心のセイフティネット
昔、家族で山に登った。鬱蒼とした木立に挟まれた長い上り坂を、僕は歩いていた。坂を上りきって道を左に曲がると、突然、視界が開け、遥かかなたに「近江の海」と呼ばれた琵琶湖の雄大な姿が現れた。この景観が、僕にとって人生で一番古い記憶だ。しかし、幼かった僕は、自分が登った山が叡山(比叡山)であったことも分からなかった。その叡山が、僕にとって、後に特別な意味をもつようになろうとは思いもよらなかった。
僕は京都が好きだ。年に一度は京都を訪れる。年に一度の贅沢だが、宿泊は蹴上の都ホテルにすることが多い。ホテルを予約するときには、必ず、南禅寺側の部屋を指定する。南禅寺側の窓からは、夏にはライトアップされた南禅寺が間近に見える。そして何よりも、叡山がよく眺められるからだ。
「布団着て 寝たる姿や 東山」
芭蕉の弟子の服部嵐雪の句に見られるように、京都の東山連峰は、人が布団をかぶって横たっているように見える。寝姿の頭の部分にあたるのが叡山だ。しかし叡山は、見る位置によって姿を変える。蹴上の都ホテルの窓から見ると、叡山は台形のように頂上が平坦に見える。しかし、北に向かうにしたがって、叡山の姿は台形からなだらかな円錐形に変化する。渡月橋からみる叡山は遥か遠くに円錐形の姿をあらわすが、下鴨神社の近辺から見る叡山はごく近くに見える。初めてあのあたりを散策した時、余りに間近に叡山を見て、それとは気づかず、近くの住人に「あの山は何ですか」と尋ねてしまった。おばさんが、不思議そうな顔で、「あのお山が比叡山ですよ」と答えてくれた。修学院離宮近辺からの叡山は、歩いてすぐにいけると思えるほど、間近にせまっている。姿を変えながらも、どこからでも望むことのできる叡山の景観に触れた時、京都の人々が「山」と言えば叡山をさしているということに合点がいった。叡山の僧兵が「山法師」と呼ばれたのも、さもありなんと思う。
叡山が気になる存在になったのは、僕が仏教に関心を持つようになってからだ。19歳の時に、すべてを擲って叡山にこもった最澄。若者らしく一途に、「願文」を書き、六根清浄の境地に至るまで山を降りないと誓った最澄。そんな最澄の真摯な人柄に感じるものがあった。後に、叡山は多くの仏教者を輩出した。鎌倉仏教の開祖は一遍を除いてすべて一度は叡山で研鑽をつんでいる。しかし、僕にとって叡山が気になるのは他にも理由がある。
セイフティネットという言葉がある。サーカスの空中ブランコの下などに敷かれる「安全網」を意味する言葉だが、現在では経済用語になっている。生活保護などの社会保障をセイフティネットと呼ぶことが多い。しかし僕は、人間にとっては経済ばかりではなく、精神的なセイフティネットが必要ではないかと思う。昔は仏教がその役割を果たした。戦いに敗れた武士の子どもたち。政争に巻き込まれた貴族の子弟たち。行き場のなくなった人々。多くは仏門に入ることで難を逃れようとした。あるいは仏教に自分の生きる道をもとめようとした。さらに深い研鑽をつもうとするものは、叡山に登った。少年の時に夜襲で父を失った法然のように、多くの鎌倉仏教の始祖たちも、困難な事情を抱えて、叡山に登った。また、僧侶ではない人々も、自分はだめだが、あそこにはすべてを捨てて仏教の修行に励んでいる人々がいるとの思いをもって、世俗のなかで生活をしていた。そんなことが、社会にある種の落ち着きを与えていた。その意味で、叡山に象徴される仏教が人々の精神的支えとしてのセイフティネットの役割を果たしていたのではないだろうか。
現代社会は精神的セイフティネット喪失の時代だ。どこかで、この心のセイフティネットを再構築しなくてはと思う。大いなるものへの畏敬の念を失った現代に、どうしたらそれが可能なのか、分からない。安易な方法などないだろう。しかし、はっきりしていることある。それは、僕たちがみんな、心の安心所を喪い彷徨っているということだ。いがみ合い、批判しあうのではなく、同じ苦悩を共有する仲間として、お互いにいたわりあうこと。そんなことが大切ではないだろうか。叡山をながめながら京都の街を歩くとき、いつも僕はそんなことを考える。