定めなき世の定めかな
大晦日。この言葉は、不思議な想いを僕たちの心に起こさせる。
一年は365日。しかし,この日はいつもの一日とはどこか違う・・・
僕にとって、大晦日の深夜の初詣は欠かせない。信心深いというのではない。日本の神々や神社への信仰をもっているわけでもない。しかし、大晦日の夜には、毎年決まって、近所の八幡神社にでかける。「八幡さま」と昔から呼んで親しんできたこの神社は、僕たち悪ガキの遊び場の一つだった。お祭りの日には、たくさんの夜店で賑わう。焼きそばや綿菓子を食べるのが楽しみで、「八幡さま」によく出かけた。
大晦日の夜。紅白歌合戦が終って、テレビの「ゆく年 来る年」の中から流れてくる除夜の鐘の音を耳にすると、僕は急いで目一杯の厚着をして家を出る。家から「八幡さま」までの道は、歩いて約10分。北に向かう一直線のなだらかな下り坂だ。大晦日の夜は寒い。だから「八幡さま」までの道では、たいていは小走りになる。真冬に北を向いて歩くと、冷たい風に息をのむことがある。肩をすぼめて、急ぎ足で北に向かう。そんな時、昔は、着物姿で下駄をはいた人たちがあちこちの路地から出てきて、せわしなげに下駄の音をカタカタならしながら、僕たちと同じように、北に向かって「八幡さま」へと急ぐ姿がよく見られた。今は、着物姿に下駄で初詣に出かける人はあまり見かけない。しかし、北に向かって、「八幡さま」へと歩く人々の姿は昔と変わらない。歩きながら、視線を正面上にむけて天を仰ぐ。北天には、柄杓(ひしゃく)の柄を下にした立ち姿の北斗七星を望むことができる。
この雄大な北斗七星を眺めたくて、僕は毎年大晦日に、「八幡さま」への道を歩く。普通は、真冬のこんな寒い夜に、外に出て星を眺めることはない。星を眺めることが好きな僕には、夏の星座は身近で親しい。夏に見られる北斗七星は、柄杓を上にむけて雄大な姿で横たわっている。しかし、大晦日の夜の北斗七星は、夏の夜空の北斗七星とは全く異なった姿を見せる。いつもと違う位置に「立っている」北斗七星を見上げる時、僕はいつも同じような感慨をいだく。大自然は人間の思いをこえて、いつも変わらず雄大な営みを続けているのだと。そして、大自然の下には、多くの人たちが、来るべき年の幸福を願って、「八幡さま」へと向かう。僕と同じように、そそくさと歩き続ける。そんな時、「天と地」という言葉が僕の脳裏に浮かぶ。
確かに、人間は大地の上で生活をしている。その大地の上には,広大な天が広がっている。頭上に広がる広大な天と、大地で生活を営む人間。これが太古の昔から、人間が生きてきた現実だった。人間は大地の上に立って、さまざまの営みをして生きてきた。自分の歩みをとめて後ろを振り返ると、今まで自分が歩んできた「過去」が見える。これから向かおうとする前方を眺めると、これから自分が進むであろう「未来」が見える。しかし、頭上を見上げると,広大な天が人間を圧倒するように覆っている。そんな時、「過去」や「未来」を超えて、そして、今ここで生きている現実の地上での生活を超えて、人間は「永遠」に出会う。雄大な天に触れる時、人間は己の小ささや有限性を意識する。「天と地」という言葉には、このような意味あいがある。天とは何か。天上を支配する「上帝」か。それとも、大自然を生み出し育む大いなる力か。分からない。しかし天は、人間が自己満足的に増長し,傲慢になることに対して、己の有限性を意識させ、人間に謙虚さを問いかける存在であったことは確かだ。現代の大きな問題は、この「天と地」という人間にとっての素朴な現実が見えなくなってしまったことではないだろうか。それだけではない。東京のような大都会に住んでいると、視覚的に、「天」は狭められるだけでなく、遥か遠くまで見通すことのできる大地すらなくなってしまった。天だけではなく、地すら失われようとしているのではないか・・・
大晦日はいつもの一日と違う。
それは、僕が大晦日の夜に、毎年「八幡さま」への道で感じる想いと深くつながっている。
「天」は「地」に住んでいる僕たちに、己の有限性を問いかける。人間の生は儚(はかな)い。
天は悠久。無限の時の流れの中で、僕たちは、ほんの少しの間この世に現れ、そして、消えてゆく。その深い意味を思い知らされるのが,大晦日ではないだろうか。ゆく年と来る年の狭間に立つということは、一年が終わり、新しい年を迎えるというだけではない。人生のある部分が終わり,新たな局面を迎えるというだけではない。初めと終わりの見えない悠久の時の流れの中で、ほんの瞬間を生きる自分を思い知らされ、「お前は、どう生きているのか」と「永遠」から問いかけられることだ。その問いかけに触れる。だからこそ、大晦日が特別な一日と感じられるのではないだろうか。
人間は、悠久の時の流れの瞬間を生きているにすぎない。僕の周りに生きている人々も、同じようにわずかな瞬間を生きているにすぎない。その瞬間と瞬間が重なり合って、人と人が出会い、同じ時を共有して生きていること。これは奇跡ともいえるのではないか。
大晦日は特別な一日だ。だからこそ、僕は、その一日を、自分が一番安心する家で、親しい家族と一緒に、平凡に過ごす。紅白歌合戦を観て、年越しそばを食べ、「あけましておめでとう」と声をかけ合う。そんなふうに過ごすことができると、ほっとして、幸せだと思う。僕にとって、大晦日とはそのような一日だ。