ホモサピエンス 味わうということ


ホモ=サピエンス 味わうということ

僕が京都の「かつ竹」という小さな割烹料理屋を見つけたのは、全くの偶然であった。銀閣寺の拝観を終えた後、どこかで昼食をと思った時、京料理・割烹の宣伝ポスターが目にとまった。決して立派とはいえない手作りの標示にしたがって、細い道を進んでいくと、暖簾(のれん)がなければ民家と間違えそうな小さな店にたどり着いた。年季のはいった料理人のご主人と奥さんの老夫婦二人で切り盛りしているこの店は、コタツ風のカウンターが8人で一杯になるほどの小さな店だった。僕は1500円の湯豆腐セットを注文した。食材は、京豆腐、水菜、湯葉、麩などシンプルなものだったが、美味しかった。職人の技を見た気がした。

僕は食通ではない。むしろ味音痴といってよい。というよりも、高価な美食に対する嫌悪感を抱いている。昔、定収入のない学生の身で結婚をし、子どもが生まれた。そして、お金に困った。まだまだ学生の身分でいたかったが、就職をしようと思った。その頃、ある決心をした。「僕は食べるために生きることはやめよう。生きるために食べよう。」食べるために生きるなら、美味しいものが欲しくなるだろう。僕は「美味しさ」を求めまい。しかし、食事をせずに生きていくことはできない。だから、生きるために食べよう。家族にまで強要することはできない。しかし、僕自身は、そのように生きていこうと決心した。そして、その時発見した。「これを生きるために食べる」と心で思いながら食べたものは、どんなものでも、パンの切れ端でも、そのものの味があり、美味しいということを。その後、僕は就職し、生活も安定するようになった。そしてあの時の決心を忘れて、時には贅沢な食事もとるようになった。しかし、心のどこかに、あの時の決意が残っている。そんな僕にとって、あの京都の「かつ竹」の湯豆腐は衝撃だった。職人の技というか、心意気というものに触れて、考えさせられた。

人間をホモ=サピエンスという。ホモとは「人間」でサピエンスとは「知恵のある」という意味だ。しかし、サピエンスとはもともとラテン語でsapio、つまり「味わう」という意味の動詞(英語ではtast)の現在分詞だ。人間はものを味わうことのできる存在ということだ。人間にとっての「食物」とは「餌」ではない。人間にはものを味わう能力がある。「食」に限らず、さまざまのものを味わうことができるということが、人間を他の動物からわけるものなのだろう。「かつ竹」で食事をいただいた時、僕はそのように思った。

しかし、迷いながらも、僕はやはり高価な美食を追い求めることには抵抗がある。
鎌倉時代の初期に、本来の釈迦の仏教に憧れ、凛とした生涯を送った明恵上人は、ある時、知人から出された雑炊を一口食すると、あまりの美味さに、障子の桟に溜まったほこりを雑炊に混ぜて食べた。また、松茸が好きな上人のために、松茸を入手するために奔走してくれた人がいたことを知って、以後、上人は松茸を生涯口にしなかった。上人は常々美食を好まなかった。僕は、明恵上人のこのような生き方に深い共感を覚える。明恵上人は決して味を感じなかったのではないし、味わうことを知らなかったのではない。上人は言う。仏教の基本的な戒律である五戒を守り殺盗淫酒を絶つことはできる。しかし、食事を取らなければ生きていけない。だから、生きるために食事をとる。上人は、美味なるものを飽きるほど食することを罪深いことと戒めた。また、上人は強い味付けを好まなかった。それは、上人の「あるべきようわ」の精神にもとづき、「食」においても、簡素に、その食材をそのあるべき自然の姿でいただくことを好んだためであろう。一日一度、午前中にとられた上人の質素な食事は、何よりも深い味わいがあったに違いない。上人は美食家ではない。しかし、ものを味わうという点では、上人は紛れもなくホモ=サピエンスであった。

昨今のテレビでは、飢餓に苦しむ多くの人々を尻目に、食べきれないほど大量の食事をとり、つつましく生きている人々の一ヶ月分の食費を、一食で使ってしまうほどの高価な食事をする番組がある。生きるためではなく、快楽のための食事に成り下がった文明の未来は、決して明るくはない。