第五回 文芸復興期の思想(14~16C)… 過渡期の思想
今日は「文芸復興期の思想」と題して、14世紀から16世紀のヨーロッパの思想について考えてみたいと思います。
初めに、この4枚のパネル(写真)を見てください(注1)。右側の2枚は15世後半にイタリアのフィレンツェで活躍をしたボッチチェリの「春(プリメーラ)」と「ヴィーナスの誕生」です。もしこの二枚の作品が200年前に描かれたとするなら、ボッチチェリはただでは済まなかったでしょう。肌が透けて見える女性の描写だけでも、教会からお咎めを受けることになったと思います。中世のヨーロッパでは、人間をこのように描写することはありませんでした。人間を描くとすれば、服によって肌を隠した祈りの姿で描かれました。中世を代表する文化は何よりもキリスト教の聖堂でした。左側のこの2枚を見てください。これは中世のゴシック建築を代表するケルンの大聖堂と、パリのノートルダム大聖堂の バラ窓です。その内陣を飾るのは美しいステンドグラスです。このパネルはパリのノートルダム大聖堂のバラ窓です。壁で建物を支えるロマネスクと異なり、柱で支えるゴシック建築は、人間の天への憧れを高く上に伸びる尖塔によって表現することができるようになりました。また壁を彩るステンドグラスの光は、人間の心の内を照らす(inluminatio)神からのメッセージでした。中世文化の真髄はそのような聖堂の内陣で執り行われた洗練されたラテン語のミサ典礼文ではないでしょうか。これらのパネルに見られるキリスト教の聖堂とボッチチェリの絵の間には約200年の時の経過があり、両者の間には確かにある精神的な変化があります。この変化について、今回は人文主義と宗教改革という二つの点から考えてみます。
1 人文主義
ルネサンスという言葉は、再生という意味です。再び生まれたのは「ギリシア・ローマの古典」。ここで注目したいのは、「ギリシア・ローマの古典」というとき、ギリシアはもちろんですが、ローマも帝政以前の共和政の時代、つまり、キリスト教が成立する以前の時代の古典を意味していることです。これらの古典を研究する人々は、古典の中に、キリスト教的価値観の影響を受けていない大らかな人間性の肯定を発見しました。人間にはさまざまの能力、可能性があります。他の動物にはない理性もその一つでしょうが、感性も、欲望も、ある意味では人間の能力の一つでしょう。しかし、中世では美しいものを美しいと感じる感性も、それ自体ではむしろ危険なものとして警戒されました。感性は美しいものを美として感じるのではなく、そのような美しい自然を創造した神を賛美するためにあると位置づけられました。また中世では悪しきものと考えられていた欲望すらも、個人が有するのものとして、特別に卑下されることはありませんでした。ギリシア・ローマの古典を研究する人々は、これをhumanitas(人間性)の研究と考えました。そこから英語では人文主義をhumanismと呼び、自然科学や社会科学に対して、人文科学に属する哲学、歴史学、文学などの科目をhumanitiesと呼ぶようになります。この様にして、ギリシア・ローマの古典研究者の間から、人間の持つさまざまの能力を肯定する風潮が起こってきました。ボッチチェリの二枚の絵も、ギリシアの神話を題材としています。「春」に描かれているキューピットもラテン語ではクピドー(cupido)と呼ばれますが、クピドーとは欲望という意味で、ギリシア神話のエロースの神に相当します。また、ヴィーナスはギリシア神話のアフロディテーで愛と豊穣の神とされますね。少なくともここでは、性的な欲望もふくめた愛を決して低俗で破棄すべきものとは考えられていません。
このように現世肯定的な風潮の中で、人間の持つ諸能力を広く発達させた「普遍人(万能人)homo universalisの理想が生まれました。モナ=リザで有名なレオナルド=ダ=ヴィンチがルネサンスの代表的人物にあげられるのは、彼が美術だけでなく,あらゆる方面に才能を発揮した代表的なhomo
universalisと評価されているためでしょう。
ルネサンス期に活躍した代表的な人物の一部を簡単に紹介します。
ダンテ 1265-1321
