第二章 救済は人間を超えて キリスト教


第16回 「ヨブ記」を巡って 
~ヘブライズムとは~


 皆さん、今日は。前章まででギリシアは一応終わりました。この章から、キリスト教に入ります。前章でヘレニズムとヘブライズムという言葉を出しました。そこで、ヨーロッパの精神は、ヘレニズムとヘブライズムという二つの柱に支えられていると言いました。ヘレニズムとはギリシア思想で、ヘブライズムとはキリスト教の意味です。ギリシア思想とキリスト教は、その深いところで、異なった世界観・人間観をもっています。しかし、二つとも大きな影響をヨーロッパ精神にあたえました。この章からは、ギリシア思想とは異なるキリスト教について、しばらくお話したいと思います。

 今回は初めの章ですので、全体として、キリスト教とはどういうものかを考えてみたいと思います。ちょっと難しい話になるかもしれませんが、僕自身が、キリスト教の根本は何なのかを、正直に反省して考えてみたものです。ちょっと抽象的でむつかしいところもあるかもしれませんが、考えながら聴いてください。
 
 その前に、老婆心ながら、ユダヤ教・キリスト教についての常識をいくつかお話しします。

 キリスト教の聖典である聖書は、大きく旧約聖書と新約聖書の二つに分かれます。キリスト教は、ユダヤ教を母体として生まれました。ユダヤ教の聖典が旧約聖書です。もっともユダヤ教はイエスを救い主(メシア・キリスト)として認めていませんから、新約聖書は認めていません。だから、ユダヤ教にとっては、旧約聖書のみが「聖書」です。新約とか旧約というのは、キリスト教の側からのみ言うことです。量的には、新約聖書に比べて旧約聖書のほうが、圧倒的に多くなっています。旧約聖書はユダヤ教の聖典として、宗教の書であることはもちろんですが、神であるヤーヴェが、イスラエルの民とともに歩み、イスラエルを導いてくれたという、イスラエルの人々にとっては、民族の歴史の書でもあります。キリスト教の人々は、ややもすると旧約聖書を軽視する傾向があるような気がします。でも、当たりまえのことですが、イエスが読んでいたのは旧約聖書です。イエスは旧約聖書を否定していません。旧約聖書を通じて人々に語りかける神を、イエスは「天の父」と呼びました。キリスト教は、確かに、ユダヤ教を母体として生まれたのです。ヘブライズムという言葉のヘブライは、イスラエルの民の呼び名でした。だから、ヘブライズムとは、正確には、ユダヤ・キリスト教の伝統を言います。次章では旧約聖書をもとに、ユダヤ教のお話をしたいと思っています。

 この章では、旧約聖書のなかから一つお話を紹介して、それを通じて、僕たちが、前章までで学んだギリシア思想とは異なるヘブライズムの一面を考えたいと思います。

  「ヨブ記」

 旧約聖書の中に「ヨブ記」というのがあります。今日はこの「ヨブ記」のお話をしたいと思います。「ヨブ記」は“義人の苦しみ”がテーマになっています。神からも正しい人と認められる、ヨブの苦しみがテーマです。次章では、イスラエル民族の歴史のお話をしたいと思いますが、恐らく、「ヨブ記」ができあがったのは「バビロンの捕囚」というイスラエル民族存亡の危機的状況のなかで、民族の苦しみが、ヨブの苦しみと重なり合っているのだろうと思います。しかし、今日は歴史的背景には触れずに、「ヨブ記」の内容そのものを紹介したいと思います。「ヨブ記」における問題の解決というか、受け止め方は、きわめて独特です。それはギリシア思想とは根本的に異なるもので、僕にとっては考えさせられるものなので、紹介して一緒に考えてみたいのです。

 舞台は天上の世界。神を中心に神の使いたちが集まる会議の席。神を畏れ、何事も正しいと神から認められるヨブに関して、諸国を巡り歩いているサタンが、「ヨブが、利益もないのに神を畏れるでしょうか」(新共同訳)と神に挑みます。この「利益もないのに」というもは、「無償で」とか、「何もないもののために」とかいう意味だそうです。つまり、サタンの問いかけは、人間が神を畏れ正しく生きることは、果たして、何の見返りもなくありうるか、という根本的な問になります。そこで神は、ヨブには手をかけないことを条件で、ヨブに苦難をあたえることを、サタンに許します。そこからヨブの苦難が始まります。数時間のうちに、家族や財産をはじめ、あらゆるものを失ったヨブは、「わたしは裸で母の胎から出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられよ。」と言います。しかし、サタンはヨブが神を呪わないのは、彼の命があるからで、彼の骨と肉を打てば、ヨブは神を呪うはずだと主張します。そこで神はヨブの命だけは奪わないという条件で、ヨブをサタンの手に渡します。ヨブは頭から足の裏まで皮膚病にかかります。しかし、「神を呪って死ぬほうがましだ」と言う彼の妻に対して、ヨブはそれをたしなめて言います。「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」ヨブは神を畏れるという自らの姿勢を崩しませんでした。

 ヨブがすべてを失ってしばらくしてから、三人のヨブの友人が、ヨブを見舞い慰めるために訪ねてきます。ヨブのあまりの変わりように言葉を失った三人は、七日七晩、地面に座って声すらかけることができませんでした。そして、ヨブの嘆きが始まります。「幸福ばかりでなく、不幸もいただこう」と言ったヨブですが、人もモノもすべてヨブから去り、体は皮膚病に侵され、ウジがわく皮膚で、灰にまみれ、かゆみで夜も眠れずにいるヨブにとって、そして何よりも、自らは神を畏れて生きてきたとの自負を抱いていたヨブにとって、理由の分からない苦しみの中での「神の沈黙」は苦しいものでした。そのように苦しんでいる彼には、じっと黙ってヨブとともに座っていてくれた友人なら、苦しい心の内を話せそうに思ったのでしょう。ヨブの嘆きが始まります。「自分は生まれてこなければよかった」。しかし、ヨブの嘆きを聞いたエリファズをはじめとするヨブの友人たちの言葉は、慰めよりも、むしろヨブを追い詰めるものでした。彼らは、ヨブの苦しみの原因を探そうとします。結局、人間は神ではないのだから、気がつかなくとも、どこかで罪を犯しているはずである。因果応報を理由に、ヨブの回心を求めることになります。

 彼らはヨブの深い絶望を理解しません。苦しみから自分を救ってくれるのは、全能の神をおいてほかにはいない。しかし、その神がヨブの敵にまわられた。だから自分を「憐れんで欲しい」とヨブは願います。自らの不正を認めようとしないヨブのかたくなさに対して、友人たちはやがてヨブを責めます。ヨブは友人たちではなく、直接、神に訴えたいと言います。それを友人たちは、ヨブが神と争おうとしているとみなし、ヨブの不信心をたしなめなす。

 結末は劇的なものでした。嵐の中で、神がヨブに呼びかけます。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」。また、神はヨブの三人の友人たちをも咎めます。結局、ヨブは回心し、以前にも増して神の恵みをうけ、三人の友人たちもヨブのとりなしで許されることになります。

 しかし、この結末は、(少なくとも僕にとっては)あっけないものでした。神はヨブが望んでいた不幸の意味には、何も触れません。ただ、神が世界を創造したときヨブはどこにいたのか、と問いかけただけです。その神の声だけで、ヨブには十分でした。また、三人の友人たちは、一見したところ、決して的外れなことを言っているようにもみえません。神の前では誰も正しいとは言えない。神には不正義はありえない。とすれば、人間の苦しみには、必ず人間の側に咎があるはずだと言っただけです。しかし、それに対して神は、三人が神について正しく語らなかったと言います。

 僕は旧約が専門でも何でもありませんが、「ヨブ記」をはじめ旧約聖書を読むと、色々なことを考えさせられます。ここでのお話は、僕個人の解釈です。

 ここでの問題は、人間とは何か、神とは何かを根本から問うています。

 ヨブの友人たちが「神について正しく語らなかった」とはどういうことでしょうか。

 ヨブの友人は神を全能で絶対であり、神は正義だと言います。しかし、その語りかけは人間的立場からなされています。正しい人は幸せに、不正な人は不幸に、と考えることは、ある意味ではとても人間的なことです。だから、人によっては、正しい人が幸福であるためには、神が必要だと言うことがあります。でも、そのように考えることは、角度を変えてみると、「人間が救われ、幸福になるのは、人間の生き方自体にかかっている」ということにもなります。「神は正義を曲げられない」と言われるとき、不正なものは必ず罰せられ、正しい人は必ず救われる。神は必ずそうなさる。だから、問題は人間が正しくあるかどうかだ、ということが問題になります。そのような主張は、神のあり方を、人間の立場から限定することになります。また、初めの神とサタンとの間のやり取りにある、「何の利益もなく神を畏れるか」との問に対して、因果応報の考えは、結局は人間が神を畏れ正しく生きることは「自らの救い」を目指したものとなり、サタンの説を間接的に補強するものとなります。また、「神の前で人間がどうして正しくありえよう」という彼らの主張は、(善因善果としての)因果応報を不可能とするものになります。

 ヨブの場合はどうでしょうか。

 ヨブが「正しく生きた自分がなぜ」と問いかけるとき、ヨブはその答えを神から聞きたいと切望したはずです。しかし、神はヨブの問いには何も答えていません。思いもよらない言葉です。「わたしが世界を創造したとき、お前はどこにいたか」。僕はこの言葉のなかに、人間と神についてのヘブライズムの特色が強く現れているように思えてなりません。この「ヨブ記」は、ヨブの友人たちが強調したように、「神の前で人間が正しくありえようか」ということがテーマではありません。初めから、ヨブは「無垢で、神を畏れ、正しい人」として神から承認されています。そして、そのことが、つまり、「神を畏れ正しく生きてきた」ということが、ヨブの心の支えでもありました。ヨブはその心の支えを武器に、ヨブにとって理由のわからない苦しみを問いかけます。そして、神にその釈明を求めます。それに対する神の答えが「わたしが世界を創造したとき、お前はどこにいた」でした。それは、あたかも、「お前の心に抱く支え、拠り所は、どのような根拠があるのか」と問いかけているようです。

 別の角度から考えます。「義人の苦しみ」をプラトンも考えています。プラトンの主著ともいえる「国家」のなかでです。プラトンの「国家」のプロットは次のようなものです。「正義」とは何かが問題となり、その中で、次のような考えが展開します。人が正しくあるというのは、何らかの見返りがあって、そのことで正しく生きるということが成り立つのだ。もし、正しい人と不正な人と比べて、正しい人がどこまでも他人から不正な人と見られ、不正な人は、徹底的に不正であることによって、世の人々から正しい人とみなされるとしたらどうだろうか。そのような場合、それでもなおかつ正しく生きる人はいるだろうか。正義とは、他の付随的(功利主義的)状況をまったく無視して、正義そのものとして人を幸福にすることができるものかどうか、が吟味されます。その結果、個人の正義を問題にすることは難しいので、よりマクロな視点から、国家の正義が問われます。その過程で有名なプラトンの理想国家が思想の上で建設されます。そして、理想国家の統治者にふさわしい哲学者の智恵として、有名なイデア論が展開されます。その結果、個人の正義が国家との類比的な観点から確定され、最後に次のように宣言されます。「最もすぐれていて最も正しい人間が最も幸福であり、・・・・<中略>・・・・たとえ、すべての人間と神々に、そのような性格の人間であることが気づかれまいと、このことには変わりはない。」正義そのもののみで、十分であるとの論証が終ります。正しい魂は、そのこと自体で幸福であるとの論が確証された後に、初めて、「ゴルギアス」の場合と同じく、最後に神話が登場し、死後の世界において、不正な人と正しい人が、どのような運命をたどるかが語られて、プラトンの「国家」は終ります。

 プラトンの「国家」の中で正しい人間の苦しみと、「ヨブ記」のヨブの苦しみは、「正しい人間の苦しみ」という現実に対して、なんという異なった受けとめ方でしょうか。プラトンは、たとえ現実にひどい不幸(最も正しいとされたソクラテスが、現実には刑死するというような)をこうむろうと、その人間の魂そのものが正しくあれば、それだけで十分である。その人間の魂がすぐれたものであり善くあるかどうかに、人間の幸不幸がかかっているとします。それに対して、ヘブライズムの人間観は異なった立場に立とうとしています。

 英語で「良心」という言葉は conscience と言います。本来の意味は「内から知られたもの」です。conはconcentrate(集中する)やconversion(回心…心の中心で生きかたがひっくり返ること)などの言葉からも分かるように、内という意味があります。scienceはラテン語のscire(知る)という言葉から来ています。つまり、良心とは、他から言われなくとも、自分自身のうちから知られてくるもの、という意味です。ドイツ語の良心を意味するGewissenは、文字通り「知られたもの」という意味です。たとえば、人に対して嘘をつくとき、誰からも気がつかれなくとも、「自分が嘘をついている」と分かります。この分かることをconscienceといいます。私たちが正しく生きようとするとき、何が頼りになるかを考えるとき、結局は、自分の内から知られてくるconscience以外に何があるというのでしょうか。誠実に生きるとは、自分の内なる良心に恥じないように生きるということなのだと思います。ヨブの場合、自分の良心に照らして恥じることなかった。だから、自分をおそった不幸の理由について、ヨブは神からの釈明を願いました。それに対する応えが、「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたか」でした。

 ここでは、ギリシア哲学の場合のように、理性を使って人生の根本問題についての完結的な答えがありえません。人間の内なる心の思いそのものが、ある意味では、根本的に根拠のないものとして、否定されます。ヘブライズムの根本には、人間の内なる思いと、それを突き破っておこる全能の神との出会いがあるように思います。先ず初めに、神があり、全能の神が人間も含めた全世界を創造しました。ヘブライズムは、この絶対的な神への信仰が始めにあります。旧約聖書で活躍をする預言者たちの活動にしても、彼らが自分自身の中から人々に語りかけることを考え出したのではありません。先ず、神からの呼びかけがあります。人間的な立場に立つと、一番大切なものは自己の良心になります。言わば、自分の中心が自己のうちにあると言っていいかもしれません。それに対して、ヘブライズムにおいては、自分が自分であるのは、先ず、神からの創造という働きかけが根本にあります。言わば、自己の中心が自己自身のうちにないといえるでしょうか。だからこそ、本当に自分の中心である神にたいして、自分を空しくして問いかけます。「私は一体どうして生きていったらよいのでしょうか。」「大切なことは何でしょうか。」ここに、ギリシア思想にはない「祈り」というものが登場します。

