第三章 救いは悟りのなかに 古代インド



第24回 悠久のインド 
~古代インド思想の魅力



 今日は。前章までで古代ギリシアとキリスト教という、ヨーロッパ精神の源泉のお話しをしました。この章からは、アジアの精神に目を向けて見たいと思います。これからしばらくはインドです。特に、インドで生まれた仏教の話をしたいと思っています。古代インドと言うとき、インド一国というよりも、北はヒマラヤ山脈などの山にかこまれ、南はインド洋に臨む南アジア世界を意味しています。現在は、パキスタンやバングラディシュ、スリランカなどが分立していますが、それは近代のイギリスによるインド統治の結果といえます。この章と次章では、仏教の生まれた古代インドの歴史的・文化的背景と、インド人についてお話しします。

その前に、これから学ぶ仏教が生まれたインドに関心を持ってほしいと思います。インドには、何か素晴らしいことがあると思い、信じ、そのような眼で求めることが、文化や思想を学ぶときには大切な姿勢ではないかと思っています。

悠久のインド

これから仏教が成立するまでの、インドの歴史と文化のお話しをしたいと思うのですが、インドの歴史というのは、実は意外と学ぶことが難しいのです。それというのも、インド人は、自らの歴史を記録することに、熱心ではありませんでした。だから、インド史における絶対年代を計る基準は、インドを訪れた外国人たちの書き残したものによらなくてはなりません。中国人は仏教を学ぶために、インドを何回も訪れました。「西遊記」で有名な三蔵法師(玄奘)は有名ですね。アレキサンダーの東方遠征も、絶対年代を計る目安になります。このような機会に外国人がインドについて記述したインドが、インドの歴史を知るための資料になります。インド人が自らの国の歴史を初めて書いたのは、初代のインド首相となったネルーだったということを、何かの本で読んだことがあります。ネルーが反英運動のために牢獄にいれられていた時に、彼の娘で、後にインドの首相となったインディラ=ガンジーさんのために書いたものが初めてだと言われます。「父が子に語る歴史」として、みすず書房から出ているものです。それに対して、中国人は本当に歴史好きの民族です。司馬遷の「史記」にはじまる中国の歴史書の伝統は根強いもので、王朝が変わるたびに、歴史書が編纂されました。実際、中国人にとって、歴史をもたない民族は野蛮人でした。日本でも「日本書紀」が書かれたのも、中国に文明的な国と認めてほしかったということが大きな理由でした。そのような中国的基準でいうと、インド人は20世紀まで野蛮人だったといえます。

しかし、インド人が歴史に関心をもたなかったのは、文化的に未熟だったというわけではありません。インド人はもっと大いなるもの、永遠なるものに眼をむけていました。「悠久のインド」という言葉があります。夕陽に映えるガンガー(ガンジス川)のほとりに坐し、瞑想をしている修行者のイメージが、インドにはあります。事実、インド人は永遠を想うことにかけては、天才でした。

古代のインドでは、長い時の長さをはかる単位として、カルパ(劫)がありました。カルパとは、一辺が40里の岩を、100年に一度降りてくる天女の衣の裾が触れることを繰り返し、その摩擦で岩がすべてなくなる時の長さ(より長い)を言います。インドで昔から一つの世界が誕生して消滅するまでの長さを表すときに、カルパが使われたそうです。落語の「寿限無」前座話があります。生まれてきた男の子に、めでたい名前をつけてもらおうと、和尚さんに頼むことから始まる落語です。「寿限無」とは限りなく生きるという意味です。その中に「五劫のすりきれ」という言葉が出てきます。「すりきれ」は「岩がすりきれる」からきています。また、阿弥陀仏が、かつて法蔵菩薩として修業をしていたころの、とてつもなく長い修行を「五劫思惟」と呼びましたが、そのことから「五劫のすりきれ」はきているのでしょう。このような説明の仕方の中に、インド人のイマジネーションの豊かさを見ることができます。長い時の流れを表現するときに、どのように言ったらよいのでしょうか。表現力のない僕なら、長い長い間とか、表現できないほどの長い時の流れ、などの言葉しか思い浮かびません。でも古代のインド人は、本当に豊かな表現力がありました。

もう一つの例。大乗仏教の経典に「法華経」があります。この経典は、おそらく日本で「般若心経」の次に親しまれ、また、よく読まれてきた仏典です。法華経の教えを守り、法華経の「従地沸出品」の中に、次のような話があります。法華経を広める許可を釈迦に願い出る菩薩たちに対して、釈迦がそれを拒んだとたん、大地が割れて、無数の菩薩たちが地から湧き出してきます。その数は、ガンジス川の砂の数の六万倍。そのそれぞれには弟子たちがいて、その弟子の数がガンジス川の何万倍もいる菩薩もいます。「ガンガーの砂の数」でも途方もない数です。その何万倍という表現が強烈です。大地が割れて、その轟の中で、無数の菩薩たちが湧き出してくるという、スケールの大きさに圧倒されます。「法華経」の教えのなかには、次のようなものがあります。仏教の開祖の仏陀、ブッダガヤーで悟りを開き、それ以来45年間、人々の方を説き入滅した仏陀は、実は人々を教化するためにとった仮の姿で、本当の仏陀、は永遠に近い昔、とうに悟りを開いて、それ以来、人々に法を説いてきた。だから、仏陀の教えによって菩薩となったものが、これほどの数にのぼるのだ。このことを示すための描写です。仏教の話をする前に「法華経」の話は無理なのですが、インド人の天才的なイマジネーションを紹介したかったのです。

今紹介したことはほんの一例です。インド人が、途方もないときの流れというか、永遠というか、そのような悠久なるものを語るとき、彼らは、本当に生き生きと語ります。よく、政治的な中国と宗教的なインドという比較がなされることがあります。おそらく、古代インド人が歴史を叙述しなかったのは、文明の未熟さによるものではなく、むしろ、歴史的事実以上に大切なもの、悠久なるものに、彼らの眼がむかっていたからではないでしょうか。

インダス文明
インド最古の文明はインダス文明です。インダス川流域に、紀元前2500年ころには、すぐれた都市計画にもとづく文明が成立していました。周りを壁で囲まれた都市の内部は、上下水道がそなえられていました。インダス文字がありますが、まだ解読されていないそうです。皆さんが将来この文字を解読したら、間違いなく、有名になって、高校の教科書にも載るでしょう。代表的な遺跡は、ハラッパーやモエンジョ=ダーロです。今、皆さんが見ている写真は、モエンジョ=ダーロの遺跡の写真です。この写真からも分かるように、この遺跡には焼きレンガが大量に使用されています。この写真は大浴場と考えられているところです。どのような目的でこの建造物がつくられたものか分かりませんが、現代のインドでも、ヒンズー教徒にとって、水で身体を清める沐浴が重要視されているので、この大浴場も、そのような沐浴の場所であったのではと想像されています。文字が解読されていないので確証はできませんが、印章にみられる図柄に、牛が多くあります。現代でもインドでは牛を神聖視していますから、このインダス文明は、何らかの形で後世に影響をあたえたと考えられています。このインダス文明の遺跡からは、古代文明によくありがちな強大な王権が存在したあとは見られません。その代わり、市街地には碁盤の目のような道路がつくられ、レンガ造りの堅牢な住宅が立ち並んでいます。商工業者たちの活躍がしのばれる平和的な都市という印象です。インダス文明の担い手がどのような人々であったのかははっきりしませんが、恐らく、今も南インドにいるドラビダ系の人々であったと考えられています。

アーリア人の来住

インダス文明は紀元前1800年頃から衰退を始めます。インダス文明の衰退後、インドの歴史の主役となったのは、アーリア人でした。世界史において、インド=ヨーロッパ語族は大きな働きをしました。紀元前2000年頃から移動を始め、ヨーロッパや西アジアへの移動しました。ギリシア人もローマ人もペルシア人も、似たような言葉を話したインド=ヨーロッパ語族です。その中で、東に向かったのがアーリア人でした。アーリア人は前1500年頃にはカイバル峠をこえて、インダス川中流域のパンジャーブ地方に侵入しました。このカイバル峠は、現在の場所でいうと、パキスタン北西部のアフガニスタンとの国境付近です。インドは地理的に孤立しています。北にはヒマラヤ山脈があり、南はインド洋です。しかし、北西部にはいくつかの峠があって、カイバル峠は最も重要な峠でした。アーリア人がインドにやってきたのも、この峠からでした。アレキサンダーがやってきたのも、この峠を越えてでした。中国や日本に仏教が伝わったのも、この峠を越えて仏教が北上し、シルクロードにでてから、東方への伝播したものでした。パンジャーブ地方に入ったアーリア人は、先住民を征服して農耕生活に入ります。やがて、彼らはさらに東方へ移動して、ガンジス川流域に定住することになります。

リグ=ヴェーダ

パンジャーブ地方に来住したころのアーリア人の精神生活については、「リグ=ヴェーダ」の中に垣間見ることができます。「ヴェーダ」とは「(宗教的な)知識」という意味で、バラモン教の聖典全般を言います。「ヴェーダ」のなかで、「リグ=ヴェーダ」は最古のもので、紀元前1200年から1000年頃を中心に成立したと言われています。「リグ」とは「賛歌」という意味です。「リグ=ヴェーダ」は、ガンジス川流域に定着する以前のアーリア人について知るために重要な資料になっています。

「リグ=ヴェーダ」から垣間見られるアーリア人の精神生活についてみてみましょう。

アーリア人はインド=ヨーロッパ語族の他の民族と等しく、自然崇拝からやがて、自然の力を神格化し、さまざまの神々を信仰する多神教を奉じていました。インドラは雷の神、アグニは火神、ソーマは酒神などです。余談ですが、インドラはギリシアのゼウスにあたりますが、帝釈天として日本に伝わってきました。「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天です。アグニは火神です。ラテン語でイグニスignisは火、英語でignitionは点火。インド=ヨーロッパ語族の言葉は、それぞれ本当に親戚ともいえる言葉です。多数の神々は天界に、空界に、地界にいて、さながらパンテオン(万神殿)です。それらの神々に対して、アーリア人は祭司を中心に、繁栄や戦いの勝利を願って、供え物をしました。但し、この当時はまだ、後にみられるように祭司が特別の特権的な階級にはなっていなかったようです。

紀元前1000年頃、アーリア人がガンジス川流域に定住したころには、彼らは独自の社会を形成していました。

バラモン教

アーリア人の社会はバラモン教と呼ばれる宗教を基本としていました。宗教的知識を意味する「ヴェーダ」を聖典としたバラモン教では、バラモンと呼ばれる司祭階級が特別に支配的な地位を獲得していました。

ブラフマン(バラモン)とは、もともとは神々への賛歌や祈祷句・呪句を意味していました。そこから、ブラフマンは呪力をもつと考えられるようになります。さらにその呪力は、祭式に当たって、神々ですら恵みをあたえることを強要されるほどの力があると信じられるようになります。そのような呪力をもつバラモンは、大きな力をもつと考えられるようになります。祭祀階級であるバラモンの力が強大化したから、バラモンの操る言葉に呪力があると思われたのか、バラモンが祭式で話す言葉に呪力があると考えられたから、バラモンが強大な権力を持つようになったのかは分かりません。鶏が先か、卵が先あという関係でしょうか・・・とにかく、バラモン教では、バラモンが執り行う祭式が大きな力をもつようになります(祭式主義)。

ブラフマンについては、さらに、呪力をもつというより、呪力そのものと考えられ、さらには宇宙の最高原理、最高神とも考えられるようになります。ブラフマンは日本では梵天として伝わります。

とにかく、アーリア人の社会では、バラモン教の祭式を主催するバラモンが強大な力をもつようになり、バラモンを頂点とする身分制度が形成されていきます。俗にカースト制度と呼ばれるこの身分制度には、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラという四つの身分がありました。バラモンは祭祀階級、クシャトリアは王侯・貴族・武人階級、ヴァイシャは商工業者、シュードラは奴隷です。カーストという名称は、近世にヨーロッパからやってきたポルトガル人がつけた名前で、インド人自身はヴァルナと呼びました。ヴァルナとは「色」を意味します。恐らく、後からやってきたアーリア人は白人系で、それに対する先住民は褐色だったのでしょう。そして、白人系のアーリア人が有色人系の先住民を奴隷に落としたので、ヴァルナ(色)という身分制度が生まれたと思います。

しかし、このアーリア人の社会にみられた祭式万能主義は、社会の発展のなかで批判を受けるようになります。さまざまの思想が生まれ、バラモン教の権威から自由な思索が始まります。これからするお話しの中心となる仏教も、そのような新しい思想の一つでした。

次回はバラモン教とはどのような宗教で、そのような世界観をもっているかをお話ししたいと思っています。



第25回 東洋思想の源流
~ウパニシャッドとバラモン教の世界観~

 今日は「ウパニシャッドとバラモン教」という題のお話しをしたいと思います。ウパニシャッド思想とは、BC7世紀ころから、バラモン教内部でおこってきた刷新運動で、バラモン教の祭式万能主義を批判して、内面的思索を重視した世界最古の哲学ともいえるものです。バラモン教は、ウパニシャッド思想を経て、独特の世界観を形づくっていきました。インド人の世界観に大きな影響をあたえ、ひいては、東洋思想の源流の一つになったという点でも、ウパニシャッドは重要です。この章では、このウパニシャッドの思想とその影響につて考えてみたいと思います。

ウパニシャッドの思想

 ウパニシャッドで重要な概念は、ブラフマンとアートマンです。ウパニシャッドでは、宇宙の根源であり最高原理をブラフマン(梵)と呼びました。一方で、我々の日常的な自我の根底には、アートマン(我)と呼ばれる本来の自我があると考えます。アートマンとは、元来は「呼吸」という意味だそうです。そういえば、ドイツ語でアートメン(atmen)は文字通り呼吸するという動詞です。「呼吸」という意味から転じて、「生気」や「生命原理」という意味になります。さらに、「万物に内在する霊的な原理」、「宇宙の根本原理」という意味にまで転じることになります。とにかく、アートマンとは、本来のそのものをそのものたらしめている原理と考えられます。このアートマンは、本来は不滅です。それ故、人間は(と言わず、全ての生き物は)死んでも、アートマンとしては消滅しない、つまり、輪廻を繰り返すことになります。

 輪廻を繰り返す際、どのような生き物に次の生で生まれるかは、無法則ではありません。そのものが生前に行った行為である業(カルマ)によって、たとえば、貪欲でガツガツと食べてばかりいたらブタに生まれ変わるとか・・・・そのものが行った業により、どのようなものに生まれ変わるかが決まります。いわゆる自業自得ですね。

 この「輪廻」という考えは、その後のインド思想に大きな影響をあたえることになりますが、当時のインド人のイメージとしては、次のようになります。生き物は死ぬと煙となって天に昇ります。やがて、雨とともに地上に降りてきます。地中にしみこみ植物の根が吸収します。それを動物が食べて、男性の精子から再び女性の胎内に入って、新たな生命が誕生します。

 ギリシア神話に次のような物語があります。神から何でも一つだけ望みをかなえてやろうと言われた人間が、「死なないこと」を望みました。何百年もたった後、その人間が神に出会ったとき、「死なせて欲しい」と言ったということです。つまり、その人間は「死なないこと」を望みましたが、体が若くて健康であることを一緒に願わなかったので、身体が年老いてしまっても、生き続けなくてはならなかったのです。ところで、僕たちは普通に考えると、「死んでも命があるように!」などという言葉があるように、輪廻とは「死なない」ということで、なんとなく得をするとか、良いという感じがするかもしれません。しかし、今ふれたギリシアの神話を待つまでもなく、「死ぬことができない」ということは、そう簡単に「幸福」ということができません。少なくとも、インド人たちはむしろ、「死ぬことができないこと」を苦しみと考えました。それ故、輪廻の鎖からどのように解放されるか、つまり、「解脱」が重大な問題となります。

 ウパニシャッドでは、個人の本源であるアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマンが同一である(梵我一如)ということを悟ることによって、解脱がえられると考えました。

円覚寺・居士林の思い出

 ちょっとした雑談を一つ。僕は大学生の頃に、よく鎌倉の円覚寺の座禅会に参加しました。円覚寺の居士林というところで(夏目漱石も参禅したことのある禅堂です)、よく学生の座禅会が開かれていて、それに参加したのです。JRの北鎌倉駅を降りて、すぐそばの円覚寺の山門を入って、奥へ進むと左手に居士林があります。ここでは、参禅者はたたみ一畳で生活をすることになっています。たたみ一畳に寝て、たたみ一畳で坐ります。朝は起床の木鐸が鳴ると、30秒くらいで座禅を組まなくてはなりません。布団は正方形のせんべい布団で、真ん中に紐がついています。その布団を半分に折ってその布団に包まれるように寝ることになっています。初めの頃は、木鐸が鳴ってから、どうしても所定の時間内に、坐ることができませんでしたが、そのうちにコツを会得しました。木鐸が鳴る前に起床の準備をしていなくてはなりません。横になった状態で右手は紐を握っています。木鐸の合図と同時に、右手を紐から離さずに、布団から抜け出して、布団を丸めると紐を結んで上の棚に投げ込みます。コツがわかると意外と早く、数秒で布団を片付けて座禅の体勢になれるものです。食事は二回。朝と昼のみ。夜は薬石といって、食事というより体のための薬としての食事で、朝昼の食事の残りを「おじや」にしたものをいただきます。食器は洗いません(今は知りませんが、当時はそうでした)。最後にお茶を飲むときに、お箸で洗ってそれを飲み干します。

 この座禅会は色々と考えさせられるものでした。

 長い間座っていると、気持ちが落ち着いてきます。「無我の境地」なんていうのは程遠いのですが、座りながら、いろいろなことを考えます。そして、自分と同じように座っている仲間(臨済禅は壁を背にして座るので、薄目をあけると周りの人々の様子がわかります)が何人もいます。そして自分。このように座っていても、特に何の得にもなりません。それなのに、人間は損得を度外視して、何故、このようにひたすら座ろうとするのだろう、ということを不思議に思いました。

 また、こんなことを考えました。実は、僕はこの座禅会に最後までいたことがあまりありません。というのも、座禅の合間に「三拝」というのがあって、それがなんとなく自分にしっくりいかずに、途中で逃げ出したい気持ちになるからです。三拝というのは、三度礼拝することで、五体投地のようなものです。かがみこんで、膝と肘と手と額を床につけて礼拝し、立ち上がって合掌をする、というのを三回繰り返すことです。当時の僕は、何故か、この三拝が嫌いした。何か屈辱的な感じがしたからです。でも隣の人は、何のためらいもなく三拝を行っています。(少なくとも、僕にはそのように見えました)その時思ったことは、「宗教的である」ということと「宗教を生きる」ということは違うのだということです。正直に言えば、僕は仏教を信じていませんでした。ただ何か、精神の支えのようなものが欲しくて、参禅していたのです。そして、「座禅を組む」ということには、決して抵抗はありませんでした。でも、自分の体を曲げて五体投地をすることは別でした。仏教を信じていなくては、五体投地は心からできません。その時思ったことは、ただ心の中だけで思うのではなく、どこかで体も動かして生きることと結びつかなくては、本当に宗教を生きることにはならないだろうという予感でした。でもなんとなくこの「三拝」についてのモヤモヤのため、途中で座禅会を投げ出すことになってしまったのです。