ダンテの「神曲」は地獄・煉獄・天国の三部に分かれる長編叙事詩です。ルネサンスの初期のもので、世界観としては中世のカトリック的な世界観が色濃く残っていますが、舞台が煉獄から天国へと至ると、ダンテの永遠の恋人ともいえるベアトリーチェに案内されるところに、ルネサンスの雰囲気が出ているのかもしれません。しかし、この「神曲」の新しいところは、何によりも、この作品がトスカナ地方の方言ともいえるイタリア語で叙述されたことでしょう。中世ではラテン語が教会での共通の言葉で、ヨーロッパにおいては知識人の間の国際語でもありました。その慣例を破って庶民にもわかる言葉で叙述したところが画期的なことでした。
ボッカチオ 1313-75
14世紀半ばにヨーロッパを襲った黒死病(ペスト)は多くの犠牲者を出し、深刻な影響をヨーロッパ社会に与えました。ボッカチオの代表作である「デカメロン」(十日物語)はこの時期に執筆されたものでした。フィレンツェ市内の黒死病を避けて郊外に逃れた10人の紳士淑女が、憂さ晴らしと暇つぶしにテーマを決めて1人1日1話、10日間、全部で100話の話をするオムニバス形式の作品です。世俗の社会の中で生きる様々の人間の姿、人間の欲望も赤裸々に描写したこの作品は、ダンテの「神曲」に対して「人曲」とも評されます。
マキャベリ 1469-1527
フィレンツェの外交官であったマキャベリは、ヨーロッパのフランスやイギリスなどが中央集権国家の道を着実に進んでいるのに対して、分裂を続けるイタリア統一の悲願を込めて「君主論」を著しました。君主は国家を統一し強力にするためには、裏切りや毒殺など手段を選ばずに実行する必要がある。そのためには狐のようなずる賢さとライオンのような力を持たねばならない。このような目的のためには手段を択ばない権謀術数をマキャベリズムと呼びます。プラトンの昔から人間は、国家とはいかにあるべきか、どのような国家が人間にとって理想の国家かを考えてきました。それに対してマキャベリは理想と現実を分けたといってもいいと思います。このように、倫理と政治を分けたマキャベリは近代政治学の祖と評価されています。
ピコ=デラ=ミランドラ 1463-94
イタリアの代表的な人文主義者であるピコは、プラトンに代表される古代哲学にも深い関心をいだいていました。そして人文主義者たちをローマに招いて、世界人文主義者会議とでもいう討論会を開催しようとしました。その基調講演のために著されたのが、「人間の尊厳について」です。ピコのよると神は動物を創造したときにさまざまの能力を動物たちにあたえたため、人間にあたえる能力が残されていませんでした。そこで神は人間に他の動物にはない自由意志をあたえました。それ故、人間には他の動物にはない自由な意志があり、人間は自己の意志によって自分の生き方を決定することができるようになりました。自由意志こそは他の動物とは異なる人間の尊厳の根本であるとピコは考えました。人間には自由な意志があり、それが人間の尊厳である。人間の尊厳は自由意志にあるとは、カントに代表される近世哲学の中心的な信念であり、その意味ではピコは近世哲学の中心テーマを先取りしているといえるでしょう。
以上、主にルネサンス期の文学者や思想家を中心に紹介してみました。ここで紹介した人たちはイタリア=¬ルネサンスにかかわる人々でした。次に、イタリアの北、アルプスをこえたヨーロッパのルネサンスについて少しお話をします。イタリア=ルネサンスは復活した古代の古典文化が、私たちの住んでいるこのイタリアで栄えたとの親近感から、ある意味では、私たちの祖先がになった文化という熱狂がありました。そこにはキリスト教になかった現世肯定的な雰囲気があったと思います。それに対して北方ルネサンスは、むしろ精神的、宗教的な雰囲気がありました。
エラスムス 1469頃―1536
北方ルネサンスの最大の人文主義者と評されるのがロッテルダム(ネーデルランド)のエラスムスです。ローマ教会の腐敗に批判的であったエラスムスは、「愚神礼賛」を著し、当時の王侯貴族や教会の愚考を厳しく批判しました。エラスムスの大きな功績は、ギリシア語新約聖書の校訂版をラテン語訳とともに出すなど、聖書の文献研究にありました。彼の聖書研究は、やがて宗教改革の担い手となるルターにも大きな影響をあたえました。ルターの宗教改革に関しては「エラスムスが生んだ卵をルターが孵した」とも言われます。
2 宗教改革 マルティン ルター1483-1546