 少し難しい説明だったかも知れません。とにかく、前章までで学んできたギリシア哲学は、人間を理性(ロゴス)をもった動物として、徹底的に理性による真実の究明を優先しました。それに対して、ユダヤ・キリスト教はギリシア思想とは異なる人間のあり方を導入しました。唯一の神ヤーヴェへの信仰は、哲学とは違う「宗教」ですが、「宗教」は哲学とは異なる精神的な豊かさをもたらすことになります。次章からは、ユダヤ教についてお話する予定です。

 最後に、雑談を一つして、今回の話を終わりにしたいと思います。

 もう何年も前のことですが、ある委員会の仕事が一段落して、お楽しみ会のようなものが開かれたことがありました。時間が予定より随分遅くなってしまったので、生徒には急いで下校するように言いました。でも、後で教室を見てみると、床には色々なものが散乱していて、教室も決してきれいとはいえなかったので、仕方なく、一人で掃除をしました。内心では、何で最後まできちんと掃除をして帰らないのだろうと、少し不満に思いながら、黙々と掃除を続けました。その時、ある先生が教室の前の廊下を通りかかり、「先生も大変ですね。でも、先生がこのように掃除をしていらっしゃることを、生徒たちは知っているのですか。」と言われました。その時、ふと心の中に浮かんだことがあります。僕たちは人から何かをしてもらったときは、当然、そのことに感謝をします。いや、すべきだと考えます。そして、教育的にも、自分が陰で色んなことで支えられていることに無知であることはよくないし、そのことを伝え、教えるべきだと考えます。でも、キリスト教の信仰にたってよく考えてみると、そのことは必ずしも正しくないと思いました。キリスト教(もちろんユダヤ教も)では、神は全世界を造りました。全世界は、もちろん僕もふくめて、神によって創造されたものです。僕たちはあらゆるものを、自分の根本的な存在そのものも、神におっているはずです。僕たちが神におっていないものはありません。でも、そのことを普段、僕たちは充分に意識していません。もし、神さまが僕たちにしてくれたことを僕たちが意識して感謝しないときに、神さまが腹をたてなくてはならないのなら、神さまはフラストレーションでいっぱいになってしまうでしょう。でも、神は一々僕たちの無礼に腹をたてずに、むしろ、僕たちに分からないところで、僕たちを支えてくれています。それなのに、人間は、たった一つのことでも、自分が他の人にしてあげたことについて、その人が気づかないと、そのことに腹をたてる。なんて人間の了見は狭いのだろうと思いました。自分たちは神の愛に包まれて、しかも、そのことに対する感謝の気持ちすら忘れているのに、なんて人間は心が狭いのだろうと思いました。

 あまりよいたとえではなかったかも知れませんが、こういうことを言いたかったのです。つまり、万物を創造した神への信仰を根本とするヘブライズムでは、従来のギリシア思想にはない視点から、今までは思いもよらない精神が生まれて、それが人類の精神の歴史をより豊かなものにしていった、ということです。中世のキリスト教神学には「知解を求める信仰」 fides quaerens intellectum というモットーがありました。つまり、自分たちが信じているものは一体何だろうと求めることです。そして、その探求は多くの実りをもたらしました。そのような精神の原点となったユダヤ教を、次章から紹介してみたいと思います。



第17回 約束の地を求めて 
~イスラエル民族の歴史 1~


今日は。ここではイスラエル民族の歴史をお話したいと思います。

本題に入る前に、雑談を一つ。僕が高校生だったころ、「倫社」の授業の時間に、先生がアウグスティヌスの「告白」について触れたことがありました。その時先生は、「アウグスティヌスの告白は本当に美しい作品です。このすばらしさが分からない人はキリスト教的なセンスはない、と言わざるをえません。」というようなことを話してくれました。それ以来、アウグスティヌスの「告白」という作品は何故か気になるものとして記憶に残りました。大学では近現代の哲学を学びましたが、大学を卒業後にアウグスティヌスを専門にしたいと思うようになりました。今では、何か問題にぶつかると、何時も「アウグスティヌスならこの問題をどう考えるだろうか」と考えるようなクセがついてしまいました。

アウグスティヌスは古代ローマ帝国末期の人で、始めはキリスト教徒ではありませんでしたが、様々な精神的な遍歴を経てキリスト教に回心し、後半生はキリスト教の司祭として過ごしました。「告白」は、キリスト教の司祭をしていた彼が、教会に通ってくる人々から、彼のキリスト教に至るまでの精神の歩みを聴かせて欲しいという要請を受けて、筆をとったものです。だから「告白」は、ある意味では自伝ですが、それは通常の自伝ではなく、キリスト教へといたった彼自身の道のりを振りかえって、それを神の前で、人々に対して語るという形でつづられています。偉大なる神を賛美することから始まり、その後、過去の自分の精神の歩みが告白され、「回心」の体験の後、現在のアウグスティヌス自身について告白されます。そこで次のような言葉がでます。「あなた(神)はわたしと共にいましたが、わたしはあなたと共にいませんでした(mecum eras. et tecum non eram)。」 つまり、神に背を向けて生きていた時も、神は常にアウグスティヌスを見守り、そして神自身へと導いてくれたこと。そのことへの感謝を告白しているのです。「告白」という作品はアウグスティヌスの自分の自伝でありながら、その実は、主役は神自身であったという構図になっています。

イスラエルの歴史のお話しをするのに、脇道にそれた話のように思われたかもしれません。しかし、アウグスティヌスの「告白」は、旧約聖書に似た構成になっています。前章で、旧約聖書はイスラエル民族の宗教の書であると同時に、神とともに歩んだイスラエル民族の歴史の書であるとお話しました。しかし正確にいうと、旧約聖書の主役は神です。「告白」は神の偉大さへの賛美に始まり、「告白」の主役が神であることが明示されているように、旧約聖書は冒頭に「創世記」を置いて、世界が神の意志により、神の言葉から創造されたことが述べられます。神による世界の創造からはじまる旧約聖書は、主役が神であることは明瞭です。また、イスラエルの民がさまざまの場面で、神に不平をいい、神から背をむけることも、神から離反していくアウグスティヌスの「告白」と同じです。旧約聖書では預言者が登場して、神の言葉を人々に伝え、神へと帰還するように促します。「告白」の中でも、アウグスティヌスの回心にとって決定的な役割を果たすものは、自由意志による決断ではなく、アウグスティヌスの心に語りかけ攻め込んでくる「神の言葉」でした。

前置きが長くなりましたが、ヘレニズムとは異なるヘブライズムの思惟方法というか、精神のようなものを感じて欲しくてお話をしました。それではイスラエルの歴史に入ります。

始めに「イスラエル」と言う言葉について。イスラエル人をヘブライ人、ユダヤ人と呼んでも同じです。ヘブライという呼び名は「渡り歩く人」というような意味で、他の民族が、イスラエル民族を呼ぶときの呼び名のようです。またユダヤ人という呼び名は、これからお話しするバビロン捕囚以後の呼び名です。いずれにしろ、彼らは自分たちのことをイスラエル民族と呼び、第二次世界大戦後、久しく失われていた自分たちの国を再建したときに、彼らはかつての十二部族の宗教連合の名称であったイスラエル(「神が治めたもう」)を国名にしました。彼ら自身は、自分たちのことを呼ぶときにイスラエルと呼ぶので、ここでもイスラエル民族と呼ぶことにします。

Bible Land 古代オリエント世界

 第三章でex oriente lux(光は東方から)のお話しをしました。古代のメソポタミア地方やエジプト、その両者を結ぶシリアやパレスチナ、それにアナトリア(小アジア半島)は、ヨーロッパから東方に位置するので、古代オリエントと呼ばれました。この古代オリエントは、世界最古の文明の発祥の地であり、また、旧約聖書の舞台ともなった地域でした。確かに、旧約聖書は、歴史学が承認する学問的な歴史書ではありません。しかし、まったくの作り話でもありません。僕が勤めている学校に山の好きな先生がいて、彼女がトルコのアララト山に登った話を聞いたことがあります。このアララト山は旧約聖書の「ノアの箱舟」が着いたところと言い伝えられています。「ノアの箱舟」のお話は皆さんも知っていると思いますが、念のため。人間が多くの悪に染まってしまったのを見て、心を痛めた神は、大洪水を起こして、大地から生き物を一掃しようとしました。そこで、義人のノアに箱舟を作ることを命じます。箱舟の中に、ノアの家族と鳥獣のすべての種を乗り込ませると、神は四十日四十夜大雨を降らせ、洪水が大地を覆いつくしました。水は百五十日地上で勢いを失わなかった。最後にアララト山の上に箱舟は接岸しました。箱舟の窓を開いて、ノアが烏を放つと、烏は止まるところがないので、箱舟に戻ってきました。その七日後、鳩を放つと、鳩は夕方になって船にもどってきましたが、そのくちばしにはオリーブの葉がくわえられていました。さらに七日後に鳩を放つと、鳩はもう船には戻ってこなかったという物語です。ノアの箱舟に出てくる大洪水は、単なる神話と考えられていましたが、メソポタミア地方の古い地層から、大洪水があったことを示す粘土層が、イギリスの考古学者レオナルド=ウーリーによって、発掘されました。また、ノアの箱舟に大変よく似た神話が、古代メソポタミア地方の古い民族であるシュメール人の神話(「ギルガメシュの物語」)に登場すること、などが分かっています。

 また、旧約聖書に「バベルの塔」の話があります。人々が自らの強さと団結を誇示するために、天まで届く塔を建てようとします。レンガを積み上げ、高くそびえる塔を建てようとする人間たちを見て、神は、バベルの塔を崩し、人々の言葉を混乱させました。そのため、今まで理解しあえていた言葉が急に通じなくなり、人々は世界各地に散っていったというものです。この神話は、地上に多くの言葉があることの由来説明的な神話でしょう。また、現代社会における人と人の繋がりの欠如と、その原因について思いおこさせます。このバベルの塔の話も、バビロニアに見られるジクラッドと呼ばれる神殿塔が基盤にありました。

 聖書に関連した遺跡の発見は、キリスト教文化のヨーロッパに、単なる学問的関心以上の、興奮と好奇心を呼び起こします。その結果、今では本当に多くの古代の遺跡、遺物が発見されていいます。まさに、古代オリエントはバイブルランド(聖書の地)です。

 四大文明に数えられるエジプトとメソポタミアは、古代オリエント世界を形成していますが、両者は風土的・地理的には異なった環境にあります。ともに、ナイル川やチグリス・ユーフラテス川という、大河の流域に発達した文明でしたが、歴史的には、異なった展開をしました。エジプトは、周りを砂漠に囲まれていたため、若干の例外的な時期を除いて、異民族の侵入がなく、ハム語族に属するエジプト人が統一王朝をつくってきました。それに対してメソポタミア地方は、周辺が完全な砂漠ではなかったために、多くの民族が、文明の発達した豊かなその地域へ、侵入を繰り返しました。その中で、特に強大であったのが、ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王のバビロン第一王朝(BC18C頃)、イスラエル民族をはじめ多くの民族からその武断政治を恐れられたアッシリア帝国(BC7C)、新バビロニア王国(BC7~6C)、そしてペルシア帝国でした。このようにメソポタミア地方で興亡を繰り返した民族の中の一つにイスラエル民族がいました。彼らはオリエント世界の主役にはなれませんでしたが、この民族の中から、ユダヤ教が生まれました。旧約聖書は、多くの民族の中なら、神話や伝説を受け継いでいますが、それらの神話や伝説を、結局は利用しながら、彼ら独自の宗教を形成していきました。

族長時代 BC18世紀頃~BC13世紀頃

 イスラエル民族の歴史はアブラハムに始まります。旧約聖書からの引用を見てみましょう(以後の引用はすべて日本聖書協会の「新共同訳」からのものです)。

“テラは、息子アブラムと、・・<中略>・・カルデラのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。・・<中略>・・ 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私の示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」 アブラムは主の言葉に従って旅立った。” (創世記 11.31-12.3)

 アブラハム(アブラム)とは旧約聖書では、その信仰の故に神から義とされる人物で、「アブラハム」という言葉が「多くの人々の父」を意味し、イスラエル民族は彼らの祖先と信じています。アブラハムは神からの召しだしを受け、生まれ故郷を捨てて、神から約束された「乳と蜜の流れる地」であるカナン地方(現在のパレスチナ)へ向かい、遊牧生活に入ります。やがてイスラエルの一部(恐らくヨセフ族)はエジプトに入ります。エジプトは一時期ナイルデルタ地帯を異民族(ヒクソス)に支配されますが、その時期に、イスラエル人も一部がエジプトに入ったのでしょう。旧約聖書(「創世記」)の舞台はエジプトに移ります。

「出エジプト」と「約束の地」の征服 BC13世紀頃~BC1000年頃

 始めのうちは、エジプトのファラオから優遇された彼らは、やがて、エジプトに新王国が誕生すると、厳しい立場に立たされるようになります。このようなエジプトでの隷属状態からイスラエルを救うために、大きな役割を果たしたのがモーゼでした。想像をたくましくしてみると、恐らく事前に準備をしたイスラエルの人々は、夜いっせいに蜂起し、イスラエルの人々の家につけておいた目印がある門は通り過ぎて、多くのエジプト人を殺害し、その混乱に乗じてエジプトを脱出しのでしょう。聖書はイスラエル人が紅海を渡る時には、海の水が二つに分かれて、イスラエル人は乾いた海の底を歩いて渡ったが、エジプトの軍隊が後を追おうとすると、海の水が元にもどり、多くは水死したと伝えています。後から振り返ってみると、このエジプト脱出の成功は奇跡的で、神が助けてくれたとしか考えられない。イスラエルの人々はそう信じました。「出エジプト記」は次のように伝えています。

 “モーゼは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。

 「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中に血を浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。

 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のために定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。”
  (出エジプト記 12.21-27)

 この過ぎ越しの祭は、皆さんも名前を知っているでしょう。イエスが意を決してエルサレムに上ったのは、この過ぎ越しの祭のときでした。この過ぎ越しの祭は、イスラエルにとって、神が自分たちを異民族の支配から脱出させてくれたことを記念する祭であり、この祭りの間は、とりわけ民族の精神が高揚する時期でした。イエスに対してローマの支配から民族を救ってくれる救世主との期待が高まったのも、この過ぎ越しの祭の雰囲気が一役買っていたでしょう。

 とにかく奇跡的にエジプト脱出を果たしたイスラエルの人々は、モーゼに率いられて砂漠をさまよいます。彼らがシナイ山のふもとに来たとき、モーゼは神の声を聞き、十戒(十の掟)を受けます。

 “神はこれらすべての言葉を告げられた。

 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中にいる寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
 殺してはならない。
 姦淫してはならない。
 盗んではならない。
 隣人に関して偽証してはならない。
 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。”   (出エジプト記 20.1-17)