 座禅の思い出、その三。夜の参禅は「夜座」といって自由でした。何時間でも自由に座れました。僕もよく夜を徹して坐りました。当時、居士林の夜は真っ暗でした。座っていて何一つ見えません。これだけ長く座っているのは僕一人だろうなんて思っていました。夜を徹して座わりました。でも、何時ころでしょうか。外がかすかにしらみだした頃、座禅堂のあちこちに、ぽつんと座っている仲間の影が、うっすらと浮かび上がるように見えてきます。「あぁ、一人ではなかった」と不思議な感動を覚えたものです。

 そんな僕ですから、悟りなどはほど遠い状態です。老師は、何も考えるな、無我になれ、と言いますが、無理です。ただ静かに座るだけでした。ゆっくりと鼻から息を吸い込み、静かに口から吹き出します。静かな深呼吸です。息が、大自然の風のように、僕の体を通っていきます。そんな時、心が落ち着いて、とても穏やかな心で、まるで深い海の底をゆっくりと歩いているような感じがしました。ふと、そのとき、我にかえって思いました。いったい、自分は今、何をしていたのだろうか。確かに、意識はあった。でも、「何も考えるな」とか「無我になれ」などとは何も考えていませんでした。心は本当に静かです。もしかしたら、禅の悟りの境地とは、そのような状態がさらに深まっていったものかも知れないと、感じました。

 さて、梵我一如とはどのようなものでしょうか。恐らく、現実に生きてせわしなくものを考えている自分を放ち捨てて、いわば、天地大自然というか、宇宙に自我を解き放ったときの自由。そのような境地ではないでしょうか。そこでは、本来の私(アートマン)が宇宙の根本原理(ブラフマン)と唯一不二ですから、私が何かをしているとか、私がブラフマンである、などという意識などないはずです。ただあるのは解放されたとらわれのない自由のみです。

 ウパニシャッドを経て、バラモン教の中に、輪廻・業・解脱という考えが定着していきます。バラモン教はやがて民間の信仰を吸収して、ヒンズー教に発展していき、インド人の世界観に大きな影響をあたえます。

パンテオンと絶対者

 ヒンズー教には二つの面があるように思います。ヒンズー教は民間の信仰も取り入れてさまざまの神々をみとめます。それは、僕たちにとっては迷信に満ちた感じがする、神々の行列のようです。ヒンズー教はまるでパンテオン(万神殿)のようです。しかし、一方で、ヒンズー教には、梵我一如の哲学に見られるような、絶対者への帰一という、高度な知的精神も確かに存在しています。インドの旅行者がヒンズー教の寺院を訪れたりして、珍しいものを見るようにして、インドの民衆の迷信的宗教というふうに感じ、また、通り過ぎていくと、それは、恐らくヒンズー教の真髄の誤解した「旅行者の理解」に終わってしまうでしょう。

東洋思想と西洋思想

 ウパニシャッド思想はインドの精神風土に深い影響をあたえたばかりではなく、欧米の思想とは異なる東洋思想にも深い影響を残すことになります。最後にその点を考えながらお話しをしたいと思います。

自然と人間

東洋思想と西洋思想は色々な点で異なった傾向を持っています。特に、自然と人間の関係は、ある意味ではアジアとヨーロッパは正反対の関係にあるといえるでしょう。

西洋思想における人間と自然の関係は対立的といえます。F=ベーコンの「人間による自然の支配」という考えをまつまでもなく、ヨーロッパでは、自然と人間は異なるものと考えられてきました。僕はどちらかというとヨーロッパの思想を専門にしてきましたが、ヨーロッパで書かれた書物のなかで、たとえば、「宇宙(自然)における人間の位置」といったタイトル、または内容のものがたくさんあるように思えます。そして、その内容はたいてい似たようなものです。自然(宇宙)は広大で偉大である。それに比べて、人間はとるにならない小さな存在である。しかし、それにもかかわらず、人間は自然には還元できない尊い存在である、といった類のものです。

それに対して、東洋思想では人間は自然の一部であり、自然と一体化した生き方こそ理想と考える傾向が強くあります。その原点は、ウパニシャッドの梵我一如の思想にあると思います。梵我一如とは、感覚的に表現すれば、この日常的な自我のとらわれを捨てて、宇宙というか、大自然というか、そのような大いなるものに自己を解き放つことによって得られる、捉われのない自由な境地を意味していると思います。とにかく、自然と人間の一体化はウパニシャッド以来、東洋思想の伝統になりました。日本人も、多少感覚的な表現ですが、自然の懐に抱かれてほっとするというようなところがありますね。そして、現代の世界は、自然科学が世界を席巻したような時代です。自然を人間に奉仕させるために、人間は自然に働きかけ、自然改造をしてきました。その手厳しいツケが回ってきている現状を思うと、つまり地球的規模の環境破壊が、人間のあり方そのものを脅かしている現状を思うと、東洋思想の英知にも耳を傾けることが必要になっているのだと思います。

アヒンサー

インドの思想における輪廻の考えと深く結びついているものが、アヒンサー(不殺生)の思想です。輪廻を繰り返すのは、人間だけではありません。あらゆる生き物は、人間も含めて、同じ立場に立っています。そこから、「生き物を殺さない」ということ、アヒンサーが、インド人にとっては重要な戒律になります。仏教も、(僕は、仏陀は輪廻という考えは持たなかったと考えているのですが)早い時期に輪廻という考えを取り入れました。そして、仏教徒にとっても、アヒンサーは重要な戒律でした。後に在家の仏教徒が増えて出家者とは異なったごく簡単な戒律である「五戒」が定められたときにも、五つの戒律の一つにアヒンサーも数えられました。この不殺生の考えは、インドのみならず、仏教の伝播にともなって東アジアにも伝わります。

余談かもしれませんが、近年になって、欧米の動物愛護団体が、日本の捕鯨に対して抗議をしているようです。確かに、その抗議は無意味とは言えません。でも、元来、日本を始めアジアには、アヒンサーの思想が深く根付いています。インドなどで、微細な生き物をさえ殺さないために、本当に細心の注意が払われています。それに対して、ヨーロッパは、元来食肉文化です。「ナイフとフォーク」による食事と、「箸」による食事、どちらが生き物に対する配慮がなされているかは明瞭です。少なくとも、欧米の人たちから動物愛護を言われたくない、と思うのは僕だけでしょうか。

アヒンサーに関して思い出されるのは、インドの独立の父と敬愛されている、マハトマ=ガンディーです。マハトマとは「偉大な魂」(偉大マハー、魂アートマンから来ている)という意味です。イギリスの支配下にあったインドの独立を目指したガンディーは、無抵抗主義を基本にすえて、すべての生物を同胞とみなし、肉食を禁止し、戦争を放棄し、殺生を肯定するすべての思想に反対をしました。そのガンディーの非暴力はアヒンサーという言葉です。

生類の発見

輪廻と関係して重要なのは、全ての生物が同類という考えです。確かに、ヨーロッパ思想には、素晴らしいものがたくさんあります。特に人間についての深い理解です。ヨーロッパ思想は「人類」という概念をつくりだしました。キリスト教のアガペー(愛)は、神と人間にむけられています。人間はどんなに小さなものでも、いや、小さなものにこそ、神の愛が注がれると教えます。しかし、ヨーロッパの愛は、人間以外の他の生物に同じように向けられたものではありませんでした。アッシジの聖フランシスは自然を愛し、動物を愛しました。しかし、それは特別な例外だと思います。一般には、人間は神から造られた他の被造物の上に立ち、自然を支配するように、他の動物をも支配する位置を与えられました。

それに対して東洋思想は、「人類」というより「生類」という観念を生み出しました、human beingに対してanimate beingというべきでしょうか。仏教の慈悲は、人間をのみ対象とするのではなく、「生きとし生けるもの」への慈しみをあらわします。

自然ばかりではなく、他の動物との共生が課題となっている現代において、東洋思想の叡智が必要とされていると思います。

アーシュラマ

 最後に、バラモン教の社会のなかで、以後のインド人の精神面に大きな影響をあたえたと思える制度、というか、「しきたり」について一言触れたいと思います。

 アーシュラマとは、バラモン教徒が生涯においてたどるべき人生の四つの段階を意味します。第一は、師のもとでヴェーダを学習する学生期。第二は、家にあって子どもをもうけ、一家の主人として家庭内の祭式をとりおこなう家住期。第三には、森に住み修行をする林棲期。人生の最後は、一定の住所をもたず乞食をして、遊行する遊行期でおわります。このアーシュラマは、シュードラを除くヴァイシャ以上の上位三つのヴァルナに定められたものです。このようなアーシュラマが、どの程度バラモン教徒たちを拘束して実践させることができたのかは、わかりません。現在では、ごく限られたバラモン以外は、家住期のみが実践されているといわれます。しかし、人生の最後は家を捨てて、森に住み修業をし、最後は自由な遊行生活で人生を終えるというアーシュラマの考えは、人生の意味、目的を考える際のインド人たちのメンタリティーに大きな影響をあたえたことは疑い得ないと思います。現在のインドでも、ヒンズー教の聖地でひたすら瞑想をして修業に励む行者の中には、かつては高級官僚であった者や、会社の重役であったものも少なくないそうです。(注) 前章でお話をした「悠久のインド」のことが思い浮かびます。

注1:山崎元一「古代インドの文明と社会」中央公論社 世界の歴史3 P138-145



第26回 仏教の魅力と仏陀の時代
        ~仏教の精神への導入に代えて~

霊山寺

 もう10年ほどになるでしょうか。京都旅行に出かけたときに、奈良まで足を延ばして、霊山寺というお寺に行ってきました。霊山寺へは、近鉄奈良線の富雄で下車、一時間に数本しかないバスで霊山寺前まで10分ほどかかります。バスを待っている間、眩暈をおこしそうな暑い夏でした。それでも、どうしても霊山寺を一度は訪れてみたいと思ったのには理由がありました。霊山寺は、聖武天皇の勅命により行基が建てたと伝えられる寺です。寺の建立にあたっては、菩提僊那(ボーディセンナ)というインド人の僧侶が協力をしました。彼はインドの霊鷲山から来たと言っていたそうで、霊山寺という名前も、霊鷲山にその地相が似ていることから命名されたとのことです。霊鷲山は、ブッダがよく法を説いた場所としても有名です。「法華経」や「無量寿経」などの日本人にもなじみの深い経典は、この霊鷲山で仏陀が法を説くという設定になっています。その菩提僊那の墓が、霊山寺にあると聞いたので、是非一度訪れてみたいと思ったのです。

日本の朝廷が危険な航海を恐れず、遣唐使を何回も派遣していたころ、菩提僊那は、五台山に住むと信じられている、文殊菩薩を拝するために、入唐していました。当時の日本は、律令体制こそ整えましたが、貴族の争いや疫病の流行など、社会不安に満ちた時代でした。不安にかられた聖武天皇は、都を転々と移しながら、全国に国分寺・国分尼寺を、さらに東大寺に大仏を建立する詔を出します。仏教の力で国の安泰を目指す鎮護国家の完成のためには、多くの人材が必要でした。そのため、中国からも多くの僧侶が招かれました。菩提僊那も、遣唐使船で入唐していた日本の僧侶から要請されて、天平8年(736)年に来日しました。インドのバラモン出身だということから、バラモン僧正と呼ばれた彼は、東大寺の大仏の開眼式にあたって、導師を務めることになります。大仏の開眼式は、天平勝宝4年(752)4月9日に、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、貴族など1万人が列席するなかで厳かに行われました。大仏建立の詔が出されてから9年目。大仏の鍍金もまだ出来上がっていませんでしたが、聖武太政天皇の健康を気遣ってのものでした。開眼式には、行基はすでに亡くなっていて立ち会うことができず、鑑真は間に合いませんでしたが、外国人も含めて、多くの僧侶が参列しました。大仏に眼を入れるために菩提僊那が手に持つ筆には紐が繋がれていて、その紐の端は聖武太政天皇以下の参列者が持ちました。現在も正倉院には、そのときの筆と紐が保存されています。このことから考えると、菩提僊那は華やかな式典で中心的役割を果たしたといえます。しかし、僕が調べようとした限りでは、彼の人となりや、彼の喜怒哀楽を推し測ることができるものは見つけられませんでした。一体、このインド人僧侶は、どのような気持ちで日本にやってくることを決意し、その後、どのような気持ちで、日本で生涯を終えたのでしょうか。同時代の鑑真は、井上靖の名作「天平の甍」で特に有名です。(「天平の甍」では、奈良の都に到着した鑑真に、菩提僊那は唐僧の道璿とともに面会にくるという設定になっています) 現在でも、鑑真は日中友好の基として尊敬されています。江戸時代に芭蕉が唐招提寺を訪れたとき、鑑真和上坐像を拝して「若葉して、おん目の雫、拭はばや」との句を残したことも有名ですね。確かに、晩年の鑑真に対する日本の政府の対応はひどいものでした。それは菩提僊那の場合も同じでしょう。仏教の精神を伝えたいとの熱意をもって来朝した彼らと、国家体制の補強のために彼らを招いた当時の日本政府の間のすれ違い、思想・宗教と現実の政治の齟齬があったのは明瞭です。しかし、鑑真には彼を慕い、中国から従ってきた弟子たちがいました。しかし、菩提僊那は、少なくとも一般の人々からはあまり知られずに、異郷の地で死んでいきました。言葉も習慣も異なった異郷の地です。食べ物だってカレーライスがあったとは思えません。どのような思いで彼はその生涯を終えたのだろうか。そんなことを考えながら、霊山寺へ出かけてみました。 

霊山寺は、入り口に巨大な鳥居があります。その鳥居をくぐって境内を歩いても、神仏習合が自然になされているようで、不思議な感じがしました。一見したところ、俗化されている(?)、というよりは現代の社会になじんでいる(?)ようで、ゴルフ練習場と、その帰りに汗をながすことができる入浴施設も併設されていました。後日インターネットで調べたところ、この湯は薬師の湯として由緒正しいものと分かったのですが、少なくとも、僕が訪れたときの印象はそんな感じでした。バラモン僧正と呼ばれた彼のお墓はわかりませんでした。ただ、彼の供養塔があるだけでした。

仏教では「四方の人」(四方僧)という理想があります。仏法のためには、身を惜しまず、東西南北どちらへも赴くことのできる人のことです。チャルトゥーディサとサンスクリットで言うようです。恐らく、チャルトゥーとはフランス語のquatreと同じ、ディサはdirection(方向)という意味ではないかと想像しています。このチャルトゥーディサを、中国人は、招提と音訳しました。そこから、招提寺とは、どこかのお寺の属するのではなく、遊行してどちらへも赴いていく僧侶の誰もが逗留できる寺を意味するようになります。僕がまだ仏教のことをあまり知らなかったころ、鑑真の唐招提寺を、唐から招待された僧侶だから、唐招提寺という名がつけられたと言ってしまったことがあります。唐招提寺は、とうからやってきた理想の人(鑑真)がたてた、唐からの僧侶のための寺という意味でしょう。

菩提僊那は、文字通りインドからやってきた招提でした。自分が二度と故郷に帰ることができないことを覚悟で、仏教を広めるために、当時はおよそ文明的でないと思えたであろう日本にやってきました。鑑真は、当時の航海技術から考えると二度と中国に戻ることはできないとわかっていながら、決死の覚悟で、東シナ海を渡りました。日本からの留学僧の栄叡と普照という留学生からの要請を受けたときには、すでに55歳という年齢であったにもかかわらず、また、すでに一家を成しており、中国にとどまれば弟子に囲まれて安逸な生活がおくれたであろうにもかかわらず、仏教の戒律を伝えるために、5度の失敗による失明にもめげずに、来朝しました。仏教を伝えるためにばかりではありません。玄奘三蔵は、仏法をおさめるために、大変な危険をおかしてインドへ赴きました。薬師寺の「大唐西域壁画殿」に、平山郁夫さんが奉納した三蔵法師の旅程の壁画が公開されているので、ご覧になった方もいるでしょう。日本でも、鎌倉時代の初期に明恵上人が、仏法を学ぶために、インドへ出かけようとしましたが、果たせませんでした。日本で天竺といわれたインドは、仏教発祥の地として、真剣に仏法を問いかけ、仏陀を慕う僧侶の憧れの地でした。それにしても、仏教には自らの命を顧みずに人間を動かす魅力があります。そのような仏教の魅力を少しでも紹介することができたらと思いながら、仏教のお話しをしたいと思っています。

前置きがながくなりました。この章からは仏教の話をします。はじめに仏陀の生きた時代の社会についてお話します。

ゴータマ=シッタルダ

仏教の開祖のゴータマ=シッタルダは、さまざまの名前で呼ばれます。悟りを開いてからは、仏陀とよばれました。仏陀とは目覚めた人、覚者、悟った人という意味です。英語ではawakenedという言葉が使われることが多そうです。また、釈迦族の王子だったためにお釈迦様とか、釈迦牟尼、釈尊、等々と呼ばれます。後の大乗仏教では、仏陀以外にも多くの菩薩や仏が登場します。そのように、仏教の真理(法)を悟った人は、ゴータマ=シッタルダのみではないはずだから、仏陀のことを、他ならない仏教の開祖となった悟りを開いた人として、ゴータマ=ブッダと呼ぶこともあります。

仏陀の生きた時代、活躍した時代は、前6世紀から4世紀の間と考えられています。生涯は、BC463~BC383とか、BC566~BC486などといわれ、100年ほど説に隔たりがありますが、インド人にとっては100年の違いは、それほど問題にならないのかもしれません。しかしとにかく、仏陀の生きた時代は、インドの歴史にとってはおきな変動の時代でした。

新しい社会の動き

ガンジス川流域に定住したアーリア人の社会に、新しい動きがおこります。農業の発達、さらに商工業の発達といった産業の発達は、やがてガンジス川流域に、多くの都市国家を出現させることになりました。さらに都市国家は小国家へと発展し、仏教の開祖である仏陀の時代には、ガンジス川流域には、16の国家が存在したと伝えられています。小国家はやがて争いを繰り返しながら、より大きな国家へと統合していきました。やがて、マガダ国とコーサラ国の二大国家が出現しました。仏陀の祖国である釈迦族の国も、コーサラ国によって、仏陀の存命中に滅ぼされました。やがてガンジス川流域を統合し覇権を握ったのは、マガダ国でした。その後、一時、アレキサンダーの北西インド侵入を受けて、インドは混乱しますが、ギリシア軍が撤退後、混乱に乗じて建国をしたのがマウリア朝で、マウリア朝の第三代目の王が、インドを始めて大統一したアショカ王でした。アショカ王が仏教を厚く保護したことは有名ですね。

