エピローグ
ヤスパースが基軸時代と呼んだ古代の思想を、一渡り紹介してきました。皆さんは、どのような印象を受けたでしょうか。プロローグで、僕は、この本を書いたのは、若い人たちに元気になってほしいと気持ちからだと言いました。そのために、時代は異なっても、人間は様々のことを考えて、あたえられたこの命を大切にしながら、どのように生きたらよいのかを真剣に問い続けてきたということを知ってもらいたかったのです。迷い、悩み、また苦しんでいる人は、あなただけではありません。だから、自分と自分の人生を安売りすることなく生きて欲しいと思うのです。
キルケゴールは「死にいたる病」のなかで、面白い比喩をあげています。
ある町の印刷工場で職工が植字を行っています。(現代では、パソコンやワープロが発達しているので、印刷はキーボードを打つことで簡単に行えます。しかし、昔は、一字一字、職工が活字を拾って、版組みを作らなくてはなりませんでした。)ある職工がたまたま、一つだけ活字を逆さまに拾ってしまいました。例えばloveという単語をlo eとしてしまいました。ひるがえって、逆さまに拾われたvの立場から。自分は逆さまに拾われてしまったと思い、正しい位置に戻してくれるようにさかんに訴えます。自分は逆さまにおかれてしまった。正しい位置に戻してくれと訴えます。しかし、その職工はそのことに気がつきません。そうこうするうちに、vが誤った位置におかれたまま、その書物は出版されてしまいます。それでもvは、自分が誤った状態にあること、自分を正しい位置に戻してくれるように訴え続けますが、誰も自分の訴えに気づいてくれません。ある時、vは意を決します。もうよい。自分はこのままでよい。これこそ、自分がいかにひどい仕打ちを職工から、さらには世間から受けたかの証である。自分はこのままでよいと居直ります。キルケゴールはこれを「絶望して自己自身であろうとする絶望」の一例とし、それを「デモーニッシュな(悪魔的)絶望」などと名づけています。これは、キルケゴールの「自己」についての深い分析、重層的な自己のあり方、さらには、人間が根源的に神によって置かれているにもかかわらず、人間が直接に関わることができるのは、今ここのこの自己しかありえない、という人間存在のあり方からでてくる分析の一つです。しかし、この比喩は、キルケゴールの宗教的背景を除外しても、色々なことを示唆してくれると思います。
僕たちは、本当は善く生きたい、正しく生きたい、と思っています。また、僕たちは純粋な感受性をもっているはずです。人が悲しんでいれば、悲しく思うし、人が幸福で笑顔がいっぱいなら、自分も嬉しくなります。そして、自分について考えるなら、一度しかない人生を、本当に大切に、大切な人々と人間らしい生き方をしたいと思っています。しかし、現実は必ずしも理想通りにはいきません。色々な場面で、僕たちは挫折し、また理不尽な仕打ちを体験し、厳しい現実を思い知らされることになります。そのような経験を重ねていくうちに、あのvのように、僕たちは「居直り」を繰り返すようになるのではないでしょうか。そして、そのように居直ることによって、僕たちは、他の人たちに対して、理不尽で心無い仕打ちをしていくのではないでしょうか。もしかしたら、大人になるということは、「居直り」を繰り返していくことなのかもしれません。
この本を読んだ皆さんが、そのような居直りをしないで生きていってほしいと、本当に思います。ぼくはよく思うのですが、生きることはやさしいが、よく生きることは本当に難しいです。ただ生きるだけなら、時の流れとともに、生きることになります。しかし、人間はモノでも、単なる動物でもありません。一体、自分は何ものだろう、自分はどう生きるのが本当に善いことだろう、または、自分にとって大切なものは何だろうと考えます。僕たちは人間ですから、このような問から逃れられません。人間の心を失わない限り、考えてしまいます。「よく生きること」は本当に難しいことだと思います。しかし、居直らないで下さい。よく生きている人はたくさんいます。でしゃばらずに、人の前面に出ようとしないだけで、たくさんいます。そして、この本で紹介した様々の思想家や宗教家も、そのようによく生きようとした人々だったと思います。でも、鵜呑みにしないで下さい。思想や宗教はアクセサリーのように表面的に身に付けるものではありません。あなた自身がよく生きるための参考の一つにすればよいのです。第一章で「清兵衛と瓢箪」の話をしました。思い返してみてください。皆さんがどのような大人になるかは、皆さん自身にかかっているのです。