 神との契約によって結束を強めたイスラエル人は、イスラエルという民族を形成し、唯一の神ヤーヴェを信仰する一つの民族となった。このとき以来、イスラエル民族にとって、神とは抽象的な絶対者ではなくなります。神とは、アブラハムを召しだして荒野へと導いたあの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーゼに命じてイスラエルをエジプトの隷属状態から解放し導いたあの神です。モーゼによって鍛えられ、唯一の神ヤーヴェのもとに結束したイスラエルは、やがてモーゼの死後、後継者のヨシアのもとに、「約束の地」カナンへの侵入を開始しました。

 「創世記」や「出エジプト記」に伝えられているイスラエル民族の活動が、どのような歴史的背景をもっているか断定はできません。しかし、旧約聖書は実在の地名をあげて、それがイスラエル民族の活動の場所であるとしていますし、エジプトなどの資料にも、イスラエル民族をあらわす言葉が登場しています。だから、何らかの歴史的事実をふまえているはずです。またBC13世紀は、東地中海は大混乱の時代でした。「海の民」と呼ばれた民族がこの地域一帯に活発な活動を展開しました。この混乱の中で、鉄器を使い始めたことで有名な、アナトリアのヒッタイトは滅亡し、エジプトも衰退します。聖書に登場し、イスラエル民族の強力な敵対者であったペリシテ人は、そのような「海の民」の一つでした。カナン地方に住み着いたペリシテ人の名前から、パレスチナという名が由来します。ヒッタイトとエジプトという東地中海の二大勢力の滅亡・衰退は、周辺の弱小民族に活動の場を与えることになりました。イスラエルのカナン侵入と王国の建設も、そのような超大国による支配力の不在という間隙を縫って実現されたものと思われます。今回はここで終ります。次回の王国時代からは、歴史的に確認できる時代に入ります。



第18回 イスラエルはいずこへ? 
~イスラエルの歴史 2~


 今日は。前回に続いてイスラエル民族の歴史のお話です。

王国時代 BC1000年頃~ この頃~歴史的に実証可能になります。

 唯一の神ヤーヴェへの信仰によってまとまったイスラエル民族は、カナンへの侵入を繰り返しました。BC11世紀の末に、イスラエルは「約束の地」カナンに王国を建設します。初代の王はサウル。二代目の王がダビデです。ダビデはエルサレムを都としました。このダビデ王の時代に、イスラエルは大国に発展しました。そのためダビデは理想化されます。理想の王、理想的な宗教家、理想的な詩人とされ、後代にメシア思想が現れると、救世主はダビデの子孫からとの考えが生まれました。

 イスラエルは王国となりましたが、その王制は、古代オリエントの諸王国とは一線を画するものでした。前章で、旧約聖書は当時の周辺の諸民族の神話や物語を使いながらも、独自の神観を形成していったと言いました。王国の形成にあたっても、そのことが言えます。

 “ある日の夕暮れに、ダビデは午睡(ごすい)から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘のバト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。 ・・<中略>・・
 
翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。
<中略> 

主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。

 「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。 
貧しい男は自分で買った一匹の雌の子羊のほかに
 何一つもっていなかった。 
彼はその子羊を養い 
子羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて 
彼の皿から食べ、彼の椀から飲み 
彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。 
ある日、豊かな男に一人の客があった。
彼は訪れて来た旅人をもてなすのに 
自分の羊や牛を惜しみ
貧しい男の子羊を取り上げて
自分の客に振る舞った。」

ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。子羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ ・・<中略>・・ 
ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」” (サムエル記下11.2-12.13)

古代オリエント世界では、国王は絶対者でした。エジプトのファラオはほとんど神でした。それに対してイスラエルの王は、決して神ではありません。ダビデでさえ、人間的な弱さをもち、「主に罪を犯した」と告白する王でした。

ダビデの後を継いだのがソロモン王でした。後に「ソロモンの栄華」と伝えられるように、王国は全盛時代を迎えます。しかし、客観的に見ると、当時の東地中海は大混乱の時代で、ヒッタイトとエジプトの勢力が及ばなくなったシリア・パレスチナの地域に、権力の空白が生じ、その間隙を縫って、イスラエルが王国を建設したということではないでしょうか。しかし、その後のイスラエルの苦難の歴史の中では、ダビデ・ソロモンの時代は、イスラエル民族の輝かしい王国時代として、民族の記憶に残りました。

王国の分裂

 BC10世紀末ソロモンの死後、王国は南北に分裂をします。北はイスラエル王国で、都はサマリアに置かれました。南のダビデの家系をつぐ王国はユダ王国で、都はエルサレムです。その後のイスラエル民族は、オリエント世界の大きな歴史の波に翻弄されつづけました。アッシリアが、強力な武断政治によって、オリエント世界を統一へ向かったときには、北のイスラエル王国は、その圧迫に悩まされました。BC721年には、首都サマリアが陥落し、イスラエル王国は滅亡します。アッシリアはその強硬な民族支配の故に、多くの民族から恐れられました。謀反人たちに対して、「男子や娘たちを烈火で焼き、眼をくり抜き、生皮をはぎ、舌を抜いた」と伝えられています。そのためBC612年に首都のニネヴェが陥落しアッシリアが滅亡したというニュースは、イスラエルを含めて多くの民族に大きな喜びをもたらしました。旧約聖書の「ナホム書」にもその喜びが記されています。短いものですから、読んでみたらいいでしょう。

 余談ですが、ニネヴェには大きな図書館がありました。そこには粘土板に楔形文字で記された多くの文書がありましたが、それらが反アッシリアの軍勢によって焼かれたときに、言わば「焼き物」となり、ニネヴェの発掘により発見されました。そのため古代オリエント世界の知識が飛躍的に増えました。「アッシリア学」と呼ばれる学問ができたほどです。大英博物館にはアッシリアの見事な壁画(レリーフ)があります。美術全集などでも見れば、アッシリアという古代帝国の不思議な躍動感を感じられます。

 アッシリアの滅亡後、オリエント世界にはエジプト、リディア、メディア、新バビロニアが並立します。その中で一番勢力があったのが、新バビロニアでした。新バビロニア王国は、メソポタミア地方からシリア・パレスチナ地方を支配しました。

流刑時代 BC586~BC538

 ユダ王国はエジプトをたのみに、新バビロニアに反抗しました。その結果、新バビロニアのネブカドネザルは、エルサレムを攻め滅ぼし、ユダ王国の主だった人々が、バビロニアの首都バビロンへ強制連行されます。これを「バビロン捕囚」といいます。このように被支配民族を強制的に他の場所へ移動させることは、その民族の土地との結びつきを絶って、反抗する力をそごうとするもので、アッシリアもそのような政策を行いました。以後、ディアスポラと呼ばれる、パレスチナ以外の地に住むユダヤ教徒が増えることになります。「バビロン捕囚」は、まさに民族存亡の危機でした。

 バビロンの流れのほとりに座り
 シオンを思って、わたしたちは泣いた。
 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚した民が、
歌をうたえと言うから
 わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
      「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

 どうして歌うことができようか
 主のための歌を、異教の地で。

 エルサレムよ
 もしも、わたしがあなたを忘れるなら
      わたしの右手はなえるがよい
 わたしの舌は上顎にはり付くがよい
 もしも、あなたを思わぬときがあるなら
 もしも、エルサレムを
      わたしの最大の喜びとしないなら。  詩編137

 シオンとはエルサレムの丘のことで、そこからエルサレム自体をさすことになります。バビロニアの首都バビロンはユーフラテス川のほとりにあります。バビロニア平野には、チグリス川とユーフラテス川から、無数の灌漑用の運河がめぐらされていました。そのほとりに座り、故郷のシオンを思う心情が痛いほど響きます。確かに、この詩は「バビロン捕囚」を経験した人間によってつくられたものでしょう。

預言者の活躍

 王国の分裂の後、とりわけアッシリア、新バビロニアの圧迫、「バビロン捕囚」という民族の苦難の中で、ヤーヴェへの信仰へ立ち返ることをイスラエルの民衆に強く訴えかけたのが、預言者と呼ばれる人々でした。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、第二イザヤなどです。預言者を予言者と書く人がいますが、預言者とは未来のことを予言する人ではありません。神からの言葉を預かって人々に伝える人で、「預言者」と書きます。この預言者の活動を通じて、ユダヤ教は深い精神性を獲得し、宗教として成熟していきました。

 再建時代 BC538~AD70

 古代オリエント世界は、BC6世紀のアケメネス朝ペルシアによって大統一されます。新バビロニアも、ペルシア王キュロスによって滅ぼされました。ペルシア帝国は異民族の支配にあたっては寛大で、それぞれの民族の自治を許しました。イスラエル民族も捕囚を許され、パレスチナに帰郷します。イスラエル民族は、ダビデ・ソロモンの時代の王国の再建をめざしますが、完全な独立を果たせませんでした。アレキサンダーの東征後、ペルシアの支配に代わって、ギリシア人の支配を受けました。その後、ギリシア系のセレウコス朝シリアの支配下に入ります。一時期、マカベヤ家の指導の下にセレウコス朝シリアから独立をはたしますが、やがて西方から出現したローマの支配下に入ります(BC63年)。

 イエスの時代、イスラエル民族はローマ帝国の支配下にありました。ローマの過酷な支配はイスラエルの民衆を圧迫しました。それに対するユダヤ人の抵抗に怒ったローマは、AD70年にエルサレムを攻撃し、エルサレムは炎上します。イスラエルの人々は自分たちの国から追い出されました。イスラエルは「国土をもたない民族」となります。年に一度、かつての神殿の遺構である「嘆きの壁」に近づくことを許されるだけになりました。

シオニズムからイスラエルの誕生

 国土をもたない国民であるイスラエル民族が、2000年ちかくの年月を、自らのアイデンティティーを失わずにいたことは驚異的なことです。その間、ユダヤ人と呼ばれた彼らは、特にヨーロッパにおいては、厳しい立場に立ちました。「ベニスの商人」に登場するシャイロックのように嫌われ者でした。イエスを殺したのがユダヤ人だとの、キリスト教徒の側からの憎しみのこもった偏見も、そのことを助長したでしょう。19世紀になって、国土をもたないイスラエル民族の国家再建運動がおこったとき、その候補地として最終的に目指されたのが、かつて「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」と詩篇に歌われた、エルサレムを中心とするパレスチナでした。そのためイスラエル民族の国土再建運動を、シオニズムと言います。結局、第二次世界大戦後、(おそらくヨーロッパ人がイスラエル民族に対して悪いことをしたとの自責の念も確かに手伝ったでしょう)イスラエル民族の新しい国家が「イスラエル共和国」という名称で復活することになります。実に、ローマによって滅ぼされて以来、約1900年のちの復活でした。

 しかし、この「イスラエル」の復活は、今に至るまで解決できない「パレスチナ問題」を生みました。もともとは、その地域を支配していたイギリス人が、アラブ人とユダヤ人にした約束が矛盾するものであったことが直接の原因でした。シオニズムにのって多くのイスラエル人がパレスチナにやってきて、結果として、パレスチナに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)が圧迫をされることになったことが「問題」の発端となります。それ以来、中東戦争と呼ばれるアラブ対イスラエルの戦いが幾度か勃発しました。結果は、すべての戦争でイスラエルが勝利しました。イスラエルにしてみると、戦争に負けることは、国家の消失を意味します。決して負けないために、イスラエルは徹底的に敵をたたきました。この苦しい戦いを有利に展開するために、アラブ諸国がとった戦略が石油戦略です。イスラエルにくみする国には石油を供給しないとの戦略は、オイルショックの原因となったことは有名です。パレスチナの平和はどうなるのでしょうか。エジプトのサダト大統領は、アラブ世界の代表のなかで、初めてイスラエルを国家として承認した人で、ノーベル平和賞を受賞(1978年)しましたが、1981年に暗殺されました。イスラエルのラビン首相は、オスロ合意(1993年)にみられるように、アラブとの話し合い協調路線を実現しようと努力し、ノーベル平和賞を受賞しましたが、やはり、暗殺されました(1995年)。アメリカが仲立ちをしようとしていますが、基本的にはユダヤ系の財閥とのつながりの強いアメリカが中立の立場で仲立ちをできるとは思えません。

 憎しみの連鎖、報復の連鎖を断ち切るためには、本当に人類の英知が問われているようです。




19回 初めに神は世界を造った 
~旧約聖書の世界観~

 今日は。今回は、ユダヤ教についてその特色をお話ししたいと思います。その際、旧約聖書冒頭の「創世記」を手がかりに考えたいと思います。この「創世記」冒頭の神による世界の創造は、後のキリスト教思想に計り知れない影響をあたえました。

 それでは始めに、「創世記」の「神による世界の創造」の部分を読んでみましょう。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面に動いていた。
神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。
「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」
そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さなほうに夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。
「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ。」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それらは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
これが天地創造の由来である。   (「創世記」1.1~2.4)

唯一の神

 近世哲学の祖と言われるデカルトは、絶対確実なものを確認するために、一生に一度はすべてを根本から疑おうとしました。いわゆる方法的懐疑です。その結果、有名な「考える故に我ありcogito ergo sum」という絶対確実な「アルキメデスの点」を確認して、近代的自我の確立を果たしました。その際、彼は、「疑う」ということは、人間(自己)が「不完全」ないしは「有限」であることの証であり、またその自覚は、「完全」「無限」との観念が自己の内にあることを前提とすると考えました。さらに、ある「結果」にはそれと同等か、あるいはそれ以上の「原因」がなければならないということから、「完全」「無限」という「神」の観念は、その原因を「不完全」かつ「有限」なる自己にもとめることができず、神そのものから人間のうちに植えつけられた「生得観念idea innata」であるとして、神の存在証明を行っています。それに対してデカルトと同時代のパスカル人は、(「ヘクトパスカル」という単位の名が由来した人で、皆さんも知っていますね)デカルトの神の存在証明を激しく批判して、言いました。「デカルトが証明した神は本当の神ではなくて、哲学者の神だ。本当の神は“アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神”であって、哲学者の神ではない。」

 ユダヤ教では何よりもまず、唯一の神ヤーヴェへの信仰を第一の特色としています。そして確かにユダヤ教では、神はパスカルが言うように単なる抽象的な絶対者ではありません。唯一の絶対的な神とは、イスラエルの人々にとって、自分たちの祖先のアブラハムを召し出し荒野へ導いた「あの神」、また、モーゼに指示して自分たちの祖先をエジプトの苦役から解放してくれた「あの神」、預言者たちを通じて語りかけてきた「あの神」という明確な神でした。また、美しい自然のなかに働きかつ現れる自然神ではなく、人々に語りかける「人格神」として特色づけられます。