 アショカ王の事績は、また仏教のお話しをした後で触れたいと思います。ここで確認したいことは、仏陀の生きた時代に、ガンジス川流域には大きな社会変化が起こっていたということです。政治的には、都市国家から小国家群の成立、さらには小国家がより強大な権力のもとに統合へと向かう時代でした。そして、そのような時代の動きを担ったのは、バラモン階級ではなく、クシャトリアやヴァイシャでした。

祇園精舎

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」と平家物語に詠われた、祇園精舎について。精舎とは、初期のサンガ(仏教教団)に寄贈された修業の場所とでもいったらいいでしょうか。基本的には、仏教徒は出家者で、乾季には遊行したり、乞食(こつじき)をしたりして過ごしました。雨季のときには、この精舎にとどまって修業をしました。雨季のときに定住することを、安居(あんご)と言いました。安居は、そこから「修業」という意味にもなります。止利仏師の作といわれる、飛鳥大仏で有名な飛鳥寺は、大仏が安置されている現存する堂を安居院と言いますね。さて、祇園精舎の由来には、次のような物語があります。在家の仏教徒で長者であるスダッタは、仏陀を崇拝していて、仏陀のためによい精舎を寄進したいと思っていました。たまたま、コーサラ国の王子ギータ(祇陀)の園林を見て、是非ここを仏陀のための精舎として寄進したいと考えたスダッタは、ギータに、園林を譲って欲しいと申し出ました。それに対して、自分の園林を売る気がなかったギータは、スダッタに、この園林一面に金貨を敷きつめたら譲ろうと答えます。即座に、スダッタは金貨を一枚ずつ敷きつめていきました。その様子を見たギータは最後には心を変えて、スダッタに自らの園林を譲るという話です。ギータ(祇陀)の園林(おんりん)を精舎にしたことから、祇園精舎と呼ばれるようになりました。もっとも、祇園精舎には鐘はなかったということを何かの本で読んだことがあります。

自由思想家の登場

 祇園精舎の物語は、色々なことを伝えてくれます。登場人物はクシャトリア(コーサラ国の王子のギータ)とヴァイシャ(豊かな商工業者のスダッタ)です。スダッタは園林全体に金貨を敷きつめたという言い伝えは、真実かどうか分かりません。しかし、仏陀の時代に、すでに貨幣経済がかなり発達をとげていたことは分かります。

 古代の世界に於いて、思想や哲学が生まれた背景には、共通したものがあるようです。古代ギリシアにおいて哲学が生まれたのは、ポリスの成立という背景がありました。また中国で諸子百家とよばれる思想家達が登場するのは、春秋戦国時代という、大きな社会の変動の中からでした。いずれにしても、商工業の発達とそれに伴う都市国家の成立を背景として、従来の血縁で結ばれた氏族的社会が揺らいでいった時期でした。古代インドにおいては、このような変化は、従来のバラモン中心の社会秩序に、大きな楔を打ち込むことになりました。バラモンの権威の絶対性や、祭式主義に対する批判も芽生えてきます。そのような状況の中から、従来のバラモンの権威から自由にモノを考えようとする、自由思想家が多く登場しました。彼らの多くは、自らの全てを捨てて出家をして、修行者となりました。この修行者を、シュラマナ(沙門)と呼びます。すべては自然の定めであるとの宿命論を説いたマッカリ=ゴーサラ。不可知論の立場から、形而上学の問に判断中止をもってのぞむべきと説いたサンジャヤ。万物の構成要素を地・水・火・風・苦・楽・生命という不変の7要素として、剣によって頭を切断しても、ただ7要素の間を剣が通り抜けるだけとして、唯物論をもとに、道徳を否定したパクダ=カッチャーヤナ。そのような中で、仏陀と同時代のヴァルダマーナについて少しだけ触れます。ヴァルダマーナは、現代でもインドに信者をもつジャイナ教の開祖です。

 ヴァルダマーナ(偉大な人という意味でマハーヴィーラ、勝者という意味でジナとも呼ばれます)は、仏陀と同時代の思想家で、修行の末、完全な知恵を獲得してジナ(勝者)となり、ジャイナ教の開祖となりました。ジャイナ教によると、魂は醜い行為を行うことによって、汚れが付着します。その結果、魂は重くなって、地上での輪廻を繰り返すことになる。輪廻の鎖から脱出するためには、厳しい苦行を行う必要がある。とりわけ、そのためには、不殺生(アヒンサー)が重要とされました。ジャイナ教徒のアヒンサーへの徹底振りは、空気中の微生物を殺さぬように、白い布で口を覆い、路上の小動物を踏み潰さないために、箒を手にして歩くこともあるそうです。アヒンサーを徹底するための最良の途は断食で、ジナ自身も断食の末に死んだと伝えられています。

仏教では、これらの自由思想家の中の有力な6人の思想家とその見解を、六師外道と呼びました。外道とは仏教の教説以外の考えを言いますが、客観的に見ると、仏教の開祖ゴータマ=シッタルダもそのような自由思想家の一人でした。次章からは仏陀のお話です。



第27回 偉大なるあゆみ 
~仏陀の生涯~

 この章では、仏教の開祖である仏陀の生涯のお話をしたいと思います。ゴータマ=シッタルダは、釈迦族の王子として生まれました。釈迦族の国があったのはカピラバストゥで、ヒマラヤ山麓の現在のネパールにあったと考えられています。生まれた場所はルンビーニ。初期仏教の様子をつたえていて貴重な資料とされるスッタニパータは、仏陀の誕生を次のように伝えています。

 無比の妙宝であるかのボーディダッタ(菩薩、未来の仏)は、もろひとの利益安楽のために人間世界に生れたもうたのです。・・シャカ族の村に、ルンビーニの聚落に。(スッタニパータ683)

 ボーディサッタ(菩薩)とは元来は悟りを開く前の仏陀のことを言いました。しかし、大乗仏教になると、菩薩は特別の意味をもつようになります。それについてはまた大乗仏教のお話のときに触れたいと思います。

 以前に柴又の帝釈天に行ったときに、その近くにルンビーニ幼稚園というのがありました。確か、渥美清さん主演の「男はつらいよ」では帝釈天の御前様が園長(?)をしていたのがルンビーニ幼稚園ではなかったかと思います。仏陀の生まれた地の名前にちなんだルンビーニ幼稚園というのは、全国あちこちにあるということです。

仏陀の誕生にまつわる伝説はいろいろとあります。母親のマーヤーの右脇から生まれたとか。生まれるとすぐに七歩あるいて、「天上天下唯我独尊」と話したとか。アシタ仙人から「大きくなって偉大な王となるか、偉大な宗教家になるか」との予言を受けた等々。誕生日は4月8日。花祭りとして仏教徒の間では祝われています。

 仏陀の生まれたルンビーニ、悟りを開いたブッダガヤー、初めての説法(初転法輪)の地であるサールナート、入滅の地クシナガラは仏教の四大聖地ですから、常識として知っておいたらよいと思います。

王子の生活

 母親のマーヤーは、シッタルダの誕生後ほどなく亡くなりました。そんなためでしょうか。小さい頃からシッタルダは、物思いに沈みがちな少年でした。木の下に坐り、鳥が虫を捕まえるのを、さらにその鳥を鷹が捕らえるのを目撃して、無常を感じるなど、感受性の強い少年でした。そんなことを心配してか、父親のスッドーダナは、シッタルダに人生の色々な楽しみを教えようとつとめました。

 比丘たちよ、いまだ出家せぬころのわたしは、苦というものを知らぬ、きわめて幸福な生活をしていた。比丘たちよ、私の父の邸には池があって、青蓮や、紅蓮や、白蓮がうつくしい花をさかせていた。わたしの部屋ではカーシ産の栴檀香が、いつも、こころよい香をただよわせていた。わたしの衣服は、上から下まで、これもまた、カーシ産の布でつくられていた。比丘たちよ、わたしには三つの別邸があり、一つは冬によく、一つは夏に適し、一つは春のためであった。夏の四月の雨の間は、夏の別邸にいて、歌舞をもてかしづかれ、一歩も外に出ることがなかった。外に出る時には、塵や、日ざしをさけるために、いつも白い傘蓋がかざされていた。増谷文雄「阿含経による仏教の根本聖典」P10.
 
 父のスッドーナの努力にもかかわらず、宮殿での生活はシッタルダにとってはどこか満足のいくものではありませんでした。阿含経は次のように続きます。

 「比丘たちよ、わたしは、そのように富裕な家に生まれ、そのように幸福であったのに、わたしは思った。愚かなる者は、自ら老いる身でありながら、かつ未だ老いを免れることを知らないのに、他人の老いたるを見ては、おのれのことをうち忘れて、厭い嫌う。考えてみると、わたしもまた老いる身である。老いることを免れることはできない。それなのに、他の人の老い衰えたるを見て厭い嫌うというのは、わたしにとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしはそのように考えたとき、あらゆる青春の誇りはことごとく断たれてしまった。

 比丘たちよ、わたしはまた思った。愚かなる者は、自ら病む身であり、病いを免れることはできないのに、他人の病めるをみては、おのれを忘れて厭い嫌う。考えてみると、わたしもまた病まねばならぬ。病いを免れることはできない。それなのに、他の人の病めるをみて厭い嫌うというのは、わたしにとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしは、そのように考えたとき、わたしの健康の誇りは、ことごとく断たれてしまった。

 また比丘たちよ、わたしは思ったことである。愚かな人々は、自ら死する身であり、死を免れないのに、他の死せる者をみると、おのれを忘れて厭い嫌う。考えてみると、私もまた、死ぬる身である。死ぬることを免れることはできぬ。それなのに、他の人を死せるをみて忌み嫌うということは、これはわたしにとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしは、そのように思ったとき、わたしの生存のおごりはことごとく断たれてしまったのである。」同上書P11

 四門出遊

 釈迦族の王であったスッドーナは、内向的なシッタルダのことを心配し、この世の楽しみを色々と教えようと努力をしました。しかし、仏陀の心のなかには、いつしかすべてを捨てて、自己の問題と取り組むために、出家をしたいという思いが強くなっていきました。

 そのような出家への思いを忍ばせるエピソードが四門出遊の話です。

 ある日シッタルダが宮殿の東門からでて、散歩にでかけると、醜く老いた老人に出会いました。父の配慮から、そのような老人を眼にしたことのなかったシッタルダは、どんなに若い者も、いつかはあのように年をとってしまうのだと、すっかり気持ちを暗くして、城へもどりました。ある時、南門から散歩にでかけたシッタルダは、今にも死にそうな病人と出会います。どんなに健康な人間も、年とともに病にかかることは免れないと、気落ちして城にもどりました。ある日、西門から城を出たシッタルダは、葬列に遭遇します。限りある生をもつものは、いずれ死ぬことを思い知らされたシッタルダは、蒼くなって城へもどりました。しかし、ある時、北門から城を出ると、晴れやかな顔をしたシュラマナ(沙門)と出会います。そして出家への思いを募らせたという話です。四苦八苦というように、仏教では「生まれること」「老いること」「病にかかること」「死ぬこと」を生老病死として、人生の根本的な苦しみととらえます。そのような苦しみをどのように受けとめるか思い悩み、ついには出家をした仏陀の様子がこのエピソードからかいま見られます。

出家 29歳

 シッタルダはヤショーダラという娘と結婚をし、ラーフラという一人息子をもうけましたが、出家への思いが断ちがたく、ついに、夜中に城を捨てて出家を敢行します。シッタルダ29歳の時でした。

 僕は「人間」を考えるとき、不思議に思うことがあります。人間という存在は、どんなに恵まれた環境にあろうとも、どこかで、現状に満足できないで、「そうではない。そうではない。」と心に叫ぶものをもっているような気がします。そして、本当のもの、または本当の生き方を求めて、自分の現状を根本から否定しようとさえすることがあります。哲学者ならば、このような問いを「存在からの問いかけ」というのでしょう。「お前は何者だ」「お前の生きかたは、本当にそれでよいのか」との問いかけです。そして、その問いかけに応じて、すべてを捨てることさえあえてするのが、「人間」というもののようです。シッタルダがすべてを捨てて出家をしたのも、そのような問いかけからではないでしょうか。そして、そのような無意識のうちに感じられる問いかけは、時には悲劇的な逸脱を招くこともあるのだと思います。でも、少なくとも、「そのような問いかけ」があるということを理解しない人は、「人間を知っている人」とは言えないと思います。

 さて、出家をしたシッタルダの話にもどります。その後六年間、彼は厳しい苦行を行いました。言い伝えによると、一日にゴマ一粒の生活を続けました。
右の写真(省略)を見てください。ガンダーラででたシッタルダの修業時代の彫像です。以前、日本にもこの像はやってきました。骨と皮と血管が浮き彫りにされるように見えますが、有名な像です。しかし、厳しい修業にもかかわらず、シッタルダは生老病死という苦しみをどう受けとめたらよいかという問題の解決ができませんでした。シッタルダという人はとても合理的にものを考える人でした。厳しい苦行を行いながらも、それが無駄であると判断したときには、すぐに苦行をやめる勇気もありました。

 仏陀には、一緒に修業をしていた五人の修行者たちがいました。五人の修行者たちは、シッタルダが苦行をすてたことを見て、彼を軽蔑して去っていきました。

 そのときわたしはこう考えた・・・・『このように極度に痩せた身体では、かの安楽は得難い。さあ、わたしは実質的食物である乳糜を摂ろう』と。そこでわれわれは実質的な食物である乳粥をとった。そのときわたくしには五人の修行者が近づいて、『修行者ゴータマがもしも法を得るならば、それをわれらに語るであろう』と言っていた。ところでわたしは実質的な食物である乳糜をとったから、その五人の修行者はわたしを嫌って、『修行者ゴータマは貪るたちで、つとめはげむのを捨てて、贅沢になった』と言って、去っていった。」
筑摩書房 世界古典文学全集6 仏典Ⅰ P.20

悟りを開く 35歳

 里へ下りたシッタルダは、村娘のスジャータが差し出す乳粥で体力を回復し、ガンジス川支流のネーランジャラー川で沐浴をした後、ブッダガヤーで、一本の大きな木の下に坐り瞑想に入り、悟りを開いて仏陀となりました。ブッダがその傍らに坐ったピッパラの樹は、仏陀の悟りにちなんで、その時以来、菩提樹と呼ばれるようになりました。

 努力して思念しているバラモンに、
 もろもろの理法が現れるならば、
 かれの疑念はすべて消滅する
 原因(との関係をはっきりさせた縁起)の理法を
 はっきりと知っているのであるから。筑摩書房 原始仏典 20頁

 「仏陀の悟り」は「縁起の法」が仏陀に現れたため、縁起の理法をはっきりと知ったためと言われます。縁起の法を悟ったとはどういう意味でしょうか。次章で考えてみたいと思います。

 ここで注目すべきことは、仏陀は、自身が悟った法を人々に語ることを躊躇しているということです。

 苦労してわたしがさとりを得たことを、
 今またどうして説くことができようか。
 貪りと怒りに悩まされた人々が、
 この真理をさとることは容易ではない。
 これは世の流れに逆らい、微妙であり、
 深遠で見がたく、微細であるから、
 欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ、と。
   同書 P24

 仏教の宗派では、お釈迦さまは、人々を救うために出家をして、悟りを開いたと言われます。でも、それはおそらく間違いでしょう。もしそうなら、すぐに、悟りの内容を人々に話そうとしたはずです。そうではなくて、どんなに若く健康な肉体をそなえて美しく生きていようとも、所詮、人間は「老い」と「病」と「死」を免れることはできない、この現実をどう受け止めたらよいのかが、シッタルダの「問題」であり、その「問題」のゆえに、全てを捨てて出家をしたというのが、真実なのでしょう。だからこそ、苦労をしてようやく合点が行った、つまり悟った時、それを直接人々に伝えたところで簡単に理解してもらえないだろうし、話をしないで一人自分の胸にしまって生涯を終えた方がいいのではないだろうか、という心が起こってきたのだろうと思います。
 
 しかし、仏伝は躊躇する仏陀の前に「梵天」が現れて、仏陀に法を説くように懇願します。いわゆる「梵天勧請」です。現実の世界のなかには、まだ眼を塵で覆われていない人々もいる。でも、その人々も法を聴かなければ、救われないままにおちていくであろうと。躊躇の後、ついに意を決した仏陀は、立って法を説くことを決意します。

初転法輪

 仏教では法を説くことを、法の輪をまわすという意味で、「転法輪」と言います。仏陀の始めての説法は、それ故、「初転法輪」と呼ばれます。

 法を説くことを決意した仏陀が、その相手として最初に思い浮かんだのは、彼が出家をしたすぐ後に師事したアーラーラ仙とウッダカ仙の二人の師でした。しかし、彼らはすでに他界していました。そこで、彼とともに苦しい修行をつづけた五人の修行者たちが、「初転法輪」の相手に選ばれます。聞くところによると、五人の修行者たちは、ベナレス付近のサールナート(鹿野苑)にいるとのことです。サールナートまでを七日間で歩いて到着したとのことです。サールナートまで直線で約200キロ、道のりではそれ以上でしょう。始めの説法に対する仏陀の意気込みが感じられます。

 さてわたくしは順次に遊行して、ベナレス・仙人の住所・鹿の園なるところに、五人の修行者の群れのいるところに赴いた。五人の修行者の群れは遥かにわたくしが来るのを見た。見て相互に約束して言った、  「・・ゴータマがあそこにやって来る。贅沢で、勤め励むのを捨て、贅沢に赴いた。かれに挨拶すべきではない。」・・・・中略・・・・このよう告げたときに、五人の修行者の群れはわたくしにこのように言った、 「尊者ゴータマよ、あなたはその行い・その実践・その苦行によっても、人間の性質を超えた、完成せる聖なる特別の知見に達しなかった。しかるに今あなたは贅沢で、つとめはげむのを捨て、豪奢に赴いているのに、どうして人間の性質を超えた完成せる聖なる特別の知見に達することができるのでしょうか」と。私は五人の修行者の群れにこのように言った、  「修行者どもよ、如来は贅沢なのではない、つとめはげむのを捨てたのでもない・・・・」
(五人の修行者は再びゴータマに同じ非難の詰問を向けたので、ゴータマは再び同じことを答えた。五人の修行者は三度 同じ非難の詰問を向けた。)
このように言われたときに、わたくしは五人の修行者の群れにこのように言った、 「修行者どもよ、汝らは今より以前に、わたくしがこのように光輝があったのを見知っているか?」と。筑摩書房 原始仏典P.28

 初転法輪は、仏陀にとっては容易ならざる相手への説法でした。それぞれが独立した修行者であり、決して仏陀への尊敬をいだいていたわけではありません。むしろ、ゴータマは贅沢に赴いたと軽蔑している人々でした。最後には仏陀が、とにかく自分の方を向いてほしい、自分がこれまでにこれほど晴れやかな顔をしていたことがあるか、と言わざるを得ないほどでした。おそらく長い議論が展開されたのでしょう。ある経典には次のよう時その間の事情が書かれています。

