私はここにいます ~「槙の木学園」の思い出~
教師になってまもなく、クラブの顧問として、毎年夏休みに、千葉県にある「槙の木学園」という施設に泊り込みの合宿をする機会に恵まれた。知的障害をもつ子どもたちのためのこの施設の園長であった斉藤茂先生は、あまり役に立たない僕たち来訪者に、多くのことを教えてくれた。この施設には軽度から重度の障害をもつ子どもたちがいること。重度の障害を負った子どもたちは、お産のときのちょっとした具合で重い障害を負うことが多く、特別のケースではないこと。障害のある子は、僕たちが普通にできることが、簡単にできないこと。例えば、手の親指と他の指を順番にふれていくことも、大変なことだそうだ。今でこそ、バリアフリーや、ノーマライゼーションという考えは常識となっているが、当時の僕はそのようなことも知らなかった。斉藤先生は静かに、しかし情熱的にお話し下さった。施設が閉鎖的にならないように、外の空気に子どもたちを触れさせたいとの気持ちから、僕たちの合宿を気持ちよく受け入れてくれた。施設の子どもたちは元気だった。僕たちは、子どもたちと遊び、庭の草を引き、掃除のお手伝いをした。
施設で出合った子どもたちの中に、テッチャン(仮名)という少年がいた。年齢は14.5歳くらいに見えた。しかし、実際は18歳で、その年を最後に、大人の施設に移ることになっていた。テッチャンの障害は重かった。毎日の朝礼でも、テッチャンだけは列に並ばず、体育館の外の道端にすわって何か声を出しながら、草をむしっていた。施設の人たちもテッチャンを列に並ばせることをあきらめているように見えた。僕はテッチャンと遊ぶことはあきらめ、コミュニケーションをとりやすい子どもたちと遊んだ。
合宿を終えて東京に帰る日、忘れられないことが起こった。僕はバスの出発に合わせて帰り支度をしていた。たまたま借りていたリコーダーを持ち主のマスミ(仮名)に返そうとして、僕は園の庭でマスミを探していた。その時、突然、僕の背後にいたテッチャンが僕の手からリコーダーを奪い取った。僕はあわてた。テッチャンからリコーダーを取り返すことは至難の業だ。絶望的な気持ちで、「これはマスミの笛で、マスミに返したいんだ」とテッチャンに言った。僕は直接マスミにリコーダーを手渡したかった。しかし、テッチャンは逃げまわる。とうとう庭から建物の中に入り、廊下を奥へと走った。僕は追いかけた。テッチャンは一番奥の部屋に駆け込み、ロッカーにリコーダーを投げ込んだ。僕は、これはマスミの笛だからといって、ロッカーを開けようとした。そして、僕は見た。ロッカーの扉には「マスミ」と記されてあった。
僕は胸が熱くなった。僕がコミュニケーションは不可能と思っていたテッチャンは、同室の友達のマスミに笛を返さなくてはと思っていた。テッチャンにはテッチャンの心があって、その心は動いていた。しかし、僕にはその心が分からなかった。というよりも、分かろうとしなかった。人を分かるということはどういうことか。あの人はこんなことができる。このような技能がある。知識が豊富である。それを知ることが、その人を分かることなのか。そうではない。今、そこにいる、その人。友達のことを思い、嬉しいと感じ、悲しいと思っているその人。その人のその心を感じとることが、その人を分かるということなのだ。僕はそう思った。
僕たちは、自分以外の人のことをどれだけ分かっているだろうか。人を分かるとは、どういうことだろうか。僕たちは、自分の心がいまどんな状態かは知ることができる。自分が嬉しいとき、自分が悲しいとき、その自分の心を感じることができる。しかし、他の人はどんな心でいるかは、僕たちは分からない。自分が何気なく言った一言が、どんなにその人を傷つけているかも、僕たちは気がつかない。他の人たちの外見、特徴、特技、能力などの外面はわかりやすい。しかし、そのことを知ることが、本当にその人を分かることではない。誰でも、ちょっとした言葉に喜び、傷つき、悲しむ。それを感じ、それを大切にすることこそ、その人を分かるということではないか。僕はそう言いたい。槙の木学園とテッチャンは、僕にそんなことを教えてくれた。
随分昔に書いたものですが、相模原の障害者施設での殺傷事件を受けて、思うところがあります。コミュニケーション不能な重度の障害者を人間と認めない加害者の発言、また、この事件を通じて生まれている障害者施設の方々が抱く隔離化への不安。そんな風潮が起こるとするなら、ささやかな抵抗になればと思っています。