無からの創造

 次に、「創世記」冒頭の六日間の世界創造をみると分かるように、唯一絶対の神はこの世界を創造しました。その創造の仕方は、たとえば、次のようにです。

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 ここでの創造は、私たちが何かを作るときのように、たとえば、粘土をこねて人の顔を作るという場合のように、何かの材料からそれに形を与えて作るというのではありません。何もないところから、神の言葉と意志によって(光あれ!)創造しました。このことを後のキリスト教の思想家たちは、「無からの創造」 creatio ex nihiloと表現しました。この「無からの創造」は、ユダヤ・キリスト教の思想家にとって、神の絶対性を示すものと考えられます。世界はすべて「無」から「神の意志」によって造られた。したがって、もし神が欲しないならば、「無」から造られた世界は、再び「無」へと戻ってしまいます。もし私たちが作るように、何かの材料から世界が作られたなら、神の意志がなくなっても世界は存在し続けるでしょう。しかし、「無」から創造された世界は、形ばかりか、その存在自体が神に根本的に依存しています。

 ユダヤ・キリスト教では、神は「創造主」で世界は「被造物」と考えます。創造主は万物を創造した神で、被造物とは異なる。十六章で「ヨブ記」の話をしたときの、最後の神の言葉、「私が世界を創造したとき、お前はどこにいた」は、被造物が被造物の立場にありながら、同じ地平で、創造主の考えを推し量ろうとすることを否定したものと考えられます。旧約聖書は「創造主」と「被造物」を混同することを厳しく拒絶します。また、ユダヤ・キリスト教思想の伝統は、「汎神論」に対して厳しい批判を繰り返してきました。汎神論は、英語ではpantheismと言います。pantheismのpanは「全日空」の「全」ですし、パノラマpanoramaという言葉は「すべてpan」を「見るhorao」から、360°の全景を意味します。つまり、pantheism(汎神論)とは、「すべてが神」、つまり、自然を神とみなしたり、自然の中に神を見ようとする立場をいいます。これも「被造物」である自然を「創造主」である神と混同するという理由から否定されます。

 モーゼの十戒にみられるように、旧約聖書は偶像崇拝を厳しく戒めています。これも「創造主」と「被造物」の別を明確にするために必要でした。一つには、例えば黄金の像をつくってそれを神として崇めることは、被造物と創造主を取り違えることになるためです。また一つには、人間が神の像をつくりそれを崇拝することは、人間の立場から自分の願いを実現しようとすることにつながります。自分を虚しくして神からの声に、耳を傾けようとするのではなく、人間的な立場で自己の願いを満たそうとすることを通じて、神の絶対性をそこねることが、偶像崇拝が厳しく戒められる理由でしょう。

極めて良かった valde bona !

 六日目に全世界を創造した神は、それらすべてを見て「きわめて良い」としました。このことから、ヘブライズムにおいては、すべての被造物について、それがなければよいものとして否定することは許されません。ギリシア思想においては、たとえばプラトンは、真に存在するものはイデアの世界であり、現実のこの世界はイデアの影に過ぎないとしました。イデアの世界が真の存在とするなら、この世界は非存在といわざるを得ません。またプラトンにとっては、人間の肉体は魂の墓場、牢獄のようなものです。したがってそれはあらずもがなのもので、魂はできる限り早くこの肉体から離れるのが良いとされます。それに対して、ユダヤ・キリスト教思想は、現実のこの世界も、人間の肉体も、無意味なものとして退けることを許しません。このことは、ユダヤ・キリスト教思想が、ギリシア思想にはない世界観・人間観を形成するもととなるでしょう。

神の似像

 「創世記」によると、神は人間を自身にかたどって造りました。これはやがて「神の似像」imago dei(image of God)と言われるようになります。人間が神に似たものであるというのはどういうことでしょうか。神様も人間と同じように二本足で歩き、同じような姿形をしているというのでしょうか。分かりません。でも少なくとも、ユダヤ・キリスト教の伝統は、単なる外見的な姿かたちが似ているということを神の似像としてきませんでした。あるものがあるものに似ていると言われるとき、それはそのものの本質的な部分において似通っているところがあるからでしょう。神の本質的な部分とは、「創造」という点にあるでしょう。もちろん、人間は神ではありませんから、「無からの創造」はできません。でも、生き方に関して、様々の状況のなかから、悩み苦しみなどの体験を通じて、自分はこのように生きていこうと決意するとき、何かその人の中に新しいものが生まれる。つまり、そのような人間の生き方自体が、創造的に生きることだろうと思います。人間が「神の似像」であるということは、そのような人間の本質的な生き方のなかに、創造性が発揮できることだと思います。少なくとも、物理的な身体について「神の似像」といわれているわけではありません。

 一方では、人間が「神の似像」と言われるとき、「創世記」は、神がすべてを支配すると同じように、人間は最後に造られた「被造物」として、他のすべての被造物を支配すると言われます。人間は自然のなかで、そして他すべての生き物のなかで、特別な位置をあたえられています。これは東洋思想にはない特別のものだと思います。

 しかし、「神の似像」であるということは、あくまで「神に似ている」ということであり、本物である、つまり、神であるというわけではありません。自身のうちにある神にも似た何かは、その人の生き方によっては崩れて見るかげもなくなることもあります。人間が神になろうとするとき、人間のその傲慢さがひどいしっぺ返しを受けることがあります。人間の傲慢が、人間の内なる神聖な「神の似像」を傷つけ、殺伐とした心になっているのが、現代の僕たちの状況なのかもしれません。また、神のようにすべての被造物を支配しようとすることが、かえって、現代の環境問題の根底にあるように思えます。もう一度、現代社会の中で、「神の似像」であるという意味が問い直されているのだと思います。

預言者の役割

 そのような意味で、人間が自らの立場を忘れて、神から離れ傲慢になろうとするとき、警鐘を鳴らしつづけたのが、預言者と呼ばれる人々でした。

 ユダヤ教、キリスト教、それにイスラム教も含めて、全能の神が世界を創造したということを信じる一神教の場合、昔からの難問の一つに、神が全能ならは、何故、この世に「なければよい」と思えるような悪が存在するのか、という問です。皆さんはまだ若いのでそういう体験はもしかしたらまだないかもしれませんが、長い人生の間には、絶望的な体験、または「何故このようなことがあるのか」または、「神も仏もあるのだろうか」と思わざるをえないような現実を体験することがあると思います。または、もし神が存在するなら、何故、神はこのような悪の存在を許しているのだろうか。神が、このような悪の存在を防ぐことができないとするなら、神は全能ではないのではないか。このような問、つまり、「全能の神とこの世の悪の存在の矛盾」という問題です。

 とりわけ、イスラエルの人々にとって、この問は深刻なものでした。特に王国分裂以降、アッシリアの圧迫、支配。新バビロニアの圧迫、バビロン捕囚という異民族による支配という現実の中で、何故、神はわたしたちをこのような苦しい状況に放置されるのか、という問はヤーヴェを信じるイスラエルの人々にとっては真剣に問わざるをえない問でした。中には絶望のあまり、ヤーヴェへの信仰から離れていく人々もあったでしょう。このような状況のなかで、イスラエルの苦境は、神がつくったものではなく、むしろ、神に背を向けて、神から離れ罪をおかしている私たち人間が招いたものだ。悪は神からではなく、人間に原因がある。だから、悔い改めてヤーヴェへの信仰にもどれ。今はむしろ試練の時である、と人々に訴えたのが預言者と呼ばれる人々でした。

 僕は思うのですが、何かの困難に面したときに、それをどのように受け止めるかは大きな問題です。たとえば、皆さんは、皆さんにとってのつまずきや困難の原因を、皆さん以外の他のものに向けることもできるでしょう。親が悪い、大人が悪い、環境が悪い、社会が悪い。または、それを自分自身の問題として、今、自分が試されていると意識することもできるでしょう。でもその原因を社会のせいにするか、自分自身の問題と受け止めるかでは、その結果に大きな差ができると思います。たとえ、その原因が皆さんを取り巻く環境や社会のなかにあったとしても、それを自己自身の問題として、試練として受け止める方が、結果としてより実り多いものがえられるでしょう。預言者の働きは、まさに、そのようなものでした。自らの困難な状況を自らの問題と受けとめ、悔い改めヤーヴェへの信仰にもどろうとすることによって、ユダヤ教は精神性を深め、宗教として成熟していきました。

選民思想

 旧約聖書には、神であるヤーヴェはアブラハムを召しだし、モーゼに律法をあたえ、イスラエル民族に対して特別のはからいをしているように見えます。いわゆる「選民思想」と呼ばれるものです。神がイスラエル民族を選んだという意味です。イスラエルの人々がモーゼを通じて神から与えられた律法を守って生きていけば、神はイスラエルを必ず救いに導いてくれるという考えです。これを「契約」といいます。

 この「選民思想」はなかなか理解しにくいものです。ユダヤ教はイスラエルの民族宗教であった、という言葉で片付けるなら簡単ですが、キリスト教は旧約聖書を決して否定していませんし、イエスも旧約聖書を否定していないと考えるなら、この「選民思想」をどう受け止めたらいいかは、少なくとも僕にとって、難しい問題です。ただ、ユダヤ教、キリスト教は決して抽象的な宗教ではなく、具体的な生きた神からの働きかけであると考えるなら、神は具体的にどこかの民族に語りかける必要があったといえます。神がイスラエルを選んだのは、イスラエルが特別に立派な民族であったからではありません。むしろ、歴史的には、弱小民族であり、絶えず神からはなれ罪を犯してきた民族です。また、ユダヤ教は、血筋によってイスラエルの民族を限定してはいないと思います。歴史的にはディアスポラ(世界各地にいるユダヤ人をこう呼びます)の中には、ヘブライ語が分からずギリシア語しか理解できないイスラエル民族(ユダヤ教徒)がいました。それらの人々のために旧約聖書はギリシア語訳ができたくらいです。現在でも、イスラエル人とはユダヤ教を信仰する人を意味します。とにかく、選民思想とはイスラエル民族だけを神が選んだという意味ではないでしょう。むしろ、神の栄光をすべての人々にしめすために、具体的な歴史の中でイスラエル民族が選ばれたと理解したほうがいいように思います。

メシア思想

 イスラエル民族は苦難の歴史のなかで、とりわけ「バビロン捕囚」以降、自分たちが神から与えられた律法をしっかりと守っていれば、いつか、神は自分たちを苦難から救ってくれる救い主を送ってくれるという信仰を抱くようになりました。この「救い主」は「メシア」と呼ばれました。メシアはギリシア語ではクリストス(キリスト)といいます。それは何時か。イスラエルの人々には知らされていません。10年後か、20年後か、100年後か。または10日後か、明日かもしれません。でも「何時か」きっと神はメシアを遣わしてくれるというメシア思想です。

 イエスが登場した時代。イスラエルの人々はローマの過酷な支配の下にありました。そして、民衆の間には、メシアを待望する雰囲気が特に高まっていました。そのような中で、多くの自称メシアが登場したそうです。そのような中で、少なくともイエスは公然と身分がメシアであると告げようとはしませんでした。そのイエスがどのようにしてメシア(キリスト)と信じられるようになっていくのか。次回からキリスト教に入ります

 

 

第20回 ガリラヤの風かおる丘で 
イエスの生涯1

 今日は。今回からキリスト教のお話です。キリスト教は、哲学でも倫理思想でもありませんから、その扱いは僕にとっては難しいなと思っています。僕が勤めている学校はミッションスクールで、中学から高校まで6年間宗教の授業があります。だから、ある程度のキリスト教の知識はあるだろうと思っていました。しかし、ある時期に、生徒のみなさんは、聖書のことについても、基本的なことでも意外と知らないということに気づきました。福音書にあるイエスをめぐるエピソードなども、ヨーロッパの人にとっては常識となっている事柄についても、案外知らないようです。そんなわけで、これからしばらく、キリスト教についての基本的な事柄をお話してみようと思います。

 前にお話ししたように、キリスト教は旧約聖書と並んで、旧約聖書を聖典としています。新約聖書はイエスの活動を描いた「福音書」と、弟子たちの活動を伝える「使徒行伝」、パウロなどの手紙、さらに最後には「ヨハネの黙示録」から成り立っています。「福音書」にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四つの福音書がありますが、マタイ、マルコ、ルカの三つは似たような話が多く、共観福音書と呼ばれます。これからのイエスの話は、多くはこれらの福音書からの引用が主になると思います。

 キリスト教について、皆さんの中には、イエスは実在の人物ではないと思っている人もいるかもしれませんが、それは誤りです。イエスという人物が「福音書」に描かれているような人物であったかどうかは別にして、イエスが実在の人物であったことは確かです。イエスはBC6年~4年ころに生まれ、AD28年ころにガリラヤで、人々の前に現れ語りはじめました。やがてローマ総督ポンティオ=ピラト(在職26年から36年)のもとで、エルサレム郊外で政治犯として、十字架に架けられて亡くなりました。イエスが人々に話しかけ活動したのは、せいぜい1年半から2年半くらいの期間だったそうです。僕は聖書に現れる奇跡の物語はあまり信用していません。おそらく、それは物理的な奇跡というよりも、何らかの意味をもっているのだろうと思います。でも、今から2000年くらい前に生まれた一人の人物、それも当時の世界の中心ともいえるローマからは遥かに離れたローマの属州であったユダヤの地に、一介の大工の息子として生まれ、ローマへの反逆者として十字架刑に処せられた人物、その人のことを記念する建物が、つまり教会が、世界のどこにいってもあること、そしてキリスト教とはおよそ関わりもなかった、欧米からは「極東」といわれるこの日本にも、その人物の精神を伝えようとするミッションスクールが存在すること、それこそ本当に不思議で奇跡的なことだと思います。

イエスの時代

 はじめに、イエスが生きた時代について、確認しておきたいと思います。はじめに言ったように、イエスの時代のユダヤの地は、ローマの支配下にありました。ローマの支配は過酷で、人々は、神殿への税などのユダヤの社会での諸税とならんで、ローマへの税にも苦しんでいました。当時、「取税人」と呼ばれた人々が、一般の民衆から嫌われ、また罪人の代名詞とされたのは、同じユダヤ人でありながら、ローマの手先となって、苦しい生活を強いられている同胞から税を取り立てたからでした。