「二人の修行者を教化するとき、三人の修行者は托鉢に行った。三人の修行者が托鉢を行って得た食をもって、われら六人が生活した。また三人の修行者を教化するとき、二人の修行者は托鉢に行った。二人の修行者が托鉢に行って得た食をもって、われら六人が生活した。」(同書 P.32)

しかし、この大きな試練を仏陀は乗り切りました。とうとう五人のうちの一人のコーンダンニャが仏陀の言うことを理解して悟りました。仏陀は喜びのあまり「コーンダンニャが悟った。コーンダンニャが悟った。」と叫んだそうです。

これは本当の雑談です。この「コーンダンニャが悟った」という言葉は「アニャータ、コーンダンニャ」というそうです。僕がまだ小さかったころ、何かの機会に家で法事があり、お坊さんがやってきたことがありました。そのお話しは何も覚えていないのですが、そのお坊さんが「アーナンダ、コーナンダという言葉は大変ありがたい言葉なんです。」と言ったのを、なぜかよく覚えています。僕が「アニャータ、コーンダンニャ」という言葉を始めて本で読んだとき、すぐにその言葉を思い出しました。もちろん,ぜんぜん関係ない言葉かもしれません。仏陀の忠実な弟子で、最期まで仏陀に従った弟子にアーナンダという人がいます。だからそのことを何か言っているのかも知れません。でも、初転法輪とは、仏陀にとってとても重要な出来事のはずです。それを通じて、仏教の真理であるダルマが、仏陀の心の中だけでなく、他の人々の心にも移ったこと。その結果、仏教が仏陀の心の中にだけ存在するのではなく、サンガと呼ばれる仏教教団が成立したことを、初転法輪は意味しています。とするなら、「悟れるコーンダンニャ」という仏陀の言葉は、仏教教団の成立を告げる言葉であるはずです。真相はよくわかりません。

その後、仏陀は45年間、ガンジス川流域の各地で法を説いてまわりました。そして、仏陀が80歳の時に、クシナガラの地で入滅しました。仏陀の最期の説法は次のようでした。

アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は存在しない。・・・中略・・・
アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。・・・・中略・・
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。・・・中略・・・アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
 岩波文庫「ブッダ最期の旅」P.63~64

何かを教えずに隠しておくことを「教師の握りこぶし」というのは面白いですね。仏陀は、自分以外にたよりとするものは何もない、自らをたよりとせよ、法のみをたよりとせよ、(いわゆる自帰依、自灯明、法帰依、法灯明の考えですね)と教えました。またもろもろのものは変化していく、怠らずに修行せよと教えました。

最後に、クシナガラの地で、二本の沙羅の樹の間に北を枕に横たわった仏陀は、静かに入滅しました。そのとき、仏陀の枕辺の沙羅双樹が時ならぬ花をさかせた、と伝えられています。僕の努めている学校では、修学旅行で必ず法隆寺を訪れます。この法隆寺の五重塔の北面には、この仏陀の涅槃図があります。嘆き悲しむ弟子の阿羅漢たち。なかなか興味ある像です。その他にも、法隆寺は見所がいっぱいです。何かの機会に是非鑑賞してみてください。次章では「仏陀の悟り」について考えてみたいと思います。



第28章 菩提樹の下で 
~仏陀の悟り~

 今日は、この章では「菩提樹の下で」というタイトルで、「仏陀の悟り」について考えてみたいと思います。前章でもお話しをしたように、六年間の苦行を捨てたシッタルダは、35歳のときに、ブッダガヤーの菩提樹の下で、悟りを開いて仏陀となりました。仏教の成立です。その原点となる「仏陀の悟り」について、何かお話しができたらと思っています。でも、正直に言うと、どうなることか自信がありません。教科書的に言葉で説明することは、それほど難しいことではありません。しかし、ブッダガヤーの菩提樹下の仏陀の悟りは、その後の仏教の原点となったものです。無上正覚といい「アノクタラサンミャクサンボダイ」といい、それを得ることが、修行者の最高の目標となるものでした。東南アジアに伝播した上座部系の仏教では、菩提樹下の仏陀の悟りは「仏の悟り」であり、普通の人には無理だから、尊敬に値する境地(阿羅漢の境地)に達することを目標としました。だから、むやみに「自分は悟った」と言うことを厳しく戒めたくらいです。禅宗では、悟りは言葉で表現できない(言語道断)ものであり、ただ、禅の修業を通じてのみ、体得されるものでした。でも、そこから実り豊かな仏教の歴史が始まった「仏陀の悟り」の何か片鱗でもいいので考えてみたいというのが、この章の目標です。(注)

仏陀の立場

 始めに、仏陀のことを考える場合、仏陀がどのような立場(というか姿勢というか)でものを考えていたかということを確認してみたいと思います。

一枚の葉を手に

 ある時、仏陀は、弟子たちと森の中を歩いていたときに、一枚の葉を手にして、弟子たちに次のように言いました。私が考えたことは、この森の木の葉の数ほど多い。しかし、私が話したことは、それに比べると、この手の中の一枚の葉ほどでしかない。仏陀はとても理性的で理知的な人でした。仏陀の時代には、六師外道と呼ばれた自由思想家が活躍しました。実際、彼らの見解は62にものぼったと言われます。恐らく、知的好奇心も旺盛な仏陀は、それらの見解を知っており、その事について反省・吟味もしていたでしょう。でも、実際に弟子たちに話したことはそのごくほんの一部に過ぎないというのです。

教師の握り拳はない

 しかし、一方で、前章の最後の部分を思い出してください。仏陀は亡くなる前にアーナンダに対して、自分は全てを話した。自分には教師が弟子に対して全てを話さずに秘密にしておく「教師の握り拳」はないと言っています。

毒矢の喩え

 一方で、自分が話したことは自分が考えたことのほんの一部であるといい、他方で、自分は全てを話したと言う。この矛盾はどう考えたらよいのでしょう。その点について、仏陀が語った毒矢の喩えがヒントになるでしょう。

 仏陀のもとに新しく弟子入りをした青年が、仏陀に不満を抱くようになりました。というのも、彼は仏陀のもとにきたらさまざまの思想の話が聴けると考えていたからです。前章でもお話ししたように、仏陀の時代には、六師外道と呼ばれるさまざまの思想家やその見解がありました。恐らく、その新しい弟子は、仏陀のもとでそのような新しい思想の話を聴くことができると、期待していたのでしょう。それに対する仏陀の答えが、毒矢の喩えでした。

 ある人が毒矢に射られたとする。周囲の人がその人の毒矢を抜こうとしたところ、その人が、次のように言ったとしたらどうだろうか。「矢を抜いてはならない。この矢が誰によって射られたものか。またこの矢の毒の成分はいかなるものか。これらが明らかになるまでは矢を射てはならない。」と言ったらどうであろうか。もし、すべての背景を解明するまで矢を抜くことを差し控えているなら、その人は毒がまわって死んでしまうのではないか。大切なことは、毒の成分やその背景を調べることではなくて、矢を抜き取ることではないのか。

 このような意味のことを、仏陀はその青年に話しました。仏陀は、宇宙は有限であるか無限であるか、世界には始まりがあるかないか、等々の形而上学的な議論については「無記」として、沈黙しました。そのような問題、仏陀の抱えていた問題の解決に資するところがなかったからです。そのように考えると、始めに指摘した仏陀の発言の矛盾は理解できます。とても知的な精神をもっていた仏陀は、様々の問題を考えました。しかし、それらの問題は、仏陀が解決したいと思う問題については、意味のあるものではありませんでした。だから、弟子たちにはそのような問題について、仏陀は語りませんでした。しかし、真に大切と考えた問題、仏陀が疑念をいだき解決したいと願ってすべてを捨てて出家さえした問題については、仏陀はあますところなく話をしている。そのように考えると、矛盾はなくなります。

問題
 
 それでは、仏陀の抱えていた問題とは何でしょうか。僕はどちらかというとヨーロッパの思想が専門なので、あまりよい例でないかもしれませんが、ヨーロッパの人を例に考えてみたいと思います。

 20世紀の実存哲学者にヤスパースという人がいます。第二章で「基軸時代」というお話しをしたので、覚えていてくれる人もいるでしょう。彼は人間について次のように考えました。人間には自分の力ではどうしようもない現実がある。「死」とか「苦しみ」とか「争い」とか「罪」など、人間の力ではどうしようもない限界がある。これをヤスパースは「限界状況」と呼びました。そのような限界状況に立たされたとき、人間は初めて一回限りの人生を生きている自分の存在、つまり「実存」に目覚める、とヤスパースは考えました。

一切皆苦

 ヤスパースが限界状況と呼び、そこから真の哲学が始まると考えた人間の現実は、仏陀にとっての「問題」でもあったのではないでしょうか。仏陀の生涯を紹介したときに「生老病死」ということを言いましたが、仏教では「四苦八苦」といいます。四苦とは、生まれること、老いること、病にかかること、死ぬこと、つまり生老病死です。八苦とはその他に八つの苦しみがあるというのではなく、その他に四つの苦しみがあることです。つまり愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦です。

 愛別離苦とは、愛するものと別れなくてはならない苦しみです。五年ほど昔、妻が倒れました。日曜日でしたから僕は家にいて救急車を呼び、同乗して病院を探しました。救急車に乗っている間、冷静を装っていましたが、本当につらい思いをしました。もしこのまま妻が死んでしまったらどうしよう。自分が悲しいというよりも、何もしてやれなかったとの思いが僕を貫きました。本当につらい気持ちでした。幸い、事なきをえましたが、人間にとっては愛するものとの別れは本当に苦しいことです。

 怨憎会苦とは、憎む人と会わなくてはならない苦しみです。誰でもそのような経験はあるでしょう。人間とは本当に不思議なものです。何かのモノのそばにいても気にならないのに、嫌だと思う人間のそばにいるだけで、何か心が落ち着かずに、気持ちが後ろ向きになってしまいます。

 求不得苦とは、求めるものが得られない苦しみです。人は誰もがさまざまの願いを持っています。幸福になりたいとか、愛するものといつまでも一緒にいたいとか。しかし、それらの願いは、結局はかなえられません。そういう意味では悲しい願いです。

 五蘊盛苦とは、ちょっと説明が必要でしょう。五蘊とは人間を構成している五つの要素です。般若心経に、「色即是空、空即是色、受想行識亦復如是」とあるように、色、受、想、行、識は人間を構成する五つの構成要素です。色は物質、肉体、受は感覚作用、想は表象作用、行は意思、識は意識作用を意味します。仏教では、人間はたまたま五蘊と呼ばれるこの五つの構成要素から成り立っていると考えます。五蘊盛苦とは、五蘊から生ずる苦しみ。僕は人間存在そのものから生じる苦しみをいうのではないだろうかと思っています。このことについては後で触れたいと思います。

 もともと仏陀は感受性の豊かで鋭い少年でした。虫を狙う鳥とその鳥を獲物にしようとしている鷹を目撃して、また田を耕す牛の荒い息づかいを聞いて、生の無常を思う少年でした。そのシッタルダが、この生老病死の苦しみをどう受け止めたらよいのかが、なによりも気にかかる問題でした。その問題のために、29歳の仏陀は妻子がありながら、夜中に全てを捨ててカピラバストゥーの城を去って、出家をしました。僕は、仏陀の悟りを理解するためには、ブッダが「四苦八苦」とか「一切皆苦」と呼ぶ「人間の苦しみ」を正しく理解できるかどうかが、キーポイントになると思っています。

縁起
 
 仏陀の悟りについて、仏伝はつぎのように伝えています。

努力して思念しているバラモンに、
 もろもろの理法が現れるならば、
 かれの疑念はすべて消滅する
 原因(との関係をはっきりさせた縁起)の理法を
 はっきりと知っているのであるから。筑摩書房 原始仏典 20頁

  つまり、縁起の法を知ったが故に、彼が抱えてきた問題がことごとく解決したというのです。

 それでは縁起の法とは何でしょうか。これは「縁って起こる」という意味です。
 
 これあるにより、これあり。
 これなきにより、これなき。

 という言葉でもあらわされます。

 例えば、ここにあるペンは僕がもってきたものです。僕がもってきたからこそ、このペンはここにあります(これあるにより、これあり)。もし僕がこれを教室にもってこなかったら、このペンはここにはないはずです(これなきにより、これなし)。もっと考えてみると、そのほかにも、このペンを作った人、このペンの材料も、さらには日本に学校があること自体が、学校制度のため。さらにこの学校はミッションスクールですが、このようなミッションスクールが日本にあること自体、さらに多くの要因によります。仏教では直接原因、この場合は僕がこのペンを持ってきたことを「因」と呼び、その他のこのような状況を作り出したさまざまの要因を「縁」と言います。つまり、すべては相互に依存しあっていて、絶対的なものはないという「相依性」を「縁起」と言います。大乗仏教はこれを「空」と呼びますが、大乗仏教については、また別の章でお話しをしたいと思っています。

 絶対的なものは何もないということを「無常」といいます。仏陀が無常というとき、それは、ウパニシャドでいうブラフマンのような、絶対的なものは存在しないということを意味しています。個々のもので永遠にとどまる実体のようなものは何も存在しないということを「無我」と言います。サンスクリットでは「アナートマン」(アートマンがないという意味)で、アートマンも否定されます。この私も、たまたま五蘊によって成り立っているのであって、五蘊のどれかが欠けても雲散霧消してしまうでしょう。

 絶対的なものは何もない。全ては相互に依存しあっているという考えは、ヨーロッパ的にいうなら相対主義といいます。問題は、この相対主義を知ることが、何故、悟りとなるのかです。

それについては、次のように考えられるでしょう。

人間は生きている以上、さまざまの願いを抱きます。幸福になりたい、愛するものといつまでも一緒にいたい。死にたくない、永遠の命を得たい。等々。しかし、求不得苦と言われるように、「縁起」という真理から照らしてみれば、それはかなえられることのない哀しい願いです。しかし、そのような「縁起」の方に対する根本的無知(無明)の故に、人間は「ああしたい」「こうしたい」と、喉の渇きにも似た激しい欲望である「渇愛」に駆り立てられるように、多くのものを望み、苦しみの中でのたうちまわって生きています。振り返って「縁起」の法というダルマ(真理・法)が仏陀の前に露わとなった時、その澄み切った眼に、過去の自分、多くの苦しみの根本原因である渇愛に、振り回されていた自分、その有り様が露わになった、というのが仏陀の菩提樹下での悟りの構造ではなかったでしょうか。

この世の苦しみの原因は、喉の渇きにも似た「渇愛」にある。その「渇愛」の根本には、いかなるものも絶対的なものではないという、縁起の法についての根本的な無知である「無明」がある。「無明」がなくなれば「渇愛」がなくなり、「渇愛」がなくなれば「苦」がなくなる。言葉としてではなく、ダルマ(法・真理)そのものが顕わとなるなかで、自己の問題、一切皆苦とよばれる自分の現実の苦しみが、その時、ことごとく消え去った。これが仏陀の菩提樹下の悟りではなかったでしょうか。

山上の説法

次のような話があります。マガダ国に帰ってきた仏陀が、新しい弟子たちを率いてガヤーシー山に登った時のことです。その頂上に立って、眼下に広がるマガダ国を眺めて、仏陀は弟子たちに告げました。

「比丘たちよ。この一切が燃えている。」

一切が人間の炎のような欲望に焼かれている。それゆえ、人間の営みは不安である。そのようなありようをよく見ろ。そうすれば、このようなありようを厭うはずだ。欲望にまみれている時には、このことの真相を見極めることができない。有名な仏陀のこの説法は、キリストの「山上の垂訓」に比して、「山上の説法」とよばれています 

よく「知恵によって煩悩を絶つ」と言われます。悟りのことを「開眼」ということもあります。仏陀の悟りは、人間の苦の根本原因についての仏陀の「開眼」と言えるでしょう。そこで、今一度、仏陀の「開眼」というか「悟り」について、章をあらためて考えてみたいと思います。

注:本章の仏陀の悟りに関しては、増谷文雄氏の著作に教えられることが多くありました。



第29回 自己の殻を突き抜ける 
~「悟り」ということ~


前章では、仏陀の菩提樹下悟りについて考えてみました。この章では、今一度、別の視点から、「悟り」ということについて考えて見たいと思います。

「人間、この未知なるもの」

 ノーベル生理学・医学賞を受けた医師であるアレクシス=カレルの著書に「人間、この未知なるもの」という作品があります。僕がまだ学生のころに、何となく題名に惹かれて購入しました。内容的には、「分析的な科学では人間を総合的に捉えることができない」との警鐘から論述が始められていたようですが、あまり覚えていません。しかしとにかく、その「人間 この未知なるもの」というタイトルが魅力的であると同時に、何か気になって読んでみたことは覚えています。

 実際、人間というのは本当に不思議な存在です。僕はよく京都や奈良に出かけるのですが、世界遺産に登録されている神社仏閣だけでなく、観光のルートに乗らず、あまり人に知られてはいないけれども、風情のある寺や仏像がたくさんあります。そのような古寺や仏像に出会うとき、不思議な気がします。このようなものを造った人間がたくさんいたこと。または、そのようなものを創り出させた精神があること。また、その精神に触れて感銘する人々がいたし、現在もいること。そのようなことを、本当に不思議に思います。また、現実の生活の全てを捨てて出家をした人々がいたし、また、現在でも、そのような人々がいること。また、全てを捨ててまで求めたいと思う何かを、人間が感じることができること。それも不思議です。現代は、経済と功利主義が幅をきかせている時代です。でもそのような価値観や生き方が、奈良や京都の古寺を巡っていると、なんて軽薄なんだろうと思います。また、人間の不思議といえば、その多義性というか、アンビバラントな面もそうです。よく言われることですが、人間は天使にも悪魔にもなることができます。本当に素晴らしく、後光がさしていると感じられる人がいる一方で、側から見ると極悪としかいいようのない人間もいます。自己を磨くことによって輝く人がいる一方で、底なし沼のように、精神が荒廃していく人もいます。しかも、それらの人々は種族を異にするのではなく、同じ人間です。

 そのような人間をめぐる不思議というか難問の一つに、「エゴ」・「自我」の問題があります。以下では、そのことについて少し考えて見たいと思います。

友だちの友だちは友だちか

 「友だちの友だちは友だちだ」という言葉があります。「世界に友だちの輪を広げよう」といわれることがあります。実際、人は一人で生きているのではありません。どんな人にも、大切に思う人や友人はいるでしょう。もしいないというなら、その人は不幸な人といわざるを得ません。友だちの友だちをたぐっていけば、世界中の人は友だちの輪で繋がっているはずです。しかし、「友だちの友だちは友だちではない」というのが、人間の社会の現実でしょう。ある人を本当に大切と思い愛しているのなら、その人が大切に思っている人も大切に思うはずです。自分が愛している人が愛している人を大切にしないなら、自分が愛している人が悲しい思いを抱くはずだからです。しかし、現実には、自分が大切に思っている人にとっての大切な人に対して、人間は意地の悪い対応をとります。もし「友だちの友だちは友だち」ということが真実なら、この社会はもっと住みやすく、また、戦争などはありえないでしょう。

人間の深いところには「この私が一番」という固い自我があります。エゴイズム、ないしは、エゴセントリックといってもいいと思います。たとえば、「内」と「外」という対概念があります。小さい子どもにとっては、家族のいる家の中は内の世界で、家の外は外の世界です。学校に入学して環境が変わると、内と外の概念が変化します。運動会があれば、自分の属するクラスが身内であり味方となり、それに対抗するグループは外であり敵となります。国体にでもなると、僕たちは自分の属する都道府県を応援します。オリンピックでは、自分が属する国を応援します。宇宙戦争にでもなれば、地球を応援するでしょう。そこでは、いつも「自分」が中心にあって、自分の属する団体が身内であり、それ以外は敵となります。

アウグスティヌスは「告白」(10巻)の中で次のようなことを言っています。人間は人を騙そうとすることはあっても、人から騙されたいとは誰も考えない。「欺かれたくない」というその意味で、人間は誰もが「真理」を愛している。しかし、人間は顛倒した形で、つまり、自分が愛しているものが真理であることを願うという形で、真理を愛しているというのです。これは言いえて妙です。僕たち人間は、いつも互いに争います。あいつは間違っている。自分が正しい。誰もが自分は正しいと主張したがります。しかし、冷静に考えてみると、そのような場合、僕たちは本当に正しいことを求め、それに自分が従うというのではなさそうです。でも、自分が誤っていると認めることは嫌です。だから、人間は自分が愛しているものが真理であることを願うというように、逆さまの形で真理を愛しているというのです。その根本にはこの「私」が全て、この「私」が一番、という、堅固なエゴがあります。よく考えてみると、人間はどこまでこのエゴイズムから抜け出ているのかは大きな疑問です。というよりは、この「自我」をどう突き抜けるか、または、この「自我」からどう自由になるかが、僕たちにとって大きな問題のはずです。

こは我にあらず!
 