~贖宥状(免罪符)をめぐって~
人文主義がギリシア・ローマの古典に帰ろうとしたとするなら、宗教改革は聖書そのものへ帰ろうという運動といえます。ここでは焦点を宗教改革の発端となった、贖宥状(免罪符)の販売に対するルターの反対に焦点を合わせて考えてみたいと思います。
ルターの宗教改革が、ドイツで販売されていた贖宥状(免罪符)に対するルターの反対をきっかけとして始まったことはよく知られていますね。ところで、贖宥状というのはどういうものだったのでしょうか。免罪符という言葉からは、それを買えばその人の罪が許されるという風に思われるかもしれませんが、それは違います。その意味を理解するためには、中世におけるローマ教会の罪の許しについての考えを知る必要があります。
中世における罪の許し。
中世のカトリック教会では、人間の罪の許しに関して、三つのことが必要と考えました。
一つは、自分が犯した罪について心から反省すること。(痛悔)
二つは、痛悔をしたのち、自分の犯した罪を司祭などに告白をすること。(告白)
三つは、告白を受けた司祭は、その罪を贖うための善行を伝え、それを行うこと。(善行)
つまり、痛悔、告白、善行の三点セットが行われると、罪が許されたとされました。
ローマ教会が販売をした贖宥状とは、この罪の許しに必要な三点のうち第三番目の贖いのための善行にかかわるものでした。
ローマ教会には、昔からキリストおよび諸聖人たちが、自らの罪が許されるため以外にも、たくさんの善行が積み残されていると考えられました。この余剰功績は「教会の宝」と考えられました。贖宥状というのは、この功績余剰(教会の宝)を受け取ったという証明書になります。変な譬えですが、銀行ように、当座必要のないお金がある人が銀行にお金を預け、それを必要な人に貸し与えるというのに似ているかもしれません。12世紀に十字軍に参加する兵士たちに与えられたのが、始まりといわれます。14世紀に教会がローマ巡礼を勧めた時にも発行されました。しかし、それがだんだんに金になるということが分かり、そのために使われるようになります。ルターの時代、ローマ教会はサン=ピエトロ大聖堂の改築のための資金調達のために、ドイツで贖宥状の販売を始めました。これがルターの反発を招き、宗教改革の発端となりました。
ドイツにおける贖宥状の販売を担ったのはドミニコ会の修道士テッツェルでした。農村を回ったテッツェルは、農民たちに対して語りかけました。「この箱にコインを投げ込んでコインの音がすれば、煉獄で苦しんでいるあなた方の肉親の魂が救われます。」このような言葉を、聖職者から聴いた農民たちは、ほかならぬ大切な親兄妹のためならばと思い、なけなしのお金を免罪符購入のために支払っている。このような農民の姿をみて、ルターは義憤を感じました。ルターの父ハンスは農民から出発して鉱山業で成功をおさめましたが、彼の家は代々農家であり、ルター自身も自分は農民の出と考えていました。ドイツにおける贖宥状の販売が宗教改革への道を開くきっかけになります。
1517年、ルターはヴィッテンベルク城内の教会の壁に95か条に及ぶ論題を張り出しました。ルター自身は神学上の問題として、贖宥状の是非についての公開討論をするつもりでした。それ故、論題はラテン語で書かれていて、民衆にわかるものではありませんでした。しかし、論題はすぐにドイツ語に翻訳され、瞬く間にドイツ国内ばかりではなく、国境を越えてヨーロッパに広まっていきました。グーテンベルクの活版印刷がその威力を発揮したのはその時でした。当初、ルターはローマ教会自体を否定するつもりはありませんでした。しかし、対立が深まる中で、ローマ教会のあり方そのものを否定する宗教改革へと先鋭化していくことになります。そしてついにルターはウォルムスで開かれた国会に呼ばれ、皇帝カール5世の前で、弁明の機会も与えられずに、自説の撤回を要求されます。皇帝の前にたたされ、自説を撤回するか、さもなければ法の保護の外に置かれるかが問われます。法の外に置かれるとは、国会が終わってルターが外に出れば、殺されようと犯人は罪に問われないことを意味しました。そこでルターが言った言葉が有名です。
Hier stehe ich. Ich kann nicht anders. Gott hilfe mir amen !
