清水寺
「苦しいときの神だのみ」という言葉があります。「苦しみ」はいろいろです。絶体絶命の危機もあるでしょうし、もっと根源的な実存的な苦しみもあるでしょう。人間には誰でも「助けてください」とか「許してください」とか叫びたくなる瞬間があります。仏教ではそのようなときに思い浮かべるのが観音さまです。法華経の観世音菩薩普門品には「若し無量百千万億の衆生ありて、諸の苦悩を受けんに、この観世音菩薩を聞きて一心に名を称えば,観世音菩薩は、即時にその音声を観じて皆、解脱(まぬがる)ることを得しめん」(岩波文庫「法華経」)とあります。観音さまは、「お前はそのために何をしたか」とか「お前は救われるに値するか」とか問いつめることはありません。救うべき人間のありように応じて、三十三に身を変化して人々を救ってくれる観音は、仏教の慈悲の権化として多くの民衆から信仰されてきました。
清水寺のご本尊は秘仏の十一面千手観音。坂上田村麻呂にゆかりのある清水寺は平安時代の初めから人々の信仰を集めてきました。観世音菩薩が三十三に身を変えることから三十三箇所の観音霊場巡りがおこりました。四国三十三箇所の十六番目にあたる清水寺は、「観音験(しるし)を見する寺、清水・石山・長谷の御山…」(「梁塵秘抄」)と伝えられているように、観音霊場の筆頭にあげられ、「源氏物語」から「枕草子」その他の文学書にも「清水詣」や観音の霊験利益が伝えられています。
「清水の舞台から飛び降りたつもりで」という言葉があります。「清水の舞台」とは本堂の舞台で崖に懸けられるように造られています(懸造(かけづくり))。観音さまを信仰する人々が、願かけの最終日に、この舞台から下に身を投げると、願が成就すれば怪我がなく、願がかなわなければ死んで成仏できると信じられていたため、古来より自殺者が絶えませんでした。これにちなんで死を覚悟してことをおこすことを「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがうまれました(平凡社「百科事典」)。
崖下の音羽の滝は「清水」の名前の由来となった滝で、京の名水の一つ。さまざまの病に効能があり、また祈願成就にご利益があると信ぜられています。
とにかく、清水寺は観音信仰の中心として参詣者が絶えず、その近辺は参詣者をあてにした店で賑わってきました。皆さんが自由行動の時間に買い物をする場所にもそのような土産物店が並んでいます。清水寺から坂を下ってバスの駐車場にいたる道の「七味屋」の角を右に曲がると三年坂です。左に曲がると五条坂です。この五条坂を下っていくと現在の五条大橋にいたります。曲がらずにまっすぐ行くと清水坂です。この清水坂が昔からの「清水詣」の正式ルートでした。この坂をくだって清水道の信号をわたってまっすぐいくと空也上人ゆかりの六波羅蜜寺にいたります。空也上人像は口から六つの小さな仏さまが出ていて、「南無阿弥陀仏」と唱える念仏を形に表したことで有名ですが、この空也上人像にはこの六波羅蜜寺でおめにかかることができます。さらにこの道を進むと松原橋にいたります。この松原橋が昔の五条橋で、義経と弁慶が戦ったと伝えられる「京の五条の橋」とはこの松原橋でした。松原橋を渡って京の人々はせっせと清水詣でに向かいました。清水詣での参詣の途中に多くの土産物店があふれ人々が賑わうのも、現世利益をおおらかに認めてくれる観音さまの恵みの一つというべきでしょうか。
ところで、「清水の舞台」からの眺めは絶景です。京都の東山の音羽山を背にした位置からは京都市街が一望できます。昔の旅人は山科から東山を越えてまずこの清水寺に参詣して、都を眺めて坂を下りて五条大橋から京都に入ることがお決まりのコースでした(平凡社「百科事典」)。旅人はこの清水寺の舞台から都を眺めて、たどってきた遥かな旅路を思い返し、これから入ろうとする都への憧れに心躍ったのではないでしょうか。上の写真は「清水の舞台」を撮影したものです。遠景に物議をかもした京都タワーをかすかに望むことができますね。
この文章は、昔、高2の修学旅行のために生徒たちとつくった栞に寄稿したものです。以下にも、この「古都の風に吹かれて」では、同様に7修学旅行を意識したものが多くあります。