 仏教はこの「自我」の問題を、「我執」ないしは「我見」としてとらえます。この自分を絶対とし、そのような姿勢に捉われていることを「我執」とか「我見」といいます。仏教では、人間はたまたま五つの構成要素(五蘊)から成り立っているもので、本来はそのような自我などは存在しないとの「無我」を主張します。しかし、このことは、単なる知識として理解されるということではありません。人間は四苦八苦の苦しみのなかにある。この苦しみは、喉の渇きにも似た激しい欲望である渇愛からおこる。しかし、そのような渇愛が生じるのは、この世界には絶対的なもの、永遠にとどまるものは何もなく、全てが相互に依存しあっているとの、縁起の法についての根本的な無知、つまり無明に由来する。それ故、無明をなくせば渇愛がなくなり、渇愛がなくなれば苦がなくなることになります。しかし、仏陀の悟りは、単にこのように論理的に理解されたものではないでしょう。仏教では「こは我にあらず」と「諸法無我」を強調します。しかし、それには深い自己省察を前提とします。

次の箇所の仏陀の言葉を注意深く読んでみてください。27章で引用した部分です。

 「比丘たちよ、わたしは、そのように富裕な家に生まれ、そのように幸福であったのに、わたしは思った。愚かなる者は、自ら老いる身でありながら、かつ未だ老いを免れることを知らないのに、他人の老いたるを見ては、おのれのことをうち忘れて、厭い嫌う。考えてみると、わたしもまた老いる身である。老いることを免れることはできない。それなのに、他の人の老い衰えたるを見て厭い嫌うというのは、わたしにとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしはそのように考えたとき、あらゆる青春の誇りはことごとく断たれてしまった。

 比丘たちよ、わたしはまた思った。愚かなる者は、自ら病む身であり、病いを免れることはできないのに、他人の病めるをみては、おのれを忘れて厭い嫌う。考えてみると、わたしもまた病まねばならぬ。病いを免れることはできない。それなのに、他の人の病めるをみて厭い嫌うというのは、わたしにとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしは、そのように考えたとき、わたしの健康の誇りは、ことごとく断たれてしまった。

 また比丘たちよ、わたしは思ったことである。愚かな人々は、自ら死する身であり、死を免れないのに、他の死せる者をみると、おのれを忘れて厭い嫌う。考えてみると、私もまた、死ぬる身である。死ぬることを免れることはできぬ。それなのに、他の人を死せるをみて忌み嫌うということは、これはわたしにとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしは、そのように思ったとき、わたしの生存のおごりはことごとく断たれてしまったのである。」増谷文雄「阿含経による仏教の根本聖典」P11

 引用された文は三つの似た構造をもった文章からなっています。

  愚かな者は・・・おのれのことを忘れて・・・・、
  考えてみるとわたしもまた・・・である、それなのに・・、

 このような文章が三回続いてでてきます。(筑摩書房の原始仏典P.8の中村元氏訳も内容的には同じになっています) そこには次のような自己洞察がこめられています。

 人間は四苦八苦の苦しみにある。しかし、愚かな者はおのれのことを忘れてこの苦を厭い嫌う。しかし、そのような願いはかなえられないが故にさらに深い苦しみに沈む(求不得苦)。しかし、考えてみると、自分もまた同じ現実におかれている、それにもかかわらず(愚かな者と)同じような願いをもっている自分がある。このような自分自身についての深い洞察があります。この洞察の上にたって初めて、我執、我見からの解放をともなった仏陀の悟りは成り立っているはずです。

大いなる挫折、ないしは自己の現実を見据えた自己否定を通じて、大いなる何かに眼が開かれるということは、悟りや宗教的体験には欠かすことのできない重要な要素であると思います。少なくとも、当の問題が自分自身を差し置いて知的に問われるということでは「悟り」はありえないでしょう。今、親鸞と一遍の場合を考えて見たいと思います。

その前に、親鸞や一遍を理解する上での常識として、阿弥陀仏と浄土信仰についての最小限度の知識をお話します。

仏陀の入滅後、数百年の後、硬直化した仏教界のなかから、刷新運動が起こってきます。その結果、大乗仏教が生まれました。慈悲の精神を特に強調する大乗仏教では、菩薩への信仰が生まれます。菩薩とは、自らの悟りをさしおいても、衆生済度のために願をかけ、修業に励み、慈悲の実践を行う大乗仏教の理想です。大乗仏教では様々の菩薩が登場しますが、その中に、法蔵菩薩がいます。法蔵菩薩は48の願をかけて、それが成就しないうちは悟りを開かないと誓います。その48の願のなかの18番目に次のようなものがあります。簡単にいうと、「自分の名をよぶすべてのものが自分の国に生まれないならば、自分は仏にならない」というものでした。法蔵菩薩は五劫という途方もない永い間思索を重ねついに悟りを開いて阿弥陀仏となった。それは今から十劫もの昔のことである。法蔵菩薩は阿弥陀仏となり、西方の極楽浄土にいる。ということは阿弥陀仏の48の願はすべてが成就した。それならば、阿弥陀仏にすがれば極楽へ往生できるはずだ。法然も親鸞もこの「弥陀の本願」にすべてを賭けました。

まはさてあらん 煩悩具足のわれら 親鸞の場合

 親鸞を例に考えてみたいと思います。

京都の地下鉄の烏丸御池を降りて3分ほど南に歩くと、六角堂があります。六角堂の正式名称は紫雲山頂法寺。聖徳太子による創建とされるこの六角堂のご本尊は如意輪観音で、御丈1寸8分(約5.5cm)の小さな仏様です。聖徳太子がその化身と信じられているこの観音菩薩には、多くの伝説があります。その中のひとつに、親鸞にかかわるものがあります。親鸞は29歳の時に比叡山を下りて、六角堂に100日間参籠しました。若い親鸞は、叡山では常行三昧堂の堂僧をしていました。しかし恐らく、当時の叡山の堕落した仏教に飽き足らないものを感じていたでしょう。親鸞自身が後に煩悩具足と自己を表現せざるをえない内なる苦しみを抱えて、従来の仏教では救われないという思いを強くしていたと思います。親鸞が参籠を始めてから95日目に、聖徳太子である観音さまから夢でお告げをうけました。それは「吉水の法然のもとへ行け」というものでした。比叡山を下りて独自の活動を始めていた法然の噂を、親鸞はもちろん知っていたでしょう。次第に勢力を広げつつあった専修念仏に対する、南都北嶺からの厳しい批判も知っていたはずです。法然との出会いは、親鸞にとって決定的でした。程なく法然から「選択本願念仏集」の筆写を許さるまでに法然の信頼をえるようになります。

法然の思想の中核にあるのが「選択」です。末法の世において、救いのために必要なものを残し、不要なものを棄てると言う「選択」です。法然は菩提心を起こして自力で悟りを開こうとする聖道門と、全ての衆生を救おうとする阿弥陀仏の本願を信じて他力(阿弥陀仏の力)をたのむ浄土門に分け、聖道門を捨てて浄土門を「選択」しました。また浄土門のなかでも浄土往生へと正しく導く行を正行、それ以外を雑行に分け、正行を「選択」します。さらに正行のなかで「なむあみだぶつ」と口で弥陀の名をとなえる称名を正定業、その他を助行に分け、称名を「選択」します。そして、法然は考えに考えてこれしかないとの気持ちをこめて、「選択本願念仏集」において次のようにつづりました。

「故に知んぬ。念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。しかれば則ち一切衆生をして平等に往生せしめむが故に、難を捨て易を取りて、本願としたまふか。もしそれ造像起塔をもつて本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多し。もし知慧高才をもつて本願とせば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たむ。しかも知慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多聞多見をもつて本願とせば、少聞少見の輩は定んで往生の望を断たむ。しかも多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもつて本願とせば、破戒無戒の人は定んで往生の望を絶たむ。しかも持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自余の諸行、こに准じてまさに知るべし。
まさに知るべし。上の諸行等をもつて本願とせば、往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からむ。然れば則ち、弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を摂せむがために、造像起塔等の諸行をもつて、往生の本願としたまわず。ただ称名念仏の一行をもつて、その本願としたまへるなり。」岩波文庫「選択本願念仏集」52頁

親鸞は、法然にあって救われたと思ったでしょう。法然の門下に入って百日間、雨の日も風の日も、いかなる時も、法然の赴くところにはどこへでも出かけました。親鸞は法然を「選択」しました。後に親鸞は、法然に対する信頼を次のように語っています。

「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じて存知せざるなり。たとへ法然上人にすかされ(だまされ)まひらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」

しかし、その理由はいかにも親鸞らしい自己理解に裏打ちされています。

「そのゆへは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし。」(「歎異抄」)もし、ほかの修業にはげんで仏となることができるのなら、念仏をして地獄におちたら騙されたといえる。しかし、自分はどのような修業でもおよばない身だから、地獄にゆくのが定まっているのだ、と親鸞は言います。

このような自己理解の上に、親鸞は「悪人正機説」を展開します。「歎異抄」における有名な一説は、読む人を引き込まずにいられない迫力をもっています。

善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おや。しかるを世のひとのつねにいはく、悪人なお往生す、いかにいはんや善人おやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらいき。

初めに悪人正機説に対して、世間の常識が対比されます。一般には悪人が救われるのだからなおさら善人が救われることは確かと考えます。人間的立場、倫理の立場からは、人間が善いことを行うこと、またその努力をすることは、人間として大切なことです。しかし、親鸞はそのような立場を、彼自身の深い自己洞察をふまえて否定しています。そのような人を「自力作善の人」と皮肉をこめて親鸞は呼びます。そこには、深い所でエゴの問題、「私が、私が」「私が何とかする」とのエゴセントリックなあり方があることを、親鸞は見逃していません。親鸞は「自己の“はからい”を捨てること」を強調しました。自力作善の人は、ひたすら阿弥陀仏の慈悲にすがるという、うちひしがれた心から発する謙虚さを欠いています。自我という呪縛から解き放たれず、深いところで自己中心的に生きながら、そのことの自覚を欠いている人間、そのような人間ですら、阿弥陀仏の慈悲が及ぶのであるから、全てを阿弥陀仏に託す悪人が往生しないことがあろうか。絶対他力の立場から、自己のはからいをすべて捨て去ろうとする親鸞にとって、念仏する心が生まれること自体、阿弥陀仏のはからいであり、念仏は救いを求める念仏ではなく、感謝報恩の念仏と理解されます。

その後、法然の専修念仏は弾圧を受け、法然は讃岐に、親鸞は越後に流罪となります。親鸞が35歳の時で、これが法然と親鸞の今生の別れとなりました。僧籍を剥奪された親鸞は、以後非僧非俗の愚禿親鸞と名乗ります。

親鸞は公然と妻帯をしたことでも有名です。事実として妻帯をしていた僧侶がいましたが、親鸞のような公然とした妻帯者はありませんでした。念仏弾圧に当たって親鸞が罰せられたのは彼自身の結婚もその一因であったと思われます。恵心尼は親鸞の妻として、親鸞とともに人生を歩んだ女性でしたが、恵心尼の消息(手紙)に興味深い記述があります。(春秋社 親鸞全集 別巻参照)

親鸞が59歳のころ、風を引いて高熱で寝ていたことがありました。高熱に耐えて一人静かに臥していました。恵心尼が親鸞の体に触れると火のような(火のごとし)熱さでした。ねこんでから四日後に親鸞が「まはさてあらん」(まあそのようなことだろう)と言った。うわごとかと恵心尼が尋ねると、親鸞はうわごとではないといい、次のように恵心尼に言いました。臥して二日目から「大経(無量寿経)」を休む暇なく読んでいる。眼を閉じても、お経の文字が一字ももれることなく残らず、はっきりと見えてくる。おかしなことだ。専修念仏とは念仏以外の行をすててひたすら念仏を唱えることで、その信心以外になにも必要ないはずなのに、何故なのか。よくよく思い返してみると17年ほど前、上野国佐貫で凶作に悩む農民のためにと「浄土三部経」の千部読誦をし始めたことがあった。しかし、しばらくして仏のみ名のほかになにの不足があって、一途に読経しようとするのかと思い直し、読経をやめた。それなのに、そして17年後の今になっても、経を読もうとする気持ちの残りがあったのか。親鸞は続けて言います。

ひとのしうしん(執心)、じりき(自力)のしんは、よくよくしりょ(思慮)あるべし、とおもひなしてのち(後)は、きょう(経)よむ(読む)ことは、とどまりまり(止)ぬ。
人の執心、自力の信心は、よくよく気を付けなければならない、と心に決めてから後は、経を読むことを止めてしまった。

このようにして「まはさてあらん」という言葉を親鸞は口にして、その後汗を流して熱が引いていったといいます。

このような自己のあり方への深い洞察をへて、親鸞の人間理解はふかまり、それとともに、己のすべての“はからい”を捨て去り、阿弥陀仏のはからいに身をゆだねる絶対他力の信仰は深められていったのだと思います。

南無阿弥陀仏になりはてぬ 一遍の場合

大阪の四天王寺は、聖徳太子により創建されたもので、歴史を通じて庶民からも親しまれてきました。また、中門、塔、金堂、講堂と中心軸に一直線にならぶ伽藍配置は、四天王寺式といって、有名です。この四天王寺の西門のすぐ外には、重要文化財の石の鳥居が立てられており、そこには「釈迦如来転法輪所、当極楽土東門中心」の額が上部に掲げられています。お釈迦様が法を説く場所、極楽の東門の中心、という意味です。現在は境内からこの鳥居を西にして眺めてみると、舗装された広い道路が見えるだけで、3キロくらい西に人工の海岸があるだけですが、昔は西門の鳥居の西は海になっていました。一遍上人絵伝を見ると(日本の絵巻20 一遍上人絵伝 中央公論社)、一遍上人が西門の前で人々に話をし、多くの人々がその前で耳をかたむけています。その左方向(西側)には例の「釈迦如来転法輪所、当極楽土東門中心」の額が掲げれた(現在のではなく再建される前の)朱塗りの鳥居があり、すぐ近くまで海岸が迫っています。お彼岸の中日に西の海に沈む夕日は、この鳥居の真ん中に沈みます。観無量寿経に極楽浄土を想念するための十六の方法が記されていますが、その第一には、日没時の夕陽を眼に焼きつくまで、いつでもありありと思い浮かぶまで観察をするという日想観があります。この日想観にふさわしい地としても、四天王寺の西門は極楽浄土の東門との信仰がうまれました。この四天王寺に多くの人々が参篭しています。とりわけ阿弥陀仏と極楽浄土を信仰する人々にとっては、重要な地としてこの四天王寺を訪れています。

鎌倉仏教の第三世代ともいえる一遍は、他の新仏教の開祖とはことなり、比叡山で修行をすることはありませんでしたが、法然の系列の専修念仏にめざめ、念仏を広めるための遊行にでました。一遍が遊行の出発点として選んだのが、四天王寺でした。四天王寺での参籠の後、「四天王寺から高野山、さらに熊野へと続く旅でした。旅の途上で一遍は、念仏を勧め、阿弥陀仏への信をおこし、南無阿弥陀仏ととなえたものに、札を渡して結縁(ケチエン 阿弥陀仏との縁をむすぶ)を行いました。熊野への道中に、一遍は一人の僧に出会います。「一念の信をおこして、南無阿弥陀仏ととなえ、この札を受け取ってほしい」と言う一遍に対して、僧は拒絶しまします。阿弥陀仏への信はない、信もないのに念仏を唱えることは、心をいつわる罪になるとの理由からです。人々も集まってくるなかで、一遍は、ここで僧が札の受け取りを拒否されたら、他の多くの人々にも阿弥陀仏との結縁を困難にすると考えたのでしょう。押し問答の末、「信がなくともよい。ただ札を受け取ってほしい」と一遍は強引に僧に札を押しつけました。信をおこし、念仏をとなえたものに札を配るとの原則を外した一遍には、自分の行為の是非への疑念が深く残ったと思います。そこで、阿弥陀仏が本地とされている熊野の証誠殿の前で、祈りつつ神の示現をあおぐと、白髪の山伏の姿をした権現があらわれて言います。

「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ。御坊のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし。」(春秋社 一遍上人全集 19ページ)

「融通念仏を勧める聖よ、何と念仏を誤ってお勧めになることか。御坊の勧めによって一切衆生がはじめて往生するものではない。阿弥陀仏が十劫という遠い昔悟りを開かれた時、すでに一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と定まっているのである。信と不信を取捨せず、浄も不浄もきらわず、その札を配るがよい」

有名な熊野成道を伝えるこのエピソードは色々なことを考えさせられます。しかし、その中心にあることは、「御坊の勧めによりて、一切衆生はじめて往生すべきにあらず」という熊野権現の言葉でしょう。「私が札を配り、その私の行為で阿弥陀仏と結縁を結んだ衆生が、私をきっかけとして救われる」ということは思いあがりである。まさに、この啓示により、この私という「自我の殻」が突き破られた、つまり、言葉としての理解ではなく、心のそこから合点が行った、という点であるに違いないと思います。救って下さいとの願いすら、自己の「はからい」として捨て去り、いわば己を「仏の家に投げ入れて」(道元)しまうことでしょう。時宗では、この熊野成道が時宗の成立のはじめとしています。