 イエスの時代、ユダヤの社会にはいくつかのグループというか階層の人々がいました。

 サドカイ派と呼ばれる人々は、大祭司などを出す上層階級で、ファリサイ派とともに、ユダヤ人の間での最高議会ともいえるサンヘドリンの主な構成メンバーでした。彼らは、当時ローマの支配を受けていたユダヤ人として、ローマには決してよい気持ちは持っていなかったでしょうが、彼らがその社会的地位を確保できているのも、ローマに認めてもらっているからで、政治的には親ローマの立場にありました。

 ファリサイ派は熱心なユダヤ教徒で、新約聖書でラビ(先生)と呼ばれたのは主にファリサイ派の人々でした。彼らは、神とイスラエルとの間の契約のしるしである律法を特に重視しました。律法学者と呼ばれた人々の多くは、ファリサイ派でした。この極端な律法主義は、イエスから厳しい批判を受けることになります。政治的には彼らはサドカイ派とは異なり、反ローマの立場にありました。

 熱心党(ゼーロータイ)は言わば反ローマの秘密結社で、ローマの支配に抵抗しようとする人々で、そのため地下にもぐらねばなりませんでした。イエスの弟子のなかにも、このゼーロータイのメンバーもいました。一時期、イエスも熱心党とかかわりがあったのではないかと考える人もいましたが、武力をつかってでもローマの支配を終らせようとする考えは、明らかにイエスの立場とは異なるものでした。

 そのほかにも、エッセネ派と呼ばれる修道者たちのグループがいました。「死海写本」と呼ばれる旧約聖書お写本が1947年に発見され話題となりましたが、この写本を残したクムラン教団もこのエッセネ派でした。

 そのほかに、多くの民衆がいました。民衆のなかの多くは「地の民」(アム・ハアーレツ)と呼ばれ、教育も受けず無学で、律法もしっかりとまもらないものとみなされていました。イエス自身も、ユダヤ教の指導者層からは、「地の民」と考えられていたでしょう。イエスが語りかけたのは、多くはこの「地の民」と呼ばれた、社会的には下層に属する人々でした。これらの一般民衆にとって、サドカイ派はいわば「お偉い人」であり、また神との交わりを神殿のみに限定した彼らは、シナゴーグと呼ばれた集会場で、民衆に語りかけたファリサイ派とは異なり、民衆には無縁の人々だったでしょう。一方、エッセネ派は民衆から離れて教団を組織しており、民衆とのかかわりは少なかったでしょう。

 多くの民衆は、シナゴーグを中心に、律法を守りぬくように語りかけるファリサイ派と、ローマへの反抗を主張するゼーロータイの間で、もしかしたら当惑気味に、その当時社会でささやかれていた救い主(メシア・キリスト)の到来と解放のときを期待していたでしょう。

イエスの生涯

 ♪ ガリラヤの風かおる丘で    ♪ 嵐の日波たける海で
   人々に話された          弟子たちをさとされた
   恵みのみ言葉を          力のみ言葉を
   私にもきかせて下さい       私にもきかせて下さい

 ♪ ゴルコタの十字架の上で    ♪ 夕暮れのエマオへの道で
   罪人を招かれた          弟子たちに告げられた
   救いのみ言葉を          いのちのみ言葉を
   私にもきかせて下さい       私にもきかせて下さい

 皆さんはこの「ガリラヤの風かおる丘で」という聖歌を知っているでしょうか。僕の勤めている学校では、朝礼の時間に、時々この聖歌が歌われます。この聖歌の歌詞を見てみると、イエスの生涯をおってつくられていることが分かります。そこで、この歌詞にそってイエスの生涯と福音書に見られるイエスの教えを考えてみます。

♪ ガリラヤの風かおる丘で

 イエスの活動の舞台はガリラヤでした。はじめにガリラヤについて一言。

 風かおるガリラヤ

“幸いなるかな 心貧しき人 天国は彼等のものなればなり

 幸いなるかな 泣く人 彼等は慰められるべければなり ・・<中略>・・

 イエスがこの宣言をだされたガリラヤ湖畔。そこは一木一草だに育たない死海のほとり、不毛のユダの荒野と何という違いをもった風景であろう。人々は貧しく、みじめなのにここの風景はあまりに優しく、あまりに美しい。羊の群れが草をはむ柔らかな丘。湖に影をおとす高いユーカリの林。その林に風がわたる。野には黄色い菊やコクリコの赤い花が咲きみだれている。湖の遠い水面には漁師の舟がうかんでいる。人間はかくも悲しいのに自然はかくも優しい。

 重荷を負うている すべての人よ 来なさい わたしのもとに 休ませてあげる そのあなたを マタイ11.28

 このマタイの福音書に書かれたイエスの言葉を読む時、我々は湖のほとりに立って両手をひろげた彼の姿を思いうかべる。”遠藤周作「イエスの生涯」より

 遠藤周作さんの「イエスの生涯」からの引用です。

 この箇所で、遠藤氏は「風かおるガリラヤ」の風土を、「ユダの荒れ野」を対比しながら、彼自身のイエスの教えについての立場を間接的に伝えているようです。

 和辻哲郎の「風土」という本があります。この本は、人間の思想・文化がどれほど風土の影響を受けているかを記した本で、批判も多くありますが、ある意味では知識人の常識ともなっているものです。この本は、和辻がヨーロッパへ出かけたときの体験から生まれました。外国へ出かけることを「洋行」といった時代ですから、飛行機を利用したわけではありません。和辻は船でインドからアラビア半島、さらに紅海を経てヨーロッパに到着しました。その間、インドのモンスーン地帯、アラビア半島の砂漠地帯、地中海にみる規則正しい自然の営みなどを体験した和辻は、このような「風土」は人間の精神文化に影響を与えないはずはない、との発想をえました。和辻は「風土」を大きく三つの型に分類しました。モンスーン型、砂漠型、牧場型です。

 モンスーン型とは、インドなどの南アジアを中心に東アジアにわたる地域の風土で、夏の季節風(モンスーン)による高温多湿を特色する。ここでは自然は大きな猛威をふるい、人間は自然に対抗するよりもじっと耐え忍ぶほかはないが、一方で、高温多湿の気候は、人間に大きな実りという恵みをもたらす。このような風土のなかでは、自然のなかに神の働きを見る「汎神論」的な世界観が生まれると和辻は考えた。僕たちが学ぶことになるインドのウパニシャド哲学や、中国の天台や華厳、さらには、すべてを大日如来の顕現とみる密教思想のなかに、汎神論ないし汎仏論的世界観をみることができます。また古代の日本の神話の世界の「八百万の神」の中にも、和辻のいう「モンスーン型」をみることができるでしょう。

それに対して「砂漠型」は、西アジアなどの乾燥地域にみられる風土で、極端に降水量の少ない砂漠は、人間にとって厳しい気候になる。ここでは、周囲は「死の脅威」が迫る世界で、人々は部族の族長のもとに絶対服従して生きる。このような風土のなかから、万物を創造した唯一神への信仰が生まれたと和辻は考えた。「牧場型」は和辻が考えたヨーロッパの風土で、規則的に四季のめぐる自然のなかに、自然の法則性を求めようとするヨーロッパの学問性の要因をみようとしました。 

 この和辻の「風土」では特に「砂漠型」が有名で、唯一絶対の神、人々に命令をし、人々が背くときには厳しく罰する「義(正義)の神」はモンスーン型の人々に恵みをもたらす風土と対比されるようになります。

 ここで、遠藤周作の引用にもどってみます。遠藤は「ユダの荒れ野」に対比して、イエスの活動の場となった、ガリラヤの穏やかな自然に言及するとによって、旧約の「義の神」に対して、新約の「愛の神」についてそれとなく言及しようとしたはずです。旧約聖書の神を「裁き(義)の神」、新約聖書の神を「愛の神」と単純化することは多少の危険を伴うでしょう。しかし、キリスト教の中心に新約聖書で「アガペーagape」と呼ばれた「愛」があることは確かでしょう。キリスト教がいう「アガペー」とは何でしょうか。キリスト教の話をすすめながら考えてみたいと思います。

辺境の地ガリラヤ

 イエスの活動したガリラヤは、地図を見ればわかるように、ユダヤの北方で、サマリアを挟んだ地にあります。遅れてユダヤ化された地域で、エルサレムのあるユダヤからみると、辺境に位置します。またユダヤ教の主流からは「異邦人のガリラヤ」と軽蔑されてもいました。しかし、辺境であるが故に、また蔑まれているが故に、かえって中央のユダヤ文化への憧れも強いものがありました。またゼーロータイと呼ばれる結社もガリラヤではさかんでした。

 次回から、「ガリラヤ」でイエスが人々に告げた話や、イエスのエピソードを福音書から見てみましょう。

 

 

第21回 恵みのみ言葉を 
イエスの生涯2



 今日は。前回はイエスの時代のユダヤの社会と、イエスの活動の基点となったガリラヤについてお話をしました。この章では、ガリラヤでイエスが人々に告げた「恵みのみ言葉」について考えてみたいと思います。

「神の国」

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。マルコ1.14-15

福音書には、バプテスマ(洗礼者)のヨハネがイエスの登場の前の序章(先導者)として登場します。「荒れ野に呼ばわる声」と言われたヨハネは、言わば旧約と新約を繋ぐ位置にあります。当時、ローマの支配下にあえぎ救い主を待望する民衆に対して、ヨハネは力強く訴えます。救いは敵が滅びることによってではなく、悔い改めをしないイスラエルへの最後の審判によってもたらされる。最後の裁きを逃れるために、悔い改めと、そのしるしとしての洗礼を人々に説いた。悔い改めて神への信仰にもどろうとする姿勢は、旧約の預言者の伝統でしょう。とにかく、イエスはヨハネから洗礼を受けます。しかし、ヨハネが捕らえられた後は、ヨハネから離れてガリラヤへ行き、独自の活動に入ります。

マルコの福音書は、イエスの活動がガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉で始まったことを伝えています。イエスの「神の国運動」とでも言うべきでしょうか。

「神の国」と言うとき、イエスが考えていたものはどのようなものだったのでしょうか。少なくともはっきりしていることは、イエスが考えた「神の国」と民衆が期待した「神の国」とは異なったものであったということです。「神の国は近づいた」という言葉を聞いた民衆の反応は、「メシア(キリスト)の到来」でした。メシア到来のあかつきには、異邦人であるローマの支配をはね飛ばして、ユダヤ人が解放されることを民衆は期待しました。しかし、イエスの考えた「神の国」はもっと内面的なもので、そのような政治的なものではありませんでした。イエスに対してローマ人に税金を支払ってよいかと質問した人がいます。これはイエスを陥れようとする問で、もしイエスが「ローマに税金を払うな」と言えば、ローマへの反逆罪に問うことができます。反対に、「ローマに税金を支払え」と言えば、イエスはローマの支配から民衆を解放してくれるメシアではないことになります。民衆は期待はずれに思うでしょう。それに対してイエスは「カイサルのものはカイサルに」と言いました。つまりローマのコインにはカイサル(皇帝)の顔が刻印されていたので、「税金をローマに支払ってもよい」と言った事になります。もっともその後で、「神のものは神に」と付け加えましたが、とにかく、このイエスの神の国と民衆が期待した神の国の齟齬が、イエスの悲劇のもとにありました。

幸いである 貧しい人!

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き、教えられた。

 心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐みを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。   マタイ5.1-10

 先ほど引用したマルコの福音書に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という箇所がありました。ここに「福音」という言葉が使われています。福音とはギリシア語でeuangelionと言います。euとは「善い」という意味です。euthanasiaは「善い死」という意味で「安楽死」を意味します。angelionは「便り」(報告)という意味です。エンジェル(angel)とは「神の使い」という意味で messenger「伝達者」というのが本来の意味ですね。 euangelionとは「よい知らせ」good newsという意味です。

 福音とはどういう意味で「よい知らせ」なのでしょうか。福音の内容がどうであれ、とにかく、「それを受け取る人にとってよい知らせ」を意味するはずです。上の文はマタイの福音書からの引用です。有名な「山上の説教」です。しかし、同じような内容がルカの福音書にも見られます。ここでは「・・・幸いである」と訳されていますが、原文(ルカの福音書)は「幸いである(あなた方は)・・・・」という風に、「幸いである」「幸いである」という言葉が続いています。ギリシア語などの古典語は語順が自由ですが、原則として、文章の最初と最後が一番強調される言葉です。ここでイエスは目の前にいる人々に対して、あなた方は幸いだと、たて続けに言っています。イエスのメッセージが「よい知らせ」と言われるのも、それを受け取る人が「幸い」となるからでしょう。

 ところで、「心の貧しい人」とはどういう意味でしょうか。昔から疑問でした。でも、ルカの福音書を読むと、別の言い方になっています。「幸いである、貧しい人々」「幸いである、今飢えている人々」「幸いである、今泣いている人たち」・・・ルカ6.20-22 本当に明確ですね。イエスは眼の前にいる「貧しい人、今飢えている人、今泣いている人」に対して、あなた方は幸いだ、と言っているのです。これがイエスのもとの言葉ではなかったでしょうか。それでは、豊かな人、今おなかを減らしていない人、そのような人々は幸いではないのか。そのような疑問に対して、ユダヤ人の中の決して貧しくはない人々に対しても、イエスのメッセージは彼らを締め出してはいないのだということを示すために、マタイは「心の」貧しい人、とか「義に」飢えている人、とかいう言葉を挿入したのではないでしょうか。「心の」とはpneuma(聖霊の霊と同じ言葉です)ですが、やはり分かりにくいです。今まで、ユダヤの社会の中で蔑まれ、「地の民」と呼ばれ「罪人」とされてきた人々に対して、あなた方は幸いであると、神の愛の対象であると、伝えるメッセージこそ、「喜ばしい知らせ」として福音の原初の意味ではないかと思います。

天の父

 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生(は)えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか・・・・マタイ6.25-30

 イエスの教えの原点には、イスラエル民族の信仰の原点ともいえる、創造主である神への信仰があります。人間の内なる思いや計らいを超えた神への信仰です。そして、イエスの信仰には、神への信頼が強く脈打っています。それ故にこそ、イエスは神を「天の父」と呼びました。

ここで一息いれて、雑談を一つ。僕はこれからの話を雑談とは思っていないのですが、とにかく、僕の体験というか思い出に関係した話なので、雑談になるかもしれません。聴いてください。

