役立たずのつぶやき Murmeln eines Taugenichts
~アイヒェンドルフの思い出~
もう何年も昔、NHKのFM放送で朝の6時ころから、「ドイツ文化シリーズ」という番組がありました。ドイツの文学者を取り上げて、その生涯や作品の紹介をしたドイツのラジオ番組を放送するものでした。「フランス文化シリーズ」という番組もあって、その番組と隔週で放送されていました。今と違って生のドイツ語を聴く機会がほとんどなかった時代だったのでとても楽しみに聴いたことを懐かしく思い出します。ネイティヴの人が普通の速度で話すドイツ語としては、レコードでハイデッガーの「へルダーリン
の地と天」(Herdalins Erde und Himmel)というのを聴いたことがあるだけでしたので、しわがれ声のハイデッガーの声とくらべて、プロのアナウンサーが語るドイツ語は何と美しい響きだと感激したものです。
そのような番組の中で、アイヒェンドルフが扱われたことがありました。アイヒェンドルフについては興味があったのでとても嬉しかったことを覚えています。
僕がアイヒェンドルフの名前を始めて耳にしたのは大学のドイツ語の授業ででした。
当時の僕は、大学でドイツ語を第一外国語としていました。そこで二人のドイツ人の神父さんからドイツ語を習いました。その二人の神父の中で、特に僕にとって印象深いのはジーメス神父でした。恰幅のよい体にお腹を突き出していて、時に鋭く、時に優しく感じるブルーの透き通った眼が印象的でした。僕はご一緒したことはありませんでしたが、山が好きでよく学生と山に上られたそうです。また風呂好きだったので、哲学者(フィロゾーフPhilosoph)をもじってフロゾーフFulosophと学生から呼ばれ、愛されていました。ドイツ語の授業も印象的でした。大学二年の最初の授業では、神父さんが自分で書いたドイツ語の文章をゆっくり読みながら、それを学生たちにディクテートさせました。今でもその文章のはじめをよく覚えています。「なぜ我々はドイツ語を学ぶのか」Warum
lernen wir Deutsch? というタイトルの文章でした。Man kann Deutsch aus verschiedenen Motiven
erlernen.(ドイツ語を習得するにはさまざまの動機がありうる)という文章ではじまりました。そして、解読が進むに従って、ジーメス神父は学生たちに、「あなたは何故ドイツ語を学ぼうとしているのですか」と問い詰めました。学生が返答に詰まると、「ではあなたはやめなさい。」「哲学を志すといっても、大変だ。本当に数少ない人しかものになりません!」と大きな声でおっしゃりました。厳しい言葉のようですが、なぜか学生からは人気がありました。
そんな授業の中で、ある時、神父さんがドイツ語の歌を歌ってくれたことがありました。それが、アイヒェンドルフの詩による歌でした。そのことだけならば、恐らく、とりわけ印象に残るものではなかったでしょう。でも実は、その授業の何日か前に、別のドイツ人の神父から、ドイツ語の時間に、まったく同じ歌を聴かされたのです。(同じ事はクリスマスの頃に、この二人の神父から「モミの木」O
Tannenbaum を聞かされたことがあります)二人の神父さんが同じように何か懐かしげに同じ歌を歌うのを聞いたとき、何か不思議な気がして、一体、この歌やアイヒェンドルフのどんな点に彼らはひかれるのだろうと思いました。
その歌とはこんな詩でした。
Wem Gott will rechte Gunst erweisen,
Den schickt er in die weite Welt,
Dem will er seine Wunder weisen
In Berg und Wald und Strom und Feld.
Die Trägen, die zu Hause liegen,
Erquicket nicht das Morgenrot,
Sie wissen nur vom Kinderwiegen,
Von Sorgen, Last und Not um Brot.
Die Bächlein von den Bergen springen,
Die Lerchen schwirren hoch vor Lust,
Was sollt ich nicht mit ihnen singen
Aus voller Kehl und frischer Brust?
Den lieben Gott laß ich nur walten;
Der Bächlein, Lerchen, Wald und Feld
Und Erd und Himmel will erhalten,
Hat auch mein Sach aufs best bestellt!
本当の恵みを与えようとする者を
神さまは広い世界へとお送りになる。
彼にご自身の奇跡をお示しになる
山や森、河や野に
家でのらくらしている怠け者は
朝焼けの清々しさを知らない。
彼らが知っているのは子守と
日々のパンについての心配と負担と苦労ばかり
小川は山々からほとばしり出て
雲雀は喜びのあまり天高くさえずり昇る
僕だってどうして彼らと一緒に歌わないことがあろうか
声を限りに、新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んで
愛する神にすべてをお任せしよう
だって彼は小川や雲雀、森や野
そして大地と天を養っておられるのだから
僕のことだって最もよく計らって下さるだろう
翻訳というのは本当にむつかしいものです。詩といわず全ての文にはその文に滲んでいる心(Gemuet)というものがあります。特に、アイヒェンドルフの詩の中には独特の雰囲気があり、それをそのまま表現するのはとても難しいと思います。たとえば、der
liebe Gott という言葉。愛する神と訳しましたが、この愛liebeは何と訳したらいいのでしょうか。愛すべき神、人間を愛してくださる神、心から信頼する神、等等、すべてを含んだもので、リーベ・ゴットとしか言いようもありません。
アイヒェンドルフに関心をもつようになってから、レクラム文庫(ドイツの岩波文庫のようなもの。もしかしたら岩波文庫がレクラム文庫をまねたのかもしれません)にあった「アイヒェンドルフ詩集」を愛読するようになりました。何か今の時代に忘れ去られてしまった素朴な心が感じられて好きでした。今では懐かしい思い出です。
この歌(詩)は彼の「のらくらもの生涯より」という作品の中に出てくる一節です。「のらくらもの」と訳しましたが、原文はTaugenichtsという言葉で、「何の役にもたたないもの」という意味です。現代社会では目先の(悪)賢さのみが評価されます。また功利主義が何の疑問もなく評価されています。そのような中で何の役にも立たないということが無意味ではないと今一度確認したい気持ちがあります。今度、新しくホームページを作り直して幾つかのフォルダをつくったときに、そのタイトルを何にしようかと考えました。そのときに思い浮かんだのが彼の
Aus dem Leben eines Taugenichtsという作品でした。そんなわけで、折に触れて感じたこと考えたことをまとめたエッセイ集を 「役立たずのつぶやき」Murmeln
eines Taugenichts としました。