親鸞と一遍を例に、悟りということの一面を考えてみました。仏陀の時代の仏教と日本に伝わってきた大乗仏教とでは、大きな違いがあると思います。しかし、シルクロードを経て、中国、朝鮮をへて、また、日本でも様々に形をかえてきた仏教でも、仏教であるという基本は変わらないはずです。哲学や宗教は客観的な知識ではありません。「口先だけの知識」ではなく、それは一体どういう意味か、自分は本当にそれで納得いくか、そもそもそう問いかけている私は何かとの問題を抜きにしては成り立たないものだと思います。そのような意味で、この私に焦点をあてて考えてみました。次章では、仏陀の最初の説法と仏教教団の成立の話をする予定です。



第30回 沈黙を破って 
~仏陀の最初の説法~

アショカピラー IN 東大寺

 

 



昔、奈良公園を散策したことがありました。すこし時間があったので、新薬師寺からささやきの道を通って春日大社、さらに法華堂をへて大仏殿へと歩きました。法華堂から大仏殿に向かう途中で、突然、世界史の教科書で見覚えのあるライオンの像に出くわしました。有名なアショカ王の石柱の上におかれたライオンの像を模写したものです。説明によると、これは、昭和63年(1988)全日本仏教青年会が開催した「花祭り千僧法要記念」のための多宝塔です。その日は1700人の僧侶が東大寺に集ったそうです。インドのアショカ王が各地に詔勅を刻んだ石柱を立てて、仏教精神に裏付けられた理想社会の建設をめざしたように、世界の平和を願う青年僧たちの思いを、後世に伝えようとしたのが、この「花祭り千僧法要記念多宝塔」だそうです。周辺には、鎌倉時代に再建されたとはいえ、古代の日本や中国の香りがのこる建築物が建ち並ぶなかに、突然出現したライオンの石造に、何か異質なものを感じました。しかし、文化の異質性にもかかわらず、世界の平和と衆生の救済を願う仏教の普遍性に、ある種の感動を覚えました。この石造は、仏陀が初めて法を説いたサルナートにある石柱の上部を、忠実に模写したものだそうです。サルナートの石柱は、上部に四頭のライオンが背中合わせに位置し、インドの紋章になっています。またその下には四つの車輪(法輪)とライオン、象、牛、馬が刻まれています。元来、インドには、仏の像を刻むという習慣がありませんでした。仏の像を刻むこと自体、恐れ多いことだったのでしょう、その後、仏陀を表わすのに、法輪をそのシンボルとしたこともあります。仏の足跡(仏足跡)を拝むことがありましたが、仏の足の裏には車輪(千輻輪)が刻まれていました。さらに、この法輪のマークは、インドの国旗の中心にも描かれることになります。

閑話休題

前章で大阪の四天王寺のお話をしました。この四天王寺の西門のすぐ西に重要文化財の石の鳥居があること、その鳥居には「釈迦如来転法輪所 当極楽土東門中心」との額が掲げられているというお話をしました。仏教では説法をすることを「法の輪をまわす」つまり「転法輪」と言います。今日は、仏陀の最初の説法である「初転法輪」についてお話したいと思います。

ブッダガヤーの仏陀は、なおもしばらく瞑想にふけっていました。悟りをひらき、とらわれのない自由な境地に達したという「法悦」に浸っていたことでしょう。はじめは法を説くことに消極的であった仏陀ですが、梵天に促されて思い直し、法を説くことを決意します。仏陀の悟りそのものは、おそらく言葉にすることのできないものだったでしょう。しかし、仏陀はその悟りを表現するさいに、周到に考えをねり、組み替え、新たに体系づけました。それがこれから紹介する四諦説です。

初めて法を説くことを決意した仏陀が、先ず誰に説くかを考えたときに、はじめに思い浮かんだのは、彼が師事した二人の師でした。しかし、彼らはすでにこの世にはいません。聞くところによると、かつての仏陀の修業仲間である5人の修行者たちが、ベナレスの郊外にいるとのことです。仏陀は、その修行者を始めの説法の相手に選びました。ブッダガヤーからベナレス郊外のサルナートまで、200キロを越える道のりを、仏陀は7日間で歩いて到着したそうです。

中道を説く

仏陀による初転法輪は、「中道」を説くことから始められました。中道とは、極端なことをさけてほどほどという意味ですが、このことは、中途半端という意味ではありません。アリストテレスも孔子も中庸(中道)を勧めていますが、中道を歩むことができるには、深いところで、真理についてのある了解が必要だと思います。極端な生き方は、それが当を得ているか否かは別にして、ある意味ではわかりやすいものです。仏教にとって、中道とは大切なことでした。しかし初転法輪では、恐らくそれ以上に、仏陀にとっては、中道から説かざるをえない事情があったのでしょう。27章でも紹介したように、仏陀がこれから法を説こうとしている5人の修行者たちは、決してはじめから仏陀に教えを請おうとするものたちではありませんでした。むしろ、彼らは仏陀が堕落をして贅沢に赴いたと考えていました。聴く耳をもたない修行者たちに対して、「私がかつてこのような晴れやかな顔をしていたことがあるか」と言ってこちらを向かせなければならないものたちでした。今なお厳しい苦行生活を続けている修行者たちに対して、快楽にふける生活はいけない、しかし同時に、むやみに肉体をさいなむ苦行生活もいけない。自分は快楽と苦行の両方を捨てて、その「中」に立ったとき、初めて悟りを開いたのだということから説き始める必要があったのでしょう。

中道については、仏陀の次のような話が伝えられています。ソーナという修行者は厳しい修業を続けていましたが、一向に悟りを開くことができませんでした。迷うソーナに対して、仏陀は、彼が在家の頃に何を得意としていたかを問います。ソーナが琴を得意としていたことを聞いた仏陀は、琴の弦は強く張ると切れてしまうが、一方で、ゆるすぎてもよい音色ではない。それと同じように、快楽にふける生活はもちろんよくないが、厳しすぎる苦行もいけない。「汝はその<中>をとらねばならない」と説いています。

四つの真理

5人の修行者たちが、仏陀の話を聴く態勢がととのったところで、仏陀は、四諦説を提示します。「生も苦なり。老も苦なり。病も苦なり。死も苦なり。」いわゆる苦諦(苦の真実)です。このことが5人の修行者によって了解されると、次に仏陀は、そもそもそのような苦しみは何によるのか、何に苦の根本原因が集まってくるのかを問い、それが喉の渇きにも似た激しい欲望である渇愛にあるという真理を示しました。いわゆる集諦です。この渇愛に代表されるような、心の汚れを煩悩と呼びます。それではこの渇愛が何によって生ずるのかは、縁起の法についての根本的無知である無明によると、「仏陀の悟り」のところでお話しました。しかし、この四諦説では、この点には触れられていません。次に仏陀は、何がなくなれば苦がなくなるかを説きます。苦が渇愛によって生ずるとするなら、その渇愛を、そのような煩悩を、余すところなく滅しされば、苦を滅することができる。いわゆる滅諦です。ここでも、菩提樹下の仏陀の悟りの根本である縁起の法が、直接には言及されていません。しかし、「縁って起こる」という縁起の法は、苦の生起と消滅という集諦と滅諦の考えの中に、明確に示されています。この苦の滅にいたる道程が、道諦です。そのためには極端な快楽と苦行を退けて中道を歩むこと、すなわち、正しい見解をもち(正見)、正しい思考を行い(正思)、嘘をつかず正しく語り(正語)、正しい行為を行い(正業)、正しい生活を送り(生命)、正しい努力をし(正精進)、正しく想念し(正念)、正しい精神統一を行う(正定)という八正道にはげむことが説かれます。この苦集滅道の四諦は、それ以後、幾度となく仏教教団で説かれることになりました。

四法印

その後、仏陀の語った教えは、四法印にまとめられます。四法印とは、仏教である限り必ずもっている真理の印です。

一切皆苦。生老病死に代表される、人生はすべて苦しみに他ならないという真理。仏教はこのことを四苦八苦と表現しました。

諸行無常。すべてのものは絶えず変化しており、永遠の絶対的な真理は存在しないという真理。

諸法無我。諸行無常と似ていますが、諸行無常が(ブラフマンのような)絶対的なものは存在しないというのに対して、永遠にとどまるような実体は存在しないという真理を言います。たとえば、この私は、色受想行識という五蘊がたまたま集まって存在しているだけであり、五蘊のいずれかが欠けることで、私という存在はなくなります。

涅槃寂静。渇愛を余すところなく消し去った涅槃(ニルワーナの音訳で、「(炎)が鎮火した状態」を意味します)は、清々しい悟りの境地であるという真理です。

慈悲 生きとし生けるものにいつくしみを! 

最後に、慈悲について少しお話をしたいと思います。仏教にとって大切なことは、「智恵と慈悲」と言われます。慈悲の慈とは、安楽を与えること(与楽)で、悲とは、苦しみを取り除くこと(抜苦)を意味します。

慈悲は、キリスト教で言う「アガペー(愛)」を、仏教的に表現したものと言えるかもしれません。しかし、仏教では「愛」という言葉はあまりよい意味では使いません。例えば、「愛着」(「あいじゃく」と読みます)や「渇愛」という場合の「愛」は、人を救いに導くよりも、「とらわれ」という迷いの世界へと陥れるものと考えます。

スッタニパータのなかから、慈悲についての叙述を読んでみましょう。この箇所は、人類が作り出して文章の中で、最も素晴らしいものの一つだろうと、僕は思います。

究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなおなすべきことは、次の通りである。

能力あり、直く、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのないものであらねばならぬ。

足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の家でむさぼることがない。

他の識者の非難を受けるおうな下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、

目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸せであれ。

何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて他人に苦痛を与えることを望んではならない。

あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもの対して、無料の慈しみのこころを起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

立ちつつも、歩みつつも、坐しすつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
                   スッタニパータ 143-151

二十五章で、西洋思想と東洋思想の簡単な比較をした時に、西洋思想は「人類」も観念を生み出したが、東洋思想は「生類」という考えを生み出したと言いました。仏教ではこれを「衆生」と言います。仏教の慈悲は、一切の生きとし生けるものに及ぶ慈しみの心です。

いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸せであれ。

このようにたたみかけるように、すべての生きとし生けるものへ及ぶべき慈しみの心、つまり、慈悲の精神は、やがて大乗仏教を生み出し、仏教に新たな息吹を吹き込むことになります。次章からは、シルクロードを経て、中国、朝鮮経由で日本にも伝わってきた、大乗仏教についてお話したいと思っています。



第31回 ヒンドゥー世界の成熟 
~古代インドの展開~

これから大乗仏教のお話をしたいと思います。その前に、大乗仏教が生まれた歴史的背景も含めて、古代インドの歴史について、すこしお話をします。古代インドの歴史については、インド初の大統一であるマウリア朝と、その全盛期の王であるアショカ王の名前を出したところまでお話しています。

マウリア朝の成立(BC317頃~BC180頃)
 
 前4世紀に、アレキサンダーが北西インドに侵入し、やがて撤退しました。その後の混乱に乗じて、マウリア朝を建国したのがチャンドラグプタです。首都はパータリプトラ。その後、マウリア朝の支配を全インドに拡大したのが、三代目の王アショカでした。彼は、インド東南のカリンガを征服して、全インドを統一しますが、このカリンガ征服にあたって、アショカは多くの殺戮を行いました。カリンガ征服によって生じた悲惨な結果を深く反省した彼は、以後、仏教に帰依し、武力による支配を捨てて、法(ダルマ)による征服に政策変換をしました。王は在位中の政策の方針を、詔勅として岸壁や石柱に刻ませました。初転法輪の場であったサルナートの石柱の話を前章でしましたね。これらの詔勅は、古代インドの様子を知るために、貴重な資料になっています。
 
 殺生を禁じ、宴会のための無駄な浪費を禁じたアショカは、また、父母、朋友、年長者への尊敬など、人間関係の倫理が説き、自分に対しての自制、柔和、ダルマへの敬意などを重視しました。仏教のみならず、他の宗教に対しても、人間の真理の実現に導くものとして尊重しました。道路には植樹をし、井戸を掘って旅地との休憩所としました。マウリア朝の道路建設がいかに功績の大きいものであるかということは、実際にインドを旅行してみないと分からないと、中村元氏は「古代インド」(講談社学術文庫171ページ)に書いています。

 このアショカ王の時代に、仏教は大きく発展しました。

 王は仏典の結集をするための集会を、首都のパータリプトラで開いたと伝えられています。彼の仏典結集は第三回目のものです。第一回の仏典結集は、仏陀の死後に、仏陀の教えが忘れられないようにと、多くの弟子たちが集まり行われました。「私はこのように(仏陀から)聞いた(如是我聞)」との書き出しで伝えられたものです。



                     左の写真を見てください。アショカ王は
                     インドの各地にストゥーパと呼ばれる仏塔
                     を建立しました。これは有名なサンチーの
                     ストゥーパです。ストゥーパは卒塔婆と音
                     訳され、略して「塔」という言葉の語源と
                     なりますが、古代インドでは、土を盛り上げた基を意味しました。言い伝えによると、仏陀がクシナガラで入滅した後、遺体は荼毘にふされて八つの部族に分けられました。それらの部族は、自国に仏舎利(仏陀の遺骨)を収めたストゥーパを建てて供養しました。アショカ王は、その塔を開いて、仏舎利をさらに分けて、全インドに8万4千の塔を建てたといわれます。現存の塔の中では、サンチーの仏塔が有名ですね。ちなみに、シャリというのは骨のことです。このように細かく分けられ洗われた後は、白い細かい粒のようになります。そのため白米のことを銀シャリといいますね。ちょっと不気味な言葉ですが・・・・

 また王は、セイロン島に仏教を布教させたという言い伝えが、スリランカに残されています。シルクロードを通り中国・朝鮮さらに日本に伝わった仏教を、北伝仏教というのに対して、東南アジアに伝えられた仏教を、南伝仏教と呼びますが、何伝仏教の端緒は、アショカ王によって作られたものでした。

 アショカ王の死後、マウリア朝は衰退をしていきます。

ミリンダ王の問い

 ここで挿入的なお話を。高校の世界史ではそこまで詳しくは出てきませんが、仏教の歴史については重要だと思われることを一つ。アレキサンダーの遠征以来、ギリシア人の中には帰国しないで、遠征先にとどまったものも多くいました。彼らは国を建てましたが、バクトリアは、現在のアフガニスタンのあたりに建てられたギリシア人の国でした。このギリシア人はマウリア朝衰退に乗じて、北西インドに侵入しました。BC2世紀のメナンドロス王の時代には、彼らはインダス川中上流域のパンジャーブ地方を支配下に置きました。この地域には、ギリシア文化が流入しますが、一方で、ギリシア人も仏教にであいました。メナンドロス王は、後に、仏教を受け入れて信徒になったと言われます。「ミリンダ王の問」という仏教の経典があります。メナンドロスのもとを訪れた仏教の長老ナーガセーナとの間の問答が、この作品に収められています。ギリシア文化と仏教の出会いという点からも興味深い作品です。

クシャナ(クシャン)朝の成立AD1世紀~3世紀

 マウリア朝の滅亡後、インドは分裂をしていましたが、1世紀に、大月氏の下にいたイラン系のクシャン族が、インド西北部を支配下に置きました。首都はプルシャプラ(現在のペシャワール)で、西にパルチア、東に後漢、南にインドに接する交通の要地を支配し、通商で栄えました。クシャナ朝にはイラン系、インド系、ギリシア系など、様々の人間が住み、多くの文化が融合していました。クシャナ朝の貨幣には、イラン語のほかに、ギリシア語の銘なども記されていました。このクシャナ朝は、2世紀のカニシカ王の時代に全盛期を迎えます。カニシカ王は仏教を保護し、第四回の仏典結集を行いました。

 インド人は、このクシャナ朝をインドの王朝とはみなしていないかも知れません。地図を見れば分かりますが、この王朝の中心は、インドというよりも、今のパキスタン西北部のガンダーラあたりでしょう。インドの北西にあった王朝が、勢力を拡大して、インド西北部をも支配下に入れたという感じです。

 このクシャナ朝の時代は、二つの意味で、文化的に重要です。

 一つは、この時期に大乗仏教が生まれたことです。大乗仏教は仏教に新しい息吹を吹き込み、中国、朝鮮、日本へと伝わり、それぞれの国の文化にも深い影響を与えることになります。大乗仏教については、次章からお話をすることになります。後一つは、ガンダーラ美術がこのクシャナ朝で生まれたことです。

ガンダーラ地方には、ギリシア人が多く住んでいました。このギリシア人たちが仏教と出会い、仏像が生まれたというのです。元来、インド人は仏陀の像を刻むことはしませんでした。しかし、ギリシア人は、昔から神々の像を好んで刻みました。このようにして、ギリシア文化と仏教が出会うことによって、仏像が生まれたというのです。もっとも、仏像の誕生を、ガンダーラではなくマトゥーラだとする考えもあります。マトゥーラは、ガ
ンジス川上流の古都で、仏教はここを経由して北西インドに伝わりました。クシャナ朝時代には、この王朝にとっての中部インド支配の拠点であったところでした。写真を見てください。ガンダーラ仏(右)とマトゥーラ仏(左)です。ガンダーラ仏はギリシア風の表情をしていますが、マトゥーラ仏はインド的趣があるように見えます。時期的には、ほぼ同時にこの両方の地域で仏像が生まれたようです。

 余談ですが、中村元氏は、インド人の学者とパキスタン人の学者について、その人の本を読まなくても、彼らが仏像の起源についてどのような意見をもっているかは分かると言っています。パキスタンの人ならば、仏像の誕生はガンダーラだと主張し、インドの学者ならば、仏像の誕生の地としてマトゥーラを主張するそうです。仏像がどのような経過で生まれたかという事実は一つでしょうが、学問というものも、その人の生まれた地域に影響を受けるのでしょうか・・・・

グプタ朝の成立 320年~550年頃

 クシャナ朝衰退後の分裂を収拾し、ガンジス川中流域を統一したのが、グプタ朝です。チャンドラグプタ2世の時代には、北インドを統一して全盛をむかえます。この王朝は、外国人を追い出して、国家統一を果たしました。インド人の手に支配を取り戻したこの王朝では、インドの古典文化が復興しました。

インド古典文化の成熟

 グプタ朝の時代は、インド古典文化の黄金時代といわれます。宮廷の保護を受けて、アーリア人の言葉であるサンスクリット文学が栄えました。サンスクリット文学の最高峰と呼ばれ、シャクンタラー姫の恋物語を著した戯曲「シャクンタラー」の著者カーリダーサは、インドのシェイクスピアとも評されます。(この表現はよく目にしますが、西洋的ですね。本来、カーリダーサのほうが先輩なのだから、シェイクスピアのほうをイギリスのカーリダーサと言うべきなのでしょう?)