僕は今の学校に勤めてずいぶん長い年月がたちます。その間、今までにない色々な体験ができて、新鮮な喜びを感じたことも、色々な壁にぶつかって悩むことも、たくさんありました。特に初めて中学の担任になってからは、慣れないことも多くて悩むことがありました。仕事も山ほどあり、要領の悪い僕はいつも時間に追われていました。また、担任として生徒との「面談」でもうまく話せなかったし、生徒もあまり深いことは話してくれません。ちょうどそんな悩みを抱えていたころ、高2の倫理の授業でキリスト教を扱うことになりました。倫理の時間では、僕はキリスト教について余り詳しく扱いません。宗教の時間があるし、キリスト教についてはミッションスクールにいる以上、ある程度の知識はあるだろうと思っていたからです。(この予想が甘かったことは後でわかったのですが・・)キリスト教については、少しだけ何か話をすることで、すごしていました。そのときは簡単に「イエスのファリサイ派批判」の話をするつもりでした。

授業の骨子は次のようなものでした。

福音書のなかで、イエスはファリサイ派の人々に対して激しい批判をしています。偽善者であるとか、中身が腐っている等々。しかし、ファリサイ派の人たちは、客観的に見ると、決して悪い人ではありません。むしろ民衆の宗教指導者として、熱心に立法を守ろうとしていた。それにしては、イエスのファリサイ派への非難は厳しいのものある。それは何故だろうか、という問題です。

ファリサイ派は確かに、行動においても立派で、倫理的にも厳しく自己を律していました。しかし、倫理的に立派な人は、ややもすると、自己ばかりでなく他者に対しても厳しくなりがちです。実際、ファリサイという言葉は「分離」を意味しています。この分離と言う言葉の由来は、ある時期にファリサイ派が最高議会であるサンヘドリンから追放されたことからついた名前という説があるようですが、ファリサイ派は、例えばローマに与するサドカイ派と自分たちとは違う、律法を尊守しない罪人と自分たちとは違う、と他者を差別し断罪しがちでした。しかし、当時「罪人」と呼ばれた人々は実際にはさまざまの人がいました。純粋に意志が弱くて罪を犯してしまう人もいたでしょう。また教育も受けずに無学であるが故に、細かい律法の内容を知らずに、罪を犯すものもいたでしょう。あるいは、安息日に労働をしてはいけないといっても、働かなくては生きていけなかった人もいたでしょう。また、当時のユダヤの社会では、病気は罪の結果であると考えられました。現代の感覚からしたら罪人とはいえないような人まで、さまざまの人がいました。しかし、ファリサイ派の人々は、多くの人々の罪のみをみて、その人が何故罪を犯さざるをえなかったかを見ようとしなかった。そのように言おうとしたとき、僕の頭の中にふと自分が悩んでいた生徒との面談の風景が浮かんできました。自分はいったいあの面談の席で何をしていたのだろうか。確かに、生徒の話を聴こうとしていたと思います。でも結局は、外から見られた生徒のさまざまの現象をみて、それに対して自分の意見を、つまりこのようにしたらいいんじゃないだろうかと、忠告をしていただけでした。目の前にいる一人の人間そのものには目を向けないで、その現れた好ましくない現象のみに目を奪われていた。そう感じたとき、思わず、ファリサイ派が一見倫理的には非の打ちどころがない立派な人々であったにもかかわらず、イエスが激しくファリサイ派を批判したのは、彼らが人々の罪のみをみて、その人そのものを見ようとしなかった、つまり、その人そのものに対する愛がないというのが、その根本にあった、と思わず「愛がない」という言葉がでました。愛というのは決して難しいのもではなく、眼の前にあらわれるものを、あるがままに受け入れることだと思います。自分の尺度や価値観からではなく、ありのままのその人を、ありのままに断罪することでなく受け入れることだと思います。僕にとって、授業の最中に、思わず「愛がない」と口に出したこの体験はとても大きなものでした。

閑話休題

善いサマリア人

 イエスのファリサイ派批判は、色々な意味でキリスト教の本質的な点を浮き彫りにしてくれます・有名は「善いサマリア人」の一節を読んでみましょう。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしているサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ルカ10.25-37

 ここでは「隣人愛」の教えが述べられています。この箇所は有名ですから、皆さんも読んだことがあるでしょう。

 「心を尽くして神と隣人を愛せよ」との律法について、「隣人」とは何かとの問いかけに対するイエスの答えです。重症をおった旅人の横を、祭司とレビ人とサマリア人の三人が通ります。レビ人とは下級祭司たちです。サマリア人とは、イスラエルが南北に王国に分裂をした後に、北のイスラエルがあった地域にいた人々で、異民族の宗教にも影響をうけて、ユダヤからはヤーヴェへの信仰からはずれた悪い人々と考えられていました。ガリラヤとユダヤの間に位置しますが、ユダヤ人たちはガリラヤとの往復の旅程でも、サマリアを避けて旅をしたほどでした。だから、ここでユダヤの祭儀に関わる祭司やレビ人たちよりも、ユダヤ人から見捨てられたサマリア人が真の「隣人」となったというところに重要な意味があります。

 しかし、この「善いサマリア人」の話は、もっと深いメッセージがあります。ユダヤ教の律法のなかには、罪人たち(身体障害者をはじめ、病気を患っている人も含めて)によって神殿を汚してはならないとあります。つまり祭司もレビ人も、律法を尊守しようとするあまり、祭儀にかかわる自分たちが穢れることがないように、「道の向こう側を通って」去っていきました。律法に限らず、道徳的に正しくあらねばならないと思う人々は、えてしてこのような態度をとるのではないでしょうか。律法にこだわるあまり、そこにいて苦しんでいるその人そのものが見えない。それをイエスは愛(アガペー)がないと断言したと思います。それを「律法の内面化」というのだと思います。

律法のみでは足りない

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
                                 マルコ10.17-22

 マルコの福音書からのこの引用も印象深い箇所です。この箇所はキリスト教が「金持に冷たい」と言われるときによく引用されます。しかし、この箇所をよく読んでみると、イエスは決して金持であったその人を突き放しているわけではありません。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」とあります。この「慈しんで」という言葉は、原文ではagapao(つまり「愛して」)というキリスト教でいう「愛」(アガペー)という言葉が使われています。イエスはその人を「見つめ」愛して言われた、と書かれています。どのような眼でその人を見つめたのでしょうか。もちろん怒りや侮蔑の目であるはずはありません。「彼を愛して言われた」とあるのですから。律法を守ることのみでは足りない。ファリサイ派がいう意味でのすべての律法をまもりきることは、無意味であるだけでなく、おそらく不可能でしょう。しかし、たとえ全ての律法を守ったとしても足りない。それは量的な問題ではありません。人は大切なもののためには、大切でないものを捨てます。本当に大切なもののためには、それ以外のすべてを捨てることができます。マルコの福音書に出てきたこの金持は、何を大切にしていたでしょうか。おそらく財産を大切にしていたのではないでしょうか。自分の生活の経済的安定を大切にしていたのでしょう。あなたは何を大切にしていますか。その大切なもののために、あなたはすべてを投げ捨てることができますか。ただ形だけ律法を守ることが意味のあることではない。あなたにはその覚悟がありますか。イエスはそう問いかけているのではないでしょうか。宗教とはおだやかなようですが、実は、とても激しいものをもっているのです。

義とは?

 ここでキリスト教における「義」ということについて考えてみます。

 皆さんはすでにギリシア思想の大まかなことを学びました。プラトンにとっても、アリストテレスにとっても、「正義」とは重要な問題でした。ギリシアでは「正義の女神」(ディケー)は手に天秤ばかりを持っています。つまり、「正義」とはバランスを意味しました。「眼には眼、歯には歯」もこのバランスという考え方に由来します。プラトンの正義もアリストテレスの「配分的正義」も、一見そうは見えないかもしれませんが、このバランスという考えが根底にあります。「バランス」はすべて「平等」というのではありません。つまり、その能力や器量、資質は働きに応じて配分する。多く働いた人には多くのものを、働きの少ない人には少ない報酬をという考えも、「バランス」という意味での正義にあたると思います。それはまた、よく生きた人にはよい報いを、悪しき生を送った人には罰をという考えにもつながります。

 キリスト教ではどうでしょうか。よく、宗教を信じている人は正しく生きるはずだ、とか言われます。しかし、倫理的に正しく生きる人が、宗教的に生きる人ではありません。キリスト教は、人が正しく生きるという意味で倫理的なものを無視はしませんが、そのことを本質的なこととは考えません。皆さんは「放蕩息子」の話や「マルタとマリアの物語」をご存知でしょう。放蕩息子の兄、マルタとマリアの物語のマルタは、いわゆるなすべきことをしっかりと行っています。そしてなすべきことをしない放蕩息子の弟や、イエスの前に座り込んで家事をしようとしないマリアに対して、不満を言います。しかし、イエスは彼らの不満を受け入れはしませんでした。新約聖書で神から義とされる人々は、決して行動において立派な人々ではありません。そのような人々を義(よし)とするのはファリサイ主義でしょう。そして、ファリサイ主義では「罪人」とされていた人々に「神から義とされる」可能性はない。「神は善人にも、悪人にも、等しく陽の光を注いでくださる」というイエスの教えこそ、社会的に見捨てられた人々にとって「福音」と呼ばれるものでした。

アメイジング グレイス

Amazing grace. how sweet the sound  
that saved a wretch like me
I once was lost. but now am found
Was blind. but now I see.

 アメイジング・グレイス(驚くべき恵み) なんという甘味な響きか
 こんな恥知らずの私をすら 救って下さった。
 かつて、私は見失われていたが、今、私は見出された
 かつて、私は何も見えなかったが、今、私は見ることができる

 有名なアメイジング・グレースの一節です。美しい響きの歌です。しかし、なぜ、恵みを「驚くべきと」いうのでしょうか。作詞者のニュートンはかつて奴隷貿易に従事していました。航海中に嵐にあい九死に一生をえて助かりました。その後キリスト教の牧師になった人です。そのような彼を救ってくれた恵みを感謝するとともにアメイジングと感じています。

人間的に考えると善いことをした人には善いことを、悪しきことのなした人には悪しき報いをと考えることが、バランスという意味で正しいことです。ミュージカルの「サウンド・オブ・ミュージック」の中で、主人公のマリアと彼女が家庭教師となった子供たちの父親であるトラップ大佐が、初めてお互いの愛に気づき、向き合う場面があります。互いに見つめあって歌う場面に次のような言葉がでてきます。

   Perhaps I had a wicked childhood.
    Perhaps I had a miserable youth.
    But, somewhere in my wicked miserable past,
    there must have been a moment of truth.
    For here you are standing there, loving me.
    Whether or not you should.
    So, somewhere in my youth or childhood,
    I must have done something good.

   Nothing comes from nothing...nothing ever could
So somewhere in my youth or childhood
I must have done something good.

   私の子ども時代は悪い子だったかも
  私の若い頃は惨めだったかもしれないわ
  でも、悪くて惨めな私の過去にも、どこかに
  真実の瞬間があったはず
  だって、いまここにあなたがいて、私を愛してくれている
  義務からでなく、あなたは確かに 
  だから、私が若い頃、それとも子どもの頃
  確かに、わたしは、何かよいことをしたはず
  
  だって、無からはなにも生まれない・・けっして
  だから、私が若い頃、それとも子供の頃
  確かに、わたしは、何かよいことをしたはず

自分が幸せであることすら、何か原因があるはずだと人間は思います。そのように考えると、自分には何のいわば「加点要素」もない、または人間的に言えば許しがたい、そう考えるからこそ惨めなこんな自分を、救ってくれた。「存在しがたい」という意味で「ありがたい」恵みを、ニュートンはアメイジングと呼ぶより他になかったのではないでしょうか。人間は倫理的にものを考えることを本性としています。だから、何か努力をして、良く生きることが必要だと考えます。ただあなたがそこにいるだけでよい、とはなかなか言えません。しかし、宗教は、そのような倫理の呪縛から人間を解放してくれる力を持っています。その時、人は、今まで見えなかったものが見えるようになるのだと思います。

裁くは誰?

 この章の最後に、聖書の美しい話を読んでみましょう。

 イエスはオリーブ山へいかれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場を捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ヨハネ8.1-11

 先ほども言いました。倫理的に潔癖な人、律法を守ることに心が向かっている人は、目の前にいる人が見えなくなります。つまり「愛」が失われます。この女が何故そうなってしまったのか、今、どのような気持ちで「そこにいる」のか。ただ女の犯した罪のみを見て裁こうとします。そのような人々に対するイエスの答えが、「自ら罪なしと思うものが、この女を石で打て」でした。イエスの最後の言葉。「もう罪を犯さないように」。僕は、イエスはこのような道徳的な忠告はしなかったのではないかと思います。

 この章では、ガリラヤの風かおる丘でイエスが告げた恵みのみ言葉を、「福音」として、その根底にある「アガペー(愛)」とはどういうものかを考えながらお話をしました。次回は、イエスの死とキリスト教の成立のお話をする予定です。




第22回 罪人を招かれた 
イエスの生涯3

 


 今日は。前回は福音書に見られるイエスの教えについて、いくつかのお話をしました。引き続いてイエスの話をし、さらに「イエスの死」とキリスト教の発生についてお話をしたいと思います。

♪ 嵐の日波たけるうみで

 イエスが船に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。 マタイ8.23-27

 福音書のなかには、イエスがおこなった多くの奇跡が載せられています。奇跡については、僕はあまり信用していません。奇跡を行うということだけならば、イエスの時代にも多くの人物がそのようなことを行ったという記録があるそうです。例えば、イエスが海の上を歩いたという箇所があります。しかし、当時「海」とは「死」をも意味していた。とするなら、イエスが海の上を歩いたという奇跡は、イエスが死に打ち勝ったということを意味しているとも言えます。そんなことを書いた本を読んだことがあります。福音書の奇跡は、何かあることをそれによって指し示しているのだと思います。

エルサレムへ

 イエスが伝えようとしたことは、当時のユダヤ教の指導者たちの考えとは相容れないものをもっていました。やがて、対決は避けられないと悟ったイエスは、意を決してエルサレムへ上ることを決めます。行けば必ず捕まって殺されるだろうということは覚悟でした。

 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
                                 マタイ17.22-23

しかし、イエスの決死の覚悟にもかかわらず、弟子たちはそれをよく理解していませんでした。

 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスは座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
                                 マルコ9.33-37

 あたかも弟子たちは、つぎのように考え話し合っているようです。いよいよ先生が行動されるようになった。「神の国」の到来のあかつきには、先生は天から万軍を呼び寄せ、ローマ軍を蹴散らしてくれる。来るべき「神の国」はどのようなありかたであろうか。先生が一番であることは確かだ。われわれはどのようなポストにつけるのだろうか。「誰が一番えらいか」を話し合っている弟子たちをみて、イエスは暗澹たる気持ちになったのではないでしょうか。

 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります』と言いなさい。」・・<中略>・・二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」

