廃仏毀釈と興福寺

廃仏毀釈と興福寺

 飛鳥には飛鳥寺 石舞台古墳 甘橿丘など蘇我氏に関係した遺跡や場所が多くあります。しかし奈良市には藤原氏の力を示す事物が多く残されています。現在の奈良公園付近を地図で見てみると、かつては今よりもずっと広大な境内を誇っていた興福寺や春日大社がありますが、それらは藤原氏に関わる寺社でした。興福寺は南都北嶺と呼ばれるように比叡山延暦寺の北嶺に対して南都を代表する寺院としての威勢を示していました。また、興福寺のすぐ北にある東大寺も、藤原氏との姻戚関係にある聖武天皇と藤原不比等の娘で実家である藤原氏への帰属意識の強かった光明皇后によって推進されたものであり、藤原氏とのかかわりのある寺院といえます。その意味では平城京(特にその東側)は藤原一族とのかかわりのある地域と言えます。

 特に、興福寺は藤原氏の氏寺として、春日大社もその支配下において、勢力を誇ってきました。興福寺の衆徒が春日大社のご神木を振りかざす強訴を強行したことはよく知られています。興福寺境内の国宝館を一巡すると、興福寺のかつての威容をしのぶことができるでしょう。興福寺は繁栄し、所有する荘園は東大寺をはるかにしのぐ広大なものになりました。

 戦国時代になると、興福寺は衰退の一途をたどります。また、江戸時代には享保二年(1717年)の大火で多くが焼失しました。その後、再建の努力もなされましたが、明治になって新政府の出した神仏分離令により、春日大社と一体となっていた興福寺の体制は瓦解しました。興福寺のすべての僧侶は還俗させられ、境内の土地は政府に没収され、同舎は官庁に転用されました。それにともなって従来の興福寺の境内には道路が通り抜けるようになりました。

 元来、日本における仏教は日本の神々と共存的な関係にたってきました。神仏習合によってその関係は密接になっていきました。しかし、本地垂迹説に見られるように、仏が本(本地)でそれが具体的な姿を取って現れた(垂迹)のが神であるとされ、仏教のほうが神道よりも上におかれました。興福寺が春日大社を実質的に支配したことからもこのことはわかります。この傾向は、江戸時代に仏教が寺請制度のもとに国家の統制のもとに、言わば国家仏教となったことによって助長されました。

明治政府は新たな国家づくりのイデオロギーに天皇制を使いました。新政府は天皇の神的権威を確立するために神道を保護し、その一環として、神仏分離令が発布されました。それに伴って廃仏毀釈の嵐が吹き荒れることになります。江戸時代には大寺院では僧侶身分は神職身分の上におかれていたため、神職側からの勢力回復をねらう動きがみられました。仏教寺院の破壊や仏像・経典などの破壊や焼却が行われました。廃仏毀釈は比叡山の日吉大社で激しく展開されたことが有名ですが、興福寺も大きな痛手を受けました。猿沢池から眺める国宝の五重塔は奈良の風景を代表するものですが、この国宝が薪材として240円で売却されようとしたこともありました。現在、県立公園としては日本一の面積を誇る奈良公園も、このような情勢のなかで、興福寺の境内と猿沢池を合わせて1880年につくられたものです。

宗教には「聖と俗」との区別があります。宗教は聖なるもので、われわれの生活をする現場は俗なるものといいます。英語で profane という言葉は「俗」を意味しますが、この言葉は、元来、pro と fanum という二つの言葉からなります。proとは「前」でfanumとは「寺院」とか「聖所」を意味します。つまりprofaneとはもともと教会の聖堂から一歩外にでたところ、「聖堂の前」を意味しました。ミサに参加した人が、または聖堂で祈りをささげた人が、教会の扉を一歩外に出たとき、ほっとする(?)、その場所をprofanumつまり、「俗」といいます。

仏教では「結界」と言う言葉があります。ある場所や空間を囲うことで神聖なるものと俗なるものを内と外で分けることです。神社などに見られる注連縄(しめなわ)も結界の一つです。昔は比叡山でも高野山でも「女人結界」と呼ばれ、女性は足を踏み入れることができませんでした。室生寺は真言宗の寺院ですが、女性の入山が許されていたので「女人高野」と呼ばれました。大乗仏教は聖俗を差別することには反対する傾向をもっていますが、それでも、寺院の境内は結界の内側で、山門や南大門から入るとき、気持ちの上ではある種のサンクチュアリー(聖域)に入るのだとの気持ちになるのではないでしょうか。

興福寺にはそのような結界がありません。堂宇は道路によって分断され、興福寺の境内と他を区別する囲いはありません。人々が興福寺を参詣にきたのか、奈良公園で散策を楽しむためにきたものか、あるいは鹿と戯れるためにいるのか、判然としない現状です。興福寺が興福寺として復興するのはまだ時が必要なのかも知れません。