ここで雑談を少し。ルターのこの言葉は「我ここにたてり」という勇ましいルターの決意表明のように言われています。しかし、どうでしょうか。状況は(多分)ルターが神聖ローマ帝国の若き皇帝カール5世の前で立たされ、自説を破棄するか、法の外の無防備な状況に立たされることを選ぶかとの答えを求められている場面です。ルターのこのドイツ語を訳せば、「私はここに立っています。他にどうしようもないのです。神よ私を助けたまえ。アーメン」となると思います。ドイツ語では英語のように現在形と現在進行形の区別はありません。だからhier
stehe ichは「私はここに立っています。」という意味だと思います。立ち上がるならば、aufstehenという言葉が使われるのではないでしょうか。そして英語でもそうですが、形状が長いもの、例えばスカイツリーならばそこにあるといわずに立つstand
という言葉が使われ、横に広がったもの、例えば関東平野ならば横たわるlieという言葉が使われるはずです。だから、ルターの言葉は、日本語でいうなら、「私はここにいます。他にどうしようもないのです。神よ助けたまえ。アーメン!」となると思います。だから、ルターのこの言葉は、宗教改革への狼煙を上げた勇ましい言葉ではなく、自説を捨てるか、死を選ぶか、ルターの孤独な選択のなかでの叫びのような気がしてなりません。(注2)
信仰義認説 sola fide
ルターは当時のローマ教会に対して、何を訴えようとしたのでしょうか。
農民たちに贖宥状を売りつけるやり方に対する義憤はもちろんありますが、それ以上にルターが疑問に思ったことは、贖宥状販売の前提となっていた考えでした。つまり、人間が最終的に神から義とされるには、人間の側からの善行が必要との考えです。
「神から義とされる」とは、あなたは正しい、大丈夫と認められることです。しかし、そんなことは可能だろうか。そのような疑問が浮かびます。新約聖書のパウロの書簡の中には、そのような疑問に対する真剣な問いかけがあります。熱心なユダヤ教徒であったパウロは、まじめなユダヤ教徒として神からあたえられた律法をしっかりと守ろうとしました。しかし、守ろうとすればするほど、パウロは守りきれない自分を思い知らされます。パウロはそれを、「律法は自分を自由にするよりもむしろ罪の奴隷とした」と表現しています。罪の奴隷からの解放は(善い行いを自力でできないからこそ、罪の奴隷というのですから)パウロにとっては、イエス=キリストへの信仰によるほかはない。信仰によってのみ人間は神からよしとされる。このパウロの信仰義認の考えは、アウグスティヌスにも大きな影響をあたえ、ルターのうちにも脈々と受け継がれています。
しかし、ルターのこの「信仰によってのみ義とされる」との考えは、ルターが考えた以上に、当時のローマ教会の権威と、さらには当時の社会に、深く大きな衝撃を与えるものでした。
中世のヨーロッパ社会は分業の社会と言われます。つまり、「祈る人」と「戦う人」と「働く人」です。祈る人はローマ教会の聖職者、戦う人は領主(王侯貴族)、働く人は圧倒的多数の農民でした。教会は神と人間の仲介者としての役割を担っていました。つまり、人々は教会を通じて救いにいたることができます。しかし、教会はその役割を宗教に関してのみではなく、世俗的な力に利用することもありました。ルターの「信仰義認」はそのような神と人間との仲介者としての教会を否定することになります。ルターにとっては、神がいて、私がいて、神の言葉である聖書があるのみです。人間が神へと至る道は、神から善しとされるのではなく(もしそうなら人間の救いは絶望的になります)、信仰によってのみ可能となります。人間の救いは、神から善しとされる行いによるのではない、まして、他人の善行をお金で買うことによってなどということではない。ルターは直接個人の内面に問いかけます。これは中世の社会秩序(ヒエラルヒー)への挑戦であり、ルターが当初考えていた以上に深い衝撃をヨーロッパ社会に与えることになりました。
このようなルターの信仰によってのみ義とされる、信仰義認説にはいくつかの付随する考えが帰結します。
聖書中心主義
ルターにとってのよりどころは、神の言葉である聖書のみになります。直接、人間の内面に語りかける神の言葉こそ、聖書でした。ルネサンスがギリシア・ローマの古典への回帰とするならば、ルターの宗教改革は聖書への回帰でした。当時、教会の言葉はラテン語であり、ミサも庶民には理解できないラテン語で行われました。ルターは人々にとって聖書が身近なものとなるように、新旧の聖書をドイツ語に翻訳しました。このルターのドイツ語訳聖書は近世のドイツ語の形成と統一に大きな影響を与えたとも言われます。
万人司祭説
仲介者としての教会の役割を否定したルターは、特別な司祭を否定しました。もし、司祭がいるとしたら、それぞれの人が司祭であるとの万人司祭説をとった。
職業召命説
聖職者としての僧侶を特別視しなかったルターは、職業においても貴賤の別をみとめませんでした。信仰をもって行うならば、それはどのような職業でも神から召された天職であるとした。Berufというドイツ語は「(神から)呼ばれる」という意味で神によって召された職業という意味になります。英語のVocationやCallingと同じ「呼ぶ」という言葉からきていますね。