 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアに行かれた。 マルコ11.1-11

 イエスは「神の国」の到来を告げるメシアとして、民衆の歓喜のうちにエルサレムに入場しました。しかし、イエスの言う「神の国」は民衆の期待した「神の国」とは異なりました。おそらく民衆は次第にイエスを見捨てていったでしょう。ユダヤ教の指導者たちもイエスが民衆の人気を得ているうちは、うかつにはイエスに手を出すことはできませんでした。しかし、民衆がイエスから去っていくにしたがって、イエスは自分がユダヤ当局の手に渡ることは時間の問題と覚悟したでしょう。イエスは弟子たちと食事をして、自分のことを覚えていてほしいと懇願します。いわゆる「最後の晩餐」です。

 最後の晩餐からイエスの逮捕にいたるまでの緊迫した情勢を、福音書をもとにみてみましょう。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」                    マルコ14.22-25

 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群集も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻をした。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
マルコ14.43-52  

 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。    ルカ22.54-62

 有名な「ペトロの否み」です。「主は振り向いてペトロを見つめられた。」とあります。どのような眼でイエスは彼を見つめたのでしょう。

♪ ゴルゴタの十字架の上で

 イエスは十字架にかけられてなくなりました。聖書の箇所を読んでみましょう。

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれる所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もしも神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分で救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。  ルカ23.32-46

 イエスの逮捕のあたりは随分と緊迫感が伝わってきますね。

 イエスの死ですべてが終るかに見えました。しかし、その後、弟子たちの間で「イエスは復活した」「イエスはメシア(キリスト)であった」との信仰が生まれ、キリスト教が発生しました。イエスの生前には、あのようにイエスについて無理解であった弟子たちが、人が変わったように、確信を持って、しかし、熱狂的に浮かれるのではなく、キリストであるイエスのことを人々に伝えはじめ、キリスト教が静かに広まっていきました。

♪ 夕暮れのエマオでの道で

 イエスの復活を伝える福音書の中の一節を読んでみましょう。

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは「歩きながら、やりとりしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知なかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある予言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことのすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーゼとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人の仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
     ルカ24.13-35

 これから先はイエスの死と復活の信仰を巡る僕自身の解釈です。雑談といってもいいです。(以下の話は、随分昔に読んだ遠藤周作氏の「イエスの生涯」や「キリストの誕生」から影響を受けていると思います。)

 もう何年も前のことになりますが、ロータリーの留学生が僕が中二でやっていた歴史の授業に出席していたことがありました。毎時間、簡単な英語のレジメを渡して聞いてもらったのです。ちょうど、平安時代の文化の話のときに、授業で平等院鳳凰堂の写真や、その中の阿弥陀如来像や、日野の法界寺の阿弥陀仏の写真を見てもらいました。その授業のあとで、留学生さんが僕に質問をしました。「何故、仏像はあのように太っている(fatという言葉を使いました)のか」という質問です。僕は一瞬その質問の意味が理解できませんでした。そしてちょっとしてから分かったのです。欧米の人にとって宗教画とはイエスの受難の姿で、そこに描かれるイエスは苦しみ、痩せています。十字架上のイエスは苦難の象徴といってもいいでしょう。それにひきかえ、阿弥陀如来は穏やかで柔和な顔で太っています。そのことを質問しているのだと分かりました。
 
 僕は留学生に対して、接している人に安心感を与えるのはやせている人だろうか、それとも太っている人だろうか、と質問して見ました。留学生さんは、僕の質問の真意をよく理解できなかったみたいです。でも、人間が一緒にいて安心というか、ほっとするのは、僕のように痩せていて神経質な姿の人よりも、穏やかでふくよかな人のほうではないでしょうか。仏像には仏の慈悲をあらわす色々な工夫があります。もっとも基本的な印相に「施無畏・与願」があります。「畏れなくともよい、願いをかなえよう」という姿勢です。そのように考えると、十字架上のイエスの死という構図は、むしろ異常といわなくてはなりません。世界のどの宗教をみても、その開祖が、あのように惨めで苦しい状態でいるところを崇拝の対象にしてはいません。むしろ、「何故、キリスト教では、あのように残酷な刑罰を受けているイエスを崇拝の対象として描き出してきたのか」という問いのほうが自然な問いではないでしょうか。十字架上の死については、確かにパウロが言う贖罪死としての意味があると思います。しかし、十字架上のイエスを思うことは、パウロ以前からあったと思います。

 おそらく、イエスの弟子たちはイエスの「神の国」運動が(少なくとも、民衆が期待していた意味では)挫折すると、自分たちに身の危険が迫っていることを感じたでしょう。イエスの「神の国」についても、あれほど無理解であった弟子たちです。自分たちに身の危険を感じたときに、イエスを見捨てることも考えられるでしょう。福音書にはペトロが三度イエスを否んだことが報告されています。ペトロは弟子たちを代表する人物です。ペトロがイエスを知らない、イエスと自分とは関係ないと言ったということは、ペトロ個人の問題ではなく、弟子たちすべてがイエスを裏切って捨てたと考えられないでしょうか。おそらく、イエスを裏切って見捨てて「激しく泣いた」と福音書にあるペトロは、自分の裏切りを激しく責めたでしょう。そして、イエスは自分たちを激しく憎むに違いないと思ったでしょう。しかし、イエスが十字架上で話した言葉は、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしていうのか知らないのです。」でした。激しい罵声を予想していたペトロにとって、このイエスの祈りは驚くべき意外な言葉でした。それと同時に、イエスという人物は「タダモノではない」と思ったでしょう。それをきっかけにして、ペトロの中に、イエスの生前の言動の意味が鮮やかによみがえってきたはずです。自分たちのイエスの「神の国」に対する無理解も自覚されるようになったはずです。

♪ ゴルゴタの十字架の上で、罪人を招かれた、救いのみ言葉を、わたしにもきかせてください。

 イエスを見捨てて、イエスを十字架にかけることに加担した、全ての人々を許し招いたイエスの言葉は、罪人は悪しき人であり救われないとの呪縛を破る「救いのみ言葉」として、受け止められたでしょう。

 「イエスが復活した」という信仰の背後にどのような歴史的事実があったのかは分かりません。しかし、とにかく、ペトロをはじめとする弟子たちの間に、イエスの教えがよみがえってきたという事実を抜きにしては、「復活」の意味を理解できないと思います。

♪ わたしにもきかせてください。

 最後に一つ、雑談です。随分昔に、おそらく僕が高校生か大学に入ったばかりの頃に読んだ本で、カフカの「城」というのがあります。内容的にはほとんど覚えていなくて不正確な話になってしまうと思いますが、聴いてください。

 カフカといえば「変身」などで有名ですね。ある日の朝、グレゴール=ザムザが不安な夢から眼を覚ますと、巨大な昆虫に変身していた、というところがら始る不思議な作品です。「城」も不思議な作品です。主人公はKと呼ばれる測量技師。何かの依頼で、城の測量を頼まれます。そこで「城」までやってきたのですが、どういうわけか、なかなか「城」の中に入ることができません。結局、Kは「城」に入ることができずに死ぬのですが、その「死」の床で、「城」の門は「あなたのためにあった」ということを聞かされます。あまり正確に覚えていないのですが、「この門はあなたのためにあった」という結末が、特に印象的でした。いつも何かに遠慮して自分を主張することが少なかった僕にとって、この言葉は何かの啓示のような印象を受けたのを覚えています。

 さて、「ガリラヤの風かおる丘で」の歌詞は、最後に「わたしにもきかせてください」というフレーズが繰り返されます。それがある効果をもたらしています。ガリラヤでのイエスの話、嵐の日のイエスの態度、ゴルゴタの十字架の上でのイエスのまなざし、夕暮れのエマオでの道で弟子たちの後ろから歩んだイエスとその話、これらのみ言葉はすべて福音書に記されています。この歌詞をつくった人も知っているはずです。それなのに、何故、「わたしにもきかせてください」と歌われるのでしょうか。

 哲学にしても宗教にしても、それが本物であるためには、単なる言葉による知的な理解ではたりません。愛という言葉を知っていても、それが本当はどういうのものであるかと了解していなくては、または愛に動かされて愛に生きるという体験がなければ、少なくとも、その宗教なりがその人自身の生き方を巻き込むことがなくては、本物とはいえないでしょう。「わたしにもきかせて下さい」という祈りは、あなたのみ言葉にしたがって生きる力をおあたえくださいとの祈りではないでしょうか。

 その意味では、授業の合間に触れる「雑談」は、僕にとってはかなり重要な意味をもっています。授業で扱うそれぞれの内容は、それが本当に意味や力をもつためには、ただ客観的な叙述に終るのではなく、僕自身のなかで、言わば「反芻」されて自分の言葉で語りなおさなくてはならないと思っています。「雑談」の中で僕としてはそのような作業をしたいと思っています。そんなつもりで聴いてくれたら嬉しいです。この章はこれで終ります。次回は「キリスト教の展開」という題で、パウロの話から始めます。




第23回 パウロ 教父 スコラ哲学 
~キリスト教思想の発展~



 今日は。今回は「キリスト教の発展」と題して、パウロ以後のキリスト教とキリスト教思想の発展の話をしたいと思います。

パウロ

 パウロはキリスト教の歴史の中で、特別重要な役割を果たしました。キリスト教をユダヤ人の枠を越えて、広くローマ世界へと広めたのは、パウロの功績でした。また、「ローマ人への手紙」や「コリント人への手紙」にみられる彼のキリスト教解釈やキリスト教へのパトス(情熱というか心情)は、後のキリスト教思想に深い影響をあたえました。

 パウロは生前のイエスを知りません。恐らく、彼はイエスと出会ったこともないでしょう。熱心なパリサイ派のユダヤ教徒であったパウロは、ユダヤ教の命である律法を守ることによってこそ、人間が神から救われると考えていました。それ故、「いかなる人間も律法を守りきることはできない、全ての人は罪人であり、正しい人は誰もいない、人間が救われるのは、罪が神によって許されるからである、と考えるキリスト教徒は、神を冒涜するものだと考え、むしろキリスト教徒を迫害する側に、パウロは立っていました。

 パウロの回心は劇的でした。その時も、彼はキリスト教徒を迫害するために道を進んでいると、突然、復活したイエスの声を聞きます。

 サウロ(パウロ)が旅をしてダマスコまで近づいたとき、突然、天から光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」というと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々が彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。                   使徒行伝 9.3-9

 結局、パウロは回心をして、以後は、キリスト教を述べ伝えるようになった。

 この回心を通じて、パウロの心の中に、どのような変化が起こったのかは、わかりません。ただ、パウロの書いたものなどから、想像することはできます。

 先ほども言いましたが、熱心なパリサイ派のユダヤ教徒として、パウロは律法を遵守することを第一に考えました。律法をまもることこそ、神から義とされ、人間が救われることにつながると信じていたからでした。しかし、彼の内面では、律法を守ろうとすればするほど、守りきれないという現実がありました。一方で、彼が迫害をしているキリスト教徒たちは、外から見る限りは、(パウロはステファノの殉教にあたって、その場に居合わせていたし、ステファノの殺害に賛同していた)自らの信仰にしたがって、死を恐れることなく、殉教していきました。律法を守りきれない彼の苦しみと、このようなキリスト教徒たちの生き方の間のギャップが突きつける問題は、彼の気がつかないうちに、彼の回心を準備することになりました。後にパウロは、律法は人間を救うよりも、むしろ、人間を罪の奴隷にすると表現しました。律法を守ろうとすればするほど、守りきれない自分を意識する。結局、自分がしようとする善をすることができずに、してはいけないと思っている悪をしてしまう。このような罪の奴隷の状態から人間を解き放ってくれたものこそ、キリストの十字架上の死である。パウロは、十字架上のイエスの死を、自ら罪なくして人類の罪を贖うために自らの命を生贄としてささげた贖罪死として理解しました。教会のミサで、“神の子羊、世の罪を除きたもう主よ”と祈るのは、この贖罪死を意味しています。生贄という考えは、僕たち日本人にはなかなか理解しにくいものですね。でも、古代の民族においては、神の加護や許しを願って羊などを屠りささげることは一般的でした。イスラエル民族にも、そのような習慣がありました。また、「献身」という言葉のなかには、何か大切なことや人のために自らをささげるという意味があるはずですね。

 いずれにせよ、パウロは大きな影響を後のキリスト教思想にあたえました。人間が救われるのは、律法を守ることによってではない。人間が救われるのはその人間の善い行いによるのではない。律法は人間を自由にするよりは、罪の奴隷にする。そうでなくて、人間が救われるのは、イエス=キリストへの信仰によると、パウロは考えました。このようなパウロの人間理解と信仰についての理解は、古代のキリスト教思想家のなかで最大の影響力をもったアウグスティヌスにも、大きな影響をあたえました。また、16世紀になって、ルターが宗教改革に際して、“信仰のみによって義とされる”と主張したのも、その源泉はパウロにありました。

 ところで、僕たちは一般に、人間の「意志」は自由だと考えています。自由であるからこそ、人間は自己の行為に対する「責任」があるとされます。そのように一般には、人間には自由な意志があると考えられています。しかし、人間はそう単純なものではありません。パウロが「罪の奴隷」と表現したことは、自分がしたいと思うことができない、意志が自由に機能しないということです。古代のキリスト教思想化の中で最大の人物であるアウグスティヌスの「告白」の本の中に、次のようなところがあります。(「告白」とは、アウグスティヌスがキリスト教に改宗するまでの彼の精神の歩みを書いた作品です。)彼がさまざまの遍歴を経て、最後にキリスト教に飛び込もうとしたときのことです。最後の決断がどうしてもできません。このどうしても決心がつかないという場面で、彼は人間の不思議について語っています。自分が心から望んでいることにおもむこうとしているのに、何故、最後の決断がつかないのだろうか。ただ自分が「意志すれば」それで解決がするはずなのに、何故と彼は問います。例えば、もし自分が縛られていたら、何かをしようとしてもできません。自分の心が命令をしても、身体が自由がきかないからです。でも、「意志」についてはそうではありません。自分が意志さえすれば、それで意志が成立します。そしてその意志したいことは、自分が心から望んでいることなのに、何故、意志がはたらかないのか。

