六角堂

六角堂

 

 

地下鉄の烏丸御池で降りて3分ほど南に歩くと六角堂があります。六角堂の正式名称は紫雲山頂法寺。聖徳太子による創建とされるこの六角堂のご本尊は如意輪観音で、御丈1寸8分(約5.5cm)の小さな仏様です。聖徳太子がその化身と信じられているこの観音菩薩には多くの伝説があります。

 聖徳太子は蘇我氏の一族として、物部氏と戦いました。太子はその際に勝利を祈願して四天王寺を創建するとの誓いを立てました。後にその誓いの約束を果たすためにその用材を調達しにこの地を訪れました。その折、持仏の如意輪観音からこの地にとどまりたいとの夢告を受けて創建したのが六角堂でした。平安京への遷都が決まったときに、都市計画にぶつかり、六角堂が邪魔になりました。その時、瞬間に六角堂が礎石だけを残して5丈(約15m)ほど北に移動しました。その礎石がいわゆる「へそ石」と呼ばれるもので、今は六角堂の境内に移動させられています。六角堂が位置的に下京の中心にあったために、京都の真ん中という意味で「へそ石」と呼ばれたのでしょう。

 この六角堂は親鸞とも深い関わりがあります。親鸞は明治以来、日本のインテリにとっても大切な人物として親しまれてきたと思います。親鸞というと、高校時代に読んだ倉田百三の「出家とその弟子」が懐かしく思い浮かびます。親鸞はこの六角堂の如意輪観音から大きな影響を受けました。親鸞は29歳の時にこの六角堂に100日間参籠しました。若い親鸞は叡山では常行三昧堂の堂僧をしていたようですが、恐らく、当時の叡山の堕落した仏教に飽き足らないものを感じていたでしょう。親鸞自身が後に煩悩具足と自己を表現せざるをえない内なる苦しみを抱えて、従来の仏教では救われないという思いを強くしていたと思います。親鸞が参籠を初めてから95日目に聖徳太子である観音さまから夢でお告げをうけました。それは「吉水の法然のもとへ行け」というものでした。比叡山を下りて独自の活動を始めていた法然の噂を、親鸞はもちろん知っていたでしょう。次第に勢力を広げつつあった専修念仏に対する南都北嶺からの厳しい批判も知っていたはずです。法然との出会いは親鸞にとって決定的でした。程なく法然から「選択本願念仏集」の筆写を許さるまでに法然の信頼をえるようになります。

 もう一つ、親鸞にとって重大な観音からの夢告があります。

   行者宿報設女犯  我成玉女身被犯
   一生之間能荘厳  臨終引導生極楽
 
 この観音さま(聖徳太子)のお告げはのっぴきならない事態を告げています。従来の僧侶のありかたからすると考えられない妻帯の宣言とも言えます。もちろん隠れて妻帯をしていた僧侶は沢山いたでしょうが・・・この夢告をどう理解するかは難しいところです。しかし、性の問題も含めて、自己の内へと深く食い込む内省を進めていくところこそ、親鸞の面目躍如というところでしょう。とにかく、この六角堂は浄土真宗の開祖の親鸞にとって人生の重大なターニングポイントとなった場所でした。

 親鸞がどのような想いで六角堂に参籠したのかを考えたくて春に六角堂を訪れました。

地下鉄ではなくて阪急の四条河原町から歩いて行きました。道に迷いながらずいぶん時間がかかってしまいましたが、行く途中で、どうしてこんな町中に六角堂があるのだろうかと不思議な気がしました。着いてみると、やはり周辺はお寺と不似合いな町中で、六角堂に隣接するビルからは六角の屋根が見下ろせます。梅原猛氏は「近代化の波はこの京の真中にある六角堂を襲い、現在は巨大な近代的ビルの谷間に、昔の名残をとどめているというのが現状である。古代の都市計画の中で頑強に抵抗し生き続けた六角堂は、現代の都市計画において悲しいまでに無視し続けられて来たように思われる。」と「京都発見」の中で書いておられます。


確かに、自然の懐に抱かれるような風情豊かな寺院を京都の寺と考えると、六角堂はあまりに雑然とした町中にあるという印象は否めません。でも「六角さん」と京都の人々から親しまれてきたこのお寺は、それだけ、庶民の俗世の生活と歩みを共にしてきたともいえるでしょう。この六角堂は西国三十三カ所観音霊場めぐりの18番目にあたります。『梁塵秘抄』にも「観音験(しるし)を見する寺,清水・石山・長谷の御山,・・・間近く見ゆるは六角堂」とあるように、「清水詣」は大事で実行に移すにはかなりの決意が必要ですが、「京のへそ」ともいわれる下京の中心にある「六角さん」へのお参りは簡単です。応仁の乱では焼失しましたが、すぐに再建されました。その後は下京の町衆の集会の拠点にもなりました。一向一揆や戦国大名が京都に侵入しようとしたときにも、六角堂の早鐘がならされ、町衆がこの六角堂に集結しました。豊臣秀吉が寺町をつくって寺院を強制的に移転させようとした時にも、町衆の信仰に支えられてきた六角堂は動かされませんでした。六角堂は何度も火災にあって焼失しましたが、その度に、京都の人々によって再建されてきました。現在の建物は明治10年に再建されたものです。そのように考えると、町中にあって、拝観料もとらずに誰にでも開放されている六角堂は、現代の都市計画に無視され続けたというよりも、京の人々と共に歩み続けたというような気がして、かえって親しみを感じることができました。