人文主義と宗教改革
人文主義と宗教改革についてお話をしてきましたが、最後にルターとエラスムスの関係についてお話をしてみます。
ルターはエラスムスの聖書研究から多くのことを学びました。彼が行った聖書のドイツ語訳もエラスムスの研究なしには難しかったのではないでしょうか。また、エラスムスは教会の腐敗を痛烈に批判をしています。
95か条の論題が発表されたころ、エラスムスはルターの立場に好意的でした。しかし、ルターの立場が鮮明となり、ローマ教会との対立が厳しくなるにつれて、教会に対しては、ルターの立場にもある程度の理解をするように、また、ルターに対してはあまり先鋭化しないで節度ある行動をするようにとすすめました。争いを好まず平和を愛したエラスムスは、できれば中立の立場にいたかったと思います。ルターはエラスムスの学識に関しては敬意を払っていましたが、キリスト教への姿勢では、早い時期から彼自身とは違うことを意識していました。ローマ教会とルターとの間の確執が厳しくなってくると、ルター側とローマ教会側の両方から、味方となる作品の執筆を要請されました。ルターはもし味方をしてくれないのなら、せめて沈黙していてほしいと伝えました。しかし、社会的にも大きな問題となっていることについて、エラスムスほどの人物が中立を決め込むことはできませんでした。最後にエラスムスが書いたのは「自由意志論」でした。エラスムスはルターの考えに対して、一点だけ疑問に思うところがある、それはルターの考え方の中には、人間の自由意志が否定されていることを指摘しました。エラスムスの批判に対してルターは、「今まで自分に対してたくさんの批判があったが、それは本質的なものではなかった。しかし、あなたは本質的な問題に触れてきた。だから、あなたには決して賛成できない。(注3)私はこの点については、絶対にあなたの見解には反対だ」として、「奴隷意志論」を著しました。本質的な問題とは、それゆえにこそ、ルターが「信仰のみによって義とされる」と自分の体験をもって語った点で、その点をはずせば、ルターが問題としてきたことは、単なる饒舌になってしまうでしょう。(注4)
以上、ルネサンスと宗教改革に関するお話をしてきました。
エラスムスの立場を人文主義の立場と考えるなら、ルターの立場は宗教の立場といっても良いと思います。人文主義は人間の発見ともいえる現世肯定的な新しい人間観をもたらしました。それに対して、ルターは人間というよりも聖書中心主義の立場にあり、その人間観は、人間の弱さ、罪深さを強調する点で、ルネサンスの万能人を理想とする人間観とは異なるように見えます。それは自由意志を肯定するエラスムスと、それを否定したルターの差にも現れています。しかし、ルターが一人一人の個人の内面に信仰を問いかけたことは、個人への問いかけとして、深いところで近世哲学への道を拓ことにもなったのではないでしょうか。
注1 著作権の関係もありますので、4枚の写真は表示できません。ネットの調べればいくらでも見ることができるので、それをご覧ください。
注2 何かの本で、ルターのこの言葉は実際にはルターの口から出なかったのだということを読んだ記憶があります。ルターの専門家ではないので、真相は分かりません。映画などいろんな場面で出てきますが・・・・
注3 人間の意志は自由か自由でないかという問題は難しい問題です。僕たちは自分の意志で自由に物事をきめてそれに対応していると思っています。しかし、それは本当か。科学的には自由ということはありえないといえます。全ては何らかの因果関係で結ばれているとするなら、僕たちが自由と思っていることも疑うことはできます。人間の救いが問題となる宗教においても、この難問はつきまといます。仏教においても、自力と他力という問題がでてきます。キリスト教においても、大きな問題となります。この点に関しては、このサイトの「若い人たちのために 高校生の倫理」の第23回」「パウロ 教父 スコラ哲学」のパウロの部分を参照ください。
注4 仏教に修行者たちが必ず修めるべき三つの修行があり、戒・定・慧の三学と言います。戒律をまもり、禅定(心の散漫を防ぐ精神統一)と、智慧を身につけることです。ただ頭で理解するだけでは、本当の理解にはならないという意味が込められているでしょう。このことは仏教だけにかぎらないでしょう。哲学にせよ、宗教にせよ、おそらく文学にせよ、頭だけの理解は本物ではないと思います。いわば自分の心の中を通して、熟成されて出てくるものこそ、口先だけの理解ではない、本物だと思います。ルター場合も、その核心にはそのような体験をともなった核が、信仰義認との信念だったと思います。このホームページの中でも、そのような核を常に意識してきました。以下に上げる部分は僕自身の考えのなかで、その核に多少とも触れたいと思った部分になります。ルターの核心とはまったくの同じではありませんが、無関係ではないと思います。
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神・人間・そして・・・ 「第4回 アウグスティヌス 3」