 アウグスティヌスは「何故、このような不思議なことがあるのか」を問いかけました。実際、人間には「意志が意志として働かない」ということがあるのです。意志はなにものにも邪魔されない自由なはずです。その自由な意志が意志として働かない!これは、もう「病気」です。本当に人間は不思議な存在だと思います。卑近な例をあげましょう。皆さんは、将来のことを考えると「勉強しなくては」と思うことがあるでしょう。でも「勉強しようと」思っても、それがすぐ「勉強している」ということにはならないということを、皆さんは事実として痛いほど知っているはずです。「思う」ということと「意志する」ということは別のことです(注)。乱暴なことを言っているように感じる人がいるかもしれません。でも、人間はどのうようにモノを思い、どのように意志するのか、「意志」というのはどのように発動するのか。よく考えてみると、本当に不思議です。「人文主義の王」と評されたエラスムスはルターを批判した「自由意志論」の冒頭で、「聖書に少なからず登場する難問のなかで、自由意志の問題ほど解きがたいラビュリントス(迷宮)はない」と言っています。自由意志の問題をアウグスティヌスやルターほど真剣に受け止めなかった(と僕は考えていますが)エラスムスでさえ、自由意志の問題は難しいと言っています。社会のなかでも、また学校のなかでも、自由意志の存在を前提にして、単純に、悪いことをしたのは本人の責任だから、罰をあたえるべきだとか、すべきことをしなくてはいけない、そうできないのは怠けていると言うのではなく、もう少し、「人間の神秘」ともいえる「人間の心と意志」を、そっと大切に見守ることができたらと思わずにはいられません。

 パウロについて雑談を一言。
 
 コリント人への第一の手紙のなかで(1-20~)、パウロは次のようなことを言っています。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は智恵を求める。しかし、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にとってつまずかせるもの、ギリシア人にとっては、愚かなことだが、召されたものにとっては神の力であり、神の智恵である。という箇所です。

 ユダヤ人は「しるし」を求めるとは、メシアとしてのしるし、つまり天から万軍を呼びよこすなどの奇跡でしょう。ギリシア人は「智恵」を求めるといいます。哲学発祥の地であるギリシアの人々は、理性による智恵を求めたのは当然でしょう。しかし、わたしたちは「十字架に付けられたキリスト」を宣べ伝える。それはユダヤ人にとっては「つまずかせっるもの」であり、ギリシア人にとっては「おろかなこと」と言われます。理性を重視したギリシア人にとっては、神が人となり十字架で死ぬなどということは、理性では考えられない「おろかなこと」でしょう。ユダヤ人にとっては「つまずかせるもの」とありますが、原文ではscandalonという言葉が使われています。スキャンダロンというのは、「罠」という意味で、敵や動物を捕まえるときに、足をひっかけて捕らえる道具という意味から、「躓かせるもの」という意味になったのでしょう。でもこのscandalonという言葉を初めて見たとき、不思議に思って英語で語源辞典を引いてみました。するとスキャンダルの語源はやはり、ギリシア語のscandalonからきているというのです。

 これは僕の素人的解釈です。ユダヤ人にとって、神はスーパースターでした。神が登場するときには、驚くべき奇跡がおこるはずです。もし、その全能の神が人間となったら、しかも、最後まで何もできずに、捕まって十字架にかけられて死ぬなどということが本当なら、まさに、それは神にあるまじき「醜聞」であったはずです。しかし、キリスト教徒にとって、十字架のイエスの死こそ、真の「神の知恵」というのです。それが何故、神の知恵というのでしょうか。機会があれば考えてみたいと思います。

閑話休題

 ローマ帝国内に広まっていったキリスト教は、やがてネロ帝の時代から迫害を受けるようになりました。キリスト教徒は、カタコンベという地下の墓所で集会を開き、さまざまの暗号を使って、キリスト教徒同士の連絡を行いました。暗号の中で、特に「魚」はキリスト教徒の間で大切な意味がありました。魚のことをギリシア語でichthysと言いますが、ichthysとは「イエスはiesousキリストchristos、神のtheou子yios救い主soter」という言葉の頭文字からなるために、キリスト教徒のシンボルとなりました。

 ペトロもパウロも、この迫害の中で殉教したと伝えられています。特にペトロの殉教は「クォ ヴァディス」伝説として有名です。ローマでの迫害が激しくなると、ペトロはローマからの脱出を試みます。アッピア街道を、ローマを背にして歩いていると、向こうからイエスがやってきてすれ違います。ペトロが「主よ、何処へ行かれるのですか」(quo vadis, domine?)と質問すると、イエスは、「わたしはもう一度十字架にかかるためにローマへ行くところだ」と答えます。イエスのその言葉に、迫害を恐れて多くのキリスト教徒がいるローマを逃げ出したことを恥じたペトロは、踝を返してローマに戻り、そこで今のバチカンのある丘で殉教をしたという伝説です。シェンケビッチの「クォ ヴァディス」は、この伝説をもとに書かれたもので、キリスト教徒ではないローマ人の目に当時の社会がどう映っていたかを知るのにはよい作品だと思います。迫害は断続的に3世紀末のディオクレティアヌス帝まで続きました。キリスト教がローマ帝国内で初めて公認されたのは、コンスタンティヌスの時代からでした。衰退したローマ帝国を再建するために、コンスタンティヌスはキリスト教を公認し、教義の統一をはかるためにニケーア宗教会議を開いて、三位一体説を取り入れました。その後、ユリアヌス帝のようにキリスト教を受け入れなかった皇帝もいましたが(辻邦生さんの「背教者ユリアヌス」は、当時の雰囲気を知るにはよい作品です)、順調に定着し、テオドシウス帝の時代にはローマの国教となりました。その後、ローマは滅亡しても、ローマの宗教となったキリスト教は生き残り、ヨーロッパの精神を決定する宗教となりました。

教父たちと教義

 キリスト教はもともと貧しい人々の宗教でした。その点では、知的エリート集団ともいえる人々の間で生まれた仏教とは違いました。しかし、キリスト教がローマ帝国内でそれなりの勢力となっていくと、当然、批判されるようになります。そのような状況の中で、ギリシア哲学を使いながら、キリスト教の教義を確立していった人々を、教会の父という意味で、教父と言います。そのような教父たちによって、原罪説や三位一体説が確立されていきました。そのような教義の一面を紹介してみます。

 キリスト教では、最初の人間であるアダムが罪を犯して楽園を追放されて以来、人間はあらゆる苦しみを受けるようになったと考えます。これを原罪といいます。それ以来、人間はどうしてか本当の生き方ができなくなり、何かおかしいという状態におかれるようになりました。

 それ故、人間はどのような努力をしても、死を免れることができず、苦しみを負って生きていきます。そのような有限的な人間は時間の中に生きていて、決して永遠にいたることはできません。しかし、一箇所だけ、人間には永遠へといたることのできるところがあります。この言わば「時間」と「永遠」の「接点」に位置するのがイエスです。イエスは真の意味で人間だから、人間の苦しみを受け止めることができます。一方で同時に、イエスは真の神(永遠)だからこそ、人間を永遠の救いへと導くことができます。この「永遠」が「時間」となること、つまり神が人間となることを「受肉」incarnationと言います。キリスト教徒はこの「受肉」を、クリスマスとして祝います。世界史の中でキリスト教の「正統」と「異端」ということが言われますが、多くの場合は、このキリスト論を念頭においていると理解できます。つまり、キリストの「人間性」を否定したり、「神性」を否定したりする、一方のみを強調する立場が異端とされてきました。

アウグスティヌス

 教父の中で最大の影響力をもったのがアウグスティヌスです。彼の作品の中に「告白」があります。熱心なキリスト教徒の母モニカのもとで生まれ、キリスト教の話を聞きながら育った彼は、成長するに従ってキリスト教から離れていきました。さまざまの精神の遍歴をへて32歳のときにキリスト教に改宗した彼の歩みが、この「告白」の中に描写されています。とても美しい作品ですから、もし機会があれば読んでみてください。

 アウグスティヌスの作品の中に「神の国」という作品があります。410年、アラーリックの率いる西ゴート族は、ローマを略奪しました。永遠のローマroma aeterna と謳われたローマが、野蛮人のゲルマン民族に蹂躙されたことは、ローマ人にとっては衝撃的な事件でした。ローマ帝国(西ローマ帝国)の滅亡は476年ですが、精神的には、ローマは410年に滅びたと言われるくらいです。そのような状況の中で、キリスト教に対する批判が起こりました。かつてあれほど繁栄したローマが、このように衰退したのは、キリスト教が原因である。かつてローマの神々が加護したローマは、キリスト教を受け入れたことによって、神々の加護を失った。このような批判に対して、キリスト教を弁護するために筆を取ったのが、この「神の国」です。

 人間には二種類の人間がいる。「神への愛amor dei」によって生きる人間と、「自己愛amor sui」によって生きる人間の二種です。それに従って、人間の集団にも二種類があります。「神への愛」によって生きる人々の集団である「神の国」と、「自己愛」にかたまってお互いに利用しあいながら生きる人々の集団である「地の国」です。アウグスティヌスは、人間の歴史はその初めから「神の国」と「地の国」の戦いの歴史と見ます。そして、その戦いは常に「神の国」が勝利してきました。アウグスティヌスの時代の「神の国」とは教会のことであり、「地の国」とはローマ帝国です。勿論、「神の国」の中にも「地の国」の住人がいて、「地の国」の中にも「神の国」の住人もいます。しかし、それが誰であるかは、人間には分かりません。最後の審判にゆだねられるでしょう。今、ローマは滅びようとしています。しかし、それはローマがキリスト教を受け入れたからではなく、ローマが本当にキリスト教を受け入れなかったからである。「自己への愛」にかたまった「地の国」であるローマは滅びるであろう。しかし、「神の国」であるキリスト教会は、生き残るであろう。

 歴史は、アウグスティヌスが予見したようにすすみました。ローマは滅亡しましたが、キリスト教はヨーロッパ世界の宗教になりました。そして、アウグスティヌスも中世のキリスト教世界では、聖書の次に権威ある「教父」としての位置をしめるようになりました。

スコラ哲学

 中世のキリスト教神学のことを「スコラ哲学」と言います。よく、トマス=アクィナスの哲学をスコラ哲学とみなす人がいますが、スコラ哲学とは、トマスの哲学のみを言うのではなく、中世の学校(スコラ)で行われていた哲学全般を言います。

 スコラの精神は、11世紀のアンセルムスの「知解を求める信仰」fides quaerens intellectum という言葉でよく表現されています。自分が信じているものを理解したいという精神に、スコラ哲学の精神を見ることができます。

 一方、12世紀のアベラルドゥスが提唱した「然りと否」sic et non は、スコラ哲学の形を決定しました。(アベラルドゥスは「アベラールとエロイーズ」という作品で有名です。この作品は、アベラルドゥスと彼が家庭教師をしていたエロイーズが、その仲を引き裂かれた後、お互いに手紙を交わしたその「往復書簡」で、12世紀の教養ある男女の仲を垣間見ることで、その当時の雰囲気を知るよい資料です。)最近、国語の授業でディベートというのができたそうです。あるテーマについて「賛成」「反対」の立場から議論をするものだそうですが、そのようなやり方はスコラ的な方法です。中世の大学では、扱うテーマにそって学生を二つのグループに分けて、それぞれ賛成、反対の立場から、事前に調べてこさせます。それを戦わせて最後に結論をだすものです。トマスの「神学大全」などの本を見ても、そのようになっています。ある点に関して、聖書ではこう言っている。アウグスティヌスもこのように言っている。哲学者(トマスが哲学者というときにはアリストテレスをさしている)もこのように言っている。しかし、一方で、アウグスティヌスは・・・・。哲学者は・・・・。このようなことから以下のように結論付けることができる。・・・・・ このような形式で詳細に議論が続くので、スコラ哲学とは「煩雑哲学」と呼ばれるようになりました。

 このような経過を経て、13世紀にトマス=アクィナスがアリストテレスの哲学を使いながら作り上げた哲学が、スコラ哲学の代表とみなされるようになります。スコラ哲学の雰囲気に少し触れるために、トマスのことを少し話します。

二重真理説とトマス

 ヨーロッパ世界にアリストテレス哲学の概要が知らされるのは12世紀になってからでした。それも、ギリシア語を通じてではなく、アラビア経由で入ってきました。アヴェロイス(イブン=ルシュド)の著作を通じてです。中世で注釈家というと、アヴェロイスのことを意味しました。アリストテレスの全容が明らかになるにしたがって、ヨーロッパの人々は大変驚きました。キリスト教と関係ないところで、このような立派な哲学が存在したという事実を知ったからです。しかし、一方で、アリストテレスの哲学と聖書の内容が矛盾する箇所があることも明らかでした。たとえば、アリストテレスの哲学では、世界は永遠で、始めも終わりもありません。しかし、聖書では、神が世界を創造したといわれるように、世界には始りがあり、その意味では、世界は永遠ではありません。このような矛盾を前にして、ヨーロッパの人々の中でアリストテレスから強い影響を受けた人々の中から、二重真理説を唱える人々が現れました。つまり、哲学(理性)の真理と信仰の真理(聖書の内容)は、矛盾するが、両方とも真理である、という考えです。この二重真理説に対して、トマスは激しく反発しました。その反発の仕方というか、トマスの考えの中に、スコラ哲学の精神がよく現れているので、紹介します。

 トマスは、決して理性万能論者ではありません。聖書の内容(信仰の真理)をすべて理性で理解できないとしても、それについて反対はしません。しかし、「信仰の真理と理性の真理が矛盾する」という点については、彼は肯定できませんでした。トマスによると、世界は神によって創造されました。また人間も、人間の理性も、神によって創造されたものです。だから、理性を使って考えても、神の言うこと(聖書の内容)を理解できないというのならまだしも、神により創造された理性を使って考えたことが、神の言うことと「矛盾する」ということはありえない(これはトマスの信仰でしょう)。だから、もしそうだとすれば、それは理性の使い方が間違っていたということです。少なくとも、「理性と信仰が矛盾するということはありえない」ということのうちに、「信仰と理性の調和」をめざしたスコラ哲学の精神を垣間見ることができると思います。

 トマスの代表作に「神学大全」があります。僕が持っているこの本でも、大きさはA4版くらいの大きさで、びっしりと二段にわたって細かい字でつづられたものが計4冊で厚さは20センチくらいの大部です。それでも、この大全は初心者たちincipientesのためのものと書かれています。信仰と理性の調和をめざして、執拗な思索を通じて作り出されたものでしょう。スコラ哲学は、文化的に13世紀のゴーチック建築によく対比されます。しかし、やがて神学者のなかから、ドゥンス=スコートゥスやウィリアム=オッカムなどが、理性と信仰を分離しようとする動きがおこると、(実際、そのようにすることこそ、信仰の純粋性をたもつことができると彼らは考えたのでしょうが)スコラ哲学は急速に瓦解していくことになります。

 最後は雑学的な話になってしまいました。これでキリスト教の話は終って、次回からは、インド、そして仏教の話に入ります。

注:講談社学術文庫 中島義道「哲学の教科書」170ページ 参照