またこの時代には、ヒンズー教が形成されました。ヒンズー教は、バラモン教が民間信仰を取り入れて成立したものです。バラモンの宗教から民衆の宗教に発展するにあたっては、「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」の二大叙事詩が大きな役割を果たしました。バーラタ族の大戦争や、ラーマ王子の冒険紀行の叙事詩であるこれらの作品は、3~4世紀に現在の形になりましたが、ちょうど日本の「平家物語」が琵琶法師によって語られたように、「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」は、吟遊詩人によって琵琶の伴奏とともに歌われました。村から村へ、民衆の歌声のように伝わったこれらの叙事詩は、インド人をひとつの民族にまとめあげる働きをしたと言われます。そして、この二大叙事詩にシヴァやヴィシュヌなどヒンズー教で人気のある神々が登場します。ヒンズー教の三大神は、ブラ
                 フマン(創造神)とヴィシュヌ(護持神)、それに
                 シヴァ(破壊神)ですが、民衆にはブラフマンは
                 あまり人気がありません。ヴィシュヌやシヴァの
                 方が人気があるそうです。写真はシヴァ神の像で
                 す。破壊する凶暴な面を持ちながらも、また踊る
                 神であります。「踊り」は、この神の力と人間の生
                 命力の源でもあるのでしょうか。グプタ朝時代に
                 ヒンズー教は、これらの叙事詩の流布とともに、
                 民衆の宗教に発展していきました。

民衆の宗教としてのヒンズー教の発展にひきかえ、仏教は民衆の宗教としては、次第に衰退していき、むしろ学問研究の対象になっていきました。仏教美術としては、アジャンターの石窟寺院の壁画は有名ですね。ここではグプタ様式の仏像など純インド的作品がみられます。また中国僧の法顕が訪れて「仏国記」を著したのも、この時代のインドでした。

 またこの時代に、インド数学のゼロの考えが生まれました。十進法にも欠かせないゼロという言葉は、大乗仏教の「空」と同じシューニャという言葉で、この発見も、インド人の天才を表しているのでしょう。

ヴァルダナ朝 7世紀

 グプタ朝が崩壊した後に、再び北インドを統一したのが、ハルシャ=ヴァルダナ王でした。王の死後、インドは再び分裂抗争の時代に入ります。インドに再び統一が生まれるのはイスラム勢力の力によるのを待たねばなりませんでした。

 ハルシャ王は仏教を保護しました。この時代に、インドから玄奘が仏教研究のためにインドを訪れました。彼の著した「大唐西域記」は、後代の「西遊記」のモデルとなったもので有名です。しかし、ヴァルダナ朝時代の仏教の隆盛は、蝋燭が消える前の輝きにも似たものでした。王の死後、保護を失った仏教は衰え、ついには生まれ故郷のインドを出て行くことになります。仏教はヒンズー教の中の神々の一人としての位置をあたえられますが、仏教そのものは、北上してシルクロードを通り、東アジアへ進み独自の発展をとげました。また、南から東南アジアへ伝わった仏教も、今でも力をもっています。この章はこれで終ります。次章からは北伝仏教である大乗仏教のお話になります。



第32回 慈悲こそ仏陀の心 
~仏教の新しい波・大乗仏教~

 今日は。この章から二回で、大乗仏教のお話しをしたいと思います。その前に、今までに触れた仏陀の時代の仏教を確認しておきましょう。

 仏陀名35歳のときに、ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開きました。仏陀の悟りとは、縁起の法を悟ったということでした。縁起の法とは、絶対的なものは何もない、全てはお互いに依存しあっているというものです。人間は苦しみます。この苦しみの原因は欲望(渇愛)にあります。それでは、何故、人間は喉の渇きにも似た渇愛に駆り立てられるのか。それは縁起の法についての根本的無知、つまり、無明による。無明の故に、人間は悲しい欲望にふりまわされて、苦しみにのたうちまわっている。欲望を捨て、欲望から自由になれば、苦しみから解放される。このようなものでした。仏陀の時代の仏教(原始仏教)では、四諦説が重要です。四諦とは四つの真理の命題、つまり、人生は苦しみである(苦諦)、苦の原因は渇愛にある(集諦)、渇愛を悉く消し去る方法が八正道である(道諦)、というものでした。

仏教教団(サンガ)の成立

 初転法輪に成功して以来、仏陀の周りには、仏陀を慕う修行者が集まり、サンガと呼ばれる仏教教団が成立しました。サンガは中国では「僧伽」や「僧」と音訳され、僧侶という言葉になりました。だから、僧侶とは、もともとは集合名詞がその属するグループの人間を指す言葉となったものです。ちょうど、「兵隊さん」という言葉と同じですね。

 サンガは、友愛にみちた修行者の集まりでした。そこでは、仏陀は尊敬のまとではありましたが、決して崇拝の対象ではありませんでした。それぞれに修行者は、無明をなくして真理を掴み、涅槃をえるために中道を歩み、八正道に励む修行者たちの集まりでした。そこでは、カースト制は否定されます。仏陀は「人は生まれによってバラモンになるのではない」と言っています。ここでいうバラモンとは聖者というような意味でしょう。

仏法僧

 余談になるかもしれませんが、僕は、昔、日本史を学んだとき、聖徳太子が十七条憲法の中で、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧である」と述べていることや、聖武天皇が「朕は三宝の奴である」という言葉に触れたとき、何故、三宝の一つに僧が入っているのか、よく分かりませんでした。仏と仏教の真理である法(ダルマ)が宝であるというのなら分かります。しかし、坊主が宝とは何か、と不思議に思ったことがありました。しかし、サンガにおける比丘(僧侶)たちのあり方をみると、三宝の一つに僧、ないしは仏教教団が数えられることも分かる気がします。比丘になるためには、先ずは家族も財産も全て捨てて出家をします。その上、サンガの構成員になるためには、比丘(男性)は250戒、比丘尼(女性)は350戒の、戒律を守らなくてはなりません。多くの僧侶の前で(三人の戒律を授ける僧侶と、七人の証人としての僧侶の、計10人の僧侶の前で)、戒律を受けることを受戒といいます。奈良の東大寺には戒壇院がありますが、それは日本に正式な戒律をもたらした鑑真によって開かれたもので、あそこで受戒が行われました。戒壇院を守っている方にお聞きしたところ、今でも三十年に一度位、あの戒壇院で受戒が行われているそうです。サンガの構成員としての僧侶は、極めて簡素な生活を送りました。食事は、托鉢によって乞食(こつじき)したものを、午前中にとりました。元来、比丘、という言葉は「(食べものを)乞う」という意味が原意です。午後は、食べることを一切認められませんでした。糞掃衣(ふんぞうえ)と呼ばれる、ぼろきれを継ぎ合わせたものを身にまといました。雨季には、精舎と呼ばれる修行所で修行をおこないました。これを安居(あんご)といいます。このような生活をおくる僧侶の集団であるサンガを、三宝の一つに数えたのは、自然のことのように思います。

仏教の広まり

 仏陀の教えは広まり、クシャトリアとヴァイシャの間に支持者も多くなりました。雨季のための修行の場所であり、布教のための拠点でもある精舎もできました。祇園精舎の由来のお話しもしましたね。在家の信徒のための簡単な戒律である五戒もつくられました。

 五戒とは、不殺生戒(殺してはいけない)、不偸盗(ふちゅうとう)戒(盗んではいけない)、不邪淫戒(淫らなことを行ってはいけない)、不妄語戒(嘘をついてはいけない)、不飲酒(ふおんじゅ)戒(酒を飲んではいけない)の五つの戒律です。比丘と呼ばれる僧侶になるためには、もっとたくさんの戒律を守る必要がありましたが、在家の信徒には、そのような厳しさは要求されず、この五つの戒律を守ることが要求されました。もっとも五戒のなかの不飲酒は(日本では)なかなか守られないようで、お寺さんでも、酒は般若湯(知恵=般若の出る飲み物という意味でしょうか)といって飲まれているようです。

仏教の二面性 悟りと慈悲

 上求菩提と下化衆生という言葉があります。上に悟りを求め、下に生きとし生けるもの(衆生)への慈しみの心を及ぼすこと。つまり「悟り」と「慈悲」です。仏教には二つのことが重要なこととしてありました。仏陀の時代の仏教(原始仏教)ではどうだったでしょうか。皆さんとは前にスッタニパータの慈悲についての一節を読みました。生きとし生けるものに慈しみを、とのあの箇所は、とても素晴らしいものだと、僕は思います。しかし、全体としてみると、仏陀の時代の仏教は「悟り」を求めることを第一に考えていたと思います。前に読んだ仏陀の最後の説教の部分を思い出して下さい。自燈明とか自帰依を説いた箇所です。そこ仏陀はアーナンダに対して、何も頼りとするものはない、自分だけが頼りだと諭しました。

犀の角

 スッタニパータのはじめの部分にある「犀の角」を読んでみましょう。

 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いが生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

 朋友、親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

 子や妻に対する愛着は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことがないように、犀の角のようにただ独り歩め。

 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもの満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少なく、犀の角のようにただ独り歩め。

葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家のしるしを棄て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。

・・・岩波文庫「ブッダのことば」より

 スッタニパータの「犀の角」の一節はまだ続きます。その度に、「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉が繰り返されます。このスッタニパータは、サンガにおいて、仏陀の言葉を忘れないために、韻をふんだ詩の形式で記憶され、修行者である僧侶たちが、折に触れて口ずさんだものです。人は老いる。病にかかる。そして、人は死ぬ。愛するものと別れることは苦しみである。この四苦八苦の苦しみを、どう受け止めたらよいのか。それを求めて、仏陀は29歳の時に、全てを捨てて出家をしました。上求菩提こそ、初期の仏教教団の出家者たちが求めたものでした。

孤高の人?

仏陀はどんな人だったのでしょうか。そんなことは分かるはずがありません。まして、凡人の僕にとってはなおさらでしょう。そんなことは承知で、あえて想像してみると、僕にとってもっともぴったりする仏陀のイメージは「孤高の人」という言葉です。

仏陀について、つぎのようなエピソードが伝えられています。

ある母親が、我が子の死に半狂乱になって、救いを求めて仏陀のもとにやってきました。「子どもが死んだ!」「我が子を救ってほしい」との懇願に、仏陀「子どもを死から救ってあげよう」と言います。ただし、条件として、村に行ってその家の中で葬儀を出したことのない家をみつけて芥子の実をもらってきたら、と付け加えました。藁にもすがりたい思いの母親は、一縷の望みを抱いて村に行き、家々を訪ねてまわります。しかし、インドのような大家族のもとで、村で葬式をしたことのない家など、あるはずがありません。家々を訪ねまわっているうちに、その女性の心は落ち着いていきました。仏陀のもとへもどった女性は、仏陀の弟子として出家をした女性の第1番目になったとのことです。

僕は、教員になってある時期から、何か人が発言をすると、その人が「何を言っているか」というよりも、「どんな気持ちでそのようなことを言おうとしているのか」を感じようとするクセをつけようとしました。スッタニパータに伝えられている「犀の角」の一節のような仏陀の教えの多くの箇所でも、そのような教えを説く人は、どのような心の人だったのだろうかと思います。そして、いま紹介した仏陀のエピソードに垣間見られる仏陀の発言の中にも、「孤高の人」というイメージが浮かんでくるのです。

子どもを失い、半狂乱になっている女性を、仏陀はどのような目で見ていたでしょうか。その女性にたいして、里に下りて死人を出したことのない家を見つけてきたら子どもを生きかえらせてあげよう言い切った仏陀は、どんな人だったのでしょう。人間は死を免れることなどできない。すべてのものは移ろい消えていく。それがダルマ(縁起の法、真理)です。その真理に目が開かれず、つまり無明の故に、哀しい苦しみに呻いているその女性を、静かに冷静に(冷酷にではない!)見守る仏陀という人のなかに、「孤高の人」というイメージが、どうしても浮かんでくるのです。また、前にお話した仏陀の「山上の説法」を思い出してみて下さい。マガタ国を眼下に見下ろす山の上で、仏陀は説きました。すべてが燃えている。無明に苦しむ人々が、渇愛という欲望の炎によって、焦がされるように燃えている。弟子たちに、そのありようをよく見るように諭します。よくよく観察すれば、そのような生き方を厭うはずである。そのように人間の生の営みを見ている仏陀のなかに、「孤高の人」のイメージがどうしてもしてしまうのです。そして、原始仏教がめざしたものは、仏陀と同じ問題意識、つまり、生老病死の苦しみにのたうちまわって生きている人間のありようを厭わしく思う自分は、どのようにその事実を受け止めたらよいのか、それをどう受け止めたら、安心した悟りの境地へといたるかというものでした。

大乗運動

仏陀が亡くなったあとにも、サンガは存続しますが、仏陀の入滅後100年くらいして、教団のあり方をめぐって、保守的な上座部と、進歩的な大衆(だいしゅ)部に分裂をします(根本分裂)。上座部は、仏陀の考えに忠実に従って、涅槃へいたるために修業をしようとし、新しいものの考え方には批判的で、保守的な面がありました。それに対して、大衆部のほうは、より進歩的な僧侶からなっていました。その後、大衆部に近いグループの中から、(または、教団とは異なり仏舎利を祭った塔の管理に関わる人々の中からという説もありますが)般若経の空の思想を背景に、上座部系の仏教を批判して、仏陀の真の精神を再興しようとする、大乗運動が生まれてきました。彼らは、仏陀の真の精神は、生きとし生けるものへの、慈悲の精神にあったと確信しました。仏陀の教えは、全てのものを救いに導こうとする大きな乗り物であり、上座部系の仏教は、自分自身の救いのみをめざす小さな乗り物であるとしました。仏陀の真の精神を引き継いでいるとの自負を胸に、彼らは、自らの仏教を大乗仏教と呼び、上座部系の仏教を、自分の救いのみをめざす小乗仏教と呼びました。

皆さんは蓮華の華を知っているでしょう。上野の不忍池にも美しい蓮華の華がありますね。蓮華の華は、インドでは国を象徴する華です。しかし、一方で、蓮華の華は大乗仏教の精神を象徴してもいます。蓮華の華の特色は、泥の中で育ち美しい華を咲かせることです。真の悟りとは、上座部のように、人里はなれた森の中で、生活の臭いすらしない静寂の中で得られるものであろうか。むしろ人々の生活の只中で、初めて真の悟りは得られることができるのではないだろうか。ちょうど、泥の中で美しい華を咲かせる蓮の華のように。このような観点から、出家中心の上座部の仏教に対して反発をする、大乗仏教が生まれてきました。

阿羅漢と菩薩 菩薩と仏

上座部の仏教では、仏陀は特別なもので、仏陀の悟りは「仏の悟り」であり、人間が得ることは難しいものとされました。だから、修業の目標は、せめて仏陀の説いた教えの真意を理解して悟り、人々から尊敬され、施しを受けるに相応しい境地、つまり、阿羅漢の境地に至ることでした。この阿羅漢の境地こそ、人間が到達できる最高の境地とされました。阿羅漢を理想とする上座部に対して、大乗仏教の理想とされたものが菩薩です。菩薩とは、もともとは悟りを開く前の修業時代の仏陀を意味しました。大乗仏教では、この菩薩に特別の意味をこめます。仏陀は人々を救うために修業して悟りを開きました。そのように、衆生済度のために修業をするものを、大乗仏教では菩薩と呼ぶようになります。

菩薩と仏(如来)はどういう関係になっているのでしょうか。菩薩は悟りを開く前の段階、つまり仏の前の段階で、仏のほうが高い立場にあると考えられます。しかし、そう単純ではありません。菩薩像と如来像を比べてみると、菩薩像は出家前の仏陀がモデルで、装身具をつけています。それに対して、如来像は、出家後の仏陀がモデルですから、装身具は一切つけていません。そして、悟りを開くと彼岸へと行ってしまうと考えられます。だから、人々を救うためには、彼岸に行かずに、此岸にとどまる必要があります。つまり、自分の悟りをさしおいて、この世界に留まって、慈悲を実践する菩薩こそ、理想の姿と考えられます。もっと見方を変えると、本当なら悟りを開いて自分だけ彼岸に行くことができるのに、それをさしおいて、衆生済度のために、この世で励んでいるものこそ菩薩だと考えると、仏のほうが菩薩より高い立場とも、単純には言い切れません。ちょっと乱暴な比較ですが、受肉したイエスだからこそ、罪深い人間を救うことができると考えるキリスト教の考えと、一脈通じるところがあるかもしれません。とにかく大乗仏教では、衆生を救うために、願をかけ修業をしている菩薩が理想と考えられるようになりました。

六波羅蜜

菩薩の歩む修業の道(菩薩道)を六波羅蜜といいます。六波羅蜜とは、六つの完成という意味です。布施(惜しみなく施しを与える)、持戒(戒律をまもる)、忍辱(にんにく)(辱めを耐え忍ぶ)、精進(努力をする)、禅定(精神統一をする)、般若(空の智恵をもつ)の六つを完成するという意味です。

新たな息吹

仏陀の真の精神が、自己の悟りをめざすというよりも、慈悲の実践にあったのだということを確信した人々によって、大乗仏教がつくられていきました。この大乗仏教は、停滞していた仏教に新しい息吹を吹き込みました。大序仏教の運動を担っていった人々は、仏陀の真の精神を受けついでいるとの信念から、新たに、仏陀がこのように語ったとの新しい仏典を作り出していきました。「般若経」、「維摩経」、「法華経」、「華厳経」、「阿弥陀経」、等々の大乗経典が作られていきます。初期の大乗仏教は、思想的に空の思想を背景に生まれました。この空の思想を完成したのが、ナーガールジュナ(竜樹)です。

この章はこれで終ります。次章では初期の大乗仏教を支えた空の思想を中心に大乗仏教の話を続けます。



第33回 維摩の一黙
~空の思想と大乗仏教~

 今日は。前章では大乗仏教の特色を、大乗仏教の運動をになってきた人々が小乗仏教と呼んだ、上座部の仏教と比較してお話しました。小乗仏教が理想の境地とし目指したのが阿羅漢であったのに対して、大乗仏教は菩薩を目指しました。衆生への慈悲からくる願をたてて修業に励む菩薩は、大乗仏教の理想でした。大乗仏教運動を進めていった人々は、仏陀の真意を理解したとの信念から、仏陀はこのように語ったという形で、新たに大乗仏教の経典をたくさん作り出していきました。「般若経」「維摩経」「法華経」「華厳経」など、日本の仏教にも大きな影響をあたえた経典が、次々と作られていきました。
 
 この章では、大乗仏教の成立の理論的背景となった「空の思想」について、考えながら、お話したいと思っています。 

空をどう理解するか

 大乗仏教の成立は、空の思想を理論的背景にしていました。「空」とは、全てのものは絶対的なものではなく、実体性を欠いているということです。しかし、それなら「縁起」と同じです。「縁起」は、全てのものは相互に依存しあっていて、絶対的なものは何もないということです。この点では「縁起」と「空」は同じと言えるでしょう。でも「縁起」と「空」ではその視点ともいうべきものが違います。今、いくつかの点から「空」について考えてみます。

維摩経

 大乗仏教の経典の一つに「維摩経」があります。この経典は、在家の仏教徒である維摩が主人公になっています。維摩が病気であるということを聞いた仏陀は、弟子たちに維摩の見舞に行くように促しましたが、誰も行くことにしり込みします。何時も維摩にやりこめられていたからです。結局、最後に文殊菩薩が見舞いに出かけることになりました。文殊菩薩と維摩の話はきっと素晴らしいものだろうと期待した多くの菩薩や弟子たちも、文殊とともに、維摩の家に出かけます。

