、今まで見えなかったものが見えてくる。今まで、自分にとらわれて、あるがままに他者を愛することができなかった私が、本当の意味で、「人を愛すること」ができる。ニュートンがamazingと表現せざるを得なかったことは、このような邪悪な私を神が許して、そして、愛して下さったということだろう。しかし、それ以上にamazingと思わざるを得なかったことは、そんな私が、今まで、自分本位で他者を踏みつけてきた私が、自分を度外視して、人を愛することができるという驚き、そんなことは、自分の力では絶対にできなかった。その意味では、そのことこそ、amazing grace(驚くべき恵み)と言わざるを得なかったのではないだろうか。

「ふたば」69号より



第三節 近くて遠い一歩

 始めに記したように、この二つの文章のあいだには、34年の歳月が流れている。第一節「鏡に映ったあなた」を書いていた時の僕は、自分にとって真理とは何か、愛とは何かと問いかけ、本当のものは、認識の対象として現れるものではないから、それは、僕たちの認識の対象になることのない「僕たちの背後」にしか想定できないと考えた。そして、“僕たちが「鏡に映ったあなた」ではなく、「本当のあなた」に出会うための「あと一歩」とは何だろうか。”との問いで終わっている。しかし、第二節の「愛するということ」を書いている僕は、最後に「僕の中にある愛」を否定して、「愛の中に」僕が入ると語っている。つまり、「愛の中に」に入るための「あと一歩」を僕は踏み出したのだ。この変化を言葉で説明することは簡単だ。自我の殻を突き抜けて、エゴセントリック(自分中心的)な自我を去って大いなる愛のなかに入ったと表現したらよいだろうか。しかしそのように言葉で語ったのでは真相は見えてこない。

一つの例をあげる。

僕の父は、僕が大学3年の時に、癌でなくなった。手術はしたのだが,手の施しようがなく、余命三ヶ月と医者から宣告された。三ヶ月よりは長く生きることができたのだが、実際、医者の宣告通り、数ヶ月で父は逝ってしまった。当時、僕は学生だったので、比較的自由な時間があり、病院で父と多くの時間を過ごすことができた。入院当座は、色々の方がお見舞いにきて、病室も賑やかだった。しかし、1週間、2週間と経過するに従い、見舞いに訪れる方も少なくなり、3週間を過ぎると、見舞客はほとんどいなくなった。ところが、入院後二ヶ月ほどたったある日、父の高校時代の友人が、ひょっこりと訪ねにきてくれた。父は関西出身だったので、その方も関西から父に会うためにわざわざ上京してくれたのだ。二人は昔話などをしていたが、父の体力を気づかったのだろう。その方は15分ほどで病院を後にされた。僕は病室の外まで見送り、御礼を言ってから病室にもどった。病室のベッドに横たわって天井を見つめていた父は、僕が病室に戻ると、小さな声でぽつりと「情けは金で買えないから」とつぶやいた。あの時の父の声は、今でも僕の耳の底に残っている。父は病気を告知されていなかったが、次第に体力が消耗していくこと、また、痛みが激しくなり痛み止めの注射も次第に効かなくなってきたことなどから、自分の病状を認めざるをえなかっただろう。そしてその運命を自分に引き受ける覚悟をするという孤独な戦いの中で、久しぶりに見舞いに来てくれた友人の好意が、本当に嬉しかったのだと思う。その気持ちが、「情けは金で買えないから」という言葉になったのだろう。

「情けは金で買えない」と言うことは、「人の気持ちはお金で買うことが出来ない」ということだ。しかし、「人の気持ちが金では買えない」ということは、当たり前のことで、誰だってそんなことは知っている。しかし、「知っていること」は、人の気持ちは大切で、本当にありがたいものだということを「分かっている」ということと同じではない。「知識がある」ということと、「そのことの本当の大切さを分かっている」ということとは違う。日本語には、「知識」と「知恵」という区別がある。ヨーロッパの言葉でもそうだ。英語ではknowledge とwisdomという区別だ。「知識」knowledgeは誰がどんなところでどのように伝えようとしても、間違いなく伝わる。しかし、「知恵」wisdomは簡単に伝えることはできない。「情けは金で買えない」ということを本当に分かるというのは、「知恵」に属することだ。「知恵」には「体験」と、心の準備というか、心の成熟が必要だ。どのようにして「知恵」を身につけるかということは誰にもわからない。しかし、自分の人生を誠実に生きることなくしては、「知恵」は身につかないことは確かだ。誠実に人生を生きるなかで、疑問に思うこと,大切と思うことを自分自身に問いかけ、考えることだ。しかし、性急に結論をひねり出すことはない。自分の心のとどめておけば、時が満ちて、自然に「ああ、こういうことなのだ」と自分なりの言葉がうまれ、納得ができるだろう。

もう一度言う。「情けは金で買えない」ということを「知っている」こととその「意味を分かっている」こととは違う。そして、本当にその意味や大切さを分かっている人は,実は少ないのだと思う。僕の父も、その意味が本当に分かったのは,62歳で、病床にあった最期の時だった。しかし、世間では「人間とは何か」とか「どう生きるべきか」などということが色々と議論されている。しかし、人間にとって本当に大切な心や気持ちについて、その大切さを分かっていないのに、人間について、また、人間の心や気持ちについて議論をすることは、「口先だけの議論」だろう。僕は、口先だけの議論はしたくない。沢山の体験をして、それを心の糧とすることによって、本当に自分のうちから湧きあがってくる「知恵」をたくさん生み出していきたい。

知識と知恵の違いに触れた。「愛の中に入る一歩」とは、僕にとっては「知恵」の深い部分に属することだ。もちろん、それは仏教でいう「不退転」の境地には程遠い。今でも僕は、何時も迷い、また「愛の外」にはみ出し、醜い自我に戻り、そして悩む。しかし、とにかく僕は一歩踏み出した。そしてその一歩は振り返って考えると単純なことだった。それにしても何年の歳月がそのためにかかったことか・・・

「近くて遠い一歩」との想いを抱かざるを得ない。