 「維摩経」では、在家の仏教徒である維摩に、シャーリープトラ(舎利子)のような仏陀の弟子である出家者がやりこめられます。このような設定の中に、出家中心の上座部の小乗仏教に対して、大乗仏教を作り上げていった人々の気持ちが現れていると思います。

 維摩の家に着いた文殊が、維摩の病気は何によるものかを尋ねると、維摩は「衆生が病むから、自分も病む。衆生の病が癒えれば、自分の病も癒える。」と答えます。この維摩との話の始まりは面白いと思います。人間は一人で生きているわけではありません。相互に関係しあっています。ある部分が病むとき、他の部分はその病に無関係ではないと思います。仏教的に言うと、無自性の世界では、全ては相互に依存しあっています。全ては縁によって繋がっていることを強調していくと、華厳経の世界になっていくでしょう。そのように考えていくと、特に現代の社会におけるように、絶望的に病んでいる部分があるとき、それは自分とは無関係であると、または、自分はそうでなくてよかったと思うことがゆるされるのか、考えさせられます。宮沢賢治の「世界の全体が幸福にならない限り、個人の幸福はありえない」という言葉が思い出されますね。

 ちょっと脱線しました。「維摩経」にもどります。「維摩経」の中に、次のような場面がでてきます。文殊と維摩の話を虚空で聴いて一人の天女が、その話があまりに素晴らしいので、姿をあらわし花を投げます。花は地上に落ちますが、維摩やその他の菩薩たちに触れた花は、そのまま地面に落ちるのですが、シャーリープトラなどの声聞たち(仏の声を聞いて導かれるもので、仏陀の弟子である出家者をさしている)に触れた花は、地面に落ちずに身体にくっついて離れません。シャーリープトラとは仏陀の弟子の一人で、「知恵一番のシャーリープトラ」と呼ばれました。プトラとは「子」という意味で、シャーリープトラは「舎利子」とも言います。有名な般若心経にも出てきますね。自分の身体にくっついた花を振り落とそうとしているシャーリープトラに対して、天女が「何故、何のためにそのようなことをしようとしているのか」とたずねます。それに対してシャーリープトラは、「私のような出家が身を花で飾ることはふさわしくない」と答えます。それに対して天女は言います。「何故、あなたはそのようなことを考えるのか。ここにいる菩薩たちは、自分が花で身を飾ることはふさわしくないなどと考えもしない。だから花は彼らにくっつかない。でもあなたは、自分が出家者である、たから身を飾ってはいけないと考えている。だから、花はあなたにくっついてはなれないのだ。とらわれてはいけない。」

自性がない

 ここで注目したいのは、「とらわれてはいけない」ということです。空の思想によると、永遠にとどまるもの、実体的なものは何もありません。このことを自性(じしょう)がないといいます。出家と在家、聖と俗という区別・差別はありません。むしろ、そのように区別しとらわれるところに、執着が生まれ、迷いが生じます。

 般若経には、普通に論理的に考えると、理解不能な言葉が多く出てきます。布施は布施でないから布施である。菩薩は菩薩でないから菩薩である。などです。しかし、こう考えると理解できるでしょう。布施とは惜しみなく施しをすることで、大乗仏教の菩薩がめざす六つの完成(六波羅蜜)のなかで、知恵の完成(般若波羅蜜)と並んで、最も重要なことと考えられています。しかし、何かの施しをしているとき、自分が施しをしていると意識しているようでは本当の施しではないといえます。例えば、善行を行うとき、これは善い事で、それを今自分がしていると本当なら考えないでしょう。もし自分の善行を意識しているなら、善行にとらわれているのです。自分が菩薩であると考えているような人は菩薩ではありません。

まだ背負っているのか

 仏教の有名な話を一つ。ある住職が弟子の小坊主をつれて出かけたとき、途中で水溜りがあってその前で美しい女性が立ち止まっていました。それを見ると、その住職はその女性に背中を向けて、背負ってあげ、水溜りを渡してあげると、そのまま道を急ぎました。その道すがら、小坊主は何となく釈然としない気持ちでした。和尚さんはいつも女性には気をつけろとか言っているのに、どうしておんぶをしてあげたんだろう、などと考えていました。どうしても気になった小坊主は、とうとう住職に質問をしようとしました。「和尚さん。さっきの女性のことですが」と言いかけたとき、その住職は小坊主を一喝しました。「なんだ、お前はまだあの女性を背負っているのか!」

縁起と空

よく縁起は論理的だが空は直感的だと言われます。原始仏教の縁起の立場からは、一切皆の現実から始まります。人間は苦しむ。この苦しみは何によって起こるのか。それは渇愛による。ああしたい、こうしたい。喉の渇きにも似たこの渇愛の故に、苦しみがおこる。それでは、この渇愛は何によって起こるのか。それは、全てのものは変化してとどまらず、絶対的なものは何もないという真理(縁起の法)についての根本的な無知である無明から生じる。それ故、無明がなくなれば渇愛がなくなり、渇愛がなくなれば苦がなくなる。この実相についての澄み切った洞察が、縁起の法を悟るということでした。それに対して、空には、そのような論理はありません。第一、絶対的な「苦」とか「迷い」とか「無明」という実体があるわけではありません。全ては無自性であり、「悟り」と「迷い」の間ですら、絶対的な差異があるわけではありません。「般若心経」を読むと、無明などはい。無明が尽きることもない。苦集滅道(四諦)もない。そのようにまで言い切っています。

「空」とは「縁起」のように、明確に論理化されたものではありません。「維摩経」のクライマックス的な部分に「不ニの法門」についての章があります。「不ニ」とは相対的な他事物の対立そのものを越えたところにあります。その意味では、「出家」と「在家」の対比にこだわっているシャーリープトラは、天女からたしなめられます。元来、仏教では相対的知識、この私が何かを対象化して分別することによって得られる知識、そのような立場は否定されます。「無分別」や「無学」や「言語道断」は、僕たちの日常の用語では良い意味ではありませんが、仏教では、むしろ最高の境地をあらわします。「不ニ」についてさまざまの説明をする菩薩たちに対して、文殊が彼らを批判して、そのような言葉による説明そのものが「不ニ」ではなく、「分別」をともなう「ニ」なのだと答えます。最後に文殊が維摩に「不ニ」を問いかけます。それに対して維摩が沈黙をもって答える。有名な「維摩の一黙」です。強いて言うなら、「空」とは、縁起のような論理的なものではなく、もっと直感的なものです。

よく電車の中でお年よりが近くにいる時、席を譲ろうと思うのですが、何となく気恥ずかしくて、席をたてないまま過ごしてしまうことがあります。自分の行為を人がどう見るかを意識してそのことにとらわれているからでしょう。

こんな話をきいたことがあります。僕の知っている友人の話です。ドイツに留学をしていたとき、ある教会の聖堂で儀式をしていたとき、後ろのほうに仏教の坊さんがいたそうです。その坊さんは、儀式が終わったときに、前の方につかつかと歩みよって、祭壇の上にたっていた司祭に手を伸ばして、自分の考えていることとあなたの考えていることは同じだと、握手を求めたというのです。その光景を見ていた彼は、恐らくひやひやしていたのでしょう。何か場違いなことを、その僧侶がやろうとしていると思ったかもしれません。でも僕の友人は、その坊さんはたいしたものだと思ったそうです。自分が感じ入ったら、そのことを何のためらいもなく、すぐに行動に移すことができる。何ものにもとらわれたい自由を感じたそうです。

空の思想によれば、絶対的な悟りも迷いもない。出家者と在家者という差別もない。全てのとらわれを去って、自由に慈悲の精神を生きようとするところに、大乗仏教の始まりがあったと思います。



第34回 釈迦仏をこえて
~大乗仏教をめぐって~

 今日は。この章で仏教のお話は終わりです。前章では、空の思想について考えてみました。大乗仏教は、多くの経典を生み出していきました。特に、中国や日本に伝わった大乗仏教は、独自の発展をとげました。この章では、大乗仏教を巡っていくつかの断片的なお話をしてみたいと思います。

仏陀観の変遷

 前にもお話したように、サンガでは、仏陀は尊敬をされていましたが、特別の崇拝の対象ではありませんでした。修行者たちは三学(「戒定慧」と呼ばれ、戒律とまもり、精神統一をし、智恵を追求すること)に励み、心の自由(悟り)をめざしました。仏陀観の変化は、仏陀の死後おこりました。仏陀の死後、仏陀の神格化がはじまります。ブッダガヤーで悟りを開いた仏陀は、実は仮の姿であり、本当は永遠の昔から悟りを開き、法を説いていた(「法華経」)などという考えも出てきます。仏像の誕生が、この傾向に拍車をかけたことは確かでしょう。そうなると、「仏陀の悟り」は「仏の悟り」であり、普通の人間が仏になる(成仏)ことは恐れ多い。せめて、仏陀の真意を理解して悟る境地=阿羅漢の境地をめざそうということになります。このようななかで、仏陀は神格化され、仏陀に対する信仰が生まれてきました。

法隆寺雑感

皆さんは法隆寺に出かけられたことがあると思います。聖徳太子により創建されたこの寺は、現存する世界最古の木造建築を含むとの触れ込みもあって、あまりにも有名ですから、中学高校の奈良京都への修学旅行では定番となっています。僕がつとめる学校でも、修学旅行では必ず訪れるので、僕ももう何回も訪れています。法隆寺では、やはり「西院伽藍」が有名ですね。金堂の釈迦三尊像は高校の日本史の教科書にもよく写真が掲載されているので、皆さんもご存知でしょう。西院伽藍の中では、僕は大講堂が好きです。大講堂が好きというのは正確ではありません。大講堂の薬師如来を拝観するのではなく、薬師さんに背を向けて、講堂の中からの眺める景観が好きといったほうがよいでしょう。奈良のお寺と京都のお寺との間には大きな違いがあります。自然の中にそっと包み込まれるようにたたずむ京都のお寺に対して、奈良のお寺では、自然空間の中に突然出現した壮大な伽藍を特色としています。あの時代、仏教は個人の内面に問いかける信仰というよりも、寺院を創建した人々の力を誇示するものであったでしょう。聖徳太子の派遣した遣隋使への応答使として、隋から派遣された裴世清は言っています。日本には道らしい道はない。日本の道は獣道のようだ。前を行く人の姿は、草ですぐに見えなくなってしまう。このような報告を裴世清はしています。もっとも、彼らが上陸した対馬は、道が余り整備されていないことで有名ですが・・。しかし、当時の日本には、まっすぐにのびた大路などはなく、大部分の国土には未開ともいえる自然の姿のままであったでしょう。そのようなことを意識しながら、法隆寺の大講堂から西院伽藍を眺めてみると、その景観は眺めるものを
圧倒する印象を与えたはずです。ここに集まった学生(僧侶)は、この大講堂で仏教の勉強をしたでしょう。恐らく、全国の各地から優秀な頭脳が集まったのではないでしょうか。彼らが研鑽の合間に、この講堂から、五重塔がそびえる大伽藍の景観を眺めたとき、恐らく、彼らはこの国の中心に位置する一大文化センターに今来ているのだとの感慨を強くもったはずです。皆さんも機会があったら、法隆寺の伽藍の景観を、大講堂から見てみてください。僕が大講堂の中から撮影した写真を載せておきます。

 この法隆寺の大講堂については、ある思い出があります。今から15年くらい前でしょうか。高3の関西旅行で法隆寺を訪れたときのことです。講堂の中から法隆寺の伽藍の眺めているとき、一連のおばさん連中がやってきてきました。薬師如来の前にたって横に一列に並ぶと、リーダーらしいおばさんが、「いいですか?はじめますよ。せーの」と号令をかけると同時に、一斉に般若心経を唱え始めたのです。「カンジーザーイボーサー、ギョージンハンニャーハーラーミータージ・・・」あの難解な般若心経を、あのような形で読誦するというのは何だろうと不思議に思いました。でも、よく考えてみると、大乗仏教の中にはそのような要素があるように思います。出家者である僧侶のためばかりではなく、在家者のための平易な行が、大乗仏教では考え出されました。その一つが、陀羅尼(ダラニ)とよばれた、ある種の呪文です。般若心経の最後の部分の「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー ボージソワカ」の部分は少なくともそのような呪文でしょう。また、このような具体的な行や骨肉化(?)した行を含まないものは、実際の民衆の宗教としては力を持ち得ないのでしょうか・・・

釈迦仏をこえて

 大乗仏教のもう一つの特色は、悟りを開いて仏陀となったのは、仏陀(ゴータマ=シッタルダ)のみにかぎらないとして、さまざまの仏や菩薩を生み出していったことでしょう。いくつかの代表的な仏さまや菩薩を紹介します。

 お釈迦さまは、過去に出現して悟りを開き、仏となりました。それに対して、弥勒菩薩は、未来仏です。兜率天(とそつてん)(将来、仏となる菩薩が、地上に下るまでの最後の生涯をすごす場所)で将来人々をどう救うかを思惟しています。中宮寺や京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩は有名ですね。過去仏の釈迦仏と未来仏である弥勒菩薩の間の現在は、無仏の時代となります。この無仏の時代に、人々を救うのが地蔵菩薩です。人間を含めて、衆生は輪廻を繰り返します。六道輪廻といって、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六つの世界を輪廻します。それぞれの六つの世界で衆生に救いの手をさしのべる菩薩として、よく六地蔵が村の辻などに祭られているのを皆さんもご存知ですね。また、時間の軸ではなく、空間的にも、西方には極楽浄土があり、阿弥陀如来(阿弥陀仏)が、衆生の往生の願いをかなえるべく、慈悲の心を澄ませて待機しています。東方の浄瑠璃浄土には、薬師如来がいて、病に苦しむ衆生を救うべく、手に薬壷をもっています。その他にも、多くの菩薩、如来が大乗仏教には登場します。そうすると次にはある問題が生じてきます。そもそも、このようにたくさんの菩薩や如来の関係はどうなっているのだろうか。もっと俗っぽい表現で言うと、一体、どの仏さまが一番えらいのかという問です。そこに登場するのが盧舎那仏です。さまざまの仏や菩薩は、根源的な盧舎那仏の顕われとされます。聖武天皇が、奈良に東大寺を建てて、盧舎那仏を安置し、地方ごとに国分寺を置き、仏像を安置した意図は明瞭ですね。国分寺の仏は奈良の東大寺の盧舎那仏のいわば分身であり、根源的な中心は、奈良の東大寺にあるということでしょう。華厳経のこの盧舎那仏は、やがて密教では大日如来と呼ばれるようになります。

妙法蓮華経

 なんとなく仏教の常識的なお話をしていますが、最後に、「法華経」について一言お話をして仏教の話をおしまいにしたいと思います。仏教のお経の中で、「般若心経」と並んでよく読まれてきたのがこの「妙法蓮華経」、略して「法華経」です。「法華経」とは「白蓮のごとき正しき教え」を意味します。前に大乗仏教の側から小乗仏教を批判した時に、蓮華の花の意味をお話しました。現実の真っ只中にのたうちまわって生きていかなくてはならない人間。汚濁の中で生きているからこそ、美しいものにも憧れ、美をつくりだすことができる。煩悩もない天子からは、悟りも生まれるはずがない。泥の中で美しい花を咲かせる白蓮の教えが「法華経」と言われます。

一乗思想

法華経の思想の中で重要なものに、一乗思想というものがあります。乗とは救いへといたる乗り物で、大乗仏教,小乗仏教というときの乗です。大乗仏教では、上座部系の仏教に対する批判から、大乗仏教(菩薩乗とも言う)以前の仏教について、次のような批判を展開しました。仏陀の直接の弟子で出家者たちの悟りを「声聞(しょうもん)」とよびました。また原始仏教の仏陀の縁起説や四諦説は、特に仏陀から教えを受けなくとも考えて悟ることができるはずです。そのように仏陀の助けをかりずとも自分でそのような悟りを開いた者を「縁覚」、または「独覚」とよびます。そして大乗仏教の中には声聞や縁覚は劣った教えというだけでなく、声聞や縁覚は救われないとまで主張するようになりました。そのような考えに対して「法華経」では次のような話しを伝えています。

ある長者の家が火事になった。長者の家の中には子ども達がいて、遊びに夢中になっています。火事だといっても、遊びをやめそうにありません。そこで長者は一計を案じて、子供たちの興味をひく羊と鹿と牛の車をみせてそれを与えるといって、無事に家の外に救い出すことに成功した。燃えている家から無事に脱出した子供たちに、長者はもっと立派で大きな白い牛の車を与えました。火宅の譬えとして有名な話です。三つの車は声聞乗、縁覚乗、菩薩乗をあらわします。声聞や縁覚は劣った教えではあるが、訳の分からない子どもたち(衆生)に理解されやすいように、長者(仏陀)が一計を案じたもので、衆生を救うための方便(嘘も方便といいます)で、優劣の差はあっても救いのためという点では同じであるとされます。一乗思想はこのように、声聞であろうと縁覚であろうと、全ては救われるとの思想をもっています。法華経を一番重要な経典とした中国の天台宗を日本に導入した最澄は、比叡山に延暦寺を開きましたが、この延暦寺の始まりは一乗止観院といいます。
                
常不軽菩薩

 法華経には人間に対する愛というか尊敬というか、又は、人間であることへの肯定的は姿勢があります。法華経に常不軽菩薩という菩薩が登場します。実はこの菩薩は釈迦の過去世の姿なのですが、この常不軽菩薩はどのような人に対しても、自分を迫害する人に対しても、決して怒りや軽蔑の念を抱くことなく、何時もその相手に「私はあなたを軽蔑しません。あなたは将来悟りを開いて仏となる方なのですから」と伝え合掌します。よくキリスト教の人は、「愛」というのはキリスト教の専売特許のようにいうことがあります。でもそんなことはありません。もっとキリスト教はがんばらなくては、その愛という特色すら、無内容との謗りを受けることになるのではないかと,僕は内心心配しています。

「法華経」のなかの観世音菩薩普門品には、独立して「観音経」として広く親しまれています。衆生のあらゆる声を観じて、33の姿に変化して衆生を救うという観世音菩薩は、仏教の慈悲を具現化した菩薩です。33に姿を変えるということから、各地に観音霊場の33ヶ所が設けられていますね。観世音菩薩の名を唱えることで危機から救われるという、現世利益的な面もあると指摘されますが、人々の観音信仰の根強さは浅草の浅草寺の観音様というように、各地に観音信仰のあとがみられることからもわかります。一見グロテスクともみえる千手観音も、それだけの救いの手が欲しいと願う人間の思いや、観音信仰の現われであるとしてみると、不思議な感慨を覚えます。

 この章で仏教の話を終ります。仏教にはまだまだ多くの側面があり、知識的にも汲めども尽きない内容があります。興味のある人は自分で研究してみてください。次章からは古代中国のお話です。